第4話 祥と山へ


 ざくざくと枯れ葉を踏みしめながら歩く。


 先日の一件のあと、いつもと変わらない生活に戻った。だがどうだろう。変わらないのは物理的に、客観的にみた僕たちの行動だけだと思う。心のうちで浮かび上がるのは、目を切られたライの姿。僕の心の中をのぞくことができるなら、その中の風景はきっと、夜の下の暗い海だと思う。ざわざわと嵐の前の海が、波を立てている、そんな風景。

 

 「兄さん、」

 「ん?」

 「アラメの街はどうだった?」


 半歩後ろをついてくる妹のショウが唐突に訊いてきた。指だけでパキリと折れそうな枝にように、か細い声。


 「……」

 なんと答えればいいのだろうかと迷い、違和感のある間ができてしまった。

 こんな小さくて細い妹に良からぬ心配はかけたくない。だからこそ答えあぐねた。


 「ライに、何かあったの?」

 訊いてはいけないとわかっているけど訊かずにはいられない。そんな思いが声に混じっていた。後ろをついてきているショウの顔を見ているわけではないのだが、一抹の不安が混ざった表情をしているに違いない。


 「大丈夫だよ、少しだけ怪我したんだ」


 赤黒い線が瞼に刻まれたライの顔。それが、水の上に落としたいろんな色の絵具のように広がり、やがてぐちゃぐちゃに渦巻きながら真っ黒になる。そんな映像が僕の頭の中で流れた。


 目を瞑って頭を振りながら、いつものように山道を歩いた。

 ショウはそれ以上何も言わなかった。

 







――

 僕たちはいつものように、父に言われて薬草を取りに来た。

 森の中心に木が生えていない茂みがある。森の中では唯一陽が差し込む明るい場所。茂みの緑。その上に乗る露が太陽の白い光に照らされて、きらきらしている。


 雑草をかき分けて、まん丸な葉を探す。見つけたらそれを根っこごと引き抜いてかごの中に入れた。

 葉と根っこで別の薬草になる。葉は解熱剤、根っこはやけどや切り傷に効く。僕たちが取った薬草はお父さんがすりつぶして薬にする。

 ショウはしゃがんで、もくもくとまん丸な葉を探していた。

 祥は静かな子だ。僕と同じく。友達はあまり多い方ではないようだがタツさんちの維美イミと仲良くしているようだ。

 本を読むのが好きでいつもお父さんの本棚を漁っては難しそうな本ばかり読んでいる。僕よりも読書家だから、わからないことがあったら、お父さんよりも先にショウに訊いたりすることもある。


 「兄さん、」

 「ん?」


 平然と返事をしたつもりだったけど、内心は何を訊かれるかと構えていた。


 「クオラクってアラメに対してなにかしたのかな」

 「……」


 体がこわばった。


 「わからないよ」

 僕は額に滲む汗を感じながら手を動かした。


 「なんで、アラメにいじめられるのかな」

 「いじめられるって」

 「アラメの人みたいに、なんでも食べれるわけじゃないし、勉強したくてもできない。学校に通ったりとか、あとは街で大勢で、その、遊んだりとかも」


 「あと、平気で人を傷つけたり、とかもするから、怖いよね」


 震える声で、つまりながらも必死で言葉を紡いでいた。だが泣いているわけではないようだった。ただ怖いのだろう。僕が一昨日、浮かばない表情をして帰ってきて、アラメの街のことを一言も話さなかったから。


 「そう、だね。でもわからない。そういうのは、ショウの方が詳しいんじゃないか?いつも読んでる本とかに書いてないの?」

 

 ショウは、頭の中を整理しているのか、口を結んで静かに唸った。


 「わからない。アラメとクオラクの身分は全然違うってことは書いてあるけど、なんでそんな制度ができたのかとかそんなことは書いてないと思う。書いてても私がわからないってだけかもしれないけど…」


 僕はそっかとだけ呟いて、また作業を続けた。深く話すとまたよくないことを思い出しそうで怖かった。



――

 太陽が斜め上にあったのがいつの間にか真横に来ていた。木々の間からオレンジ色の光が差し込み、僕の目の中にまっすぐに入る。

 「そろそろ、帰ろっか」

 ショウは黙ってうなずいた。

 

 薬草の入ったかごから伸びる紐を肩にかける。またざくざくと葉っぱを踏みしめながら来た道を戻った。


 戻ろうとした。


 けど、僕の足は棒のようになり動かない。

 

 脳が止まれと勝手に命令している。心臓がばくばくと脈打つ。なにか警告を出すようにして。

 


 足音が森の奥から響く。ざっざっざっと枯れ葉が潰される乾いた音。そして人が地を踏みしめる衝撃。

 冷たい汗が背中を伝う。自然と背筋伸びた。森の茂みを見る。帰る方向とは反対方向だがその茂みの方へ歩みを進めるなるべく足音を立てないようにしながら茂みに入り身を低くした。


 「祥、こっち、早く」


 ショウはおぼつない足取りで走る。何が起こったのかわからないと困惑を顔に浮かべていた。

 足音が大きくなってくる。森の間からオレンジ色の光が差し込んでいて、どうやらその光と同じ方向から誰か来ている。それが誰なのか確認する術もなくて、誰なのか検討の余地もなかったのに、僕は何となくその足音の正体が何なのか分かった気がした。

 ざっと音がした。すぐ近くで。

 目を向けると、ショウが地面に伏していた。転んだようで涙目で膝を抑えている。しかしそれでもすぐに起き上がり、薬草を拾おうとしていた。


 「そんなのいいから早く」


 僕は茂みを飛び出して、ショウの腕を抱えて無理やり茂みの中に連れ込んだ。そして地面に突っ伏して、草と同化しようと体を平べったくした。


 隣にいるショウは肩で息をしている。その吐息には嗚咽と鼻水をすする音が混じっていた。この子の心の奥が冷え切っているのを感じた。


 僕はショウの頭に手を置いた。なるべくそっと。この手の温度で暖める

ようにして。そして目線だけを前に向けた。

 草に隠れてよく見えないが人影が見え始めた。三人の男。黒い服を着た三人の男が何かから逃げるようにしてこちらに走ってくる。後ろを振り返りながら大きく腕を振って。まるで捕食される動物のように、そして滑稽とも思えるほどに必死さを顔に出して。

 三人は僕たちの少し先の道を走り抜けようとした。しかし、


 どすっ


 鈍い音が鳴り響いた。それは柔らかく重いものに、何かが突き刺さった音だった。

 手に力を入れた。ショウの頭を抑えている方の手だ。

 視界に飛び込んできたのは、明らかな人の死の光景だった。男を追っていたと思われる白い軍服の兵士。後ろから足を止めることなく男たちに追いついてきたようで突然視界の外から現れた。そして太い槍を無慈悲に、一人の男の背中に突き刺した。

 男の背中から勢いよく真っ赤な飛沫が飛んだ。男の顔はみるみるうちに青ざめていく。背中を容赦なく刺され倒れるまでの刹那が十秒か二十秒と長く感じた。

 刺された男は、自分の意思とは関係なく地面に伏した。鈍い音を立てながら地面にその体がたたきつけられた。

 さらに白い軍服の兵士がもう二人現れた。そしてまた僕の前で捕食が始まった。白い獣の殺戮劇が。

 三人の白い軍服の兵士は特に表情を変えることなくあっという間に黒い服の男たちに槍を突き立てた。最後に残った男は、喉の奥から絞り出したような声で生を懇願し兵士の足に縋りついていた。しかし、その命乞いが届くことはなく槍で首を刺され絶命した。先ほどまで露を乗せていた緑が赤黒く染められていた。

 白い軍服の兵士たちは、舌打ちをしながら服についた赤色をにらんでいた。

 彼らは何かをつぶやきながら去っていく。あともう少し、彼らの背中が完全に見えなくなると思ったところで、


 「……」


 兵士の一人がこちらを振り返った。


 目が合った。


 いやわからない。目が合った気がした。そして心臓を貫かれたようなして息が止まった。

 足先から指先まで力が入った。けど動かせなかった。

 

 「どうしたんだ」


 「いや、なんでもない」


 その会話が終わった瞬間、時が再び流れ始めた。


 ざっざっざっと草を踏みしめる音が遠くなりやがて聞こえなくなった。


 僕はせき止めていた息を吐く。肺が空気を求めて動き始める。が、緊張で痺れて痙攣している。うまく息を吸うことができなかった。

 すすり泣く声が聞こえる。かぼそい声が僕の鼓膜を叩いた。まるで扉を何度もノックするように。

 地面に伏せて目を上げようとしないショウの頭をなるべくゆっくり撫でた。もう大丈夫と声をかけたかったがうまく声が出せなかった。喉が渇きすぎてひりついていたから。


 ゆっくりと膝を曲げて立ち上がる。僕の足と草がこすれ合う音がだけが聞こえる。目の前には赤黒く染まった草木。風も吹いていないからそれが揺れ動くこともない。ただ見られているような気がした。咎めている?目の前の光景に対して無力だった僕を。


 地面が揺れているように感じたが揺れていたのは僕の視界。そして足が痺れていて力が入らないからだった。そのおぼつかない足取りで、感覚のない足の裏で、地面を踏みながらなるべくまっすぐ歩いた。


 茂みの中に、肉が散らばっていた。先ほどまで魂を宿していたものが。もうぴくりとも動かない。僕の目の前には赤と黒だけがまばらに広がっていた。緑色のキャンバスが強い力で汚されていた。

 心臓が締め付けられる。視界の中で動いているのは液体。赤い液体だけ。男たちの背中、首から滴り、流れる赤だけ。どろどろと流れ、血溜まりを作る。見つめているうちにやがてそれは、乾いた地面に染み込んでいった。


 胸が苦しい。手先が冷える。指先が凍ったように動かない。冷たいはずなのに手のひらから汗が止まらない。

 なぜそうしたのかわからない。震えが止まらないほどに恐怖しているはずなのに、僕は手を伸ばした。赤と黒に染められた肉に。

 

 それは冷たくて柔らかかった。


 僕の指はいま、冷たいはずなのに、それよりも肉は冷たかった。そして指がめり込むほどに柔らかかった。その意外な感触に手が震えた。指の奥がくすぐられたみたいに気持ち悪くなった。

 手の震えが止まらなくなって、肉に触った指から、くすぐったい感触が腕いっぱいに広がる。僕の意思とは何ら関係なく胃の奥に溜まって液体が熱くなってきた。まるでふつふつと煮えたぎるように。

 そして、狭い食道を押しのけるように上がってきたそれを、喉を開くようにして吐き出した。


 喉の奥から腹の底までが気持ち悪い。黄色いもやもやが溜まって渦巻いている気がして、何度も吐いた。せき込み、口が閉じられない。だからよだれも止まらない。僕の意思とは関係ない。ただ体がこの光景を処理できず、頭の中に浮かび上がる疑問符の数に耐えられず拒否反応を示しているようだった。


 「はぁ、はぁ」


 ぼやける視界の中で、気づいた。ショウがまだ茂みで伏せている。もう帰らないと。

 ゆっくり立ち上がり、近くの木にもたれかかる。


 「なんで、この人たち」

 

 そんな疑問を口に出してみたがもう答えはわかっていた。だがその答えに納得しないといけないと思っている自分が嫌だった。


 「クオラクなのか」


 男たちの死体は、あまりにボロボロでみすぼらしい格好をしていた。ぼろ布で作られた簡素な衣服。今僕が着ているものとそう変わらない。


 数歩歩くと、視界がぐらりと揺れた。膝に手をついておさまるのを待つ。


 ショウには黙っているしかない。男たちの断末魔、空気を裂くような声は聞こえてしまっただろうが、あの光景だけは見せたくない。確実にトラウマに、あの肉が転がっている光景が瞼の裏に焼き付いてしまう。




 指先の震えがぴたりと止まった。また息も止まった。皮膚が骨に張り付くような感覚。


 音が聞こえた。


 ショウがいるところ、その背後の真っ暗な森の中から。


 足先に力を込めて地面を蹴り出す。いつも以上の大股で飛びつくようにショウのもとを目指した。たった数mのその距離がひどく遠くに感じた。


 僕は茂みの中に飛びつくと同時に手を伸ばす。その手の中にショウを抱く。ショウの体は冷や汗でべたついていたがそんなことは関係なかった。

 ショウは目を見開いて震えていた。音がした方向を見つめるその顔の色は青白かった。僕はショウを抱いてずるずるとあとずさった。


 「誰だ!」


 喉の奥からなるべく低い声を上げた。獣が自分より強い者に威嚇するような感じで。なるべくならこの声に驚いて逃げてほしいと願うようにして。


 「春、ショウ、」


 聞き覚えのある声だった。まるで頭を撫でられたようにこわばった体が柔らかくなった。


 「脅かせてごめんな」


 森の黒から顔をのぞかせたのは父だった。


 「帰りが遅いから見に来たんだ」


 その暖かい声で緊張がほぐれた。まるで暖かい牛乳を喉に通した時のような安心感が体中を覆ってくれた。そして、きつくショウを抱く腕が緩んで、ショウは地面にぺたりと座り込んだ。ぼさぼさの黒髪。その背中からわかる。この数分で心が擦り切れるほどに緊張していたのだろう。

 父の姿を認めるとショウは背中を震わせて静かにすすり泣いていた。









――



 ぱちぱちとはじけるような音だけが響く。目の前で柔らかなオレンジ色の炎が揺れている。包み込むような暖かさがそこにはあった。僕の胸の奥底。その暗い底で冷たくうごめいているなにかが、その暖かさで逃げ出した。


 僕は目の前に暖炉があるのにも関わらず、指先に暖かさを求めるように牛乳が入ったカップを両手で包んだ。そして上がっていく白い湯気をただ見つめた。



 「眠れないか」


 隣から撫でるような声が聞こえてくる。低いが優しい声。

 声をかけてくれた隣にいる父の姿は、揺れる炎のオレンジで薄く染まっていた。


 「うん」


 隣の父の、眠そうで力の入っていない柔らかな瞳から目をそらし、またカップから上がる白い湯気を見つめた。


 「なんであんなことに」


 父の隣に座ってぴたりと身を寄せるショウがそう言った。妹の姿もまた薄いオレンジ色に染まっていて、その瞳はうるんでいた。まぶたに涙をためている。その堰は今にも崩れ落ちそうだった。その時はきっと音を立てることもなく、静かに崩れるのだろう。


 「あの人たちはクオラクなの」


 「だろうな。おそらく盗賊だ」


 父は片手に持った珈琲をするするとすすり、一言そういった。


 「クオラクは何らか罪を犯せば裁きを受けることなく殺される。もちろん、人の目があるところではそんなことはしないが」


 「クオラクがなにかしたのアラメに」


 目を瞑りうつむきながら放たれたショウの声には、いろんな感情が混じっていたように思う。恐怖、怒り、諦念、悲しみ、疑問。その感情を色にした時、それはどれも明るいものではないと感じた。黒、灰色、紫、焦茶、紺。混じり混ざって、妹の心が黒に染まっていないか心配になった。


 「そう、みたいだな」


 父は僕の心配をよそに、恐らく真実を述べた。ただそれは何か知っている重大なことを隠しているような言い方で少し引っかかった。だが、僕はそれを追求するだけの勇気は持てなかった。


 「私はなにもしてないよ、人をいじめたりとか、あんなふうに――」


 


 「言わなくていいよ祥」


 僕は制止した。ショウにその言葉を言わせるのは避けたかった。まだ幼い妹には強烈な現実。それを自分の口で認識させるにはいかないと思った。

 いや、違うな。

 その先の言葉を聞けば、僕の脳裡に焼き付いた、血濡れの森の光景がフラッシュバックしてしまう。そう思ったから、僕はショウの言葉を止めたのだろう。


 部屋にはぱちぱちとはじける音と、鼻水をこまめにすする音だけ響いている。その音を聞くだけで、目に熱いものがこみ上げてきた。

 


 「お前たちは、大丈夫だよ、父さんがいるからな」


 父は腕にしがみついているショウの黒髪を、その細長い指でゆっくりと撫でた。そして僕の瞳を見つめて、笑みを浮かべた。それはまるで透き通った水色、触れれば流れてしまいそうな儚い笑顔だった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る