第弍部 第十三話 安全神話
「最初にあの城を一眼見た時から考えていました。上田城には、なにか尋常ならざる仕掛けが隠されていると」
影虎のその言葉に、にわかに驚いた憲政は首を縦に振って答える。
「…さすがは影虎じゃな。その通りじゃ。我が上田城は普通の城ではない。…して、あの城で篭城するということか」
「ただ篭城するだけでは負けます。…たしかに武田軍だけなら、あの城で事足りるでしょう。しかし輝虎は、恐らく俺と同じものが見えるはず」
「同じもの……彼奴なら、あの城の長所と短所を初見で見破ると」
「ええ、その通りです。ですから伊達軍に対しては、こちらから討って出る必要があります」
「……伊達軍に対しては、ということは…武田軍にその必要はないと?」
影虎の引っかかる物言いに、憲政は首を傾げた。たしかに輝虎ほどの脅威ではないにしろ、あの武田軍を相手取るには上杉軍としてもかなりの準備が必要になる。
「…上田城内部の仕掛けのみで対処できるほど、彼奴等は甘くはないぞ。それに騎馬主体の武田を野放しにすれば、対伊達軍の戦場に横槍を入れられる可能性もある」
憲政の指摘も尤もである。いくらこの戦い超広域の戦いであるとはいえ、武田信玄がその身で示したように時間をかければ左右の連携もできなくはない。
それに加え、上田城まで引きつけるともなればもう左翼も中央も関係ない。
最悪の場合、伊達と武田の十万を超える合同軍を相手にしなければいけなくなるのだ。
それは、決して得策ではない。
だがしかし。
「そこはご安心を。伊達軍は山岳地帯を抜けるのに最短でも三日を要しますし、武田はまだ第二防衛線すら抜いていない」
「しかし、いずれは二軍を相手にする必要が出てくるであろう。ここからでは分からぬが、右翼の戦況もどうなるか……」
事ここに極まって、影虎はまだ不敵に笑った。
「……武田軍は、あと一日と経たずに退却します。あそこには、五年前に仕込んだとっておきがあるのですよ」
戦国時代中期、関東圏で起こった戦の中では最大規模の戦が展開する信濃領南方からはおよそ数百キロの位置。
甲斐国に存在する、北条氏・今川氏という二大勢力と国境を接する南端部分の大戦線では。
「はーあ、今日も暇だよなあ。どうせあいつらこっちに攻め込んで来ねえんだから」
「ホントだよ、最前線っつってもなあ……どうせなら北条との激戦地の方が張り合いあっていいよな」
「ああ、全くだ。…ん?なんかあの軍、こっちに近づいて来てねえか…?」
「きっ、急報ッ!!駿河との前線に向けて、岡部元信率いる今川軍四万が北上を開始しました!」
その報せは、突然舞い込んだ。
本国の精兵部隊、特に武田軍の主力である騎馬隊がほとんど出払っているこの状況での今川の大攻勢。
「まずいぞ、これに対処する軍が今我が国には…!」
「落ち着け!まず南部に張っている真田信綱に、北条との前線地帯から離れて今川との前線に合流するようにと!」
「軍議中失礼いたします、南部の真田信綱様より早馬が!」
「おおっ、さすがは歴戦の勇だ!まさか危険を察知してすでに前線を!」
「いっ…いいえ……信綱様曰く、北条軍に大攻勢の兆しあり。その数五万から六万とのこと!!」
武田軍本営がその二つの報せに大混乱に陥っている最中、まさにその最前線に立つ武将たちはその異常事態を肌で感じていた。
北条と今川はともに超大国ではあるものの、その両国どうしでも国境を接しており、その前線地帯では長らく膠着した睨み合いが続いていた。
だからこそ、武田が大軍を興して信濃を攻めたとしても両軍がこちらに攻めてくることは無いとの判断ができ、今回の三国同盟に至ったのである。
しかしその両国が、同時に大軍を発して武田との前線に向けて動き出した。
四十年以上にわたって北条軍との前線地で矛を振るう真田信綱とその私兵団三千は、事態をいち早く察知するとすぐさま前線部から南下し、北条軍の先鋒五千に対し後軍の準備が整うまでの時間を稼ごうとぶつかった。
真田信綱とは言わずと知れた槍の名手であり、古くは諏訪湖畔の戦いで魯郡第一将を務めた北畠左近を討ち、彼が数十年根城にし続けた北条軍との最前線では数多の名のある武将をその手で討ち取り続けた。
そんな彼の私兵団「朱槍」もまた、幼い頃から槍術を叩き込まれた歴戦の猛者たちで構成された強部隊。
武田軍としては珍しく8割が歩兵で構成された彼らは乱戦に特化しており、数倍の兵力差をもモノともせず蹴散らすことから南部の死神の名を冠するほどの精兵たちである。
しかし、そんな彼らが相手取る敵は。
「若、前方に敵三千が待ち構えています。あの旗からすると、恐らく敵は真田信綱かと」
「…一昨年、叔父さんを討ち取ったっていうあの猛将か。まあ俺たちには関係ないよ。……この氏照とお前たち『紫電』騎兵団を止められる奴なんて、天下にいないんだから」
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