第弍部 過去編 第一話 狂気の根源・回

「死蜂」と「狂蜂」。

ともに精強を誇る上杉憲政の直下兵団だが、この二隊には大きな違いがある。


死蜂は、上野国併合時から憲政のもとで戦ってきた最古参部隊、その当時の人員や彼らの子供たちがその意思をつぎ、歴史や思いを絶やすことなく受け継がれてきた伝統ある強部隊である。


それに対して、味方でも恐怖するような凶暴性と圧倒的な武力を併せ持つ狂蜂。

その狂気は、どのようにして始まったのか。


彼らは、信濃と甲斐、つまり全盛期の武田領内にひっそりと存在していた小国”魯郡”の兵たちだ。

魯郡は、一見すると特別発展しているわけでも貧乏なわけでもない、取るに足らない小さな国であった。

しかし彼らが、武田領内で滅亡までの三十余年もの間、独立を保っていられた理由は。

武田軍ですら太刀打ちできなかった、その異常なまでの軍の強さにある。


超大国としてのメンツを守るために魯郡に対して幾度も攻勢をかけた武田軍ではあったが、連戦連敗。

伝家の宝刀である騎馬隊すら半壊状態で命からがら逃げ帰った時には、武田の前当主である武田信虎は白目を剥いて倒れたほどだった。


魯郡の名が他国にまで広まっていない理由は、その武力を他国への侵略に使おうとしなかったことと、それまでの武田の負けっぷりを知れば察しがつくだろう。


その後は信濃・甲斐の両領地からの武田軍による包囲作戦によって魯郡自体は滅亡するも、二万ほどの残党兵は追撃に来た武田の兵たちを悉く打ち砕きながら流浪を続けた。

しかし、どれだけ強くても限界というものは存在する。

二万いた残軍が残り一万ほどにまで減った頃、一人の男が彼らのもとへとやってきた。


その当時、まさに信濃攻略に入ろうとしていた上杉憲政その人である。


武田領内部の情報を調べさせていくうちに魯郡の存在に気づいた彼は、密かに同盟を結ぼうと動いていた。

ごくごく少数の私兵のみを連れて命懸けの魯郡行きを決行した憲政ではあったが、その道中魯郡が滅ぼされ、その後は残った軍勢がいるとの情報だけを頼りに彼らを探して回っていたのである。


「……我らは、もはや亡霊よ。…守るべき祖国すら守れずおめおめと生き残った我らに、それでも貴様は力を貸せと申すか」

当時の魯郡残党の指揮官、山口左近の言葉だ。

もはや光を失いうつむく彼の眼は、一縷の希望に縋る気力すら残っていなかった。

そんな彼に、若き日の憲政は笑顔でこう言った。

「……私は、民のために武田の猛威を止めたい。…それは、自国の民に限った話じゃない。これから武田の脅威に晒され得る、全ての国のだ」


「それは、貴様の自己満足ではないのか。上野の主よ。…事実、貴様らが侵攻する信濃の民たちは、それこそ亡国の憂き目にあうのだぞ」

「その通りだ。…だがな。私は聖人じゃない。全員が幸せになれる世界など、望んではいない」


「それではいったい、貴様の望みとは何なのだ」


「私の望みは、……もっとも多くの人間の幸福だ」

 

毅然とした態度で言い放った憲政のその言葉に、左近は目を見開く。

つまり、それは。

「そのためには、少数を切り捨てるか」

「それが私の…上杉憲政の道だ」


即答する憲政の揺るがない態度に、言葉に詰まる左近。

そんな彼の目を真っ直ぐに見ながら、憲政は言い放った。


「顔の分からない百人を助けられるなら、私は喜んで腹を切る。名前も知らない千人を助けられるなら、自分の子供だろうと私は黙って殺すだろう。魯郡のような悲劇を、起こさないために。左近、私に力を貸してくれ」



その後は前述の通り。祖国の復讐と武田の暴威を止めるために、旧魯郡兵と上杉軍は諏訪湖畔の戦いに挑んだ。


だが、しかし。

魯郡残党が味方についたことが漏れていたのか。


当初想定されていたのは上杉軍四万と信濃軍七万の戦いだったが、実際に布陣し終わった上杉軍が目にしたのは。

本国甲斐から信濃に向けて派遣されてきた、三万を超える軍勢であった。


 

「憲政様、お逃げください!もうすぐそこまで敵騎馬隊が…!」

「まずいぞ、もう前線で立っている兵なんて一人も…!」

開戦からわずか2日足らずで、上杉軍は全滅すらあり得るほどの窮地に立たされていた。

本陣を捨てて撤退、その選択肢が憲政の脳裏に浮かんだその時。

「憲政!」


本陣守りの最後の防陣を取り巻いていた敵軍が、背後からの突撃を受けて弾け飛んだ。

すでに全滅したと思われていた中央軍の戦場から姿を現したのは、左近の率いていた魯郡残党兵たちだった。


「左近、生きていたのか!」

「それどころではない、右の丘から右翼を抜いた一万規模の騎馬隊が向かってきている!……これは好機だ、勝ちに行くぞ!」


「な、好機!?いったい何を…」


もはや後ろに退がることも困難な状況にも関わらず、左近の目は全く諦めてなどいない。

「お前たちには悪いが、ここまで魯郡兵には極力死なず、敵を左右に広げるような戦い方をさせてきた。お陰でこちらは九千残っている」

「き、九千も……待てよ、左右に広げて…まさか、お前…!」


「気づいたか。そうだ。目の前に迫っている敵を抜けば、残りは敵本陣まで一気に迫れる。…そこで、敵総大将を討って奴らを滅する!」



上杉軍と魯郡残党にそれぞれ分かれて行われるこの本陣急襲は、魯郡側が敵守備軍の8割以上を引きつけながら戦い、その隙に主攻となる上杉軍が本陣を落とすという作戦。

しかし敵本陣一万に加えて、守備軍はまだ軽く五万はいるだろう。

これには両軍ともに大きな危険が伴い、どちらかが失敗すれば必然的に結果は全滅となる。


しかしそれでも、憲政はその作戦の舵を取った。

正真正銘、後に引けない決死行。


ここから両部隊の戦いは、まさに地獄の様相を呈していく。



「クッソ、流石に数が多すぎる!殿、やはり無茶だったのでは…!」

「……だがこれ以外に活路はない!とにかく背を助けないながら戦え!先頭は、私たちが切り開く!」

「ぐぁっ……しかし憲政様、この敵は…!」

左近たちが上手く敵守備隊を引きつけているおかげで、敵本陣はもう目前だ。

しかしここにきて、憲政本隊の勢いは少しずつ弱まってきていた。


敵が、強い。

今の今まで打ち合っていた敵軍はただの守備軍だったが、恐らくこの辺りから本陣守りの精鋭兵が出てきたのだろう。

こちらも士気では負けていないが、それでもここまで戦い続けてきた分が疲労としてのしかかっている。


だが、ここで負けるようでは。


最後の力を振り絞り、憲政は叫ぶ。

「総員、双龍陣だ!ここが正念場だぞ、死力を尽くせえ!」


その声、憲政の本陣部隊であり直下兵団「死蜂」の隊員たちはすぐさま反応し、突撃陣形を組み換えていく。

今まで一団となって敵にぶつかっていた彼らは一気にふたつに分かれると、敵の最後の防陣、精鋭兵に対して左右で別々の波形突撃を仕掛けたのだ。

乱戦の中にあって、加えて騎馬で駆けながらの陣形変え。

それは、死蜂だからこそできた離れ業であり。


今まで突破するのに手こずっていた敵精兵部隊を、彼らは嘘のように押し戻し出したのだ。


「その調子だ!行くぞ死蜂、このまま信友の首を取る!」

「オオオオオオオオオオオッ!!」



しかしその時、守備隊を引きつけていた左近たちの後方部分では異変が起こっていた。

五万余りの敵を上手く捌きながら立ち回っていた彼らだったが。


ドドドドドッ、とどこからともなく聞こえてきた大量の蹄の音に、魯郡の兵たちは思わず足を止めた。

それは。

先ほどまで上杉軍本陣を狙って走っていた、敵援軍の騎馬隊一万五千であった。


その先頭、黄金の槍を手にし、一際異彩を放つ騎馬が一騎。

“武田二十四将”の一人、真田信綱である。


「面倒だ。…右方は正面から、左方は三拍置いて左から。………展開、蹂躙しろ」


彼らは今まで魯郡と戦ってきたような国内の正規軍とはワケが違う。

甲斐国の南から虎視眈々と武田を狙っている難敵、北条との最前線で長年培われたその槍術と戦術眼は、同世代である憲政に勝るとも劣らない。

そして、彼の率いる部隊も同様に。


屈強な魯郡の兵たちが、いとも容易く押し負け、殺されていく。


「…クッ、なにかまずい!とにかく捌け、正面から打ち合うな!」

「ハッ……なっ、左近様!正面から敵が!」

「他の隊も、進行方向に回り込まれてやられているようです!」

側近たちのその声に、左近は辺りを見渡して目を疑った。

武田の騎馬隊とは、今までに幾度も戦い、その都度返り討ちにしてきた。

だがしかし、今相手にしている敵は格が違う。


信綱は、左近たちの退路を徹底的に潰していき。

あっという間に、千名ほどが彼の前に討たれた。


「左近様、撤退しましょう!そもそもこの戦いは、上杉の都合に我らが合わせているだけではありませんか!」

「その通りです、ここから全力で森を目指せば脱出は可能です!」

側近たちの悲痛な叫び。

そうしている間にも、左から回り込んできた敵部隊が左近に迫る。

「貴様が将だな!」

「クッ……早くお逃げを!左近様!」

「此奴ら精鋭兵か…!まずい、止めきれぬ…ああ!!」

左近を討ち取ろうと、側近たちの防御を抜けた数人の敵兵が彼に向かう。


誰の目から見ても、絶望的な状況で。


左近は目にも止まらぬ速さで刀を振るい、敵兵士数人をその場に斬って捨てた。


「我らは一歩も下がらぬ!我らは一歩もう譲らぬ!我らは、誇り高き魯郡の兵であるぞ!」


その、空気を震わす檄に。

そして敵ですら唖然としてしまうその強さに、半ば諦めていた魯郡の兵たちは一斉に奮い立った。


各所で起こった魯郡兵の奮起、それは敗色濃厚であったその場の空気を一変させた。


そんな異様な熱気の中、左近は自分の責務を果たすべく馬を前に進めた。

「……お前が、この部隊の将か」

「そうだ。名を、左近。山口と名乗っていたが…本当の姓を、北畠と言う。若き剛将よ、貴様の名を教えろ」

「…信虎様に仕える武田二十四将が一人、真田信綱だ。……さあ幕を引こうか、北畠左近」



完璧だった。私の作戦は、完璧だったはずなのに。


どこからか姿を現した数千規模の敵軍が、自軍の防陣を力任せに突破していく様子に、武田軍総大将を務めていた勝沼信友は言葉を失った。


数はまだこちらが多い。

しかしあの勢いを止めなければ、あの敵はここまで来てしまう。

特に先頭の一騎、おそらく指揮官級であろう男が先頭を走るせいで、後列も凄まじい士気で向かってくる。


…ここまで接近させてしまっては、もう策を使おうにも。

うっすらと脳裏をチラつく、敗北の二文字。しかし彼には、退路は存在しなかった。


彼ら武田軍が撤退するということは、信濃の国府がある上田城、その喉元である諏訪一帯を支配するこの地が奪われるということであり。

つまりは、上杉軍が上田城を攻略するための本格的な足掛かり、楔が打ち込まれることを意味する。


そんな大失態を犯した私にもう、生きる道など。



茫然自失としている間にも、敵は最後の守備兵を突破し。


「信友様、お早く退避を!……敵が、上杉軍が来ます!」

「の、信友様あ!」


すまぬ、部下たちよ。この愚かな将を許してくれ。


目の前で振り上げられる矛。


「ウオオオオオオオオオオオッ!!!!」


数万の上杉の兵たちの命によって、魯郡の兵たちの命をかけた囮作戦によって。

ついに敵本陣に届いた上杉憲政の鉞は。


敵総大将、勝沼信友の首を地に叩き落とすことに成功した。



「信綱様、本陣に火が…」

「チッ、豚がしくじったか。……まあいい、退却の号令を出せ。あの豚の尻拭いに俺の兵は使わん。…どちらにせよ——」

ズッ……と、槍を引き抜く信綱。

「あっ、ああ…左近、様…!」

そのままドサリと、地に崩れ落ちたのは。


「目的は果たした」



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