第弍部 第七話 血塗れの死地
信濃国の西側にて織田軍と暴雷の戦いが始まったのと時を同じくして。
中央軍の主戦場となる山岳地帯においては、武田軍の騎馬大隊が信濃・越後の大防衛線を烈火の如く攻め立てていた。
しかし最前線の位置こそ、各所に散らばった武田軍騎馬隊によって守備軍が大きく押し込まれてはいるものの、その一方向からのみの押し込みでは防衛線を抜くことは叶わず。
その様子を見た武田信玄は、早くも手を打つことにした。
武田の本陣から少し離れた場所に待機していた歩兵隊3000を、騎馬では通れない険路から向こう側に渡らせ、側面を叩かせようと動かしたのである。
一見そこを待ち伏せられれば簡単に止めてしまえそうなこの作戦だが、その場所には待ち伏せる側にも大きな危険がつきまとう。
それは単純に、その道の険しさ故だ。
周囲には断崖や人が登れないような高さの木々しかなく、とても3000もの歩兵を撃破できるだけの戦力を置いておくことなど不可能なほどの悪路。
しかし肉体的な側面に関しては他国の追随を許さない武田軍の歩兵たちは、多少手こずりながらも順調にその悪路を進んでいき。
ついに悪路の出口、そして上杉軍守備隊の横腹を喰い破れる位置へとたどり着いた。
「よおし、あとは突撃して敵をかき乱すだけだ!そうすれば騎馬隊が必ずここを突破してくれる、者ども命を捨てよ!信玄様に、勝」
檄を飛ばしていた隊長らしき男の言葉が、そこで途切れた。
何が起こったのか分からず困惑する兵士たち目の前で、男の首を貫いた刃がゆっくりと引き抜かれていく。
それと同時に、武田の歩兵たちの頭上、岩場からパラパラと小さな岩の粒が落ちてきた。
驚愕しつつも上を向いた兵士たちが見たのは。
半ば反り返るように聳え立つ岩場にビッシリと、片手でぶら下がる二百人あまりの兵士たち。
「なっ、バカな……こいつら、一体いつからここに!」
「開戦した瞬間からだよ。……てことではるばる来てくれたとこ悪いが、お前らここで打ち止めだ」
あり得ない場所から姿を現したこの伏兵の正体は、先の越前越後大戦でも中央軍として乱戦に入り活躍した、畠中三善の軽装歩兵部隊「山猫」。
構成隊員わずか200人。
その数は他隊に比べて極端に少ないものの、ひとたび山中で彼らに出くわしてしまえば生きて帰れる者はいないと言われるほど、ゲリラ戦に優れた小隊である。
三善自らが考案した、ハッキリ言って異常なまでの修練によって人間兵器と化した彼の部隊は、今回行ったような常軌を逸した作戦であっても顔色ひとつ変えず実行する。
その後は将を討たれて混乱した歩兵隊3000を、待ち伏せしていた山猫の200が散々に蹂躙する展開となった。
この予想外の待ち伏せにより、信玄の立てた挟撃の策は崩れ去ったのである。
「三善様。これでここの戦場も、もう少し保ちそうですね」
「…そうだな。それに、ここは元からあまり心配はしていない」
三善のその言葉に、「山猫」の隊員たちは驚きの声をあげる。
「ここもかなりの激戦のように思われますが…どこが最も厳しいとお考えでしょうか」
一応三善に対して質問の体は取ってはいるものの。彼らは当然、たった9000で一軍を相手取る右翼が最も苦戦を強いられると、三善はそう答えるだろうと思っていた。
しかし、彼の言葉はその場の隊員たちの予想を大きく覆す。
「右翼が最も厳しい戦いになる、ということはない。なぜならあそこには、義道の暴雷がいるからな。詳しい事情は話せぬが、奴らは単独でも十分に一国と戦える力を持つ」
「ということは、つまり…」
「…そう。殿と上杉公が入られた左翼だ。ただの勘ではあるが、敵は正体不明の六万規模の大軍……おそらく、左翼はどこよりも”死地”になるぞ」
奇しくも、畠中三善のその予想はどんぴしゃりに的中する。
この大侵略戦争を通して、全体の戦場の中で中央軍、右翼の戦場の犠牲者数は両軍合わせて六万人程度。
これだけ見ても、この時代の戦争としてはかなり多い部類の数字なのは間違いない。
しかし、越後左翼。
崖に面した強固な山城が複数存在する過酷な地形を舞台に繰り広げられる、この戦いでは。
越後・信濃の合同正規軍と正体不明の敵軍、死者は合わせて七万を超えた。
そんな屈指にして決死の最激戦地の戦いに、輝虎たちは挑んでいくこととなる。
開戦直後から凄まじい乱戦となった左翼の戦い。
あの武田の騎馬隊にすら押し負けなかった私兵たちが、じわじわと押し込まれている。
その事実を前に、憲政は内心密かに肝を冷やした。
「山本様討ち死に!坂野様も討ち死に!加えて坂野隊は全滅したとのこと!」
「……寺田隊に横から突入するよう指示を。それと、このままでは中央が危うい。儂の直下兵『死蜂』に助けに行かせるのじゃ!」
「ハッ……殿、上村隊から救援要請です!……それと、もう一つご報告が!」
どうした、と聞き返すよりも先に答えはやってきた。
けたたましい蹄の音とともに、上杉軍本陣の左手にある森の中から姿を現したのは。
「越後軍15000、助太刀に馳せ参じました!数は絞りましたが、選りすぐりの精兵たちです!」
この三ヶ月で再び力を取り戻した白虎隊の3000を先頭とした、越後軍である。
「憲政様…!ご無事で何よりです!」
「…よくぞ、よくぞ間に合わせてくれた!戦況を説明する故、すぐに将校を呼んで本陣に入ってくれ!」
あらかたの戦況を聞き終わった輝虎は、しばしの間沈黙してから口を開いた。
「状況は……思ったより芳しくなさそうですね」
「…ああ。想定していたよりも、敵軍の強さが尋常ではないのだ。特に、定期的に敵総大将が率いて出てくる強部隊がとてつもない。奴らが出る度こちらの前線が崩壊しかけているのだ」
「…それでは我々は、中央に入って戦うということに」
輝虎のその言葉に、憲政は首を横に振った。
「いいや、お主らにはもっと特別な役割を果たしてもらいたい」
「特別な役割、ですか…?」
さすがの輝虎と言えど、憲政のこの言葉の真意までは分からない。
すると憲政は、地図のある箇所を指差しながら続ける。
「越後の中から、特に突破力のある五千ほどをさらに選んでここに待機させて欲しいのじゃ」
「五千を、ここに…まさか!」
そう、そのまさかじゃ。……道は我々が開ける。そこでお前たちは——」
軍議終了後。
輝虎は、憲政の言葉通り越後全軍の15000をさらに3つで割ったうちの一つ。主に白虎隊3000からなる実行部隊に入っていた。
あの時告げられた、衝撃の作戦。
だがこの危機を脱するには、これを成功させる以外に道はない。
すると、本陣から甲冑を着込んで矛を手にした憲政が出てきた。
齢六十六の老将とは思えないその荘厳な佇まいに、輝虎たち越後兵だけでなく彼の側近たちも、思わず息を呑む。
「憲政様、『死蜂』の準備が整いました!」
「…状況が状況じゃ。後方から『狂蜂』も呼んでおけ」
「なっ、なりませぬ殿!『狂蜂』を用いるなど!」
「分かっておる。だが、やらなければならぬ。…分かってくれ」
しばらくして到着したのは、顔を完全に覆う鉄製の覆面を身につけた異様な集団。
彼らが、今回の戦いの助攻を担う部隊。
生ける伝説、上杉憲政の「暴力」の部分を一手に背負う、戦闘集団『狂蜂』。
歴戦の猛者であり、ましてや自軍の仲間であるはずの憲政の側近たちでさえ、その言葉を聞いただけで震え上がる特殊作戦部隊である。
かつて全盛期を誇っていた武田軍との戦いにおいて、上杉軍が残り数千ほどまで追い詰められ、さらには憲政のいた本陣まで敵が押し寄せるという窮地があった。
しかしそこから圧倒的な巻き返しを見せ、逆に敵軍の総大将の首を取るという大逆転を起こしたという”上杉伝説”の中でも最も有名な「諏訪湖畔の戦い」である。
そしてその奇跡を実際に起こして見せた部隊こそが、彼ら「狂蜂」。
彼らの突撃は、防陣を紙切れのように切り裂く。
そしてこの部隊を用いた回数は、憲政の永き戦歴の中でもたったの4回。
その理由は——
「者ども準備はよいかあ!……始めるぞお!!」
「「「ヴァオオオオオオオオオオオッ!!」」」
憲政の号令で、雄叫びを挙げながら狂蜂が敵防陣へと突っ込んだことで。
最激戦の地。信濃防衛線左翼、その2日目が始まった。
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