第一部 春・芙耎 Haru Hasuzen
第一章 運命を受け入れた少女
第1話 ある青年の激情
青年は乾いた地面に手と膝をついた。
前にも聞いたことのあるぴちゃぴちゃ、ぐちゃぐちゃという大きく、雑な咀嚼音。
背中を震わせて、地面に指を立てる。乾いた大地を握りつぶさんとばかりに。
自分の歯がきしむ音が脳に響く。カチカチ、ギシギシと。
咀嚼音を背景音楽に、青年はぶつぶつと何かをつぶやいていた。
「なぜ、おれが、こんなところで、こんな目に遭わないといけなのか」
「なぜ俺以外のやつがそんなに幸せそうなのか、俺が苦しいのに、なぜ、お前たちは、そうやって笑っているのか、わからない。わからなくてもどかしい」
青年の前には一匹の怪物が。エンブル族という。全身ののびきった体毛。鼻が曲がるほどのすっぱい臭い。
長く太い腕で、口に何かを押し込みながら食事をしている。
そのエンブル族の怪物の、3mほど後方に男女が。二人は下卑た笑みを浮かべながら膝をつく青年と、怪物を見ていた。
ばきばき、ぐちゃぐちゃと咀嚼音。そのエンブル族の怪物が両手で鷲掴みにしながら食べていたのは女。青年が生涯をともにすると決めた相手。
「あぁ」
青年は頭を上げた。怪物の口の中に押し込められる女。
色がなく、焦点の合わない瞳。犯されたかのようにかき乱された黒髪。
先にかみちぎられた下半身から流れ落ちたのか、血はもう体には一滴も残っていないようで、彼女の顔は真っ白になっていた。
「アグゥ」
女の顔は、垢がついたような汚い丸太のような手で口の中に押し込まれた。
青年は下を向いた。再び乾いた大地と目を合わせた。
「わからなくて、もどかしい」
そしてまたぶつぶつと独り言をつぶやく。
「俺は、俺は、
喉の奥が渇く。
口を閉じないまましゃべっているから、無意識のうちによだれが垂れる。
青年はそれに気づいたのかそうでないのかわからないが口を閉じようとした。だが、震えが、寒くもないのに全身の震えが止まらない。口が、顎が、がくがくと動き、閉まらない。
「俺は、今まで苦しんできたのだから、お前たちなんかよりも幸せにならなければならない、もう普通の兵士として生きることすらできないが、」
「なにを言ってるんだ、お前、自分の女が食われたってのに」
怪物の後ろにいる男が冷たく言い放つ。その男は怪物の飼い主だった。
青年は、背に差している短槍を引き抜き、自身の激情ごと地面にぶつけるように突き刺した。
だがそんなちっぽけな力では、地が揺れることもなく自然はあるがままだった。
「怒りでどうかなりそうだ」
青年の視界の端はぼやけていた。
歯を食いしばる。首、胸、腕、足と順番に身震いするほどに力を入れる。そして、憎しみという言葉では足りないほどの憎悪を怪物の後ろの男に向けた。
地面を蹴る。蹴られた地面はえぐれた。
青年は目にもとまらぬ早さで男に近づく。
槍を引く。足の先から指の先までの全身の力を、槍の先端に送り込み、男の顔を穿つ。
しかしそれは叶わなかった。
青年の体は、横に吹っ飛んでいた。体の左半身が無くなったような感覚。そのまま彼は乾いた地面を転がった。
視界が回り、気分が悪い。息が吸えず頭に酸素が送れない。締め付けるような頭痛と吐き気。
左半身を手で触って確認する。腰の上あたり、脇腹の肉がつぶれている。痛みすらないほどに壊れている。
ドシンと地鳴りがした。
目の前に大きな影。
青年が男の顔を穿つ直前、怪物が青年を殴り飛ばした。そして、跳躍しすぐ青年の目の前に迫っていた。
巨大な影。まるまると太り小汚く毛が生えている腹。青年の体と同等の太さの腕。
青年は叫んだ。痛みはなかった。もともと右腕に感覚はない。だがそれでも、その汚い手で触れるなと嫌悪感を押し出して、喉をつぶして叫んだ。
怪物は青年を右腕を掴んで持ち上げた。青年の叫ぶ声、憎悪と嫌悪を表現した、健常者であれば身の毛がよだつほどの叫びを無視して、興味なさげに後ろに振り飛ばした。
怪物の手に残ったのは青年の右腕だけだった。
青年はまた転がった。今度は右肩の奥、骨の髄が外気にさらされ沁みるような痛みが走り全身を襲った。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
息が吸えない。肺が潰されたような感覚。
青年は、ぼやけた視界の奥、遠くに見える男女の影と怪物の影を見つめた。
背骨が浮き立ち肌を押しのけようとする。それほどまでの憎悪が体を走る。震えが止まらない。
「はっ、はっ、はっ」
青年は、骨がむき出しになり空気に犯される右肩をおさながら立ち上がる。
「はっ、はっ、はっ」
「はぁ、はぁぁ、はっ」
嗚咽が漏れる。怒りが、激情が、憎しみが、体中から溢れ出しているのに、青年は復讐を、あの場に戻り戦う術を選ぶ勇気が持てない。
「まだ、まだまだまだ、まだ足りないって、言うのか」
「まだ足りないのか、ここまでやっても、どうやっても、まだまだまだ、足りないのか」
茶色い空に向かって叫んだが誰も返事をしてくれなかった。
情けない自分に対して泣いていた。呼吸と涙がぐちゃぐちゃになって視界が真っ暗になる。耳に入るのは、哀れな自分自身の嗚咽だけ。
青年は、「ごめん」と繰り返しながら、近くの森の中に逃げ込んだ。
――
空も、青年の心も黒に染まっていた。
青年は生きているはずなのに、その瞳に色がなかった。視界入っているはずの風景が脳まで行きついていない。
彼女が食われた瞬間が焼き付いて離れない。目を瞑っても同じだった。まるで瞼の裏にその光景が描かれているように鮮明にあの瞬間が再生される。
青年はぶつぶつと独り言を言っていた。
「はぁ、はぁ」
「死んだほうが絶対楽だ」
「絶対」
そう言って、腰から短刀を取り出す。
「あぁぁ!」
掠れた声を上げる。
左手で短刀を握りしめ、震えながら、柔らかい首の肉に押し当てる。
「あぁ、なんで、なんでだよ」
怖い。
喉を切り、血だまりに伏す自分の姿を想像して怖くなった。
「絶対こっちの方が楽なのに!」
そう叫んで短刀を手放す。情けない声を上げながら肩で息をする。
意識がもうろうとする。まぶたが下りてくる。
「やめてくれ、頼む、もうやめてくれ」
左腕で頭を抱えて伏せる。目を瞑っているのに、こんなに暗いのに、見える。
「あぁ、だめだだめだだめだ」
青年は頭を上げた。依然として息は荒い。
「だれか、」
「だれか、助けてくれぇよ」
喉が張り裂けそうなほどに、甲高い叫びが出る。
「こんな人間もいるんだよ、だれか、だれか共感してくれ、かわいそうだと、そう
、かわいそうだと思ってほしい、かわいそうだと同情してほしい、叫ぶから、声を聴いてくれ、叫ぶ俺の声を聴いて、なんなら俺を愛してくれよ。
そう、そうだよ、愛するほどの価値は、ない。わがままで、自尊心が高いだけの、欲望にまみれた男を笑え、死を怖がっている俺を笑え、
勝っただのだと笑っていろ」
早口で言葉を並べる。寒さで鳥肌が立つ。足先、指先が冷たくて痺れる。
「おれは、」
頭を上にあげる。木の葉の間から洩れる月の明かりを見つめる。
「戻ってくるぞ。おれは。歯を食いしばりながら、生きるおれは、力以外の全てを捨ててでも、最強になって帰って、くる」
樹にもたれかかったまま、彼の意識は暗い海の底に落ちていった。
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