はつれん!(尚、習までには至らず)

 翌日。

 星ノ杜学院の中庭にて、優菜は魅由と一緒にランニングをしている。

 と、その後ろから「ぅぉぉぉおおおおおおお!!」という雄叫びが聞こえてきたかと思うと、一瞬で抜き去っていく人影。腰まである髪を、いつもとは違う場所で結んでいる、所謂ポニーテールをたなびかせて爆走しているのは、夏奈子だ。その姿は一瞬で見えなくなり、再び二つの吐息のみとなる。

 今は歌劇同好会初の練習という事で、まずはランニングから始めている。

 この中庭には、ランニングコースが設定されていて、一周2kmから5kmまでの距離を選んで走る事ができる。

 まずは2㎞のコースを二周、走る事になっているのだが……二周目に突入している優菜たちを、夏奈子は少なくとも二回は追い越している。明らかに二周以上走っているし、そのペースも全く落ちていない。どんな体力と脚力をしているのやら……

 因みに、優菜は裏方をする予定なので、練習に参加しなくてもいいのだが、折角なので一緒にしようと思っている。


 やがて、ゴールの噴水前へと到着する。

 ゴールでは既に、ルミと三七三が待っていた。後は明らかにオーバーラップ中の夏奈子と、あさがおを残すのみだ。

「お疲れ様、優菜さん」

 膝に手を当てて、息を整えようとしている優菜に、ルミがタオルを渡してくれる。

「あ、ありがとうございます、ルミさん」

「粉雪さんも、お疲れさまー」

 魅由には三七三が。「ありがとうございます」とタオルを受け取る魅由はまだまだ余裕がありそうだ。

「はー、疲れたー」

 体育以外では運動をしない優菜には、いきなりハードだったようだ。ふらふらと噴水に近づくと、流れる水の冷気が優菜を包み込む。

「はー、気持ちい―」

 その涼しさをさらに堪能しようと、噴水の縁に上がり、体を大の字にする。

「優菜ちゃん、そんなところに立っていると危ないですよ」

 魅由が、優菜に近づきながら、心配そうに声をかけてくる。だが、その表情は何やら羨ましそうだ。

「んー、でも、気持ちいいよー。魅由もおいでよ」と、手を差し出す。

「そ、そうですか?優菜ちゃんがそこまで言うなら……」と、おずおずとその手を握ろうとする。そこに、

「お止めなさい、優菜さん。魅由さんの言う通り、噴水に落ちてからでは遅いのですよ」

 ルミの制止する声。その表情は真剣そのものだ。

「あ、はい。ごめんなさい」

 その余りにもの剣幕に、優菜は素直に従う。噴水の縁から降り、気まずそうに魅由を見る。少し、いや、かなり残念そうな表情が優菜の心を締め付ける。

 と、そこへ「あはははははははははははーーー!!!」という絶叫。夏奈子が恐らく四週目を終え、今まさに五週目に突入しようとしている場面に遭遇する。

 その無尽蔵の体力に、関心を通り越して呆れていると「あははははーーー!!!あっ!!!」夏奈子がこちらに気が付く。と同時に、垂直に曲がり、優菜を目指して突っ込んでくる。

「優菜だー!!!ゆうなゆうなゆうなーーー!!!」

 その突然の出来事に優菜の全てが停止する。

「夏奈子さんっ!」

 ルミがそんな夏奈子の前に立ち塞がる。だが、それくらいで夏奈子の突進が止められるわけなく「きゃっ!!」その体を右腕に収め、尚も突進してくる。

「ゆ、優菜ちゃんっ!」

 優菜に魅由が抱き着いてくる。その表情は驚愕と怯えと、僅かな思考を遮るように、魅由毎、優菜の体もかっさらわれて、

「ううわあああああ!!?」「あははははーーー!!!」

 夏奈子の左腕に捕まったと思ったら、突然の浮遊感。視線の先には、歪な形の校舎が浮かんでは沈み……派手な水音と共に、体に染みわたる冷たい感覚。と、直後、体に纏わりつく強烈な熱気。

「あはははー!楽しいね、優菜―!」

 夏奈子が優菜に抱き着き、大笑いを始める。


 その突然の出来事に、呆然としながらも、抱き着いてくる体温の高さに腕を回す。

 触れた背中は火傷しそうな程に熱く、今浸かっている液体すらも気化しそうなほどに燃えていた。

 その背中を摩り、何とか宥めようと試みていると、もう片方より感じる冷気が、一層低くなるのを感じる。

「ば……ば……」

 あ、これ、いつものパターンかな。

「このばかなこー!何しているのですか!馬鹿なのですか!?なこなのですか!?死ぬかと思いました!うわーん!」

 と、優菜の首に回した腕に力が籠る。「優菜ちゃーん、怖かったよー!」と泣きつく魅由は、いつもの冷静さをどこかに流してしまったかのようだ。どうしよう、排水溝のフィルターにでも引っかかっていればいいけど、と思いながら、魅由の背中にも腕を回して、よしよしと撫でる。

「ば、ばかなこ!?ばはいらないぞ!この!えーっと!魅由!」

 夏奈子もいつものように対応しようとするが、大泣きする魅由を見て、かなり焦っている。

 と、そこへ「みんな、大丈夫ー?」と、一人だけ被害を逃れた人物、三七三が声をかけてくる。

「あ、はい。どこも痛い所は無いし、大丈夫だと思います。魅由も大丈夫?」

「ぐすっ……い、今の所は」

 背中を撫でた効果があったのか、魅由がどうにか冷静さを取り戻す。

「あ、あははー。会長も大丈夫です?」

 会長?そういえば、ルミも夏奈子の右腕に捉えられていた。

「ルミさん!?」

 夏奈子の背中越しに、半身を浸からせた銀髪を視界に捕らえる。

「……」

 無言で、自身から生まれる波紋を、その紅の瞳で見つめたまま動かないルミを見て、優菜が思わず近づく。

「ルミさん!?」

 再びの呼びかけに、漸くルミが一言「……どうして?」と呟く。

「どうしてって、大丈夫なんですか、ルミさん?お怪我は?」

「え?優菜ちゃん?わ、私……」

 ようやく優菜の方を見て、何事かと呟く。ルミからちゃん付けで呼ばれるのは久しぶりだ。沙紗と二人きりの時はちゃん付けで呼んでいると片眼鏡本人が言っていたが、やっぱりそうなのだろうか。でも、どうして?優菜は、いくら思い返しても、ルミと出会った記憶はない。そんな彼女がどうして

「くしゅん!」

 と、優菜の思考を遮る音。魅由のくしゃみで我に返る。

「あははは!くしゃみしてるー!っぐしゅん!」

 と、魅由を指差して、盛大なくしゃみをする夏奈子。そこへ……

「な、何事だい、一体……いつから次の練習は水浴びになったんだい?あと夏奈ちゃん、人様を指差すのは……止めたま……へ……」

 満身創痍になりながらも、ゴールを果たしたあさがおが、息も絶え絶えに夏奈子に注意を促していた。




「ふぅ・・・」

 優菜は自室のユニットバスの浴槽に浸かっている。

 先程、噴水に落ちた、というか落とされた三名は、幸い寮生だったので、各自、自室にてシャワーなり、入浴なりを行っている。

 それはいい。それはいいのだが。

「ぷはぁー!」

 優菜の体に凭れ掛かるように寛いでいるのは、噴水に自ら落ちた、というか飛び込んだ、唯一寮生ではない夏奈子だった。

 何故、こうなったのか……噴水に落とされた事で、歌劇同好会の午前の練習は中断を余儀なくされた。

 ずぶ濡れの寮生たちが一旦帰寮する中「じゃあ、私は優菜と一緒だね!」と、これまたびしょ濡れのわんこちゃんの発言が事の発端である。

「そ、そそ、そんなこと許されませんよ!」

 当然の様に魅由が反対し、

「なら、みーちゃんと一緒でいいかね?」

 というあさがおの提案が入り、

「私は別にいいけど」

 という優菜の発言に一喜一憂が巻き起こったのが、帰寮するまでの出来事。

 だが夏奈子は、優菜の部屋に入るなり服を脱ぎだし「せっかくだから一緒にお風呂に入ろー!」と宣言して、今に至る。

 因みに、あさがおは夏奈子の服を乾かしに、最上階のランドリーにいる。三七三は、部室のドアを直してもらえると聞いて、そちらで待機している。

 故に、今、優菜は夏奈子と一緒にお風呂に入っているのである。 故にの意味が分からないまま。


「ん-ふふふふー♪」

 夏奈子の鼻声が狭い浴室に響き渡る。というか、一緒に入る必要があったのだろうか。

 今からでも脱出できれば、とは思うのだが、狭い浴槽で夏奈子を膝の上に乗せている状態では、如何ともし難し、である。

 あー、だめだ。考えが纏まらない。纏まらないのは、主に夏奈子のせいなのだが。いや、せいとか言っちゃ駄目か。

 とにかく、夏奈子との密着度が凄くて、その柔らかさに脳みそが越過熱を起こしている。

 更には、お風呂に入る前に見た夏奈子の絶秒なプロポーションも、この混乱に一役買っている。

 とにかく、夏奈子はスタイルが良い。例えば、腰回りはとても引き締まっていて、腹筋は軽く割れている。その割には、大腿や臀部などは、柔らかすぎず、硬すぎずと、絶妙の感触を優菜に与えてくる。

 まさに理想の体型といえるだろう。

 それだけならいいのだが、でかい。何がとは言わないが、でかい。服を着ている時にはそこまで分からなかったが、とにかくでかいのだ。

 優菜も、大きさに関してはそれなりだと思っていたのだが、あれを目にしては、そんな考えなどどこかへ飛んで行ってしまった。

 というわけで、優菜は絶賛混乱中だ。それと夏奈子、体をジロジロ見てごめんなさい。でも、思わず見惚れるほどのスタイルだったのだから、仕方が無いと思う。うん、そういう事にしておこう。

「ゆうなー?」

 と、絶妙なタイミングで、夏奈子が声をかけてくる。

「はい、ごめんなさい。許してください」

 条件反射的に謝る優菜。なにそれー?と笑う夏奈子。

「そうじゃなくてさー。んー」

 夏奈子の悩むそぶり。その僅かな動きに水面が大きく揺れる。

「魅由ってさ、何だか柔らかくなったよね」

「あ、夏奈子もそう思う?」

「うん!私の事、名前で呼ぶようになったしさー」

 んふふー、と随分ご満悦な様子だ。

「それってさー、優菜のお陰かなって思ってるんだー」

「えっ、私の?」

 それはどうだろう。確かに魅由とは仲良くなったとは思うけど、そう感じるのはだんだんと打ち解けてきているからだと思っていた。だが、夏奈子からは、そんな風に見えていたらしい。

「うん!だからー、良かったなーって」

「……うん。そうだね」

 魅由の印象が柔らかくなった理由がどうあれ、その事自体は良い事だと自然と思えた。


「ふわぁー!」

「わっ、夏奈子、じっとして」

 お風呂から上がり、洗面所で夏奈子の髪を乾かしている。櫛で髪を梳かしながら、ドライヤーの温風を当てる。

 優菜も髪は長い方だが、夏奈子もかなりのものだ。おまけにボリュームもある。よくこれだけの髪量を、一括りにできるものだと感心する。

 因みに、夏奈子は優菜の部屋着用のTシャツを着ている。互いの身長はそれほど差はないと思うのだが、やはり小柄な夏奈子が着ると、若干大きめのサイズに見える。

「んーふふふふー♪」

 夏奈子はご機嫌だ。そういえば、ゴールデンウィーク明けから、勇者がどうとか言わなくなっている。魅由がその辺、自重しているからなのかもしれないが、夏奈子自体はどう思っているのだろう。

 だが、ここで、その事を聞くほど優菜も愚かではない。夏奈子の事だから、忘れている可能性が大だ。藪蛇は突かず、そっとしておこう。

「はい、おしまい」

 そうこうしている内に、夏奈子の髪を乾かし終える。

「ありがとー」

 そう言いながら、洗面所を出ていく姿を見送りながら、優菜も軽く髪を乾かして、後へと続く。と、夏奈子が飲み物を用意してくれていた。

「優菜もコーヒーでよかった?」

「うん、ありがとう」

 マグカップにインスタントコーヒーを入れて、電気ケトルでお湯を注げば出来上がり。

「はい!ごめんねー、勝手にキッチン使っちゃって!」

「ううん、別に気にしなくてもいいよ」

 マグカップを受け取って、笑い合う。そのまま部屋へ移動し、寛ぎの時間を過ごす。


「はー……苦い!」

 夏奈子が、マグカップの珈琲を一口飲んだかと思うと、素直な感想を述べる。

「え、優菜、こんなのよく飲めるよね!?」

 夏奈子が驚きながらも優菜に詰め寄る。お風呂上がりで下ろしたままの夏奈子の髪が揺れ、優菜の鼻腔を擽る。

「あ、えーっと、砂糖ならあるよ?」

 鼻先に薫る向日葵のような陽気を感じつつ、優菜はキッチンの砂糖瓶を指差す。

「んー、じゃあ入れる!」

 夏奈子がキッチンへと向かう。と同時にインターホンが鳴る。

「あ!智かな!?智ー、服乾いたー!?」

 丁度キッチンに向かっていた夏奈子がドアを開ける。そこには、

「おお、夏奈ちゃん。見たまえ、服はばっちり乾いたぞ」

「……そのTシャツは、一体誰のものですか?」

 Shikiし~ずの残り二人が、待ち受けていた。


「なっ!?では、夏奈子は優菜ちゃんと一緒にお風呂に入ったのですか!?」

 その時の魅由の驚愕たるや。その事に気が付けない夏奈子は、

「うん!気持ちよかったよー!」と、更に誤解されそうな発言を平然と投下する。

「ゆ、ゆゆ、優菜ちゃん!?」「ちょ、魅由、誤解!誤解だから!」

 魅由の問い詰めに、たじたじの優菜。というか、誤解って何?何を誤解するの?

 優菜と魅由が混乱する中、あさがおが冷静な分析を叩き出す。

「つまり、お互いにお風呂に入るのを譲り合っていたら、どちらかが風邪を引いてしまう。それを避けるための苦肉の策だろう?」

「んー、大体そう!」

 夏奈子の何も考えていなさそうな返答に、何とか留飲を下げる魅由。その様子に優菜が一安心していると、

「しかし夏奈ちゃんや。あの場面でよくルミ女史に怒られなかったね」

 あさがおの発言に、そういえばと思う。夏奈子が何かやらかした時に、ルミが居合わせていると、必ずと言っていい程、注意を飛ばしていたのだが。

 流石のルミも、あの大ジャンプからの入水は堪えたのだろうか。水面を呆然と眺めるルミの表情が思い出される。

「えっ!?私、何か怒られるようなことした!?」

 まるで悪びれる様子も無く、というか、悪い事だと思っていない夏奈子がびっくりした声を上げる。

「普通、噴水に飛び込む人などいませんよ。ましてや、周りの人を巻き込むなどと」

 ジト目で睨んでくる魅由に、夏奈子が根を上げる。

「う、うわーん!駄目だったの!?もう怒られるのやだよー!優菜ぁー!怒られたら一緒に謝ってー!」

 泣き言を叫びつつ、抱き着いてくる。優菜としては、押し付けられる圧倒的な弾力の正体を先程のユニットバスで知ってしまったため、つい困惑してしまう。

「ちょ、ちょっと夏奈子!どさくさに紛れて優菜ちゃんに抱き着かないでください!」

 すかさず魅由が、夏奈子と優菜を引き剥がしにかかる。だが、魅由の腕力では、というか、誰の腕力でも夏奈子を引き剥がす事なんて無理そうだ。

「えー、いいじゃーん。いつもは魅由が独占してるんだし!」

「なっ、ど、独占って……そ、そんな事は……」

 またしても投下された爆弾発言に狼狽える魅由。そんな様子を気にすることなく、あさがおが冷静な突っ込みを入れる。

「それは違うぞ、夏奈ちゃん。私が優ちゃんの部屋の前に戻ってきた時、みーちゃんは廊下でインターホンを押すべきか悩んでいたからな。これは恐らく、みーちゃんも優ちゃんの部屋に入るのは初めてなのだろう。つまりは……」

「と、智!?余計な事は言わないで下さい!」

 堪らず、あさがおの口を塞ぎにかかる魅由。「むぐぅ」と何とも可愛らしさの籠った声が上がる。

「なーんだ!じゃあ皆、優菜の部屋、初訪問だね!」

 そんな様子にお構いなく、夏奈子が屈託なく笑った。

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