第壱部 第十二話 始まりの終わり
地獄。
屈強な騎兵たちが正面からぶつかり合い、血を拭きながら弾け飛んでいく。
その様子を一言で表すとすれば、その言葉をおいて他にないだろう。
その先頭を走る輝虎の目に写る景色は、まさしくこの世のものとは思えないほど”死”に満ちていた。
目の前に飛び込んでくる敵の騎馬を、矛で片っ端から斬り伏せて進んでいく。
いったい何人か斬ったのかも分からず、すでに腕の感覚もない。
これだけ急勾配の坂を馬で登りながらの激戦など、今まで一度として経験したことのないものだ。
これぞ、命懸け。
疲労と酸欠で飛びそうになる意識を繋ぎ止めながら、返り血で滑らぬよう襷で手に矛をがんじがらめに結びつけて、それでも尚進み続ける。
全ては、勝利のために。
本来なら、台地の上での壮絶な乱戦が想定されていた場面である。
ではなぜ、このような正面からの潰し合いの様相を呈しているのかと言うと。
丘上に布陣することで絶対的な有利を持っていたはずの朝倉孝景の騎馬隊が、高野堂峠の心臓破りの坂を駆け降り、輝虎率いる白虎隊に正面から突っ込んだのだ。
これにより、越前越後大戦、その終着点となる高野堂峠の戦いの火蓋が切って落とされた。
先に述べた通り敵から見えづらい位置で布陣できたはずの朝倉軍だが、孝景がとった策とは「全軍突撃」の号令のみ。
「殿、本当にこれで良かったのですか。…殿の知略をもってすれば、この台地でもっと大規模な策を使うこともできたかと思いますが」
当然の疑問を口にする惣兵衛だったが、それを聞いても孝景はひたすら楽しそうに笑うだけ。
惣兵衛とて、孝景のことは心から信用している。
しかしこの場において真っ向からぶつかり合うだけの突撃では、こちらにも甚大な被害が及ぶのは明白だ。
それを押しての判断なのであれば、そこにはさらに大きな理由があるはず。
再び問おうとした時、孝景はゆっくりと口を開いた。
「下手な策を弄しても、あの化け物相手には易々と突破されてしまうからなあ。……であれば、高所を取っているこちらから勢い任せにぶつかり合った方がまだ勝機はあろうて。惣兵衛、第二陣にも準備させろ。すぐに出るぞ」
「なるほど、より確実にと……しかし殿、先程の第一陣の突撃で奴らの先頭もかなりの被害を受けていました。あれで輝虎も死んだのでは…」
しかしその言葉に彼は何も答えず、坂の下を覗き込んで……兜の奥の目を実に楽しそうに細めた。
つられて下を覗いた惣兵衛は、そこで信じられないものを見た。
5000はいたであろう第一陣がみるみる切り裂かれていくのだ。最初の突撃で一瞬勢いが落ちたかに見えた白虎隊はものの数巡の後に勢いを取り戻し、坂の下側とは思えない凄まじい速度を保ったまま、朝倉騎馬隊の第一陣の中を駆けてくる。
そしてその先頭で、一際目立つ騎馬が一人。
「……な、なんという…」
これには思わず、その様子を見ていた朝倉本陣の誰もが目を奪われた。
ドオっという音と共に、最後尾の兵たちが吹き飛んだ。そうして姿を現したのは、全身を返り血で濡らした輝虎とその背についてきた白虎隊。
その数はおよそ1200ほどにまで減っている。
裏を返せば、あの濁流の中でも3割弱しか離脱しなかったということにもなる。
言葉を失っていた惣兵衛がふと周りを見回すと、先程まで突撃準備を取っていた騎馬第二陣の姿がない。
そして、主人である孝景の姿も。
……まさか。
バッと視線を下に戻すと……なんと、そのまさかが起こってしまっていた。
第二陣6000を率いた孝景と、残った白虎隊700を率いた輝虎が互いに正面に立って睨み合い。
そしてその場で、総大将2人は何か言葉を交わし始めたのだ。
時には笑みも見られる2人のその様はあまりにも異様であり、孝景の背後に続く6000の兵たちも困惑し始めていた。
本陣を預かる惣兵衛はすぐにでも本陣守りの第三陣7000に号令をかけ、坂を下って輝虎を討ち取るべきだったのだが……その本陣でも、異変が起きていた。
「じ、準備を急げ!この数で突撃すればいくら輝虎と言え、ど……ひとたまりも…?」
「惣兵衛様、この音は一体…」
準備を始めた第三陣の頭上、森に包まれたほぼ垂直の斜面から、ドドドドドッと蹄の音が真っ直ぐ迫ってきたのだ。
やっと音の正体に気づいた崖下の兵士が声を上げた時には、何もかも遅すぎた。
仮にも本陣近辺の守りを任される精兵たちが、軽々と吹き飛ばされていく。
立て込めた砂煙に巻かれ、何が起こったのか分からず呆然とするしかない惣兵衛たち本陣将校の目の前に、ゆっくりと人影が現れた。
「貴様らは、一体…!」
先に続く言葉はなく、惣兵衛の首がくるりと宙を舞った。
「知らないなら覚えておけ……俺が長尾の懐刀、直江兼続だ!」
兼続ら親衛隊と白虎隊の合同部隊による、朝倉軍本陣急襲。これらはもちろん偶然などでは無く、事前に輝虎によって仕向けられたものである。
開戦の10日前。
御靖城で行われた家臣会議の後、輝虎は既にこの策を兼続に授けていた。
彼自身が重傷を負うというところまでは流石に想定外だったものの、賀岳城の陥落による孝景本陣の退却、高野堂峠で追いつくことや敵が台地部分に陣を敷くことまで。
全て、彼の手のひらの上。
つまり輝虎は、敵、味方、さらには時間や空間まで支配下においた上でこの前後挟撃の絵図を描いたのだ。
本陣の異変を察した瞬間にそれに気づき、これにはさすがの孝景も顔を青くした。
戦においてもっとも敵の士気を下げ、反対に攻めている側は勢いを増す攻撃の形。
それが、挟撃である。
それに加えて、今孝景本隊6000を挟み込もうとしているのは越後側が誇る二大強部隊、白虎隊と直江親衛隊。
いきなり指揮官を失ったことで、混乱の只中にある敵本陣7000を喰らう役割に200を割いたその数は、前後を合わせて1500ほど。
しかしたとえ4倍の兵力差があったとしても、この二隊に前後から挟み込まれれば、いかに孝景といえどもひとたまりも無い。
孝景と輝虎。
馬に乗ったままの両大将は一歩ずつ距離を詰めると……雷光一閃。岩をも両断すると言われる孝景の剛剣が、無警戒だった輝虎の首を跳ね飛ばした——かに見えた。
が、しかし。
奇襲で放った渾身の一振りを、輝虎は矛により片腕で受け止める。
「もう少しすれば俺たちの増援が追いつくぞ。…詰みだ、孝景」
そう、勝敗は決した。しかしその事実を突きつけると同時に、輝虎の放ったその言葉は暗に「お前を殺すつもりはないから剣を納めよ」とも言っていた。
輝虎のその言葉には何も返さずに、孝景はもう一度刀を振り上げながら言う。
「ふっ…やはりなあ。お主と戦った将たちが頑なに何も語らないのは、才能の差に絶望した故か」
二度目は、頭上から振り下ろすような強烈な一撃。
しかし輝虎はこれも片手で受け止めると、それを押しのけるが早いか。
今度は目にも止まらぬ速さで矛を一閃。孝景の鎧が砕け散り、彼の肩口からブオッと血が飛び散る。
たった二度の打ち合い。
しかしこれだけでも、両者の間に存在する圧倒的な武力の開きを見せつけるには十分すぎるものであった。
「今すぐ全兵に戦を解かせて降伏しろ。そうすれば、お前と残った兵の命は保障してやれる」
輝虎のその言葉に、孝景の周囲にいた側近たちの間でざわめきが起こる。
「と、殿…!こんな男の言葉に耳を貸してはなりません!」
「そうです、今すぐ全兵に突撃命令を!徹底抗戦のご命令を…!」
数巡ののち、孝景はゆっくりと口を開いた。
「…輝虎。さっきの貴様の話は、本心であろうなあ」
「…ああ、その通りだ。俺は…」
しかし、輝虎の言葉を最後まで聞く事なく。
孝景は、三度刀を振りおろした。
「ならばこんな老将になど構うな!儂を打ち砕いて見せろ、輝虎あ!!」
「……ッ、孝景!!」
孝景の振り下ろしに対し、二撃目よりもさらに速い速度で振り上げられた輝虎の天ノ白鉾は、朝倉家の宝刀を完璧に打ち砕き。
スローモーションになる世界の中で、目の前の無骨な男が、ゆっくり笑ったように見えた。
そしてその瞬間。
輝虎の矛が、孝景の胸を貫いて突き抜けた。
噴き出した鮮血とともに大きく後退りする孝景の目には、すでに光はなく。
夥しい量の血を流しながら、それでも孝景は輝虎の目をしっかりと見返して言う。
「若い、若いが……なんと猛った目をする。こんな化け物が、まだ隣国に隠れているとはなあ……まさに眠れる虎、か…」
そこで再び大量の血を噴くと、フッと孝景の体から力が抜け落ちた。
馬上から落ちそうになる仇敵の手をしっかりと握り、グイっと引き戻す。それが、最後まで敵に降ることをしなかった誇り高き敵将へ、輝虎ができる唯一のことだった。
「……た、孝景…様…」
「…うぐっ……殿…!」
孝景の側近たちが彼の体をゆっくりと地面に下ろすと、大きく見開かれた両の目がゆっくりと閉じられていく。
「後を、頼んだ。………先に逝っている、ぞ…」
言い終わると同時に、孝景の腕がすとりと地に落ちる。
「……!!」
側近たちの、声にならない慟哭がこだまする。
戦国時代前期を牽引した猛将であり、一つの時代を築いた英雄、朝倉孝景。
その厳格な最期であった。
長い沈黙ののち、輝虎は腕を突き上げて天高く叫んだ。
「…敵将、朝倉孝景!!越後国主、長尾輝虎がこの手で討ち取ったぞおおお!!!」
その声に、坂上の台地で壮絶に戦っていた本陣守備隊もハッとなって下を覗き込み……ある者は勝ち鬨をあげ、ある者は主の死を嘆き悲しんだ。
その波は、瞬く間に台地のあらゆるところに伝わり。
その時点で全朝倉兵が戦意を喪失し、武器を捨ててその場に崩れ落ち、大粒の涙を流して偉大な君主の死を悼んだ。
朝倉軍の残存兵力、これにて完全降伏。
越前の国主にして、朝倉軍総大将。朝倉孝景、高野堂峠にて討ち死に。
この瞬間、越後を揺るがした越前越後大戦、その勝者が決まったのだった。
そして、これはあくまでも序章に過ぎない。
この勝利をきっかけにして、彼の名は日本全土に広まっていくことになる。
史をねじ曲げ、運命をねじ曲げて戦う大天才。
再び言わせてもらおう。
これは、長尾輝虎の——否。上杉謙信の、天下統一までの物語である。
第一章 若き虎 完
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