第10話~夏海サイド~
休憩時間になるとお決まりのように文庫本を取り出して読み始める。
髪の毛は伸ばし放題で重苦しく、いつも前髪で自分の顔を隠している。
そんな早紀の、蔭のあだ名は『浮浪者』だった。
決してそこまで汚いわけではないが、化粧やオシャレに敏感なあたしたちにとっては同じようなものだった。
どうしてもっと綺麗に髪を整えないのだろう。
どうして少しくらい化粧をしないのだろう。
どうしていつもダサイ制服の着こなしをしているのだろう。
そんな話題は尽きなかった。
そしてあたしも、何度も早紀のことを『不良者』と呼んだことがあった。
「いいか。ここで前を歩かないと、お前は今よりもっとヒドイ目にあう。E組の汚点になるんだ」
光平が威圧的に早紀へ言う。
早紀がうるんだ瞳をあたしへ向けてきた。
しかし、あたしは咄嗟に目をそらしてしまう。
そうだよ。
早紀が行けばいい。
いつでも誰かの後ろにいて、前には出ないんだから。
そんな気持ちが頭をもたげてくる。
こんな状況で前に出ればどうなるか、もう充分理解している。
梓のように死ぬかもしれないのだ。
それでも、あたしは光平を止めることができなかった。
あたしは死にたくない。
それだけだった。
「いい加減にしろよ!」
凌が大きな声をあげたその時だった。
早紀が一歩前へ出たのだ。
ピアノ線へと一歩近づく。
あたしはハッとして息を飲んだ。
早紀の目の前には沢山はられたピアノ線がある。
それをよけて歩くことは不可能だった。
「あたしは……みんなと馴染めなくて、でも……E組のことは好きだった」
早紀が静かに言葉を紡ぐ。
それはまるで、遺書のようだった。
「好きだったよ……」
早紀の頬に涙がこぼれた。
そしてもう一歩を踏み出したのだ。
「早紀!」
凌が手を伸ばす。
しかし遅かった。
早紀の体はピアノ線に触れていたのだ。
張り詰めていたピアノ線は一瞬緩む。
次の瞬間、頭上から何かが落下してきた。
咄嗟にその場から離れて身をかがめる。
早紀の悲鳴が聞こえてきて、次になにかが蒸発していくようなジュッという音が聞こえてきた。
一体なにが起こったの……?
恐る恐る目を開けてみると、まずはブルーのバケツが床に転がっているのが見えた。
頭上から落下してきたものはきっとこれだったのだろう。
しかし、わからないのはその近くに転がっているものだった。
赤黒く変色した何かから、シュウシュウと音が出て煙が立ち上っている。
それを見た瞬間、刺激臭が鼻にツンッと入ってきた。
その匂いに一瞬にして激しい吐き気がこみ上げてくる。
あたしは口と鼻を手で覆い隠してそっと立ちあがった。
立ちあがって確認してみると、赤黒い塊が女子生徒の制服を着ているのがわかった。
よく見ると、スカートの下には2本の足が見えている。
白くて細い足にはかれているシューズにはマジックで小野と書かれている。
「嘘でしょ」
知らぬ間にそう口走っていた。
ついさっきまでそこに立っていた早紀が、今は赤黒い塊になっているのだ。
顔は完全に消失してしまい、片口までドロドロに溶けて煙が出ている。
シューズに名前が書かれていなければ、誰だかわからなくなっているのだ。
「硫酸だ」
光平が小さな声で呟いた。
ピアノ線に触れた瞬間、バケツに入った硫酸が早紀の頭上に落下してきたらしい。
そう理解するまでに少し時間がかかった。
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