第弍部 第十八話 破られた均衡
伊達軍の騎馬隊が、上杉軍の弓兵部隊による奇襲を受けていたちょうどその頃。
本営の意識が完全に東へと向けられていたそのタイミングをまるで狙ったかのように、中央軍との戦場ではある一つの異変が起こった。
竹林の中を警備していたとある一つの小隊が、不自然な位置で全滅しているのが確認されたのである。
そしてそれに対する報告自体は、確かに夕方の時点で上杉軍本営へと伝えられていた。
しかしここでの異変はその規模の小ささ故に、今まさに敵主力を消滅させんとしている左翼の戦況に比べれば、大した話題性も持たず傍に置かれることとなり。
しかしその対応の裏で、事態は着実に、確実に深刻化していた。
横に間延びした上杉軍の第二防衛線、その中でも他から見え辛い森林を担当していた部隊が、続々と行方をくらまして行き。
「……誰か、誰か…殿に……防衛線が…誰か、いないのか…」
「グフッ……奴ら、人間じゃ…ない……あれは、人じゃ……」
現場の人間はこの時誰一人として、水面下で進行していた武田軍最後にして最強の切り札、その規模と存在に気付けていなかった。
しかし結果だけ見れば、この日主戦場となった左翼では、伊達軍に対して弓兵部隊が凄まじい打撃を与えることに成功し。
主力の騎馬隊ほとんどが離脱した武田本軍に続き、同盟軍の主攻を担う伊達軍の左翼侵攻も難しくなった。
上杉軍にとっては、押し込まれる展開が続いていたこの戦争の中で、四日目にしてやっとの思いで楔を打ち込むことができたのである。
だが、しかし。
四日目の深夜。
上杉軍の将校たちはおろか、あの影虎さえも予想だにしていなかった大事件が起こる。
上杉軍側から見れば中央軍防衛線の右端、最初に小隊が全滅していたその場所を皮切りに、そこから左に流れるようにして。
いずれも50人前後の警備隊が、ことごとく全滅しているのが発覚したのだ。
それらはいずれも、数百人単位の中隊が100メートルほどの間隔を空けて配置されている大防衛線にあって、大人数を置けない荒地などを埋めるために置かれていた小隊。
しかしそれは、この夜起こった大事件のほんの一部に過ぎない。
そのわずかな隙間を器用に狙い撃つ形で、侵入した謎の敵部隊はとてつもない勢いで中央へと迫っていった。
そしてその報告は、夜明けとともに上杉軍本営へと伝えられた。
「…なんだ、なぜ小隊ばかりが狙われている。それにここまで大規模な防衛線を敷いておいてなぜ、未だ敵の影すら見つけておらぬのだ」
「憲政様、影虎殿。これは一体……」
問いかけられた二人ではあったが、それでもこの奇妙な侵入者の意図、それはこの二人の頭脳を持ってしてもハッキリとは見抜けなかった。
「…この戦い方、さらに偵察兵すらその姿を見ていないことから……恐らく、敵も小隊だ。…数は多くても二十人前後だろう」
「ああ、儂もそう思う。…それに、恐ろしく手練れじゃな」
しばらくの沈黙の後、影虎と憲政、両軍の大将の口から放たれたその言葉に、本陣将校たちの間にざわめきが起こる。
中央軍の防衛に参加している上杉兵たちは、その全てが正規軍である。
彼らはいずれも、普段からそれぞれの領地で練兵に明け暮れている屈強な兵たちだ。
いくらここ三年ほど、周辺諸国が上杉憲政を名を恐れ、武田軍との前線以外で周辺目立った戦が起きなかったとはいえ、それでも彼らには大国・信濃を守ってきた自負と相応の実力がある。
そんな兵たちが、二十人にも満たない敵に手も足も出ずやられていると言うのか。
そんな彼らの驚愕をよそに、謎の敵部隊の進路を辿った影虎とそれを追っていた憲政の二人は。
その侵入の意図に気づき、小さく冷や汗を流した。
「影虎よ、まさかこれは……」
「……ッ、バカな…!」
事態が飲み込めず当惑する将校たちだったが、次の瞬間には再び驚愕することになる。
それは、息を切らして大広間に駆け込んできた越後軍の伝令係がキッカケとなった。
「殿、こちらが放っていた偵察隊からの報告です!敵部隊の勢い止まらず、呉の森に配備されていた部隊も全滅!全滅とのことです!」
その報告に、思わず将校たちも地図に向き直る。
報告から考えれば、それまで左側に進んでいた敵部隊は、一転して下向きに進路を変えていた。
そしてついに、彼らの主たちが気づいた敵部隊の意図に気づく。
「なっ、まさか……!」
「さすがに偶然か…ほ、本当に……そんなことが…!!」
呉の森とは、信濃国内に存在する巨大な湿地帯。これまでと変わらない点は、大人数を配置できないことから小隊を小分けにして置いていたこと。
そして、これまでと異なる点は。
呉の森を北に抜ければ、そこには。
中央軍を指揮している上杉軍の将たちの、”隠し宿営地”が存在する。
つまり、この敵の目的は。
「…い、今すぐ早馬を。……中央に入った武将たちに、今すぐ退避するように報せるのじゃ!」
「…もう、間に合わないでしょう。……俺の落ち度です。信玄が離脱した武田軍が、ここまで苛烈な手を使うとは、正直予想外です。……侮っていました。敵将、真田幸村の手腕を」
だが、しかし。
その夜起こったことは、これだけではなかった。
上杉軍中央の指揮官たち、防衛線の広さから東西二つに分けられた野営地のうち西側の一つが、何者かによって襲撃を受けたのだ。
その野営地は防衛線の内側、さらに湿地帯に囲まれた奥地にも関わらず二重三重の守備兵に守られており、それだけで将校たちの用心深さ、手強さが分かるだろう。
しかし敵小隊は、影虎の予測通りわずか二十人という寡兵でそれに突っ込んでいき。
あっさりと内部に入り込んで上杉軍の将校たちを皆殺しにしたのち、混乱する守備兵たちの虚をついて反対側へと離脱した。
まさに電光石火の奇襲劇。
そして、悪夢はそこで終わらなかった。
なんと、西側防衛線の指揮官が全滅したのとほぼ同時に、武田軍が全軍を動かしてその西側に夜襲を仕掛けたのである。
完全に意気消沈したと思われていた武田軍が突然牙を剥き困惑したのに加え、一向に中隊長以上の指揮官が現れないことから、現場の兵士たちはその襲撃に対しなんの策も講じることはできず。
夜の闇に乗じて行われた武田軍の全軍総攻撃は、上杉軍中央の右半身を喰い潰すほどの大打撃を彼らに与えた。
事態を察した東側防衛線の指揮官たちによって全滅は避けられたものの、その夜襲によって数字以上の甚大な被害を受けてしまった中央軍には、もはや戦線を維持できるだけの力は残らなかった。
つまり、中央防衛線の瓦解である。
そしてここで、一つ疑問が残る。
なぜ影虎ら本営への報告は、呉の森壊滅までで止まっているのかと。
この背景には、真田幸村の徹底した妨害工作があった。
彼は西側防衛線を攻撃するのと並行して信濃国内部へ至る街道全てに小隊を配置し、その急報を伝えんと走った伝者のことごとくを葬ったのだ。
とうとう中央軍が敗れたことにより、ここから戦局は一気に動くこととなる。
開戦より五日目。
信濃・上田城決戦は、その最終日となる五日目の朝を迎える。
そしてこの日が。
“長尾影虎”の、物語の最期となる。
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