烏丸凛子
「烏丸が欲しかったって、なんですかね?」
タクミはミサキの背に尋ねた。
「言葉通りでしょう。カッコイイじゃないですか、烏丸って」
「――は?」
眉を寄せるタクミに、肩越しに薄笑いを見せ、ミサキは
「すげ。なんだこりゃ」
十畳ちかい子供部屋を埋め尽くす、大量のダンボール箱。足を踏み入れると、躰が傾ぐ感触があった。歪みは年月ではなく、箱の中身が生み出したのだろう。
「何が入ってるんすかね」
言って、タクミは積み重なる箱のひとつを開いた。
「……漫画……?」
「同人誌です」
「ドウジン……あ、あれだ。コミケ? とか。ああいう」
ミサキが意外そうな顔で振り向いた。
「ご存知でしたか」
「そりゃ漫画くらい読みますし――昼のワイドショーなんかでもやってるでしょ」
「あんなもの見てる暇あるんですか?」
「事件が解決すると主任が蕎麦屋に誘ってくるんで」
主任の行きつけは、古代蕎麦がどうとかいう、紙粘土を撚ったような蕎麦を出す店だった。出てくるまで妙に時間がかかるため昼時は席が余っていて、待つ間テレビのワイドショーに悪態をついていた。
「よく漫画なんぞに何万人も――って、これ、もしかして」
「どうでしょう。同人は半分くらいじゃないですか? 残りはアンソロやグッズとかでしょう」
「……マジすか」
半分にしても多すぎる。薄いから一箱に百や二百は入っていそうだ。しかも、
「これで八百円!?」
「それなら少しくらい利益が出てそうですね」
さらりと言い、ミサキは勉強机を漁りだした。
「少し? 利益が? この厚さで?」
「個人で出すんですよ? 普通は二十か三十か……八百円だと百くらい刷ってます」
ミサキは興味なさげに答え、
「……これじゃないか」
手近なダンボールの上に置き、別の抽斗を漁る。
タクミは何の気なしにノートを開いた。丸っこい字体。少ない漢字。子供の頃の日記のようだ。
『……年、八月八日 はれ。
アイクさまと海に行った……』
「……誰?」
「さあ? 当時の推しじゃないですか?」
「オシ?」
「応援してる人とか、キャラですよ」
新たな日記を掘り出し、パラパラめくり、ミサキは顔をしかめた。
「根が深いですね、烏丸凛子」
「は?」
「その日記、何歳の頃のですか?」
「へ? えっと……小学……二年くらい?」
「サラブレッドです」
「あ? 今度は競馬すか?」
凍てつく視線をぶつけられ、タクミは唇を湿らせた。
「説明をお願いできます?」
「烏丸凛子は両親がともに本物です。この日記によると、母親も……ちょっと常軌を逸した夢女子だったみたいですね。それで合点がいきました」
「合点て。古臭い言い回ししますね」
コクン、と喉を鳴らし、ミサキが言い直した。
「納得しました」
「別にいいんですが。――夢女子というのは?」
「アニメとか漫画とか、好きな世界に自分を投影したキャラを置いて、意中のキャラと付き合ったりとか、そういうのを妄想するタイプです」
「え、きも」
言った瞬間、ミサキが眼光を鋭くした。
「タクミさんはアイドルと付き合う想像をしたことは?」
「え?」
「それでマスターベーションをしたことは?」
「ちょ、マスタ――」
「同じですよ。形は、まったく違いますが。気持ち悪いですか?」
「……いえ」
うなだれるタクミに、ミサキは鼻を鳴らした。
「気持ち悪いと思うのも自由です。私も男子を気持ち悪いと思ってましたし」
「え」
「でも、わざわざ寄ってきて口に出すことはない。そんなことをするから、極限に達するのが出てくる」
「なんかよく分からないんですが、それが原因?」
「一部は。彼女の名前が犠牲になったのもあるでしょう」
渡された日記には、名前の由来を調べるという課題について書かれていた。今どきはもうやらないと聞くが――、
『……ちゃんは心の広い子になるように、のんびりと生きていけますようにと願われている。みんな、ちゃんとした意味がある。じゃあ私は? 烏丸と結婚したかったお母さんの腹から生まれた、父さんがやってたゲームの子。似ても似つかないって。そりゃそうだろ。こりゃーもう、ダメだな。私は生まれたときから……』
前半は級友の名への羨望、後半は筆致も激しい、
「――諦念?」
タクミの呟きに、ミサキが頷く。
「誤魔化さずに子どもに教えてしまうあたり、救いようがないと言うべきか、潔いというのか……烏丸凛子は開き直って、腐り始めた」
「腐り始めた……?」
「それまでは何でもいけるクチだったようですが、一気にBLに傾倒しはじめます」
BL。脳内で復唱しつつ、タクミは試しに同人誌のひとつを開いた。
「……ああ、そういう……」
「自分で創作も始めたみたいですね。箱の一部には余りもあるかも」
「……それとあれと、なんか関係が?」
「普通の創作なら別に。のめり込みすぎると世の中の見え方まで変わってしまって、ありとあらゆるものに関係を見出すようになってきますが」
「ありとあらゆるもの」
部屋の壁に書き殴られた名詞と人名の山。塗り重ねられる
「……狂うんですか」
「いえ。まだ正常の範疇です」
「マジですか」
「――あった。これか」
ミサキは比較的新しいノートを見つめ、悲しげな顔で天井を仰いだ。
「……十五年も前に終了したポッと出に、今さら……?」
「……なんです?」
「……原因を発見しました。最悪のパターンです。彼女を成仏させられるような燃料を、救いを用意できるかどうか……」
「どういうことです?」
タクミはミサキの手から日記を取った。
『……なんで今ハマっちゃったんだろう。どうして私は十五年前に生まれていなかったんだろう。なんで母さんはハマってくれなかったんだろう……』
切なげな字体に文面、苦悩――
『ないないないない! 全然ない! 残ってない! みんなドコに行っちゃったの!? もう滅んだ集落だなんて認めない……』
焦りか、怒りか、集落とは?
『見つからない。全然、見つからない。もう全部? これで全部? 手に入れちゃったの? 何軒回れば見つかるの? お前にはリバしかやれないってこと? 無理無理無理無理……』
筆致が酷く乱れている。同じ言葉の羅列は何を意味する。
『スカラカ、チャカポコ、スカラカ、チャカポコ。あ―――ァ。さても切なや、悲しや、辛や。かけるや、かけろや、かけましてェ。吾身の腐道は親御譲りのキチガー……』
「これは……」
絶句するタクミ。ミサキがページを覗き見て、鼻を鳴らした。
「そこはドグラマグラのパロディです。まだ正常の範囲ですよ。酔っ払ったかなんかして書いたんじゃないですか?」
「正常? これで?」
「正常じゃなきゃ狂気は書けません。何が狂気か理解できませんから」
キリ、キリ、と首が勝手に傾いでいくのを感じ、タクミは一時、思考を捨てた。
「えと、何が分かったんです?」
「燃料の元ですよ。二年前のものですが、それが一番あたらしい日記でした」
ミサキは腕まくりをしながら言った。
「数が多いので手分けして探しましょう。今から言うサークル名と、そこに含まれる作家を探してください。めらんこりゃ、ハースワーク、
「ちょ、サークル? 探すって、この箱ん中からですか? ふたりで!?」
「急がないと、最悪、被害が増えますが?」
「……そういう言い方は卑怯じゃないすか?」
両手を腰に置き、強く息を吐いて、タクミはダンボール箱を下ろした。
「基本、上の方っすよね?」
「だと思います。それか、厳重に封印されている箱です」
作業は虫すら寝静まるまで続いた。箱という箱を開け、押し入れから床下まで調べ上げ、該当するサークル名のついた本や小物類を探し、
「……十五年……二年も探して、手に入ったのはこれだけですか」
ミサキが悲しげに呟いた。
今では起動すらおぼつかないであろう、古いゲームが一本。五十冊に足らないであろう同人誌。それに手垢で汚れたグッズ類が少量。
「……これが燃料すか?」
「原作のメーカーはもう存在しません。サークルもどれだけ残っているか……」
「あの。燃料ってなんですか?」
「希望ですよ。五十年は戦えそうな」
「あの、意味が、まったく……」
ミサキは腰に手を置き、ため息をついた。
「ここから先は我々の領分です。私を送っていただけたら、それで――」
「そういうわけにはいかんでしょう」
「あまり気持ちのいい仕事ではないんですよ」
「警察にもね、そういう仕事、多いんですよ」
こっちは、仲間の仇を取らなきゃならねえんだ。
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