第弍部 第十七話 描いた絵図
信濃・上田城決戦の四日目。
上杉軍にとっては、影虎の軍略によって反撃に転じるまさにその初日である。
山間がわずかに白ばみ始めた明朝のこと。
上田城の大広間にて、軍議を始めた本営将校たちのもとに息も絶え絶えの伝者がやって来た。
「急報っ、急報っーー!!左翼の山岳地に放っていた斥候からです!円城・深野城が陥落!二城ともに陥落とのこと!」
円城・深野城とは、上杉軍左翼の奥地に、つまり信濃国の東端に存在する過酷な山岳地帯に、連なるようにして鎮座する山城郡の一部。
上杉軍左翼が展開していた位置から山岳部に侵入し、そこから上田城に至るまでにはその山城を最低でも三つ落とさなければならない。
もともと武田の領地であった信濃国では、その領土の広大さ故に複数の国々と同時に前線を構えていた。
それでも信濃が不落の要塞とまで称されたのは、武田軍の軍力が他国より数倍抜きん出ていたことと、日本でも有数の巨大な盆地地形を有することが要因として挙げられる。
ちょうど他国との国境をぐるりと一周するように信濃を囲む山岳地帯は天然の城壁となり、今の信濃には上杉憲政の築城技術によって更にそこに幾重にも山城が築かれ、北東から上半分ほどは文字通りの鉄壁となっている。
そして伊達軍が攻めているのは、まさにその北東部の最も攻略難易度の高い山城郡。
一つ一つの規模自体は小さいが、それでも一城につき最低でも五万以上の軍勢をもって、さらに五日以上を費やさねば攻略できないほどの代物である。
昨日の時点で練っていた策は、四日目の時点でまだ伊達軍が第一の城・円城を攻めていることを前提として組まれたものだ。
この日中に第三の城・蓮城まで攻略されることはないだろうが、それでも大幅な作戦の見直しが必要となったのは明白である。
「なに、まだ攻城戦が始まって二日目だぞ!…まさか、あの強固な二城がこの短時間で…」
「……ッ、影虎殿!これは思ったより時がありませぬぞ!」
しかし将校たちの悲痛な声にも眉一つ動かさず、五指に兵馬駒を挟んだ影虎は、地図に視線を落としたままピクリとも動かない。
その一方で、小さく開かれた口からはブツブツと何事かを呟き続けている。
憲政も、ダテに彼の養父をやっているわけではない。こうなった影虎には覚えがあった。
影虎は自身を落ち着かせるときや集中したいときに左目を抑える癖があるが、それすら通り越した極限の集中状態に陥ったとき、このように周囲からの干渉の一切を断ち切って固まってしまう。
尚も影虎を呼ぼうとする将校たちを落ち着かせた憲政は、依然として台上の地図に向けて目を見開いたままの影虎の、その視線の先を辿っていった。
上田城の城下……ではもちろんない。さらに東側、河川を挟んだ草原でもないようだ。
もっと山岳地帯に近いところを、影虎は見ている。
ツツ……と目線をさらに右へと滑らせると。
憲政の目は、とある場所に止まった。
山岳地帯に入るための大きな道の横を、這うようにして中腹へと伸びるわずかな小道。ここは側面を切り立った崖にして人一人分、騎乗して進む広さなどとてもないような悪路。
しかしこの小道を行った先はたしか、蓮城の少し手前、崖上に出ることができるはずだ。
まさか、影虎の狙いは。
憲政が何か言おうとするよりも前に、影虎はバッと顔を上げると。
「…策が出来ました、全部隊長に今すぐ伝令を。…作戦を理解し次第、三刻以内に全ての配置換えを完了するようにと」
そのまま時計の針は進み、太陽が頂上に差し掛かった頃。
四日目の明朝に第二の山城・深野を落とした伊達軍と武田軍精鋭部隊は、次の目標である蓮城へと歩を進めていた。
しかしいかに天才といえど、道なき道を平らにすることなど出来るはずもない。
馬一頭が通るにも難儀する悪路に加えて、山間の頻繁に変化する天候に翻弄されながら進む両軍の兵士たちの顔には、流石に疲れが見え始めていた。
両軍は小休止を挟む代わりとして、それまでと比べてかなりゆったりとしたペースで進行しており、実はこの時、両軍を先導していたのは意外にも伊達軍の歩兵団であった。
伊達政宗——輝虎は、とにかく短期決戦で仕掛けようとした。
そこで彼は、白兵戦に優れる自軍の騎兵を半数ほど下馬させ、山間に点在する砦攻略の乱戦へと惜しまず投入していったのだ。
彼らの強さは凄まじく、上杉軍本営が当初予想していたよりも数倍の速度で円城・深野城が陥落した理由の大半は、この騎兵たちの存在によるものである。
しかしこのようなハイペースでの攻城戦を連続でこなした彼らの疲労度合いは、当然と言うべきか相当なものになってくる。
そこで輝虎は四日目の行軍開始時から、攻城戦に参加した騎兵たちを後方に下げた上で全体の進行を緩めることによって、来たる上田城攻略に向けての戦力を温存することとしたのだ。
普通に考えれば、間違いなく上策であるはず。
だがしかし。
この判断がのちに、大いに裏目に出てしまう。
伊達・武田合同軍はある程度順調に進軍し、もう蓮城まで数キロと言う場所まで迫った、ちょうどその時のことである。
それまで第三の山城・蓮城攻略に向けて戦略を練っていた輝虎は、今しがた通り過ぎたばかりの左方の崖、その上部から漏れ出る異様な殺気を感じ取った。
咄嗟にそちらを振り返った輝虎は、あまりの光景に思わず言葉を失った。
頭上に聳え立つ切り立った崖の淵に突如として、それを埋め尽くすほどの大量の弓兵が現れたのだ。
すぐさま退避を叫ぼうとするも、時すでに遅く。
「全弓兵、撃てええええええッ!!!!」
「上だ、避けろおッッ!!!」
木々に紛れてその壮絶な奇襲劇を見ていた畠中三善と彼の私兵、軽装歩兵部隊「山猫」の二百は、あまりに一方的な光景に舌を巻いた。
並の人間よりも数倍頑丈な彼らは、影虎直々の指名を受け、弓兵千の護衛としてはるばるここまで来ていた。
そしてそこで三善たちは、改めて彼らの主人が傑物だと理解することとなる。
「…おいおい、もうここで終わるんじゃねえか?この戦い…」
そう言った三善の額には、大粒の冷や汗が浮かぶ。
率いる部隊の性質から、数多くの戦場に駆り出されてきた三善には、目の前で起きているこの奇襲がどれ程高等なものかがよく分かった。
すると、三善と同じく崖下を覗き込んでいた部下の一人が口を開く。
「しかし、向こうの騎馬隊がたまたま後ろにいてくれて助かりましたね。…これで伊達軍は、主力の半数が崩壊することに」
「…お前なあ。あのお方の作戦がたまたま大成功するなんてこと、あると思うか?」
「…な、まさか……輝虎様は、作戦を立てた時点でここまでの絵図を…?」
「そういうことだ。…全く本当に、……底知れないお方だ…」
三善の言葉通り、影虎にはこの奇襲で、敵騎馬隊の相当数を撃破できるという確信があった。
明朝の軍議でもたらされた二城の陥落、その異常なほどの侵攻速度を受けて、影虎の思考回路は即座に”主力である騎兵の地上戦投入”に考え至った。
そこで影虎はすぐさま上級弓兵千人を興し、山猫が先導する獣道の先、崖上の高台へと配置したのだ。
もちろん疲弊しきっているのに加えて馬を引いた彼らが、降り注ぐ矢の雨から逃れられないことも考慮した上で、である。
足場の悪い険路、加えて間隔の狭い行軍において。
この奇襲をまともに食らったことは、まさに伊達軍にとっては致命傷であった。
「…重装騎兵は馬の陰に入れ!他は盾を集めて固まりを作れ、矢ぐらいそれで防げる!…急げ!」
輝虎の迅速な判断によってすぐさま対処に動いた伊達軍ではあったが、矢の雨から逃れようとすればするほど馬は足を取られ、影虎の言う通り固まって矢から逃れることもできない。
「くそ、どこかに退避を……!…ぐっ、とにかく殿を安全なところまでお連れしろ!政宗様だけは死なせてはならぬ!」
「いっ、…奴らどれだけ撃つ気だ……!まずいぞ、これは…!」
そう。逃げ場など、最早どこにも無い。
不幸中の幸いとして、輝虎のいる本陣にまで矢は届かなかったものの。
開戦から四日目のこの日。
長尾輝虎率いる伊達軍は、二日目まで左翼の戦場で上杉軍を苦しめた精強な騎馬隊のうち、その片翼を失うほどの、致命的な打撃を受けたのであった。
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