第3話 クオラクの名前
催し物が始まったからなのか、露店の道の人通りは明らかに減っていた。
「クオラクってばれたかも」
「うそだろ」
「早く出よう」
今度は僕が先頭を走る。誰が追ってくるわけでもないのに走る足音をなるべく抑えながら、それでおいて強く地面を蹴り出し、足の回転を早める。
息を切らしながら
「豚と戦わされてたのはクオラクだよな…?」
「たぶん、ね」
はぁはぁと肺から空気を絞り出すような音が後ろから聞こえる。もちろん僕だって息が切れてる。それでも、足は止まらない。たとえ僕の脳が止まれと命令してもこの足は暴走し続けると思う。
それほどの、冷たい不安が心の奥から徐々に外に向かって染み出てきている。
「早く帰ろう、暗くなる前に」
自分に言い聞かせるようにそう言って、後ろを振り返らず走り続けた。
――
門は目の前だった。
だけど僕は、家の影からひょいと出てきた人影に気付かず、どんっとぶつかってしまった。
ぶつかった相手はびくともせず、突っ込んでいった僕の方が後ろによろけて転んでしまった。
鼻をぶつけてしまった。熱が鼻先にこもり、ジンジンする。
「ご、ごめんなさい」
鼻を手で押さえる。涙目になるのをこらえながらとりあえず謝った。
相手の姿は見えない。長身でがたいの良い男の人。夕日の逆光になって見えづらい。
「あぁ、気をつけろよ」
思いのほか、穏やかな言葉が飛んできた。僕はさっと立ち上がり、後ろの
そして、また走り出した。
「お前らそんな急いでどこに行くんだ」
走り出そうとした。
実際、数m走ったが、その声に僕の足が引き留められた。別に聞き覚えがあるわけでもない。ただ、その声を無視したらあのみすぼらしい4人のような目に遭うのではないかと、そんな根拠のない予感が頭をよぎった。
「家に帰るだけだよ」
生まれてこの方、自分の家族や近所の人としか話したことない僕の脳内には、会話の引き出しが多くあるわけではなかった。
「門の外だぞそっちは」
思いがけない返答に体が固まる。ひんやりとした汗が背中を流れる。
僕はゆっくりと振り返った。
視線の先には、夕日に照らされる白い軍服があった。そしてオレンジ色に光る
彼の顔に表情は浮かんでいなかった。暖かな光に照らされているはずなのに温度が無いように感じた。
「おい、お前、名前は」
物を投げつけるような口調で問いかけられた。
背筋が凍った。彼の視線は明らかに僕たちを二人を敵視するようなものだった。
僕は何も答えられなかった。返答次第で僕らがクオラクだとばれてしまうのではないかと思って。
「名前も言えないのか」
腹の底をかき混ぜるような声音だった。
「は、春。春・
ぞわりとくすぐるような彼の声音に耐えかねて、僕は口を開いた。
そして、
「ふぅん、そうか」
と興味なさげに答えた。その声には、何かを怪しむような警戒や蔑むような冷たさもなかった。ただそこらの石ころが転がっていることに興味を持たないのと同じような感じだ。
けど意外だった。いや、当然と言えば当然だ。彼は僕の後ろをずっとついてきていたんだから。
「お前は」
一言、
「
兵士の顔が真顔で止まった。
まばたきどころか、瞳も微動だにしなかった。
まるで時が止まったようだった。
僕は
「はぁ」
突然、
「な、なんだよ」
「お前、クオラクか」
冷たく肌を突き刺すような声が
血しぶきが僕の視界の中に飛び込んできた。
目の前の光景には、情報量が多すぎて僕の脳はまるで停止したようになった。頭の中が疑問符で埋め尽くされた。
耳をつんざくような声が聞こえる。それが
「
僕は彼の名を呼びながら駆け寄った。
「
僕は急いで
手からぐっしょりと汗が噴き出る。心臓がばくばくと激しく鼓動を打つ。全身の血管が肌を押しのけようとするくらいに脈打っていた。
「立て、こっちへこい」
そして、すぐ横にある家屋の壁にぶつけるように、
蹴られた瞬間に内臓をつぶされたかのような音がなり、
気づけば息すら止まっていた。体全体が、ありえない光景に気を取られてうごかなくなった。
なぜこんなことになったのだろう。名を名乗っただけなのに、いきなり
なのになぜ、ただ僕たちは街を歩いていただけなのに。
その場から動けない。どうするべきかわからない。僕も目を切られるのだろうか。
「お前もクオラクなのか」
と言ってぐんぐん近づいてくる。
僕は震えた。手足、顎が勝手に震える。指先の感覚がない。かろうじて、冷たくなっていることだけがわかる。
兵士の体が大きく感じた。僕は思わず見上げた。巨大な壁のようで圧迫感。押しつぶされそうだ。
息が吸えない。吸おうとして、空気が中に入っていかない。
僕は地面を転がった。頭をがつんと地面に打ち付けたからか脳が揺れた。
吐きそうだ。視界が揺れて気持ちが悪い。
体の奥が熱を持ち始める。胃の中に入っていた食べ物も揺れてむかむかする。
どうしたらいい。でも早く逃げないと。
これ以上に苦しい現実が待ち受けていることを考えると、ここでこのままうずくまっているわけにはいかなかった。わかっている。そんなことは嫌でもわかっているのに動けなかった。足が震えて、息が吸えなくて、体が溶けそうなほど熱くなっている。
頭に鋭い痛みが走った。思わず僕は声を上げた。それは空を切り裂くほどに高い声だったと思う。きっと、いやどう考えても
髪の毛が頭皮を無理やり引っ張る。このままでは頭皮ごとずる剝けてしまうのではないか。
僕は暴れた。僕の髪を根こそぎつかむ
「はなせぇ!」
僕は涙を流しながら情けない声で叫んだ。
無力だった。何もできなかった。なぜこんな目に遭わないといけないのか、せめてそれだけでも誰か説明してほしかった。
「ははっ」
彼は笑ったがその目は冷たいままだった。
彼は肘を僕に向けるようにしてナイフを引いた。そして、
「やめとけ」
視界が真っ暗になるのを覚悟していたのに、その瞬間は幸いにも訪れなかった。
低い声がどこからか飛んできた。僕の背後だった。
僕はその瞬間に、これでもかと暴れた。体全体を動かした。すると、すんなり
僕は後ろを振り返った。
「なんだお前」
僕を痛めつけた
「あんたは、」
「もういいだろ。まだ子供だ」
恰幅の良い
「
僕を痛めつけた
「彼女だって遊びが過ぎるのは望んでいないはずだ」
恰幅の良い
だがその言葉は、まるで目の前の男を押しのけるように力強い口調でもあった。
僕を痛めつけた
「散々な目にあったな」
恰幅の良い
「痛い目にあっただろうが、頑張って立たないとな。男だろ」
暖かい言葉が体の痛みを少しだけ抑えてくれた。
「こらこら。泣いてても前が見えないだろ」
涙が止まらなかった。理由はわからない。安堵か、無力感による悔しさか。おそらく前者だとは思うけど。
「途中まで連れてってやるよ、家を教えてくれ」
僕は
道中、何度も頭の中をよぎった。4人の男たちの顔、見物人の顔、そして痛めつけてきた
瞼の裏にこびりついて、洗い落とせそうにもなかった。
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