山之辺優菜は、もう逃げないって決めたのだから。

 魅由が原因ではなかった。

 優菜は、あの時の事は、魅由が江島美希に話したからだと、ずっと思っていた。

 でも、違っていた。江島美希は、たまたま二人が話しているのを聞いていただけで、魅由には何の非も無く、唯々、優菜が勝手に勘違いしていただけだった。

 何て愚かなのだろう。そんな思い違いで、魅由と接していた。一歩踏み出せないと思い込んでいた。だが、そのフィルターは今、全て取り除かれた。結果として残ったのは、魅由を信じられなかった浅はかさと、現状を良しとしていた弱さだった。

 苦しい。苦しくて、逃げ出したくなる。自身の愚劣さから、魅由への申し訳の無さからも。


 けど。

 今は、そんな場合ではない。


 優菜は噴水近くにいる二人を見つめる。そこには、何の騒ぎかと、既に人が集まり始めている。

 それがどうした。

 今、魅由はあそこで苦しんでいる。高笑いをしている江島美希の顔を見ながら、呆然としている。顔からは血の気が引いており、今にも倒れそうだ。

 だから、行かなくては。魅由の元へ。一刻も早く。

 だが、意に反して、体は動かない。優菜の脳裏に思い起こされる憎悪に燃える瞳。優菜にとってはこの世で一番恐ろしいものだ。

 勇気を……勇気を振り絞れ……ゆうきを……優希、力を貸してっ!

 瞳に力が宿る。石のように動かなかった足が一歩前へ進む。そのままの勢いで、駆け出す。


「魅由っ!」


 優菜の呼びかけに、魅由が反応する。そのまま倒れそうになるところを、寸前で支える。

「な、なに、あんた!?」

 突然現れた人影に狼狽える江島美希。その人影の腕の中で魅由が弱々しくその名を呼ぶ。

「は?……あんた、山之辺?」

 肯定の意を込めて顔を縦に振る。

「う、噓でしょ!?あんたが山之辺!?中学の時、あんなにイモ臭かったあの山之辺なの!?」

 今の優菜を見て、そのあまりにもの変わりぶりに驚く江島美希。それも無理はない。中学の時の優菜は、眼鏡に三つ編みとあまり目立たない格好をしていた。

 だが、不登校の間に、視力は驚異的ともいえる回復を見せ、裸眼でも生活できるようになっていた。髪質はサラサラになり、三つ編みをしてもすぐに解けてしまうようになった。

 故に、眼鏡を外し、髪を結わなくなったわけだが、そんな優菜の事情を江島美希は知る由もない。

 急激な外見の変化に驚いていた江島美希だが、優菜に寄り添う魅由を見て、憎しみの視線をぶつけてくる。

 直接的に向けられる憎悪の感情に、優菜が呻く。吐き気と共に、心の中に泥が溜まる感覚に襲われる。けど、ここで倒れるわけにはいかない。こんなものに負けるわけにはいかない。

 江島美希の憎しみに燃える暗い瞳を真正面で受け止めながら、震える手で魅由の手を握る。


 私は、山之辺優菜は、もう逃げないって決めたのだから。



―interlude side Miyu―


 手のひらに灯った温もりを感じ、その手が震えている事に気が付いて、私は漸く自分を取り戻す事ができました。

 優菜ちゃんの腕の中から、江島さんを見ます。その表情は憎しみに満ちていて、江島さん自身にもどうする事もできずにいるかのように見えます。

 その姿を見て、私は気が付いてしまいます。江島さんが優菜ちゃんに向ける感情の正体を、そして、入学式の日、私が優菜ちゃんの隣にいた者に向けた感情が何と呼ばれるものなのかを。

 それは、今まで抱いたことのないもので、物語の中でしか見たことのないもので……


 江島さんは(私は)優菜ちゃんに(夏奈子に)嫉妬している。


 だから、これは私が終わらせなくてはいけない事です。

 優菜ちゃんに寄り添わせていた体を起こし、でも手は握ったままで、江島さんに向き合います。

 私の視線を感じた江島さんが、表情を和らげて、悲しげに微笑みます。その表情から、彼女の私に対する想いが伝わってきます。そんな微笑に、そこに込められた想いに、私は残酷な言葉を投げつけます。

「ごめんなさい」

 たった一言。ですが、江島さんには十分に伝わる一言は、言の刃となり彼女を傷付けます。

「え……」

 悲し気な笑みのまま、固まる彼女に、

「それと、理由はどうあれ、優菜ちゃんを傷付けたあなたを、私は許せません」

 はっきりと、訣別の言葉を口にします。

「え……でも……だって……」

 うわ言のように呟く江島さんを置き去りにして、私は優菜ちゃんの手を引きながら、歩み始めます。いつの間にか出来ていた人だかりが、私の進む方向に開けていきます。手を上げなくても海は割れるのだと、この日、初めて知りました。

 やがて、水の流れる音が聞こえなくなった頃「ぅぁぁぁぁぁぁぁぁ……」という慟哭が聞こえても、私は歩みを止めずに優菜ちゃんの手を握ります。

 そんな優菜ちゃんの手はとても冷たくて、冷え切った私の心に温もりを与えてはくれませんでした。


 先程よりも少し小さめの広場を抜けて、私は歩き続けます。

 この先には、何があるのでしょう。何があるにしても、終わりの時は近い……私は、やがて辿り着く終点に向かって歩き続けます。

 隣を歩く優菜ちゃんは、先程から一言も発しません。私も同じですから、その事を責めるつもりはありませんが、せめて最後は楽しく過ごしたいと思うのは我儘でしょうか。

 やがて、半円の広場に辿り着きます。突き当たりにはステージがありますが、進入禁止なのか、赤いロープで区切られています。

 ここが終点……私が、優菜ちゃんと過ごす、最後の場所です。


 私は、優菜ちゃんを傷付けた江島さんが許せません。それは同時に、私自身も許せないという事になります。

 中学の時に江島さんが行った行為が優菜ちゃんを傷付けたというのなら、入学式後、優菜ちゃんの前に跪いた私もまた、優菜ちゃんを傷付けたという事になります。

 その事に気が付けないまま、優菜ちゃんと一緒に過ごせると喜んでいた自分は何と愚かなのでしょう。

 だから、これで終わりです。

 私は、ここで優菜ちゃんに謝り、そして消えます。

 それが、私にできる最初で最後の償いです。


― interlude end―



 隣を歩く魅由の手はとても冷たくて、今の魅由の心境を表しているかのように感じる。

 その横顔はいつにも増して無表情で、何を思っているのか、皆目見当もつかない。

 やがて、この商業施設の突き当たりの広場まで辿り着く。

 この先に道は無く、後は戻るだけなのだが、魅由は赤いロープで区切られたステージをじっと見つめている。

 やがて、天井の夕焼けが星空に変わる頃、

「ごめんなさい」

 魅由が優菜の顔を見て、先程、江島美希に告げた一言を口にする。その言葉の意図が分からずに、魅由を見つめていると、

「私は、優菜ちゃんを傷付けていたのですね」

「魅由が、私を?」

 優菜の疑問に、静かに頷く魅由。

「私、優菜ちゃんが中学校に来られない理由を知りませんでした。私は始業式の次の日から三日間、熱を出してお休みしていて。登校できた時には、クラスに優菜ちゃんだけが居なくて。先生に聞いても、体調を崩しているという事だったので……」

 暗い目で魅由は語り出す。

「まさか……私のせいだったなんて……」

「それは違う」「違わないです!」優菜の否定を魅由がかき消す。

「それに……それだけではありません。高校の入学式の時だって、私は優菜ちゃんを傷付けてしまいました」

 入学式の時……魅由が優菜の事を魔王と呼んだことだろうか。

「あの時だって……酷いんですよ。優菜ちゃんの隣に夏奈子が居て、手も握っていて、それを見ていたらモヤモヤして、苦しくて、堪らなくて……気が付いたらあの様な事をしていたんです」

 寂しげに魅由が自嘲する。

「嫉妬していたんです。夏奈子に。これでは、江島さんの事を責められませんよね」

 魅由は、先程から優菜の顔を見ていない。顔を上げる事もままならず、寂しそうに吐露する魅由に、優菜は一体何をしてあげられるのだろう。

「ですから、ここでお別れです」

「え?」

 突然の別れの言葉。

「私はもう、優菜ちゃんの傍にいる事はできませんから」

 寂しげに呟く魅由。

 どうしてそんなことを言うのだろう。いや、そうではない。魅由が優菜から離れようとしている。生真面目な魅由の事だ、きっと転校もするだろう。いや、だからそうではない。優菜の混乱を置き去りにして、魅由が決別の言葉を口にする。

「さようなら、優菜ちゃん……」

 悲しげに微笑んだ魅由は、優菜から手を離そうとする。今、繋がれた指から力を抜けば、魅由とは完全に離れてしまう。

 これでいいのだろうか?

 優菜は自問する。本当にこれでいいのだろうか。

 思えば魅由は、何時も優菜の事を見ていてくれた。それが自分の幸せだと言わんばかりに、接してくれていた。

 優菜と一緒に居る事を選んでくれた。そのやり方は歪だったけど、一緒にいる事を望んでくれた。

 優菜に思い出を話してくれた。過去に見た感動を精一杯伝えようとしてくれた。最後は恥ずかしくなってしまったけれど、魅由という存在を知ってほしいという想いは伝わっていた。

 優菜に微笑んでくれた。優菜が悩んでいた時、冷たい夜風に凍えていた時、温もりを与えてくれた。

 優菜と同じ時を過ごした。見た目は全く正反対だけど、そんな事も気にならなくなる位楽しかった。

 そんな魅由が離れようとしている。恐らく永遠に。魅由と過ごした一カ月。そこには戸惑いや確執もあった。だけど……楽しかった。

 そう、優菜も楽しかったのだ。だから……「優菜ちゃん?」

 優菜は離れゆく手をぎゅっと握り直した。

「駄目だ」

 そう、駄目だ。ここで魅由とお別れなんて駄目だ。

「これでお別れなんて、駄目だ」

 そう、駄目だ。駄目に決まっている。優菜の想いは、そのまま言葉を紡ぐ。

「だって、まだ魅由に謝っていない。魅由の事を誤解して、そのせいで素直に接することができなかったから。まだ魅由と何もできていない。星ノ杜で過ごした一カ月だけでは足りないし、本当は歌劇同好会にだって魅由と一緒に入部したいと思ってる。まだ魅由の事知らない。今日のお出かけで魅由の事たくさん知れたけど、まだまだ足りない。もっともっと魅由のこと知りたい」

 言葉にする。魅由に対する想いを。一度口に出してしまえば、次々と出てくる素直な気持ち……

「でも……私は優菜ちゃんを傷付けました……」

「うん」

「これからも、優菜ちゃんを傷付けるかもしれません……」

「うん」

「夏奈子に嫉妬して、また何かしでかすかもしれませんよ……」

「うん」

「それでも……いいんですか?」

 優菜をじっと見つめてくる魅由。

「お別れしなくても……いいんですか?一緒にいても……いいんですか?」

「勿論」

 魅由を安心させるように、精一杯の笑顔で。

「でも……やっぱり私は私を許せません」

「それでも!……私は魅由と一緒に居たい」

 視線を逸らそうとする魅由を逃がさないように、握った手を引き寄せてこちらを向かせる。

「そしていつか、魅由が自分を許せるようになる日が来ることを願っている。その時を一緒に迎えたい」

「そんな日が……来るのでしょうか?」

 魅由の頬に光る雫。それを大切に掴むように、優菜の指が優しくつたう。

「そのために、私がいるから」

 ずっと一緒にいるから。魅由の目を見て、ありったけの想いを込める。握った手に再び指が重なる。もう離さないと、離れたくないという魅由の気持ちが伝わってくる。

「優菜ちゃんっ!私も、私も優菜ちゃんと一緒に居たいです!本当はお別れなんて嫌です!」

 魅由が優菜の胸の中に飛び込んでくる。繋いだ手のひらから温もりが伝わってくる。

 魅由を優しく抱きしめながら、ふと顔を上げる。架空の星空は、やがて日の出を迎えようとしていた。

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