第8話 彼は誰

 走り抜けた先にあったのは草原だった。前に僕とライが訪れたのとはまた別の場所。森に囲まれた小さな草原。

 草原の奥は崖のようで、その先には何もなかった。あるのは藍色の空とはっきりとした輪郭をもって、銀色に輝く月。

 いや、見慣れないものが月の下にあった。それは獣だった。巨大な獣。大きな翼と四肢を持った獣。背中は銀色に怪しく輝いていたが、顔は逆光で暗く、獣がどんな表情をしているのかわからなかった。

 獣は腹の底から、焼け付くような唸り声を上げた。空気が揺れた気がした。本能的に恐怖を感じて背筋が凍った。足がぶるぶると震える。獣の姿は小さく見える。それほどに獣までの距離は空いている。のにも関わらず、獣の目が僕と父さんを捉えていることがはっきりとわかる。その瞳の大きさすらもわからないが、視線に心臓を貫かれている気がしてならない。

 「白龍ハクリュウ…」

 父さんがつぶやいた。どうやらあの獣は白龍というらしい。

 白龍が翼をゆっくりと開いた。月の下の影が広がった。大きい。実際に、というわけではないが、草原を覆い尽くしてしまうのではないかと、そう錯覚するほどに雄々しい影だった。

 その白龍の翼の下に三人の人影があった。月の光の逆光で影しかわからない。もちろん顔も見えない。

 僕は父さんを見上げた。

 彼は突き刺すような視線を白龍がいる方向に向けていた。眉間にしわを寄せ、にらみつけるかのような表情。内心驚いていた。暖炉の前でいつもの穏やかな顔をしている父さんがそんな表情をするとは思わなかったから。

 生暖かい風が体を触る。

 風に揺られた森の中を見た。

 いる。

 白い軍服が所々に見える。草原を囲む森の中に白い兵士たちが隠れてこちらを見ている。誰かの指示を待っているようだった。


 「父さん、逃げないと」

 「いや、」

 「だめだ、あそこに祥がいる」

 僕も何となくだが気付いていた。ここで勝負が決まるのだと。父さんは言っていた。自分は間もなく死ぬのだと。

 この草原の真ん中で父は死ぬのか?緑色のキャンバスに真っ赤な線が描かれるのだろうか。そんなことは、想像したくない。

 「春、しっかりついてきてくれ、思いきり走る」

 父さんは、向かって右方向に二、三歩歩くと、思いきり地面を蹴りだし、右側の森の中に向かった。白い兵士たちが待ち受ける先へ。僕は遠くなる黒い背中だけを見て、足を動かし続けた。


 ――

 声が聞こえる。大別すれば二つ。うめき声と叫び声。叫び声をもっと分けるなら、怒号と絶叫。

 夜であるのもかかわらず、月の光できらきらと静かに輝いていた森の中は、父さんが槍を振り回すことで赤黒い地獄と化した。

 木にこびりつく人の肉。とろとろと葉の上を流れ滴る鮮血。引きずり出された赤いはらわたを懸命に戻そうとする覆面。僕は声が出なかった。ただ荒く呼吸していただけ。闇夜に目が慣れるのと同じようにこの光景にも少しずつ慣れているのかもしれない。人の赤い肉が転がっている光景に。

 父さんが駆けると森がさざめいた。ひとたび槍が振るわれると、肉がそれに抵抗する音がぶちぶちと鳴った。

 一人の黒い男が、次々と仲間を惨殺する様子を目の当たりにした覆面達は、声を荒げながら父さんに襲い掛かった。そこにはおそらく兵士たる者の矜持などはなく、あったのは、ただ生きるための死に物狂いの抵抗だった。自身の体の何倍もあるどう考えても壊しようのない大岩が体にのしかかり、顔を歪めながら反発しようとする。覆面の抵抗はそのように見えた。

 それほどまでに父さんは強かった。兵士としては細身かもしれないが、しなやかな体躯から繰り出される槍の連撃は、的確に人の急所を突き、一撃で命を終わらせにかかる。それは砲弾よりも厄介なものだろう。槍を振れば、また的確に柔らかい肉を裁ち、人の中身が溢れ出る。

 知らなかった。父さんが、ここまで強く、そして残忍であったことを。

 その明らかになった真実を目の当たりにして、頭をがんっと打ち付けられたような衝撃が僕の体を襲う。

 走りながら槍を思いきり振るい、重たい人の肉を切り裂く。とめどなく流れるように次々と。父がそこまでして突き進んでいく原動力は何だったのだろう。一瞬そんな疑問が生まれたが、その疑問は水の中ではじける泡のようにすぐ消えた。

 ショウだ。ショウを奪われたという事実を前に、恐らく父さんは冷静ではいられなくなっている。突き進む原動力は、ショウだ。

 だからこそ、血眼になっている兵士数人に囲まれ、背中や肩や横腹を刺されても、両足で強く踏ん張りながら前に進めるのだ。もともと強いからというだけではない。父さんの中のショウを救い出すという責任感が、彼に危ういと思えるほどの力を与えている。


 「……」


 動きが止まった。父さんの荒い息が聞こえる。

 森を抜けた。

 目と鼻の先、二十mほど先に白龍が佇んでいる。そしてその足元には先ほど遠くから見えた三人の人影。いやもう影ではない。はっきりと見える。ショウの顔が。そしてショウの周りにいる二人の男の姿が。


 父さんは歩みを進めた。

 ぶれることのないその背中に僕はついて行くことしかできなかった。

 本当は止めたかった。その腕を掴んでそして――

 その先が思いつかない。なんと言葉をかけていいかわからない。父さんを止めるというのはショウを見捨てるというのと同じ。どちらかを選ぶなんてことは絶対にできない。どちらも助けたい。今までのように穏やかに三人で暮らしたいだけ。そうするにはどうすればいい。考えても、わからない。

 父さんはもうぼろぼろだった。肩で息をしている。右肩を刺されているからだろうか。槍を持つ右手に力が入っていないのがわかる。握力ももう限界なのではないか。

 森の中ではわかりづらいが、白い月明かりに照らされて今はよく見える。父さんの黒い衣にはべったりと血が付いていた。衣はべちゃべちゃになっていると思う。このまま、どろどろと父さんの体に染み込んでいくのではないかと、そう思った。


 「父さんっ」


 白龍のすぐ下にいる白い覆面の男。その男に腕を掴まれているショウが喉の奥から絞り出すような声で叫んだ。涙が混じったような声が、僕の心臓に沁みた。

 「ショウ、もう大丈夫だよ」

 父さんは立ち止まると、ショウに対してそう声をかけた。血みどろの姿からは想像できないほどに優しい声だった。

 ショウを掴んでいる覆面とは別に、もう一人の覆面が前に出てきた。

 もう一人の覆面は長身巨躯だった。広い肩幅に盛り上がった大胸筋。それでおいてしなやかなで長い足。覆面の奥の瞳は父さんをまっすぐにとらえていた。その目だけでわかった。この覆面は今までの覆面とは違う。強い殺意などは感じられないが何か強力なエネルギーをその体に秘めている。父さんであればショウを救い出すという思い。しかし覆面はそれとはまた種類が違う。当然と言えば当然だが、何かもっと違う感情がその目から漏れ出てきている。


 「お前は手を出すな」

 「あともうちょいだから、大丈夫だよ、春」

 前に出てきた覆面と父さんはほぼ同時にそう言った。そしてゆっくりと槍を前に出して、二人は対峙した。

 二人は槍を前に出しながら、ほんの少しずつ、じりじりとお互いの距離を縮めていく。先手をどちらが先に出すか、読み合いが始まっている。二人のにらみ合いに、僕は息を呑むことすら忘れて見入っていた。耳に入る風の音すら感じなくなるくらいに。

 ――見えなかった。

 なんの前触れもなく、ガキンという金属音が響いた。二人の槍が一度ぶつかったことを皮切りに、命の取り合いが始まってしまった。

 覆面の男はその長身巨躯を活かし、長い槍をまるで刀のように扱い、穂先で父さんの体を切り裂こうと何度も何度も振り抜いた。まるで風が起きるのではないかと感じるほどの音が槍を振るうたびに聞こえる。それでおいて早い。休む暇もなく槍を振るい続け、父さんはそれに対し槍を当て絶妙なタイミングで受け流す。

 父さんは森の中で覆面兵士らと戦うとき、まるで踊るようにして戦っていた。相手の槍を受け流し、飛び跳ね、突き刺す。時には回転しながら相手を切り裂く。そういった美しくかつ意表を突くような戦法を得意としているようだった。

 だが今は一歩も引かず、地面を踏みしめ、強く踏ん張りながら熊のような一撃を放つ覆面の攻撃をひたすら受け続けている。絶妙なタイミングで相手の力を受け流しているが父さんのいる位置がほんの少しずつ下がって僕に近づいているのが分かった。

 僕は覆面と父さんのあまりの迫力に動けずにいた。足が震えて、痺れていて言うことを聞かない。足が地面にぴたりとくっついたまま離れない。息を呑んだ。ガキンと槍がぶつかるたびに。父さんの背中からぎりり歯を食いしばるような音も聞こえた。

 父さんの右腕から明らかに力が抜けた。指の先が震えている。もう右手は槍に添えるだけになっていてほぼ左手だけで黒い槍を握りしめている。

 覆面が一瞬、先ほどまでと違う構えをした。右後ろに槍を大きく下げて、そして地面が揺れると思えるほどに強く左足を踏み込んだ。

 ―ガキン!

 耳の鼓膜を突き破るほどの鋭い音が鳴り響いた。覆面が右後ろに下げた槍を、父さんの横腹めがけて思いきり叩き込んだ。槍の穂先は見えなかった。それほどに早く力強い振りだった。

 その槍は確実に父さんの横腹を捉えていた。全身の力を一点に集中させた一撃を父さんはとっさに自身の槍で受け止めようとして、そして、弾き返した。

 覆面の槍は弾かれ、激しい金属音と同時に上に向いた。覆面の巨躯はわずかに後ろによろめいた。自身が出せる最大の力を受け流された。その覆面の奥の瞳が驚愕しているのがわかる。よろめいた瞬間を父さんは逃さなかった。槍を素早く引き、左足を前に踏み出し前のめりになる。そして左手に槍を持ち換え覆面の体に飛び込むようにして地面を蹴る。

 槍を覆面の胸めがけて突き出した。

 しかし、演技だったのだろうか。覆面の、驚愕をあらわにしていたその瞳は一瞬のうちに鋭い眼光を放つ目に変貌していた。覆面はよろけたのとほぼ同時に左手で腰の右側に携えた刀を抜いた。一瞬にして父さんの目に前に銀色の刀身が現れた。

 肉が断たれ骨が砕けた音がした。

 覆面に飛び込む形となった父さんは、もう体勢を変えることはできなかった。刀にわざと自分の右手を刺しながら左手を思いきり素早く伸ばし槍を覆面の胸に打ち込んだ。

 ――

 月の下には、輝く鮮血が流れていた。

 それは父さんの胸からだらだらと流れる血だった。

 

 父さんの背中に大きな孔が開いた。


 父さんの槍は届かなかった。刀身を防がれた覆面は素早く右手に持つ槍を、飛び込んでくる父さんの胸めがけて突き刺した。

 父さんの槍は覆面の胸に確かに刺さっていたが、それはあまりに浅く、覆面の胸からは一滴程度の血しか流れなかった。

 父さんの背中から血みどろの槍のが突き出ていた。その孔の周辺から骨や肉がはみ出ている。


 頭が痺れてうごかない。顔の筋肉が全て固まったのがわかる。


 ごぽっと音が鳴った。貫かれた父さんは膝をつき、口から血が溢れ出した。

 覆面はひざまずいた父さんをまっすぐに見つめていた。その瞳の色が何色か、わからなかった。

 「あ、……た、…だ」

 父さんの口から言葉が漏れた。

 なんと言ったか全く聞き取れなかった。けどその瞬間、僕の血が沸騰した。

 かゆい。体中が。皮膚が熱い。張り裂けてしまいそうだった。

 内臓から、いやその奥のどこかから何かが出てこようとしている。僕の体の皮を突き破ろうとしていた。これはなに。何が出てこようとしている?

 覆面は槍を抜いた。血しぶきが上がって、僕の顔に付着した。まだ暖かい血液が。

 父さんがどさっと音を立てて地に伏した。

 覆面は、その父さんの姿を見て何も言うことはなかった。ただその瞳で父さんを捉え、そして一瞬だけ下を向くとすぐに後ろを振り返り、その場を去ろうとした。

 「……」

 頭が痺れていたからだろうか。自分の声が聞こえなかった。だが、喉がじんじんと痛むから自分が叫んだことはわかった。視界が揺れた。僕は驚いていた。自分の身体が勝手に動いていることに。

 覆面は僕の声に振り返り、そして近づいてくる僕に向かって槍を突きつけた。

 僕は目の前にある血の付いた槍に歩みを止められた。

 その銀色と赤黒を見ると体の奥が熱くなり、そして足元からくる震えが強くなった。

 「父の仇を取ろうとでもいうのか」

 歯を食いしばった。そんなことできるわけがないという考えしか頭に浮かばない。どうするればいい。どうしたいんだ僕は。わからない。この体の熱をどうするればいいのか。この熱は、皮膚を裂いて出てこようとしているのは一体何なのか。

 目の前の槍を掴んだ。槍の穂先の鋭さに皮膚が敵うわけもなく、僕の手のひらからは熱い血がだらだらあふれた。びりびりと激しい痛み、そして灼熱。それが穂先を掴んだ手のひらから手首、そして腕から全身へと広がる。体がまた震えた。体のかゆみが強くなった。僕はより一層、つかむ力を強くした。この穂先をどうしても、どうやってでも握りつぶしたかった。

 なのに、できなかった。僕の目尻から、いっぱいいっぱいになって行き場に困った涙が出てきた。その瞬間、力が抜けた。

 「……」

 僕は意識して強く瞬きをした。ぼやけた視界が明瞭になった。覆面はまだ槍を僕に向けていた。僕の血が付いた穂先をにらみつけた。その穂先には刻印があった。小さく、赤子をかたどったような文様が見えた。

 「去れ」

 覆面は静かにつぶやいた。僕は反抗するように覆面の瞳をにらみ続けた。それでも彼の瞳の色がわからなかった。

 「今、お前の相手をする気分ではない」

 覆面は言い残すように口にするとさっと振り返った。

 覆面は白龍のもとに歩いていき、もう一人の覆面に合図をした。もう一人の覆面はショウの手を離すと慣れた手際で白龍に乗った。巨躯の覆面もまた白龍に乗ると、白龍は風を巻き起こしながら飛び立っていった。


 僕は唖然としていた。体が熱く、まるで溶けてしまいそうなっている。

 けど僕は呼び戻された。ショウの泣き叫ぶ声に。

 

 ショウは僕のもとに走ってきた。泣きじゃくっている。喉が張り裂けそうなほどに、月に届きそうなくらいに大声で泣き叫んでいる。

 そんなショウを連れて僕は父さんのもとへ向かった。

 地面に伏した父さんに必死で呼びかけた。「起きて」「返事をして」と。何回も何回も。開いた真っ暗な孔に手を当てて、あふれ出る血を抑えようとした。けどそれは止められなかった。いくら逆らっても川の水を止めらないように、手ごたえがなかった。

 「……」

 父さんが何かをつぶやいた。

 僕は焦るように耳を近づけた。


 「しょ、う、…はる…」

 ただ口がほんの少しだけ動いていた。懸命に肺の中から空気を絞りだして最後に何かを伝えてようとしていた。

 「…ご、めん、」

 父さんが必死に紡いだ言葉はそんな謝罪の言葉だった。

 僕とショウは何度も何度も父さんの瞳を見ながら呼びかけた。喉がつぶれて声が出なくなってもそれでもかまわない。でもわかっていた。それほどに呼びかけても、暖炉の前にいる穏やかな父さんは戻ってこないことを。


 やがて父さんの瞳から色が消えた。


 



















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