第弍部 過去編 第二話 狂気の根源・帰

気がつくと、温かい水の中にいた。


何も見えず、何も聞こえない。


今はただただ、この世界が心地良い。

幼い頃母の膝で眠った時のような安心感とともに、左近は目を閉じようとした。


起きろ、北畠左近。

 

誰かの声に目が覚める。


起きろ。まだ役目が残っている。



ハッと目を覚ますと、いつの間にか落馬したのか、地面に倒れ込んでいた。


身体を起こそうとするも、腕にキツく結ばれた縄と激しい腹部の痛みで、とても動けたものではない。

呻き声を上げたことで左近が起きたことに気づいた目の前の男が、こちらに向き直って口を開く。


「…起きたな。安心しろ、ギリギリで急所を外した。下手に動かなければ死にはしない」


そうだ、俺はこの男……真田信綱に負けたのだった。

しかし殺されたとばかり思っていたのに、どうしてまだ生かされているのか。

困惑している彼に向かって、信綱は続ける。

「率直に言う。上杉との盟を切って武田の傘下に入れ」



狂喜乱舞する部下たちに囲まれながら、憲政自身もドッと押し寄せてきた疲れに大きく息を吐いた。

一度大きく辺りを見渡した憲政は、後方にいるはずの魯郡兵の姿が見えないことに気がつく。


敵を引きつけているうちに、もしかすると森の中にまで押し込まれたのかもしれない。

だとすれば、こちらが落ちたとこを知らせて早めに退かせなければ。


「魯郡兵を助けに行くぞ、200騎ついて来い。残った兵は、敵が撤退の流れを絶やさぬよう軽く背を討ってやれ」

「ハッ……死蜂行くぞお!」



そしてそれと同時刻、真田信綱と北畠左近のいる後方部分。


「傘下に入れだと?…俺たち魯郡は貴様ら武田に滅ぼされたのだぞ。今さらそんな世迷言が罷り通ると思うか」

「通る、通らぬの話ではない。……相対してわかった。貴様は強い。北条軍との戦場でも、この俺とここまで打ち合える者はいなかったからな」

「……だから、どうした」


睨みつけながらそう返す左近の目を、真っ直ぐに見返しながら。

信綱は言う。


「俺は、お前に降れと言っているのではないぞ。…お前にはまだ生きる道が、武名を残す道がある。それを掴めと言っているのだ」


その言葉に左近はハッとした。

道。

憲政の道が、多数を守るために少数を切り捨てるものだとするなら。

俺の道は何だ。


「貴様の道はなんだ。答えてみろ、真田信綱」

左近の言葉に、信綱は少しの間押し黙ってから口を開く。

「真田家は、かつて武田に滅ぼされた小国の主だった。それが今では、武田家に代々使える由緒ある武家だ。私はその名に恥じぬよう何度も死地を超え、ここまで強くなった」

「……なるほど。家の名を守るのが、貴様の道か」

「…笑うか」

「いいや、笑わないさ。…だが今ので分かった。私の道はもっと、別の場所にあるらしい」


微笑を浮かべながら左近が放ったその言葉に、信綱は目を見開く。

その言葉の意味とは、つまるところ。


「解せぬな。お前の実力であれば、誉ある武田二十四将に割って入ることも十分に可能なはず。それを放棄して、あえて死を選ぶか」

「放棄するのではない。…貴様では選べない道が俺にはある。それだけの事だ」

 

とても死ぬ直前の人間とは思えない威風堂々としたその態度に、二人の側近たちはおろか信綱本人ですら、左近の発する”武将の威厳”に面食らった。


「そうか。…残念だ」

再び槍を掲げ、今度は左近の左胸へと向けて近づけていく信綱。

そこには、苦しませず一息でというせめてもの気遣いが垣間見えた。

そこで。覚悟を決めて目を瞑った左近の耳に、一人の男の叫び声が聞こえてきた。


上杉憲政である。


「左近ッッ!!!」


彼の後ろには、信綱との一騎打ちの最中に分断されていた七千ほどの魯郡兵の姿。

しかしその前に立ちはだかるのは、将を討たれたばかりで怒りに燃える、四万を超える武田軍守備隊。

そして、あの魯郡兵すら圧倒した信綱の私兵団一万四千ほど。


あの数でここに入ってきても、間違いなく彼らは全滅する。

それだけは。


「すまない真田の、最期に一言だけ彼らに言葉をかけたい」

「…いいだろう。早くしろ」


一度槍を引いた信綱に促され、左近は自身を助けるべく必死の突撃を仕掛けようとしていた憲政たちに向けて声を上げる。


「よく聞いてくれお前たち、俺の最期の言葉だ」


それを聞き、彼らはピタリと足を止める。

最期の、言葉。

憲政は何も言えなかった。彼自身、分かっていた。

もう、左近を救えぬ事を。


「まずは魯郡の兵たち。こんな男について来てくれたこと、心から感謝する。これからの展望は、そこにいる上杉憲政の言うことに従うように」

「……ッッ!!…ハハァッ!」


ボロボロの左近が浮かべる優しげな笑みに、魯郡兵七千は大粒の涙を流して大きく頷いた。


その様子に満足したような表情を浮かべる左近は、今度は呆然とした面持ちでこちらを見つめる憲政に、こう言った。


「憲政!……死に場所を与えてくれて、ありがとう。…俺は俺の道を行った。だから、お前は……お前の道を行け」


言い終わったと同時に、前に向き直って目を瞑る左近の胸を。


信綱の黄金の槍が貫いた。



元・魯郡国第一将、山口改め北畠左近。


諏訪湖畔にて討ち死に。



奥歯が噛み砕けんばかりに歯を食いしばり、血の涙を流してその様子を見届けた彼の兵たちは。

誇り高き主の最期の言葉に従い、諏訪の地から全軍退却した。


しかしその後信綱は、あえて諏訪の地を取り戻そうとはしなかった。

彼ら南部兵が介入していなければ、本来なら上杉軍がモノにしていた戦である。

その後本国甲斐に帰国した信綱は、信虎の怒りを買って斬首一歩手前までの危うい状態となったが、当時の武田二十四将の全員から諌められたことでギリギリ官位剥奪と懲罰で事なきを得た。



これにより、諏訪湖畔の戦いは決着。


上杉軍は、互いに凄まじい死者を出した激戦の末に、強国信濃の土手っ腹に楔を打ち込むことに成功したのだった。



ここからは帰国の道中、憲政と魯郡国副将だった山中孝兵衛の会話である。

「憲政、それではここでお別れだ。我ら七千のうち五千は、明義丸様を連れて隣国の越後に亡命する」

「ああ。…残りの二千はどうする」


残る二千とは、左近が信綱に捕らえられるその瞬間まで彼の近くで戦っていた彼の精鋭部隊たちのことだ。

主を守りきれなかった自責の念からか、彼らの頭髪は雪の積もったような白に染まり、瞳の奥には空洞のような闇が広がっているのみ。


「……あれは我々には救えぬ。だが戦は強い。…お前がこの先本当にどうしようも無くなったときだけ、奴らを放て。…アレはもう、何かを恨み、壊すことでしか生きられぬ。ああなっては、もはや人ではない」


ままならないな。

憲政は、心の中で自分自身に問いかける。


本当にあの時、彼の言葉に従って逃げ去ったのが正しかったのか。 


いや、きっとなにが正しいなんてものは存在しないのだ。その時その時、自分がどの道に目を向け、選択していくかと言うだけの話。


「孝兵衛殿、越後に行ったその後はどうするつもりだ」

「あの国の城主とは、わが魯郡国は密かに親交があった。幸いこちらには魯郡国主の宗家の血を引く明義丸様がいるからな、そこで再起の時を図ることにする」


「…そうか。では、繋がれていくのだな」

どこか遠くを見るような憲政の言葉に、目に溢れるばかりの涙を溜めた孝兵衛は答える。


「……!…勿論だ、潰えはせぬ。……私たちが繋いでいくさ。…誰よりも義に厚く己の道に殉じた漢、北畠左近の名を。……そしてそれを支えた我ら、『暴雷』の名を」


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