第弍部 第十九話 仕掛けられた罠

左翼での大勝から18時間ほどが経過したころ。

上杉軍の後方では、待機していた予備隊一万に緊急命令が下されていた。


それを受けた彼らは、後方地域一帯と中央軍防衛線を繋ぐ各地の主要な街道へ向けて、全速力での移動を開始した。


まだこの時点で中央軍壊滅の報告は受け取っていないものの、最悪の事態を想定した影虎ら本営は、いち早く手を打つことにしたのである。


が、しかし。


ここでも、影虎の判断を嘲笑うかのように。

予備隊があらかた出払ったそのタイミングで、それは姿を現した。


本国・甲斐には戻らず中央軍との前線に残っていた騎馬隊三千と、それを率いる異様な風貌の一団。


彼らは中央軍の右半身を喰らい尽くしたのち、残った左側の守備隊に対して一万ほどの歩兵を当てると、自分たちはそのまま信濃国最深部を目指した。


たとえ上杉軍の本営が事態を察して予備隊を動かしたとしても、それを逆手に取ってガラ空きの後方地域に入り込むことができるように、というのがこの侵攻の意図である。


そしてそんな彼らの姿を最初に捉えたのは、上田城手前に配置されていた物見——ではなく。


上杉軍左翼の、後方に置かれていた予備隊であった。

その報せはすぐさま本営へと伝わり、それらの一見奇妙な発見報告を受けた影虎は……驚愕を禁じ得なかった。


そう、防衛線侵入から始まり、中央軍将校への奇襲までに及んだ彼らの最終的な目的は。


上杉軍左翼の背後へ、強烈な突撃を仕掛けること。


当の左翼は今まさに、四日目に大打撃を被った同盟軍右翼の息の根を止めようと、蓮城周辺へ布陣するためにほぼ全軍が東へと向かっている。


上杉軍左翼の四万に対して数は三千ほどらしいが、それでも武田軍の騎馬隊は侮れない。


それにこれがもし事前に用意されていた策ならば、信玄も入っている伊達軍右翼が何らかの形でそれに呼応し、左翼に対して逆に挟撃を仕掛けることすらも考えられるのだ。


そうなってはもはや、蓮城防衛など意味がなくなってしまう。


そこまで考え至った時、影虎の脳に、後頭部を殴りつけられるような衝撃が走った。


思えばこの状況は、武田信玄の右翼介入から始まっている。

そして今状況が動いているのも、信玄の腹心である真田幸村によって引き起こされたもの。


まさか。


この俺が、嵌められたのか。


知らず握りしめられる拳から、赤い雫がこぼれ落ちた。


「……武田、信玄…!!!」


そんな影虎の険しい表情を見た憲政が、慌てて声をかける。


「…影虎、まずは左翼に迫っている敵に何か手を打たねば…」


その言葉に、改めて左目の眼帯に手を当てた影虎は、呼吸を整えてから口を開く。


「……白虎隊三千をここに。…信玄の最後の一手は、俺がこの手で叩き潰します」



周辺に布陣している部隊を動かしたのでは間に合わないと悟った影虎は、この戦場の中でも随一の戦力を誇る彼の私兵団「白虎」を率いて自ら出陣。

今まさに上杉軍左翼の背後に迫る、武田軍騎馬隊の後を追った。


これは一見素早く的確な判断であり、追われる武田軍にとっては最も避けたい状況。


そのはずだったのだが。


この報せを聞いた真田幸村は、小さくほくそ笑むとともに寒気を感じた。


何ということだ。ここまでの流れは全て、奴の話した通りに進んでいる。


織田軍の離脱など多少の予想外は起きたものの、奴は開戦前に敵味方含めてここまでの絵図を描き切り、クセの強い三軍をうまく焚き付け、操って見せた。


武田軍に剛将は多いが、その圧倒的な攻撃力を活かし切れる頭脳の不足が、ここ数年の武田の悩みの種だった。


しかし、ここまでは奴の指揮に従って完璧にその力を扱えている。


あの越後の臥龍・長尾輝虎や、我が主である武田信玄と五分の武力を持ちながら、大軍師級の智略をも併せ持つあの男。


伊達政宗こそ、戦国の世に生まれ落ちた戦いの天才。


殿曰く狂気に取り憑かれているらしいが、それを差し引いてもまさしく本物の化け物だ。


「…フッ……勝ったな。この戦い」



上田城を出てから三十分ほど走った影虎たちは、眼前の平野に二千ほどの騎馬隊がいるのをその目に捉えた。


即時突撃の構えを取った彼らではあったが、その部隊が掲げる旗、”狼”の文字に気づいてその手を止めた。


「…兼続、無事だったか!」


駆け寄った影虎に対し、兼続は少し不思議そうな表情を浮かべながらも馬を進める。


「……あれ、輝虎様…?…ええっと、さっきも会いませんでした?」


その言葉に、影虎は思わず手にしていた矛を取り落とした。


兼続やその他越後の将たちは、伊達政宗の正体を——つまり、目の前にいる”長尾輝虎”がその弟である影虎であり、政宗こそ本物の輝虎であることをまだ知らない。


つまり。


「…兼続、俺といつ会った」


険しい表情の影虎に少し気後れしながらも、兼続はスッととある方向を指差した。


それは、影虎と白虎隊が来たのと同じ方角。


「いや、十騎ほどの小隊で前線からこちらに戻ってきて、迷ったからと上田城の方角を聞かれましたよね?…一体どうされたんですか?」


ドクン、と心臓が暴れ出す。


奴らが上杉軍左翼を抜くには、蓮城を攻略し、さらにその奥に控える左翼の本軍をも突破しなければならない。


しかしそれはあくまで、”同盟軍右翼が上田城に侵攻するため”に必要な工程である。


もし、奴が精鋭の十騎ほどを選りすぐったのなら。


もし、その程度の寡兵でただ一度だけなら、こちらに気づかれることなく山を抜けることができる抜け道を、奴が見つけていたなら。


そしてもし。


ここまでの武田軍の苛烈な動き、それすら今ここに、影虎たち後方軍の最大戦力を引っ張り出す助攻だとしたら。


輝虎の、本当の狙いは。


「敵襲、敵襲です!…数は三千、恐らく先行していた武田軍騎馬隊かと!」


その声にハッと向き直った影虎の視界に飛び込んできたのは、とてつもない勢いと速度でこちらに向かってくる三千ほどの騎馬隊。


装備や旗印から見ても、間違いなく奴らだ。


だがこんな所で戦っている場合ではない。

今すぐ上田城に戻り、輝虎の鉞が届く前に憲政にこのことを知らせなければ。


「兼続、説明は後だ。…俺の隊から十人。それと兼続も来い、今すぐ上田城に戻——」


数の利も考え、白虎隊の中でも影虎と共に戦うことの多い彼の小隊と兼続のみを連れ、すぐさま離脱を図った影虎だったが。


そんな彼らの進路上に、二十騎ほどの武田兵が立ち塞がった。


「どこへ行くんだ、長尾輝虎。…俺が中央将の真田幸村だ。……さあ、遊ぼうぜ!」


「…ッ、真田…武田の一番槍か!…クッソ、時間が無いのに…!」


恐らくここでこの部隊が襲いかかってきたのも、事前に練られていたものだろう。


徹底して、影虎と彼の白虎隊を上田城から遠ざけようという姿勢。


珍しく焦りを顔に出す主の様子を見たことによって、事態の深刻さを理解した兼続は、彼の小隊と共に前に出て行った。


「輝虎様、行ってください。……こいつらはここで、俺たちが食い止めます」


「…兼続……恩に着る。……行くぞお前たち!全速力で駆け抜ける!」


眼前の敵部隊を振り切るべく走り出した影虎たち、その背を追おうとした幸村だったが、今度は兼続たち黒狼がその間に割って入った。


「…いい度胸だ、直江家当主。……この真田幸村と一対一か」


言いながら、スッと槍を構える幸村。


信長の、刺すように野生的なそれとはまた違う。

まるで巨大な山岳のような、見る者を圧倒するその”強さ”。


その言葉に何も返すことなく、無言のまま兼続はごくりと息を呑んだ。

目の前の一団の、特に先頭の男が纏い持つ異様な雰囲気と風貌たるや。


その姿を一目見た瞬間に、兼続の中の全細胞が理解した。


すると、兼続と馬を並べた副長・橋本雄一郎が口を開く。

「……気をつけろ兼続、こいつら相当やるぞ」


「ああ。……行くぞ黒狼!ここで奴らを叩いて、この戦いをモノにする!!」


「「オオオッッ!!」」




人数が減ったことで行きよりかなり速度を上げた影虎たち白虎隊十騎は、上田城まであと数百メートルの地点まで来ていた。

あとはこの丘を登れば、もうそこは上田城の城下に入る。


間に合うか。


「頼むぞ、白兎。……ハッ!!」


疲労が見える愛馬に檄を入れ、最大速度で丘を登り切った影虎たちが見たのは。



炎に包まれる、上田城の姿だった。



「……と、殿。…これは一体……」


「な、何が起こったと言うんだ。…そんな…」


目の前で起きている光景が理解できず、ただ呆然と立ち尽くす部下たちを尻目に、影虎は再び猛然と走り出した。


救うために。


殺すために。



長尾影虎の最期まで、あと——1時間。






































































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