第5話 父の過去には
ゆっくりとしゃがみ込む。息をすぅとゆっくり吐きながら視界の奥に捕らえたあの茶色の点に聞こえないように膝を曲げる。
よく観察するよう父には言われている。
相手の大きさ、色、動き、目線、呼吸、とにかく細かいところまで。相手が興奮しているのか、落ち着いて油断しているのか、はたまた怯えて警戒しているのか。その情報をしっかりととらえるために。
相手がどのような状態であるか。それによってこちらの動きも検討する。このままの動きでいいのか。またはここは一旦退いて次の機会を狙うべきなのか。それで目的は達成されるのか。
父は初めてそれらを僕に説明するとき、まるでその相手が人であるかのように話した。これは狩りの話だ。食料を持ち帰るための手段の話。獣をいかに素早く仕留め、持ち帰るかの話。
今思えば、父はこの狩りの技術が人間相手にでも応用できるのだと伝えたかったのかもしれない。
山は鬱蒼としていた。空気から漏れ出るくらいに湿気を孕んでいて、背中にびったりと汗がつきまとった。だがそんなことは気にしていない。目線の先の明るい茶色の点に目を凝らした。
背中にかけていた弓を手に取る。
「……」
後ろから父が矢を差し出してきて、僕はそれを受け取った。後ろに父がいることを忘れていた。それは僕が目の前の茶色に集中しすぎていたからだろうか。それとも父が気配を完全に消していたからだろうか。
弓の弦に矢をひっかけて、右手の親指と人差し指で矢を掴み、中指と薬指を弦にひっかけるようにして一気に引く。弓はしなり、元の形に戻ろうとしている。僕は息を止めて胸を張った。
僕の手から矢が離れていくまでの瞬間は、まるで数十秒もの長い時間に感じられた。
この細い矢の延長線上に茶色の点がある。その点だけに焦点を合わせる。ぼやけていた輪郭があらわになってきた。今ははっきり見える。背中から腹にかけて白い斑点がある綺麗な鹿だった。角がない、小さめの雌鹿。距離にして二十五mほどだろうか。
脳に張り巡らされている神経の全てを自分の瞳の中に押し入れるようにして、その雌鹿を見つめ続ける。するとその鹿の真ん丸な黒い瞳すら見えた気がした。こちらに気付いている気配はない。ただぼぉっとして突っ立っているだけのように見える。これから自分の命が狩り取られるという危機感もなく。
少しだけ、弦を引っ張った。自信に満ち溢れているというわけではないが失敗はできない。これが狩れなければ今夜の夕食だけでなく、これから訪れる冬の食料が一つ減ってしまうと考えると。
手が揺れる。すると当然、矢の先も揺れて狙いが定まらない。だがそれは想定内。揺れる矢の先と茶色の点が重なる瞬間に手を離す。それだけ。いつも通りのこと。
不思議と緊張はなかった。今まで何度も失敗と成功を繰り返してきたからだろうか。失敗の方がはるかに多かったが、それでも頭の中には、すぅっと音も立てずにまっすぐに飛んだ矢が雌鹿の柔らかい腹にぶすりと刺さるイメージが何度も繰り返されていた。
片目を瞑る。
矢の先が茶色の点と重なるよりほんの少しだけ早いタイミングで、僕は右手をぱっと開いた。
音は聞こえなかった。しかしストンと落ちるようにして、茶色の点で矢が止まった。
僕は茂みを出て地を蹴った。ぬかるんだ地面に足を取られたが素早く次の足を出してまた蹴りだす。父も後ろを追ってきているようだった。僕が振り返らずにいると父は素早く後ろから次の矢を手渡してきた。僕はそれを引き抜くように受け取って弓の弦に添える。そしてまた、相手を穿つタイミングが来るまで、走り出した雌鹿を追い続けた。
雌鹿の腹に刺さった矢はぶらぶらと揺れていた。山の急斜面を下り、おびえた様子で走り続けている。まるで崖のように思える荒れた坂道でもその足を止めなかった。僕も同じく足を止めるわけにはいかなかった。雌鹿は逃げて生き延びるために。僕は生きるための食料を手に入れるために。何度もどろどろの地面とそびえたつ木、急な斜面に邪魔されたが、足を決して止めまいと強く地面を蹴った。
斜面をある程度降りる。滑らないように膝に力を入れて走っていたが、平面であればさらにスピードを上げられる。それでも雌鹿と僕の距離はなかなか縮まらないが、ここは体力勝負。血を流し痛みに耐えながら走る雌鹿が、同じペースでこのまま山を駆けるのはあと数分程度と言ったところだろう。
雌鹿の息遣いが聞こえてきた。鼻に何かが引っかかったような荒い息遣い。まるで涙を流しながら走り続けているように感じた。そして、僕は雌鹿の細い足が泥に捕まり、滑ってバランスを崩した瞬間を見逃さなかった。
胸を張るようにして思いきり弦を引く。弓がしなるようにしてきぃと悲鳴を上げた。走りながらだったから矢の先は揺れ動いたままだったが、この距離であれば外しようがなかった。
僕はぱっと右手を開くと、矢は強い力で揺れながら空を裂いた。
前髪から滴り落ちる汗を手で握ってふき取る。目の前には二本の細い弓が刺さった雌鹿が転がっていた。横たわっているが時折足を力強くばたつかせている。足と腹はどろにまみれている。そして矢が刺さっているところから湧き水のように血があふれている。それはとどまるところを知らないようだった。やがて雌鹿の腹の周りには大きな血だまりができていた。だがやがて、今日の地面はたっぷりと水を含んでいたはずなのに、喉が渇いていたかのようにその血を飲み干していった。
雌鹿を見下ろす形となった。すでに虫の息。ため息だけでも消えそうな灯火だった。僕のあごから汗が滴りおちて雌鹿の体に当たる。
肺が痛い。うまく息が吸えないから肩の力を借りて空気を無理やり肺に入れる。そして、数分後、呼吸も落ち着いたところで僕は鹿の首の根元の部分に右の膝をついた。太い首。子供の鹿でありながら僕の足の太さほどの首。膝に体重を乗せた。柔らかい地面にめり込ませるようにして。雌鹿は少しだけばたついたが僕の膝をはねのけるだけの力はすでになかった。
腰に手を当てて、握る。
そして引き抜いたのは刃渡り20cmほどのナイフ。木漏れ日を反射して白く輝いている。父が砥いでくれた見ただけでも切れてしまいそうな代物。
僕は刃を当てた。雌鹿の目の斜め下、人間で言えば一番柔らかい喉元の部分。ここも太く、弾力があった。生半可な力ではおそらく掻き切れないほどに。そして動いているのを感じた。この喉の中を大量の血が、どくどくと。
雌鹿の目は真ん丸だった。黒く輝いた瞳。その瞳もまた僕の瞳を見つめていた。何を言っているのだろうか。殺さないでと懇願しているのだろうか。それとも早く楽にしてくれとあきらめているのか。いや、怒りか?この理不尽な暴力を呪っているのか。
僕が目を離すことはなかった。その瞳の奥にあるはずの心の色を知りたかったから。けどわからなかった。ただ艶のある黒がぎょろりとこちらを見つめ続けているだけだった。
目を背けずに、僕は首を少しだけ横に倒す。そして、いつもと同じようにして、ぶすりと肉が断ち切れる音を聞いた。
右ひざで聞いていた心臓の鼓動がだんだんと緩くなってきてやがて止まった。それと同じように雌鹿の瞳は色を失った。黒だ。その瞳は黒だが、僕にはまっしろになって色を喪ったように見えた。
後ろから肩を叩かれて、僕はこの世界に戻ってきた。振り向くと父の姿があった。
――
「今度から一人でも問題ないだろう」
血抜きをして細くなった鹿を麻袋に包み、それを一人で抱える父の後ろをついて行きながら帰途につく。
力が抜けたからか膝ががくがくと揺れている。急斜面を下ったのがすこしだけこたえているんだろう。
「そうだね、たぶん大丈夫」
父の大きな背中にそう返事をした。
最近になって気になりだしたことを父に単刀直入に尋ねてみた。
「お父さんは昔、兵士だったの」
父は少しだけ後ろに首を向ける。それは僕の姿を確認するのではなく、聞き違えていないか確認するような動きだった。
「まぁ、そんなところだな」
「強かったの」
「多少はな、じゃないと死んでしまうから」
父は背中で返事をした。いつもの調子で。その表情はわからないが、背中を見る限りでは普段通りの父だった。
こんなに優しい父が、人殺しを仕事にする兵士だったなんて、信じられない。
「来が兵士に成りたいって言ってたんだ、もう無理かもしれないけど」
「そうか」
僕は心の奥の声をそのまま吐露した。光を喪った友の名を出すだけで心の中が曇天になり濁った気がした。
「やっぱり大変?」
「そうだな」
「だよね」
どさっどさっと父が地面を踏みしめる音が鳴る。それだけが僕の耳に繰り返し、同じ調子で届いている。父の返事もそれと同じようになんらいつもの調子と変わらない。父はあまり語らない。まるでその背中を見て学べと言うように、僕らには最低限のことしかしゃべらない。だからこちらから話しかけたくなる。穏やかに返事をしてくれて、何でも聞いてくれるから。その安心感に僕はいつも甘えていた。
「生きてれば何しても大変だけどな、兵士になろうが、それ以外でも」
そんな父が、長めに返事をした。その言葉の意味を聞いた瞬間だけでは測りかねたから僕は返答が遅れた。
それでも兵士という仕事は特別大変なものだと思う。人を傷つけ、自身も傷つけられる。傷一つ受けないような兵士になるためにはそれこそ、無数の傷をつけながら戦場を渡り歩くことが必要なのだと思う。苦しそうだ。
人を殺して国を守るというあまりに大きすぎて実感の湧かない目的を達成し、その満足感に浸る。それは果たして幸せなのだろうか。
「そうなのかな、死ぬかもしれないっていうのは怖いよ。兵士は危険でしょ。殺して殺されて」
「あぁ、そうだな、死ぬのが怖い人はいない」
「お父さんも怖かった?」
「まぁな。だから死なないようにするために、槍も頑張ったけどな」
「そうなんだ」
「怖いのに、なんで戦ったの?」
その質問攻めに耐えかねたのか父は黙ってしまった。返事をしてくれていたその背中だけでは父が、言いたくないことを訊かれて機嫌を損ねてしまったのかどうかはわからない。でも機嫌を損ねたところは一度も見たことはないのだけど。
「誰かを助けられるならと思って、戦っていた」
一人で無駄な思案をしていると、父は唐突に答えをくれた。
でもその回答は漠然としていた。確かに僕の質問の答えにはなっていたのだが新たな疑問が生まれてしまった。その誰かを助けるというのは、命の危険を顧みず人を殺してまででもやらないといけないことだったのだろうか。やらないといけないことだったんだろう。なぜだかすぐに答えが自分の中で出てしまった。例えば、
「兵士をやめたのはなぜ?」
僕の口から勝手に言葉が飛び出ていた。
「その誰かを、助けられたから?」
なぜかはわからないけど、その答えやなんらか話が聞ければ今まで知らなかった父の新たな一面が見える気がした。父の父である面ではなくて、
「いや、まだ途中で終わったんだそれは」
「途中?」
「あぁ」
「まだ助けられてないってこと?」
行かなくていいのか。助けるために戦っていて、その助けたい人がまだどこかで待っていたり、まだ捕らえられているのであればこんなところで静かに過ごしているべきではないと率直にそう感じた。だがそれは早とちりだった。
「そうだな。それは別の人たちに託したんだ。おれは別で任されたことがあるから」
「そう、なんだ」
父のその声音から諦めのようなものは感じなかった。まだ救えていない誰かを憂うような感情もなかった。
「春がもっと大きくなった時、全部話すよ」
父は今度こそ振り返ってそう言った。その笑顔はまるで何かに期待をするような優しい笑みだった。でもただ単に明るい笑顔だとは感じなかった。その脳裡に刻まれている事実の全てを、いつか僕に伝えるべきなのか。その迷いの色が混じっていた。
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