第弍部 第十二話 影虎の決断
本来なら三つの戦が同時に展開され、左右の連携など不可能であったはずのこの大戦だが。
武田軍の精鋭騎馬隊五千による、上杉軍本陣への急襲。
これは当然、武田信玄による独断ではなく。
開戦前から仕込まれた、長尾輝虎による”必殺の別働隊”であった。
それは奇しくも、越前の朝倉孝景と戦った際に影虎が用いた、時間や空間すらも掌握する奇襲作戦と全く同じものである。
必ずしも、自分の手によって殺すことが叶わなくても。己の未来を奪った彼らが死ねばそれでいい。
五年という歳月でひたすらに薪を焼べ続け。
今や誰にも止められない、触れる者全てを燃やし尽くすほどに大きくなった輝虎の復讐の炎が為せる技。
ここまで完璧にハマってしまえば、輝虎にとっては、もう自身の目的は果たされたも同然である。
今この場で目の前の弟を討ち取れても討ち取れなくても、すぐにここに辿り着く武田軍が奴らを踏み潰すだろう。
失意に沈む影虎の顔を拝んでやろうと向き直った輝虎は、そこで信じられないものを目にする。
左目の眼帯に手を当てながら、ぶつぶつとなにかを呟く影虎。
そのまま数秒ほど硬直したのち、彼はバッと顔を上げると。
「…憲政様と本陣将校はすぐ馬に。白虎十騎は前を固めろ。…行くぞ」
呆気に取られる輝虎ら伊達兵を、五年ぶりに再会した兄を、そして絶体絶命の窮地というその状況までも置き去りにして。
それはまさに、電光石火の脱出劇であった。
しかし、輝虎とてここまではある程度想定の内ではあった。上杉本陣まで来るのに連れてきたのは三十騎ほどの寡兵であり、影虎たちがここから脱出すること、それ自体は難しくはない。
しかしそこら中で乱戦が行われ、頼みの予備隊は武田軍五千によって大打撃を受けている。
さらに言えば、その武田軍五千がこちらに向かってきているのだ。
普通に考えれば、ここから立て直すことなど不可能だと誰もが思うこの状況にあって。
影虎がとった行動は、敵味方の誰も予想だにしないものであった。
本陣守りの部隊と合流し、本陣を脱出した影虎たちはそのままは後方へ逃れる——ことはせず。
「…トチ狂ったのかよ、てめえッ……!?」
なんと、前方の伊達軍本隊と白虎、狂蜂、死蜂の大乱戦の場へと突っ込んでいったのだ。
彼らは包囲からの脱出までもう少しというところまで来たものの、あらかじめ脱出路に伏せられていた歩兵隊による横撃急襲を受け、未だ敵の包囲陣に捕まったままでいた。
しかし影虎や白虎十騎による背後からの突撃によって、その”蓋”が取り除かれた。
恐らくこの上杉・長尾・伊達の三軍が入り乱れるこの最激戦地の中で、最強の戦力である彼らがその隙を逃すはずもなく。
一瞬だけ生じた前後からの挟撃によって、三部隊は命からがら包囲から脱することができた。
そしてそこから、再び事態は思わぬ方向へと動き出す。
「殿、我々はここからどうすれば…!」
「白虎の本隊とも合流できました、やはりこのまま後退でしょうか」
「…いや。左に行くぞ」
影虎の言う左とは、上杉本陣があった位置から向かって左側。
上杉正規軍と伊達軍、互いに二万で始まった歩兵団どうしの壮絶な潰し合いが行われている戦場のことである。
上杉軍がかなりの苦戦を強いられ、前線が押し込まれている部分が多く出てきたその乱戦地の中で。
影虎たちは、手分けしてまだ大きく崩されていない部分の援軍としてそこに割って入ると、そこを担当していた部隊を自分達の軍に加えながらさらに左へと流れていった。
武田軍に半壊させられた上杉本陣の右方ではなく、本陣の左方に陣取っていた予備隊一万とも合流し、総勢三万五千ほどにまで膨れ上がった彼らは。
なんと残存兵力となる、主に上杉兵から構成される二万ほどを大規模なしんがりとして定め、後方の山地へと退却を開始したのだ。
しかしこの大逃亡劇を許すまいと、すぐさま追撃に出た軍があった。
中央軍から奇襲を仕掛けに来た、武田信玄率いる精鋭騎馬隊五千である。
歩兵も多くいる彼ら一団にとって、速度と攻撃力を併せ持つ武田軍騎馬隊は大きな脅威になりうる。
そこで上杉軍は、さらに五千ほどを割いて後方の防御に当てた。彼らは、憲政の考え出した防御術を自在に操る強部隊「岩翠」。
狂蜂・死蜂が憲政の鉞とすれば、この部隊は憲政の盾の役割を担う。
ここから追撃の武田軍と岩翠による凄まじい削りあいが始まると、武田軍騎馬隊の勢いはかなり衰えていき。
ついに岩翠側の防御術が維持できないほど被害が広がったところで、信玄ら武田軍は追撃の足を止めた。
「…クソが。伊達政宗のやつ、あんだけ息巻いといて逃げられやがって……まあいい、帰るぞ!」
「すみません憲政様、上杉軍には特に犠牲を払わせることに」
「…いや、良い。それより影虎よ、退却してこれからどこに行く。後方で再編成して立て直すにも時を要するぞ」
「いいえ。……信濃の東側には、険しい山岳地帯から成る三つの山城がありますね」
影虎のその言葉に、憲政ら上杉軍将校は驚愕した。
ここ上杉軍左翼の戦場は、その山岳地帯まで敵を寄せ付けないために存在したのだ。
たしかにその三城は日の本にある城の中でも指折りに堅固なものではある。
だがしかし、その険しさ故に軍は展開しづらく。さらにそこを抜かれれば、もう信濃の国府である上田には眼と鼻の先の距離。
まさに、信濃国の最後の砦だ。
しかしそんな将校たちの驚きを、さらに覆す異次元の発想が影虎の口から飛び出した。
「我々はこれから、後方へ……日の本でも最強の城である上田城へと退却し。そしてこの戦いは、攻城戦へと移行します」
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