第二章

少しは前向きになれたと思ったけれど。

 私は、落ち零れです。

 幼い頃から、色んな習い事をしてきましたが、どれも上手くいかなくて。

 唯々、才能のある者たちの背中を、決して手の届くことのない後方より見つめる事しかできなくて。

 そんな私に、ある人がこう言いました。

「笑っていなよ」

 どうしてそんなことを言うのか分からなかった。私にとって、この世界は、面白くも無く、唯々苦痛で、笑う事なんて微塵もない、地獄のようなものなのに。

 私は幼いながらも、その人に必死に訴えました。私は何をしてもうまくいかなくて、両親の期待にも沿えなくて。

でも、その人は、うんうんとか、ほうほうとか、そんな事ばかり言って、まともに話を聞いていなさそうで。

 だんだんと私の訴えの声は小さくなり、やがて尽きた頃、

「すっきりした?」そう、笑顔で私に問いかけてきました。

 何を言っているのか分からないです。すっきりなんてするはずもないのに。だって、私は……

 その時、私に不思議な変化が起こっていたのを、今でも思い出せます。

 その人の笑顔を見て、私の心がすっきりしていた事を。

 まるで魔法みたいだ。と思いました。この人はもしかして魔法使いで、私を助けに来てくれたのではないかと。

 そんな私の変化を見て、彼女はこう言いました。

「ありがとう」と。

 どうして、この人は私に感謝の言葉を向けてくれるのか。その意味も分からないまま、私は心からこう思いました。この人の様でありたいと。


 それからの私は、どんな時でも笑顔でいると決めました。

 それが例え、明日失われるものだとしても、あの人のように今を笑っていたい。そのようになりたいと、そう思えたから。そうしていれば、いつかは、あの人が言った言葉の意味が分かるかもしれないから。

 だから、私は今日も笑顔で、この地獄の様な一日を生き続けます。




「えっ?」

 電気の付いていない部室には、当然のように誰もいなかった。

 背の中頃まで伸びた艶やかな黒髪をなびかせながら 慌てるようにドアプレートを確認する。そこが、歌劇同好会の部室であることを確認して、山之辺優菜は、呆然としているもう一人の人物に頷いて見せる。その頷きを見た同行者も黒髪だが、こちらは肩にかからない程度に綺麗に切り揃えられている。可愛らしい容姿も相まって、まるで上質な日本人形を思わせる、粉雪魅由は、思惑顔になる。

「ど、どういうことだろう?」

 優菜の問いに答える者はいない。それもその筈、ここ、歌劇同好会の部室には、優菜たちの他には誰もいないのだから。

「どういうことでしょうね……」

 先程、優菜が発言した事を、改めて魅由が口にする。この問いにも、答えられるものはいない。

 何故なら、ここは歌劇同好会で、四月の部活勧誘会の時にあれほどまでに入部希望者が押し寄せていた同好会とは思えないほど、閑散としているのだから。

 そんな、呆然としていた優菜たちの後ろから声がかかる。

「あら?あらあら?もしかして、入部希望者かしら?」

 その声に振り向くと、そこにいたのは、優菜たちShikiし~ずを勧誘してきた二年生、三七三燈火みなみとうかだった。


「ごめんなさいね、部室を留守にしちゃって」

 三七三は、紙カップに珈琲を入れて、二人の前に差し出す。その傍には砂糖瓶と、クリーミングパウダーが置いてある。

 優菜はそれらには手を付けず、魅由はそれぞれ小匙一杯ずつ紙カップに加えて、口にする。

「あ……美味しい……」魅由が思わず感想を述べる。その姿に、新たな喜びを見いだせた感動を見つけ、優菜は微笑ましい気持ちになる。

「良かったわ、お口に合って」

 そう言う三七三のマグカップは優菜と同じ真っ黒だ。この人物らしいと優菜は独り言ちる。

「さて……」

 真っ黒な中身のマグカップをテーブルに置いて、三七三が意を決して言葉を紡ぐ。

「それで、お二人はここに何の用なのでしょう?」

 先日会った時と同じ笑顔の三七三が、優菜たちの来訪の理由を問いただそうとしていた。


「えっ、じゃあ二人とも、入部希望なの?」

 驚く三七三に頷く二人。だが、驚きたいのはこちらも同じだ。

 なぜ、あれほどまでに入部希望者が殺到していた同好会部室が、今、これだけの人数しかいないのか。

 いや、それは間違いで、今頃他のメンバーは練習に勤しんでいるのかもしれない。そんな優菜の淡い期待は三七三の次の発言に見事に打ち砕かれた。

「でも、ごめんなさいね。今、歌劇同好会には、私一人しかいないの」

 笑顔でとんでもないことを告げる三七三に、優菜は何も言えずに似非聖母の笑みを見つめる。

 だが、魅由は即座に「どういう事ですか?」と事実関係を明らかにしようと三七三に問い詰める。

「なぜあなた一人なのです?講堂での紹介の後、この部室前にはたくさんの生徒が集まっていました。あれは、入部希望者では無かったのですか?そもそも、元からいた部員はどうしたのです?その人たちも辞めてしまったのですか?それに、」

「ちょ、ちょっと待って。説明するから」

 魅由の剣幕に、流石に白旗を上げる三七三。というか、魅由怖い。もし、優菜がこんな感じで問い詰められたら、何でも自白してしまうだろう。

「では、説明をお願いします」

 優菜に怖がられていることにも気付かず、魅由が情報の開示を要求する。

「えーっと、どこから話したらいいかしら……まず、元からいた部員は咲恋先輩と私だけだったの。今年の入部希望者は……」

 入部希望者……講堂での演目の次の日、歌劇同好会の部室前は人込みで溢れかえっていた。

 その様は、優菜にとって見るだけでも嫌気が差す程の光景だった。だが、あれほどまでに押し寄せていた繁盛振りは、今は微塵も感じさせない。

「あの子たちは、辞めてしまったわ」

 相変わらずの笑顔で告げる三七三。こんな時でも微笑みを保てるのは凄いのを通り越して怖い。

「辞めて……?」

「そう。綺麗さっぱりとね」

 あははっ、と笑う三七三。いや、笑っている場合ではないと思うのだが。

「って、ちょっと待ってください。全員辞めたって事は、まさか、」

 歌劇同好会の部員は、三七三一人だと言っていた。その意味するところは一つ、

「そうよ。咲恋されん先輩も、辞めてしまったわ。講堂での説明会の翌日にね」

 優菜の問いに、にっこりととんでもない答えを口にする。だが、優菜の頭の中はそれどころでは無くなっていた。

 辞めた……あの、春深咲恋かすみされんが……

 もともと歌劇同好会に入部したいと思ったのは、かの先輩の舞台を見たからだ。圧倒的な演技力と歌唱力は、見る者全てを虜にするかのような力強さがあった。その先輩が辞めてしまっているなんて……

 呆然とする優菜を見て、三七三が困ったような笑みを浮かべる。恐らく、このようなやり取りがこの一カ月で何度もあったのだろう。

「そういう訳で、咲恋先輩に憧れて入部した人達は全員辞めてしまったわ。その後も入部希望者は何回か見学に来たけど、咲恋先輩がいないならって、入部してくれなくてね。だから、あなたたちも、」

「なるほど。事情は分かりました。では、入部手続きをしたいのですが」

「えっ?」

 優菜と三七三の声が重なる。

「にゅ、入部してくれるの?」「にゅ、入部するの?」

「はい。そのためにここへ来たのです……よね?」

 優菜ちゃん?と小首を傾げて疑問の表情を浮かべる魅由。

「で、でも、咲恋先輩はもういないのよ?」

 三七三はまるで目の前の出来事が嘘であるかのように、もう一度訪ねる。

「はい。春深先輩がいようといまいと、私は歌劇同好会に入部するつもりです。あ、ですが……」

 と、そこで優菜の方を改めて見る。

「優菜ちゃんが入部しないのなら、私も入りません」

 そこだけは譲れませんと、魅由の瞳が告げている。

「入部しましょう、優菜さん!いや、優菜様!」

 三七三が立ち上がり、満面の笑顔で優菜の手を取る。というか、様とか、崇めないでほしい。

「え、えーっと」

 ふと横を見ると、魅由も優菜の返事を期待の籠った眼差しでじっと待っている。当然、期待する答えは、はいかYESだろう。

「……は、はい」

 二人の圧に負けて、前者を選択する優菜。まぁ、もともと同じ部活に入ると決めていたし、魅由が歌劇同好会を選ぶならいいかな、と自分を納得させた。


「優菜ちゃん、ここ、先に進めないのですが」

「ん?あー、ここはほら、ここにチェックを入れないと」

「ここですか?あ、先に進めるようになりました」

 優菜と魅由は今、タブレットを使って入部申請を進めている。にしても、魅由はタブレットの操作に随分疎いようだ。そういえば、部活動勧誘期間の時の魅由も、タブレットで申請ができなくて、手書きの用紙で申請を出してたっけ。

「あ、できました。申請、出せましたよ、優菜ちゃん」

 無事、入部申請を出すことができ、タブレットの画面に映った申請完了の文字を優菜に見せてくる魅由。優菜に向ける瞳もとても優しげだ。

 ゴールデンウィークでの一件以降、優菜に向ける魅由の表情は日に日に豊かになっていく。先程の喜びを感じさせる優しげな表情も、以前の魅由からは想像もつかない。そんな魅由の新たな一面を見る度に、優菜自身も嬉しくなったり、ドキドキしたりで、これまた忙しい。

 でも、悪くはない。こうやって徐々に仲良くなっていけたらと思う。

「あ、申請来たわ。承認っと」

 三七三は、タブレットに送られてきた二通の申請を承認する。優菜と魅由は、晴れて、歌劇同好会に入部した。


「そういえば、一つ疑問なのですが」

 優菜の挙手に、二人の視線が集まる。

「確か、部活とか同好会って、メンバーが五人いないと駄目だったんじゃ?」

 優菜は、部活動勧誘期間の生徒会室での一件を、今となっては余り思い出したくもない事ばかりだけど、あえて思い出す。

「それはですね、優菜ちゃん。新しく作る時は五名以上必要なのですが、その後の部員数は何人でも構わないみたいです」

 優菜の問いに、魅由が素早く答える。

「その代わり、部員数が五人を下回ったままで活動実績も無ければ廃部になってしまうのよ。運動系なら、大会に出たり、練習試合したりとかね」

 魅由の説明に、三七三が補足を入れる。

「それって、つまり、」

「そう。私たちの今後の目標は、部員を五人以上にする事と、活動実績を作る事の二つね」

 三七三は、部室の備品である移動式のホワイトボードに二つの目標を記入しながら、今後の目標を語る。

「差し当たっての活動としては、緑星祭ね」

 三七三が話を勧めながら、活動実績の横に、緑星祭と記入する。

「緑星祭の事は知っているかしら?」

「確か、春に行う文化祭って聞いてます。開催は五月の末ですよね?」

 入学式後のオリエンテーションで年間行事の説明があり、そこで軽く説明を聞いた覚えがある。

「正確には、部活や同好会、ラボの発表会ですよ、優菜ちゃん。出店は出せませんが、部活動に沿った内容の出し物とかはできるみたいです」

 優菜のざっくりとした答えに補足を入れてくれる魅由。

「そういえば、去年の野球部はストラックアウト、サッカー部はPK対決なんてしていたかしら。そうそう、ビリヤード同好会は大会を開いていたわね」

「へー、楽しそう。歌劇同好会は何をしたんですか?」

「それは勿論。講堂で歌劇を披露したわ」

 その時の事を思い出したのか、三七三がうっとりした表情を見せる。

「では、今年もその方向で行くのでしょうか?」

「そうねぇ……緑星祭までもう一カ月も無いし、今年は部室で過去の同好会活動の記録でも展示しようと思っていたのだけれど」

 魅由の質問に、残念ながらと答える三七三。確かに、今から演目を行うにしては時間が足りなさすぎる気もする。けど、折角入部したのに、最初の活動がそれでは味気なさすぎるとも思ってしまう。

「部活勧誘会の時にした演目では駄目なのですか?」

 魅由もそう思ったのだろう。提案を出してくる。

「確かにあの演目なら、この人数でもできるけど。あれは部活勧誘会用なのよ。緑星祭で行うには短すぎるわ」

「時間……どれくらいの演目をする必要があるのでしょうか?」

「そうねぇ、緑星祭で講堂を使うとなると、一コマ三十分だから、準備と撤収にそれぞれ五分使うとしても、二十分くらいの長さかしらね。因みに去年は二コマよ」

 去年は咲恋先輩がいたし、と付け加える。

「二十分を、役者二人でっていうのは、かなり難しいのかなぁ?」

「あら?三人でしょ?」

 優菜の発言に、三七三が突っ込みを入れる。

「え?だって、魅由と三七三先輩で、二人ですよね?」

 優菜の勘定に、魅由も三七三も何故か固まってしまう。あれ、私何か変なこと言ったかな、と、二人の顔を見比べていると、魅由がぽつりと呟く。

「優菜ちゃんは……」

「ん?」

「優菜ちゃんは、舞台に立たないんですか?」

「えっ、私!?」

 驚く優菜をじっと見つめてくる二人。

「い、いや、私は裏方とかをしようかなって思ってるんだけど」

「あ……そうだったのですね。私、てっきり……」

 瞳を伏せて、黄昏る魅由。そういえば、同好会に入るとは言ったけど、そこで何をしたいのかまでは伝えていなかった。

 それは、優菜だって、春深咲恋の様になってみたいと思う。けど、自分はそんな器ではないと思い込んでしまってもいる。魅由と一緒ならと、少しだけ前向きになれた優菜であったが、自己評価の低い所は相変わらずである。

「そうなのね。何だか勿体ない気もするけれど、本人がそう思っているなら、仕方が無いわね」

 魅由と違い、三七三はあっさりと優菜の方針を認めてくれたようだ。

「と、とにかく、緑星祭をどうするか、ですよね」

 空気を重くしてしまった申し訳なさで、優菜が話を元に戻そうと努める。

「あの、それなのですが、まず部員を増やすというのは如何でしょうか?」

 魅由がローテンションのまま、提案する。そんな様子を見て、本当に申し訳が無いと思うがどうすることもできず、モヤモヤしてしまう優菜。

「部員が増えれば、出来る演目も増えてくると思いますし、その上で緑星祭をどうするかを決めるという事では駄目ですか?」

「うん、良いと思うわ。けど時間は無いから、期限を決めましょう」

 三七三が部室の壁に貼ってあるカレンダーの元まで移動し、五月の末日に緑星祭と書き込む。

「そうねぇ、どちらにしても準備は必要になるから、来週の頭にどうするか決めましょうか」

 そのままペンを持った手をカレンダー上部に移動して、週明けの月曜日に星マークを記入する。

「ここまでは部員集めをして、残りの三週間は、緑星祭に向けての準備という事にしましょう」

 それでいいかしら、とこちらを見つめる三七三に頷く二人。けど、部員集めって言っても、どうすればいいのだろう。優菜には想像もつかなかった。

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