第9話 小手術と微熱
“小手術”をした月曜日の翌日、さすがになにか運動する気にはなれなかった。なるべく、刺激するような行動は避けた。当日は、飲酒は避け、運動もせず、入浴はシャワーだけにした。汗水漬くになったから、シャワーくらいは浴びたかったのだ。
一日おいて“小手術”から三日後の水曜日になった。傷口の様子を見ると、出血はない。“小手術”直後は傷の跡のような染み出しがガーゼに付着していた。何度か交換したが、染み出す液体もなくなったので、もう良かろうと、日が沈んだあとジョギングに出た。
走り出して、十分もせずに、くちびるに違和感を覚えた。ジンジンするのである。傷が新しいときによくある現象だ。血流が活発になる入浴時などに起こる。少し後悔した。また医師を信じすぎた自分に軽く舌打ちした。
空梅雨で多くの市民が川沿いのジョギングコースを走っていたり、歩いていたりした。
「今日はたくさんいるな」
とジンジンするくちびるを抱えながら、通り過ぎる人々を観察していた。
ふと、違和感を感じ、下を見ると、石が歩いていた。
「なんだ」と石をすんでのところで飛び越えた。
振り返り確認すると、蟹であった。大人のこぶし大はあるだろうか。両腕は太く、はさみのあたりには、なにか海藻のようなものが張り付いていた。ただし、存在する腕は片方だけで、もう片方はなかった。はじめシオマネキに見えたが、それにしては大きいようだ。よく見るともう片方はもげたようだった。
このあたりは確かに河口に近い地域だが、海水はそこまで入り込んでいない。沢ガニにしては立派だ。細い石畳の道を通り過ぎる車のライトに照らされながら、蟹は一生懸命植え込みに逃げ込もうとした。捕まえて川に投げ入れてやろうと一瞬考えついたが止めた。これでは仲間からも独りで浮くだろうな、と思った。
――いろいろあるけど、どこで生きるも死ぬもいっぱしの蟹であるおまえの自由だよな。おれははさみが一本でも、おまえを馬鹿にしないし、邪魔もしないよ。
場違いな蟹を見て、私はそう思った。
翌日の木曜日から、見事に発熱した。
今はコロナ禍である。発熱は非常な恐怖である。もちろん、微熱である。巷間いわれる基準の、三七・五度には届かない上昇だ。また、喉、口、鼻などの呼吸器、味覚にも異常はない。これは経過観察だろう、と処方された抗生物質を飲んだ。熱はそれから数日続き、土曜日にもまだ熱はあった。日曜日には下がった。
カミさんに一応、「何かあったら」という話をした。伝えないとトラブルを引き起こす。
やはり自分はあの蟹のようだ、と思った。
共通して、自分の身体に対するコンプレックスを持っていた。
竹内まりや似の先生の言うことはまたもや外れたのだなと少し恨んだ。もちろん、鵜呑みにはしないで、処方された薬についてはきちんと調べた。抗生物質と痛み止めは特にきちんとチェックした。間違えて飲めない抗生物質や痛み止めを飲んでしまうと、腹痛を起こしたり、下痢をしたり、最悪な状況では大量に下血したりする。
しかし、病状については個人差があるので仕方がないと理屈としては理解はしている。
「毛細血管拡張性肉芽腫」になってから、鬱々とした日々を過ごしてきた。手術などを受けると、一度思い切り憂鬱になる。今回は微熱が出たことも抑鬱に拍車をかけた。たかが微熱なのであるが、精神に大きな影響があった。
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