第6話 祥の行方
「
僕はぽっかりと空間の空いた寂しい居間の中で妹の名前を呼んだ。「どこ?帰ったよ」と言いながら
窓の外からオレンジ色の光が差し込み、茶色のテーブルと床を染め上げる。温かみのある光と音のない部屋の中で、寂しさに包まれた。孤独。まるでこの世界で独りになったような。みんないなくなってしまったような感覚に襲われてと肌が立つ。
僕と父さんが狩りに出かけている間はいつも辰さんに
いつもそうしているのに今日は、
「返事がないよ」
「いつもはこの時間になれば二人ともいるはずだが」
――
僕は妹の名前を、腹から出して家の中を歩き続けた。ベッドの下や机の下、戸棚の中まで覗いてみたが
父さんはどこを探しているのだろうか。
お風呂場に向かってみた。居間を出て左に曲がる。右側についている引き戸を目指して早足で歩く。
「やっぱりいないよ父さん」
そう呟きながらお風呂場の引き戸に手をかけた。
……だがその手がかちりと音を立てて止まった。いや実際にそんな音が鳴ったわけではない。ただなにかの気配が。父さん?いやそれだけではない気がする。
2回ほど自分の鼻息が聞こえた。それほどに静かな時が流れた。音がなさ過ぎて不自然に感じる。
「春、だめだ」
扉の奥から父さんの声が聞こえた。焦りを思わせるような声ではない。むしろ、僕の扉を引く手を優しく制止するような声だった。けど父さんの制止は間に合わなかった。
僕の視界に飛び込んできたのは、跪く父さんとその前に横たわる一人の男の体だった。
視界にに飛び込んだ瞬間に理解した。これはすでに男の身体ではない。ただの肉塊に変わっていると。それほどに命の色がない肌だった。
――
お風呂場に転がっていたのは、ここから近い集落に住んでいる、
「どうして、こんな」
「胸を、恐らく槍で一突きだ。獣なんかじゃない」
険しい表情で辰さんの胸に円状に空いた風穴を見つめながら父さんは言った。風穴の奥は真っ暗で淵は赤黒く、今も血がお風呂場に流れ出ていた。
父さんは、辰さんの遺体の傍で跪くと、そっと彼のまぶたを閉じた。そして遺体を抱きかかえて立ち上がった。胸から血がぼたぼたと滴りおちて床ではじける。父さんの体にもその血がついているが気にしている様子はなかった。
「春、ついてきなさい」
穏やかだが力強いその言葉に息をつまらせ、僕は返事ができなかった。黙って父の広い背中を追った。
父さんは家を出て、隣の納屋に入った。
藁の乾いた臭いが鼻に入る。
父さんは納屋の真ん中に辰さんを静かに置き、隣にあった麻布を辰さんの体にかけた。そして奥の戸棚から壺を持ち出してきて、その中の赤い粉を上からまんべんなく辰さんの体にかけた。
あれは、なんだろうと疑問に思い父さんに訊ねた。
「これは唐辛子をすりつぶしたものに狼の体液をまぜて乾燥させたものだ。これで熊や猪なんかは近寄らなくなる。」
「食べられたら、まずいもんね」
「あぁ、そうだ。今日一晩だけ辰さんにはここにいてもらう。あとで家族に引き取ってもらって丁重に葬る。ここに来たばかりの時から、だいぶお世話になった。辰さんがいなかったら、もっと大変な暮らしをしていたかもな」
「そうなんだ」
父さんはきつく唇を結んだ。やりきれない表情で静かに語る父さんの横顔を見ていると、なんと声をかければいいのかわからくなった。だが心の中で渦巻いているのは、大きな不安。
「
「わからない」
「辰さんが殺されて、もしかしたら」
その先を口にする勇気はなかった。頭の中が一気に冷え込んだ。まるで冷たい鉛を口に入れたかのような嫌悪感が走り、思わず息を呑んだ。
「怖いか」
父さんが僕の方を見ることなくつぶやいた。
「すこしだけ」
無意識に肩をさすりながら僕は返事をした。
「
父さんはそう言うと壺をもとの場所に片づけて、今度は壁に立てかけていた黒い槍を手に取って納屋から出た。
――
辺りは薄暗く、不気味な輝きを放つ満月が空にあるだけだった。
「探しに行くんでしょ、父さん」
父さんは暖炉の火に照らされながら、槍の穂先を入念に確認していた。僕の問いかけに目を合わせて答えることはなく、ただ「あぁ、そうだよ」とつぶやいた。そして黒い衣を上から羽織り、肩から槍を背中に携えるための革製のベルトを巻いて黒い槍を背中に差した。
「春、お前は真さんちに行くんだ、おれが祥を連れ帰るまで待っててくれ。真さんちは辰さんのところのすぐ隣だ。わかるな」
父さんは僕の肩を両手で優しくつかんでそう言った。その瞳には強い光が宿っていた。「いや、僕も行くよ」とこぶしを握りながら僕は返事をした。
「春、待っててくれ、父さんのことを」
一瞬目を逸らして寂しそうな笑顔を浮かべる父の顔を見ると返答が思い浮かばなかった。
……
「どうしたの」
父さんが動かなくなった。いや目だけが動いている。まるで時間が止まったかのように感じた。父さんが何かを確認しようと周囲を警戒すると同時に息すら止めて気配を消そうとしているのがわかった。
僕が訊くと父さんは人差し指を唇にあてた。目が窓の外を見ている。
その視線の先にあるものが気になって、首を動かして僕も窓を見てみた。
しかし、その刹那、
耳をつんざくような音が響いた。それと同時に僕が目を向けた窓が細かい亀裂を描き、そして一瞬で砕けた。
視界が揺れる。体と頭を抱き寄せられ、僕は勢いよく背中を床に打ち付けた。
「いっ」
声にならない声が漏れ出た。父さんが僕に飛びつき床に伏せ、僕に覆いかぶさるような形になっている。僕は父さんの腕の間から窓の方を見た。窓は完全に砕けていることだけはわかる。だけどなぜ?何か飛んでくるのが見えた気がする。なんだ、石か?
そんな考えが一瞬のうちに頭の中で流れる。けど、答えが出るまで現実が待ってくれることはなかった。
父さんは力強く僕を抱きかかえると低い姿勢で割れた窓の方へ向かった。
僕は抱えられたのに驚きながら窓の外を見た。
なにかが…
あれは、
飛んでくる。白い、無数の矢が。
白い線がだんだんと太くなり、そして
壁が揺れるほどにずど、ずど、と音が鳴り響く。矢が次々と家の壁に刺さっている音。その音が鳴ると同時に父さんは割れた窓の下の壁に飛んだ。どんっと衝撃で内臓が揺れた気がした。父さんに抱えられた状態で僕は先ほどまで、父さんと立っていた場所を見た。3,4本の白い矢が床や壁に刺さり、板がささくれ立っている。そして、まだ、鳴りやまない。外から僕たちめがけて飛んでくる矢の音。壁にもずど、ずど、と矢が刺さり続けている音。
「父さんっ」
僕は思わず叫んでしまった。胸の奥でばくばくと脈打つ恐怖。それが声となって外に飛び出た。
「大丈夫、大丈夫だよ春」
父さんは僕の目を見ながら静かにうなずく。口元は少しだけ緩んでいた。まるでこの状況に慣れていて、それでいて僕を安心させようとするような笑みだった。
「窓から頭が絶対に出ないように伏せてるんだ」
その言葉に従って僕は頭を抱えてうずくまった。
まだ音は鳴りやまない。まさに無数の矢。ずど、ずど、と鈍い音。この矢がもしさされば僕の体の肉は裂けて貫かれてしまう。
家の中まで飛んできた矢が増えてきた。別の窓がパリィンと砕ける音が響く。矢が刺さる音と相まって、街の喧騒のように感じた。何も悪いことをしていないのに、怒鳴られているような気持になった。
「止まったか」
しばらくすると矢の喧騒は止まった。家の中には、床や壁の板をえぐる無数の矢が立っていた。
骨の髄から恐怖が溢れ出し、体が冷えて震えている。息をゆっくり吸うこともできない。なにが、一体何が起こっているんだ。
「なにが起こってるの」
「父さんが、狙われてるんだ」
意外な返答だった。てっきり訊いても答えてもらえないものだと思っていた。
「それ、ってどういう…」
その先を訊こうとしたが僕は言葉を止めてしまった。これはなんだろう。ただならぬ、殺気?
色で表すなら黒。そんな空気が漂っている。一体どこからと不思議に思っていたがすぐに答えが出た。
目の前からだ。目の前にいる父からその殺気が漏れ出ていた。彼は僕の後ろを見ていた。人を突き刺し、殺すのではないかとも思えるような鋭い目線で。
僕はとっさに振り返った。
しかしそこにはなにもなかった。えぐられささくれだった床とぱちぱちと一人寂しく音を奏でる暖炉だけ。父さんは一体、
「いっ」
あまりの恐怖で息が漏れ出た。まばたきができない。
暖炉の裏。あれは、勝手口がある方だ。暖炉の裏から何かが顔を出した。白い仮面。その仮面は顔を出し、僕と目が合うとすぐにひっこんだ。
白い覆面。一体何なんだ。僕の心臓がここから出してくれとでも言うように高速で鼓動を打つ。そんなのはこちらの台詞だ。僕だってここから早く出たい。
「な、に」
止まったとも思える時間の中で僕が暖炉の方を見つめ続けていると、また白い覆面がひょいと顔を出した。そして今度は隠れることなく、そろりとその体を暖炉の裏から出した。全身真っ白の軍服を着た覆面を被った男。腕には紅色の帯が巻かれている。右手には白い槍が握られていた。その顔はのっぺりとした覆面で覆われており、目の部分だけがくりぬかれている。しかしのその奥の瞳までは見えず、まっくらな穴のようにも思える。
「いったい、なに」
口を閉じることができなかった。唇と喉の渇きを感じた。そして自分の手の冷たさと息の荒さも。
僕の頭の中にあるのは一つ。何が起こっている?その疑問だけ。
得体の知れないその覆面。その正体を尋ねようと父さんの方を見たが僕は問うことができなかった。父さんは僕を抱える手を離すと立ち上がった。すでにその目は白い覆面を捉えていた。
「父さん、」
乾いた喉から声を絞り出して言葉を出したが、またしてもその続きが言えなかった。驚きのあまり言葉が出なかったのだ。
白い覆面の後ろからもう一人、同じ覆面を被った者が出てきた。同じく紅色の帯を腕に巻き、白い槍を握っている。二人とも長身細身。立ち上がった父さんよりも背丈が高かった。
「春、大丈夫だからな」
いつもと変わらないその声音が頭上から降り注いだ。そして暖かい手が僕の頭を優しく撫でた。
僕は黒い衣を羽織った父を見上げた。優しいその口調とは、混ざり合うことのない黒い殺気が体中から溢れ出している気がして、僕は息を吸うのをためらった。
父さんは、背中の黒い槍を引き抜いて、槍を構える白い覆面の二入にゆっくりと近づき、対峙した。
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