何もしないままゴールデンウィークになっても何もできないままで。
クラブ勧誘期間も終わり、学院内も落ち着きを取り戻した頃、優菜はいつもと変わらない日々を過ごしていた。
「優菜さん、お醤油取ってもらえるかしら?」
優菜に優しく微笑えむ口元から覗く八重歯は今日も一際目を引く。生徒会長、ルミ・ティッキネンの要望に素直に応じる優菜。
「あ、はい。どうぞルミさん」
「優菜ちゃん、私にはウスターソースを取ってほしいな~」
そこに便乗するように、片眼鏡の変人、もとい、逆那沙紗が甘い声で優菜に強請る。滅茶苦茶に伸ばし、そこから出鱈目にカットしたような、ちぐはぐな長さの髪を、無造作に三つ編みに纏めている姿は、見る度にその印象を大きく変える。
「はいはい、どうぞ沙紗先輩」
「ありがとう」二人の先輩の声が重なる。そこへ、
「先輩方、優菜ちゃんは便利屋さんではありません。それくらいご自身で取って下さい」
トレイを二つ持って、テーブルへ現れた人物、粉雪魅由の冷たい一言が放たれる。
肩にかからない程度に切り揃えられた黒髪は絹の様で、思わず触りたくなる衝動に駆られる。可愛らしい顔立ちは、表情の変化に乏しいせいか、精巧に作られた日本人形のようだ。
「えー、だって優菜ちゃんの方が近かったし。ねぇルミ」
「そ、そうね。決して優菜さんに甘えたかったわけじゃないのよ」
揶揄う様な言い訳をする沙紗と随分可愛らしい理由のルミ。その様子を、優菜の前にトレイを置きながら、冷めた目で見つめる魅由。
「あ、あはは。私は別に気にしてないから」
沙紗はともかく、ルミのような年上美人に甘えたいからとか思われるのは、優菜にとっては嬉しいやら恥ずかしいやらで、対応に困る。
「全く」そんな二人の反応を見て呆れ顔の魅由。相変わらず表情の変化は少ないが、最近は微妙な変化にも見分けがつくようになってきている。
「優菜ちゃん、お待たせしました」
優菜の隣の席に腰掛けながら、魅由が軽く微笑む。
「ありがとう、魅由」そんな魅由の後ろに見えるのは緑海。
四月も中頃を過ぎ、聴色が新緑へと姿を変えても、優菜の日常は変わる兆しすら見られずにいる。
歌劇同好会の演目を見た次の日、優菜と魅由は同好会の部室を訪れるため、部室棟へと足を運んだ。
そこで目にしたのは、長蛇の列と黄色い歓声だった。
ここにいる人たち、全員が歌劇同好会への入部希望者なのだろうか。確かに昨日の演目を見れば、誰もが憧れること間違いなしだろう。にしても、これは多すぎる。こんな大人数の中で活動する自分の姿を、優菜は想像すらできなかった。
ふと横を見ると、魅由がこちらを見ていた。その表情からは何も読み取れなかったが、静かに目を閉じたかと思うと、踵を返し立ち去ろうとする。
そんな魅由の背中を見て優菜は、呼び止めることもできず、後を追う事しかできなかった。
「このままじゃあいけないと思うのだよ」
「そうだね!私もそう思う!」
昼食時、賑わう学食にて、突如立ち上がった人物は、それでも座っている時と変わらないほどの背丈しかなかった。
「このロコモコ丼、目玉焼きの半熟さが足りていないよ!もっととろ~りとしていないと駄目だよね!」
立ち上がった人物、あさがおの横でロコモコ丼を食べながら見当違いな問題提起をする夏奈子。
「違う」
よっと軽く跳ねながら座り直したあさがおが短く突っ込みながら、夏奈子の口元についたご飯粒をつまんで食べる。
「え!?もしかして智は完熟派!?」
「いや、ロコモコ丼の話ではないという意味なのだが」
「ん~?でも他に何か問題が?」
決してわざとでは無いとはいえ、夏奈子がぼけて、あさがおが突っ込む。相変わらずのやり取りに苦笑する優菜。というか、口元についたご飯粒を取って食べるとか、この二人の関係性もかなり謎である。
「いいかい夏奈ちゃん。私たちは高校生になった。所謂JKなのだよ」
「そうだね!高校生だね!じぇーけーだね!」どう見ても理解できていなさそうな夏奈子が、勢いだけで右手の親指をびしっと立てる。
「それなのに、私たちときたら、部活動もせず、かといって他に何をするでもなし、唯々怠惰な日々を過ごすのみ」
そういえば、この頃はボランティア同好会設立の話も全く話題にならない。もしかしたら、あさがおの中では既に無かった事になっていそうだ。魅由もその事を口にしなくなったし、夏奈子に関しては本気で忘れていそうである。
「ん~?でも、私は毎日楽しいよ!」どこかの片眼鏡のような物言いをしながら左手の親指もピシっと立てる。夏奈子よ、それでいいのか、と思わずにはいられない。
「夏奈ちゃんよ」「はい!」あさがおに呼ばれて右手を上げる夏奈子。
「夏奈ちゃんさ」「はい!」今度は左手をびしっと上げる。図らずとも万歳の格好になる。
「夏奈ちゃんは~」「なぁに~?」あさがおは止めとばかりに脱力した声をだし、夏奈子はその声に答えるように突き上げた両腕をくねくねとうねらせる。
何このやり取り。この二人は、時折こういう謎の空気感を醸し出すのだが、見ている側としては何ともむず痒い気持ちになる。
「夏奈ちゃんは、楽しければいいのかい?」
「えっ、ダメなの!?」
「ダメではないが……もっとこう、あるだろう?」
「あるの!?」
「あるとも。そうだろう、優ちゃん」
「えっ、私!?」
いきなり話を振られ、困惑する優菜。夏奈子も期待に満ちた目で見つめてくる。
優菜にも、やってみたいことはある。いや、あった、が正しいか。しかし、あれだけの人数の中に入るには、優菜のコミュスキルでは難しいものがある。何より、自分に自信が無い。その事が優菜を思い止まらせていた。
「えーっと、どうだろう?」結局、曖昧な返答しかできずにいる。こんな自分を変えたいとは思うが、生まれ持った性根というものはなかなか思い通りにはいかないものだ。
ふと、魅由はどうなのだろうと隣に座る横顔を見ると、相変わらずのポーカーフェイスで鯖の切り身の骨を箸で器用に取り除く作業に没頭しており、そもそも話に参加していなかった。
「ふむ……重症だな」
ぽつりと呟いたあさがおの発言は誰の耳にも届かなかった。
その日の放課後。
珍しく一人となった優菜は、食堂の自販機前に人影を見つける。
その人は、自販機の上の方にある商品をじっと見ているのだが、それよりも気になったのは椅子に座っている事だ。その椅子にはタイヤが付いている。車椅子だ。
この学院はバリアフリーで設計されており、段差のある所は極力排除されている。段差のある所にもスロープが設置されているし、学院内にはエレベーターまである。
だが、この自販機だけは別のようだ。恐らく上の方にある商品が欲しいのだろうが、届かずに困っているようだ。
本来、こういった場面に遭遇しても、声を掛けられないのが優菜という人間だ。何とかしてあげたいと思う反面、自分なんかが声をかけても迷惑なのではないかとつい考えてしまう。
だが、今日の優菜は違った。原因は昼食時のあさがおだ。このままじゃいけないという言葉が優菜の背を押す。
「あ、あの……お困りですか?」
思い切って声をかける。車椅子に座っている人が驚いたようにこちらを向く。
「あ……」
その人の目を見て、思わず声が漏れる。車椅子の人の瞳は、右目が深緑で、左目は黄褐色だった。思わずじっと眺めてしまい、訝しむ視線を返されている事に気付くのが遅れた。
「あ、ごめんなさい。何か困っているのかなと思って」
思わず謝りながら、何をしているんだろと思う。これじゃ完全に変な人だ。思わず逃げ出してしまいたくなるが、もし本当に困っているなら助けてあげたいという気持ちが優菜をここに留まらせている。
「いや、どのジュースを飲もうか、悩んでいたんだけど」
頭を下げ続けている優菜にようやく声がかかる。
「よかったらどのジュースがいいか、一緒に選んでくれる?」
「あ、はい。私でよければ」
漸く顔を上げると、訝しむ視線は消えており、安堵する。
「私、炭酸系が飲みたいんだけど、どっちがいいと思う?」
彼女の指差す先を見ると、二種類の炭酸系に行きつく。一つは炭酸が強めだがあっさり系で、もう一つはグレープ風味が付いたものだ。
「そうですね。私は、こっちのあっさり系のが好きですけど、グレープが好きなら、こっちもいいかなって思います」
「う~ん、そっか。じゃあ、君のおすすめを買おうかな」
「あ、ボタン押しますよ」
そういう優菜の目の前で、携帯端末を自販機にかざす車椅子の人。ピッという電子音の後、ジュースが取り出し口に落ちてくる。
「あ……」
取り出し口からジュースを取り出すと、もう一度端末を自販機にかざし、もう一本ジュースを購入する。
「お礼に奢るよ。ついでに少し付き合ってもらってもいいかい?」
「本当にお恥ずかしい限りで……」
フードコートの片隅で先程の車椅子の人、高遠一葉と席を共にする。こちらに移動する際、優菜は車椅子を押そうか迷ったのだが、一葉が手元のボタンを押すと、車椅子は自動的に走り出した。自販機の事もあり、自身の無知にほとほと呆れる。
「気にすることは無いよ。山之辺さんは親切で私に声をかけてくれたわけだしね」
誰にでもできる事ではないよ、と、優菜を褒めてくれる。
「それに、このジュースも美味しいし」
「あ、ありがとうございます」自分の好みのジュースを美味しいと言ってもらえて、少しだけ嬉しくなる優菜。
一葉のリボンの色は黄色、という事は二年生という事になる。優菜とは一年しか年が違わないのに、随分と大人びて見えるのは落ち着いた言動のせいか。しっかりとセットされたショートヘアも、大人びた雰囲気に一役買っている。そんな彼女にならと、優菜は話を切り出す。
「あの、高遠先輩に聞きたい事があるのですが」
私に答えられる事なら、と快諾してくれる一葉に優菜は悩み事を打ち明ける。
「そっか。部活動か」
優菜は入ってみたい部活があること、その部は今や超人気で、入部者が殺到していること、そんな大勢の人間の中ではやっていく自信が無いこと、友達、と呼べるのかは分からないが、身近にいる人もその事で悩んでいるかもしれないことを包み隠さず話してみた。
「山野辺さんも分かってるとは思うけど、できる事とやりたい事は必ずしもイコールではない」
優菜の話を聞いた一葉の答えは思ったよりもまともで、それ故にすんなりと受け入れることができた。
「それは、分かります」
「けど、できないかもって諦めてしまうのは一番駄目だと思う」
それも分かる。分かってはいるのだが、と、優菜の想いは声にならずに霧散していく。
優菜にとって諦めるという事は当たり前となっていた。思えば、小学校高学年の時、親しい友人がいないと気が付いた時に何か行動を起こせていれば、あるいは。だが、その様に優菜はできてはいない。
そもそも、そこで行動を起こせるようなら、優菜は今の様にはなってはいなかっただろう。もしかしたら……そう、これはあくまで妄想なのだが、あの春深咲恋の様になれたのではないか、と。あまりにも現実とかけ離れている妄想に自己嫌悪に陥る。
「まぁ、色々やってみるのが良いと思うけどね」
「色々、ですか」
「うん。幸い、この学院は色んなことに挑戦しやすい環境が整ってるし。それに、やらずに後悔するより、やって後悔する方が、良くない?」
「それは……」
「迷うって事は、興味があるって事だし、興味こそ行動力の源だよ。それに、やってみてダメなら辞めればいいだけだしね」
確かに彼女の言う通りかもしれない。だが、優菜には一葉に打ち明けていないことが一つある。確かに挑戦してみたい。駄目なら辞めればいい。だが、それは他の者から見たら、あまりに身勝手な行為ではなかろうか。その事で優菜を恨む者が出てこないだろうか。その事が何よりも恐ろしい。
答えの出せない優菜を見て、一葉が優しく微笑む。
「まぁ、最終的には山之辺さんが決める事だからね」
「すみません、相談に乗ってもらったのに」
「いいよ。私も良い気分転換ができたしねー」そう言いながら、うーん、と背伸びをする。
「あの、高遠先輩にも悩みとかあるんですか?」その様子を見て優菜は思わず訪ねてしまう。
「んー、まぁ色々とね」ペロッと舌を出す年相応の仕草に、漸く親しみのようなものを感じる。
「ともかく、ありがとうね、山之辺さん。良かったらまたお話ししてくれるかな?」
「あ、はい。私でよければ。でも……」
連絡先を聞くべきだろうか。或いは社交辞令という事もある。思い悩む優菜に、
「放課後はラボにいる事が多いから。ぜひ訪ねてきてよ」
「えっ。ラボ、ですか?」
「うんそう。高遠バイオラボは、山之辺さんの来訪をお待ちしてるよ」
そう言いながら手を振りつつ、その場を後にする。
確か、ラボを設立するには学外からの評価も必要だと聞いている。とんでもない人物と話していた事を今更ながらに感じる優菜であった。
―interlude side Asagao―
「お話とは何ですか?」
中庭に設置されたガゼボの一つ。そこに座っていた私の前に現れた日本人形のような少女は、開口一番用件を尋ねてきた。早く終わらせてほしいと言わんばかりだ。
「まぁまぁみーちゃん。そんなに慌てなさんな」
私は椅子をポンポンと叩いて、隣に着席するように促す。みーちゃんは「はぁ」とため息をついて、対面に着席する。
「今日はあの騒がし勇者はいないのですね」
「夏奈ちゃんは今日は生徒会から奉仕活動に呼び出されているのさ」
「奉仕活動?」
「ほら、部活勧誘期間の時に、生徒会のドアを思いっきり開いて、壁に穴をあけただろう。その罰として、何日か、生徒会の手伝いに呼び出されることになったのだよ」
今日が最終日と言っていたかな。と付け加える。
「生徒会の手伝いって、あの子が役に立つとは思えませんが」
「うむ。だから力仕事のある時に呼び出されてるのさ」
ああ、なるほど。と、みーちゃんが納得する。
「そんなわけで、夏奈ちゃんを待つ間、私のお話し相手になってくれると嬉しいのだが」
「それは構いませんが、では、どうして優菜ちゃんが一緒ではいけないのですか?」
何なら呼びましょうか。とスマホを取り出す。
「いやいや、待ってくれたまえよ。今日はみーちゃんと二人で話がしたいから」
「私と、二人で?」途端に訝しげな視線を向けてくる。
「うむ、駄目かね?」自分でもあざといとは思うが、上目使いで頼んでみる。
「はぁ。まぁ、少しだけなら」残念ながら、あまり効果は無かったようだが、同意をこじつけることはできた。
「ありがとう。では……」と、他愛のない雑談を始める。
雑談といっても、みーちゃんはあまり自分の事は話したがらない。こちらから質問をしても、軽く二三答えるだけで、みーちゃんという人物像は相変わらず霧の中だ。だが、それでも分かるのは、優ちゃんの話題になると若干饒舌になる事くらいか。
やがて話題が尽き、しばしの静寂が訪れる。本当はもう少し和やかな雰囲気になると良かったのだが、仕方がない。今日みーちゃんだけを呼び出した、本題を切り出す。
「ところでみーちゃんは、入ってみたい部活動はあったのかい?」
みーちゃんもようやく本題に入ったことに気が付いているようで、返事は直ぐにあった。
「どう……でしょう」だが、その内容は曖昧で、いつもはっきりと答えるみーちゃんっぽさは微塵も感じられない。
やがて、遠くから運動部の掛け声と吹奏楽器の音が聞こえてくる。
「ふむ」顔を上に向けると天井には夜空が描かれていた。これはいつ頃の空だろう。星の配置から星座を読み取ってみる。
「ごめんなさい」みーちゃんの謝罪の言葉をどのように捉えればいいのか分からないまま、星々を紡ぐ作業に没頭した。
― interlude end―
夕食時の寮の食堂は昼間の学食よりも混雑しているのではないだろうか。優菜は今朝選択した夕食のカレーを食べながら、周囲を見渡していた。
その隣では、魅由が鯖の味噌煮の骨を、箸で器用に取り除く作業に没頭している。確か、今日の昼には鯖の切り身を食べていたような記憶があるのだが。色合いからして塩焼きっぽかったから、夕飯に味噌煮を食べるのは問題ないのかもしれない……のだろうか。
そんな風に、妙に魅由の事が気になっている優菜に声がかかる。
「あの、すみません」
声のした方に振り替えると同時に優菜は驚いた。その相貌に覚えがあったからだ。何より、その瞳の色の相違は見間違えようがない。
高遠一葉が、優菜の目の前に立っている。己の足で。
「あれ?一葉……さん?」
優菜が驚くのも無理はない。今日の放課後、食堂で会った一葉は車椅子に乗っていた。
その一葉が、自身の足で立ち、魅由を見下ろしている。これは夢か、それとも一葉ではない別の誰かなのか。だが、綺麗に整えられたショートヘアと、その特徴的なオッドアイが、目の前にいる人物が一葉であると主張している。
「あ、その……私、一葉お姉様ではありません」
優菜の疑問に答えるかのように、目の前の一葉似の存在が答える。
「初めまして。私は高遠双葉です。一葉お姉様の、双子の妹です」
「双子の……妹?」
双子、という単語に、つい敏感に反応してしまう優菜。
「はい。あの、山之辺優菜様でお間違えございませんか?」
「あ、うん。そうですけど」
そこで優菜はある事に気が付く。この子の瞳は、右目が黄褐色で、左目は深緑だった。一葉とは左右が反転している。
「よかった。あの、先程はお姉様がお世話になりまして、本当にありがとうございます」
お礼を述べつつ、ぺこりと頭を下げる双葉。
「いえ、そんな。私の方こそ相談に乗ってもらったりしたから」
「そうでしたか。それでも、お姉様は山之辺様とお話しできたことがとても嬉しかったご様子でしたので」ありがとうございます、と、もう一度頭を下げる。
「あ、あはは……えっと、ところで一葉さんは?」
辺りを見渡すが、車椅子の姿はどこにも見当たらない。
「お姉様はラボで研究中です」
「えっ、もうこんな時間なのに?」
壁にかかった時計を見ると、最終下校時刻を優に超えている。
「はい。ラボは時刻に関係なく活動ができますので」
生徒会と学院の許可が必要ですが、と付け加えてくる。
「それじゃあ一葉さんは今も研究をしているんだ」
「はい。私にも何かお手伝いできることがあればいいのですが……」無念そうな表情で窓の外に目を向ける双葉。
窓の外は当然真っ暗だ。そういえば沙紗も、夕食時に姿を見ることは滅多に無い。恐らくラボで研究に没頭しているのだろう。ルミも生徒会長としていつも忙しく動き回っている。魅由や夏奈子は成績優秀で、妙に博識なあさがおも現状には満足しておらず、何か行動を起こしたいと言っていた。
三七三燈火や春深咲恋にしてもそうだ。みんな、何かに夢中になって生きている。
自分だけだ。自分だけが何もできずに燻っている。
「では、私はお姉様にお夜食をお持ちしなければいけませんので。お食事中のところ、お邪魔しました」
丁寧にお辞儀をして去っていく双葉の背中を見送る。その姿を魅由が不安そうな表情で見つめていた。
夕食を終え、ユニットバスで湯浴みを終えた優菜は、ベランダに出る。
高遠バイオラボはここからは見えない。歪な三角形の校舎には一つも明かりは灯っていなかった。
「優菜ちゃん?」
ふと、横から声がかかる。
「あれ?魅由?」
「はい、魅由です。優菜ちゃん、こんばんは」
ベランダの仕切り版の隅から魅由が顔を覗かせている。
「え、もしかして、魅由の部屋って隣だったの?」
「はい。知りませんでした?」
「いやだって、朝はいつも部屋の前で待ってるし、夕飯後も私の部屋の前でお別れしていたから」
「そう言われれば、そうでしたね」
そう言ってベランダの手すりに両手をもたれさせて、こちらを見つめてくる魅由。そのとても優しげな瞳を思わず見つめ返してしまう。
遠くから聞こえる波の音が次第に主張を増してきた頃、「それにしても不思議な感じです」魅由が嬉しそうに破顔しながら喋り出す。
「優菜ちゃんは今何してるのでしょう、と思いながらベランダに出たので」
「私?私は……見えるかなって思って」
「見える?」
「うん。でも、見えなかった」
そう言って、闇に目を向ける。どれだけ目を凝らしても、優菜には何も見えなかった。その横顔を魅由は無言で見つめる。
断続的に聞こえる波の音と共に時折吹く浜風は、潮の香りと肌寒さを運んでくる。
「風邪引かない内に戻ろっか」
無理に笑顔を作ってみる、が、うまくできていたかは分からない。
「……はい。おやすみなさい、優菜ちゃん」
そんな表情を見て呟く魅由の声には一抹の寂寥を感じる。
「おやすみ、魅由」
後ろ髪を引かれる想いを断ち切り、就寝の挨拶を交わす。部屋に戻る前に、もう一度だけ振り返ってみる。やはり、光はどこにも見当たらなかった。
リビングのソファで、優菜は何をするわけでもなくぼんやりとテレビを見ている。いや、眺めていると言う方が正しいか。
モニターの中ではプロ野球チームの試合が行われている。その様子を、どちらが勝っているのかも分からないまま瞳に映している。優菜にとって興味があるのは高校野球であり、プロリーグには全く関心が無い。ただ、野球というルールの上でプレイしている故に、何も考えずに時間を潰すのには適している。
現在ゴールデンウィークの真っ最中。優菜は約一カ月ぶりに実家へと帰省していた。
結局、あの後、何も行動を起こせないまま、春の大型連休となってしまったのだが、もうこのままでいいのかなとも思っている。
何せ、毎日の様に魅由と夏奈子が騒ぎを起こし、それに毎回巻き込まれているのだから。それはそれで、濃厚な高校生活なのではなかろうか。なんて、思ってもいない事を思う。
ただ、一つだけ気になることがある。魅由の事だ。
恐らく魅由は歌劇同好会に入りたいと思っている。優菜があの大人数の中に入るのは無理でも、彼女なら問題なくやっていけると思う。だが、一向に動く気配がない。それどころか、優菜を気にかけている素振りすら見せている。
優菜としては、自分の事は気にせずにやりたい事をすればいいのに、と常々思う。それに、優菜自身は諦める事に慣れてしまっているが、他の人には諦めてほしくない。それは随分身勝手な考えかも知れないが、本気でそう思っている。だからこそ、いつもポーカーフェイスの彼女が時折見せる寂し気な表情を見ると、優菜も胸が苦しくなる。何とかしたい、と切実に思う。
それでも、優菜が何もできずにいるのは、中学の時の出来事のせいだ。その事が、魅由に対して一歩踏み出せない原因となっている。
「はぁ」ソファに背中からもたれかかり、頭を後ろに倒す。逆さまに映るキッチンでは先程から母親が電話で笑いながら話している。何をそんなに楽しそうに話しているのだろう。その母親と目が合う。「ああそうだった」と電話で話しながら、こちらに近づいて来て「はい、電話」とスマホを差し出してくる。
「え?誰?」突然の出来事に困惑する優菜。え、母親の知り合いと話すの?ハードル高くない?優菜の困惑を余所に、「いいからほら」と強引に手渡される。そのまま自室に移動する母親を見ながら、仕方がないとスマホを耳に当てる。
「もしもし?」「あ、優菜ちゃん。こんにちは」
優菜の耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある喜びの滲んだ可愛らしい声。
「え?魅由?」「はい。魅由です。優菜ちゃん」
え?なんで?魅由?が?母親と?電話?え?これ母親?の?スマホ?だよね?今や、優菜の頭の中は大量のはてなが飛び回っていて、その内衝突事故でも起こしそうだ。
「あ、あのですね、優菜ちゃん」
混乱する優菜を置いて、魅由が話し出す。
「
「あ、うん」って、優未さんって。自分の母親のことを名前呼びって、どういうこと?優菜の疑問は増えていく一方だ。その間にも魅由の話は続いていく。
「あの、良かったら、い、一緒に、お出かけ……しませんか?」
まるで一大決心を打ち明けるかのような緊張した声が鼓膜を震わせる。
「え、うん。いいけど」ただ、優菜の思考はそれどころではない。故についあっさりと了承してしまう。
「はぁっ……あ、ありがとうございます。で、では、待ち合わせはテレポート駅の……」
妙な息使いの後、待ち合わせ場所の打ち合わせをしてくる。
「で、では、お待ちしております。ま、また後でね、優菜ちゃんっ」
「う、うん、また後で」
疑問が一つも解消されないまま通話が終わる。と、そこに母親が戻ってくる。
「ちょ、ちょっと母さん。これって一体?」
混乱する優菜からスマホを受け取り、代わりに一万円札を手渡してくる。
「え?くれるの?」
「魅由ちゃんとお出かけするんでしょ。楽しんできなさい」
そう言って再び自室に戻っていく。
「え?……なにこれ?」
結局、何一つ謎が解明されないまま、優菜は出かける事となった。
待ち合わせ場所に着くと、魅由は既に到着していた。
ロング丈の白いワンピースに白のキャペリンを被っている。どう見てもお嬢様な姿に、視線を送る通行人も少なくない。
一方の優菜は、白の七分丈Tシャツに、黒の丈の短いライダーズジャケット、ボトムスには黒のショートパンツに膝丈のハーフプリーツが付いたスカート、白のニーハイ、という出で立ちだ。
あれ、これ着てくる服間違えたかな?と思わずにはいられない。しかし、着替えに帰るわけにもいかないだろう。意を決して声をかける。
「お待たせ、魅由」
「あっ、優菜ちゃん。私も今来たとこ……」とこちらを振り向いた魅由が突然よろける。
「わあっ、大丈夫?」思わず魅由を支える。「は、はい。大丈夫です、優菜ちゃん」何とか体制を整え、自分の足で立つのを確認して、一安心する。
「びっくりしたー、もしかして体調悪い?」
「あ、いいえ、違います。その……」言いながら視線を逸らす魅由。これはやはり服装のせいだろうか。優菜の不安に反して「いえ、その……優菜ちゃんの私服、初めて見ましたので。その……かっこよすぎたので。ですので……」
しどろもどろになりながら、魅由の顔がみるみると紅に染まっていく。
「え、あ、ありがとう。魅由もすごく似合ってて可愛いよ」
「はぁっ……あ、ありがとうございます」
優菜の誉め言葉が恥ずかしいのか、ますます頬を紅に染めていく。というか、あの妙な息遣いは照れていたのか。両手を祈るように胸の前でぎゅっと握って、身を縮こませる姿は本当に可愛い。可愛いけど、顔が紅すぎて心配になる。
「と、とりあえず、移動しようか」
「あ、はい。あの、優菜ちゃん」動き出した優菜に静止の声がかかる。振り向くと、魅由は未だに一歩も動いていなかった。
「なに、魅由?」とりあえず聞いてみる。
「えっと、その……」言い淀みながら、右手をわきわきさせている。え、それ求めてくる?今の魅由の状態で?倒れたりしないよね?
大いなる不安はあるのだが、この様子だと一歩も動きだしそうにない。仕方がないので、求められるままにその手を握って歩き出す。
「はぁっ……んっ」一通り照れた後に、ぎゅっと握り返された左手から、魅由の温もりが伝わってくる。これは、早々にジャケットを脱ぐことになりそうだ。五月晴れの空を見つめながら、目を細める優菜であった。
待ち合わせの駅から南下すると、左側に大きな観覧車が見えてくる。あれには昔、妹の
そのまままっすぐ進むと、巨大な複合施設が姿を見せる。その中の一つである商業施設に入ると、思わず感嘆の声が漏れる。二層吹き抜けの館内は、通路幅も広く、西洋風の造りも相まって、開放的な空間を演出している。何より、天井には青空が広がっており、ここが屋内だという事を一瞬忘れさせてくれる。優菜もここへは家族と一緒に何度か来たことがあるが、それでもこの景色には何度も感動を覚える。しばらく眺めていると、天井の青空が夕焼けに染まる。仕組みはよく分からないが、天井に映し出される空は現実とは違い、短いサイクルで変わっていく。小さい頃は、そんな空の変化が楽しみで仕方が無かったのを覚えている。
「えっ?もうこんな時間、なのですか?」
優菜の視線を追って天井を見上げた魅由が、赤く染まった空を見て慌てる。
「あははっ、あれは架空の空だよ。天井一面がモニターになってて、時間で切り替わっていくの」
そんな魅由の慌てぶりが可愛らしくて、優菜も思わず笑みが零れる。魅由でもこんなに焦ってしまうくらいなら、夏奈子が見たらどう思うんだろう。慌てふためく夏奈子の姿が目に浮かぶ。
「そ、そうだと思いました」夕焼けに染まった顔でこほんと魅由が一咳。「それと」ジト目で優菜を睨んでくる。
「え、な、なに?」思わず焦る優菜。
「……いえ、なんでもありません」「わっ、ちょ、ちょっと魅由?」
すたすたと歩きだした魅由に引っ張られる形で、優菜も動き出す。魅由の鋭い乙女心を理解するには、優菜はまだまだレベルが足りないようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます