兆し

 二台の救急車が到着し、無音の赤色灯を回している。アパートの駐車場に敷かれたブルーシートには七名もの警察官が横たわり、救急隊員と、近隣の診療所から駆けつけた医師が、必死の救急処置を行なっていた。

 応援の制服警官が野次馬を牽制し、のいた部屋の入り口と、アパートの敷地に、立入禁止の黄色いテープが伸ばされていく。

 タクミは薄ぼんやりとした目をし、車中からそれらを眺めていた。まだ、心臓が強く脈打っている。カーエアコンの送風口を自らの顔に向け、設定温度を二十度まで下げた。吹き出した黴臭い風が、部屋の腐臭を彼に思い出させた。


「……なんなんだよ、アレは」


 ぼんやり呟く。冷えた汗が首筋を伝った。助手席のドアが開き、ミサキが乗り込んできた。


「……乗っていいって言ってないんですが」

「アシがないもので」

「協力しろとは言われてますけどね……」


 脳裏に、文字だらけの暗い部屋に立つ、腐臭放つ人影が過ぎった。


「ありゃ、なんですか」

「公共の安全を阻害する怪異ですよ」

「カイイ? なんです? 答えになってないでしょう」

「有り体にいえば、限界の先に行ってしまった人間です」

「人間? あれが?」


 部屋に入ったとき、まったく存在に気づけなかった――いや、突如として湧いて出たと言ったほうがしっくりくる。そう、まるで、


「幽霊みたいに……」

「紛れもなく人間ですよ」


 ミサキはため息とともに革張りの手帳を開いた。


「さっき制服警官あひるに聞きました。大家と連絡がついたそうです。部屋に住んでいたのは烏丸からすま凛子りんこ。年齢は――まあ、これはいいでしょう」

「は? 良くないでしょ。仲間が七人もやられたんだ。とりあえず、その烏丸凛子ってのを――」

「本人ですよ、あれが」

「は?」


 タクミはぽかんと口を開いた。

 

「嘘じゃありませんよ? あそこまでいってしまった例は少ないですが、状況から鑑みれば――」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 タクミは目元を隠し、たしかめながら言った。


「あの部屋に居たのが烏丸凛子?」

「そうです」

「烏丸凛子が、大の男を七人も捕まえて、口に――」

「はい。発酵食品を詰め込みました」

「……発酵食品って、そりゃ何の冗談ですか」

「冗談を言っている顔に見えますか?」

 

 言いつつ、ミサキは不思議そうにサイドミラーを覗き込んだ。するりと手がエアコンに伸び、設定温度を上げた。


「あのタイプは、発酵食品を好むようになるのがなんですよ」

?」

「元は普通の人間と言いますか……まあ少し変わったお嬢さんでしょう。大抵がそうですから。沼にはまったにしても普通はああなる前に踏みとどまる」

「沼? 沼とは?」


 ミサキが、しまったとばかりに唇を歪めた。


「……固執、ですかね。情念と言い換えてもいいかもしれません」

「固執……情念……つまり、怨恨がらみ?」

「そうですね。警察らしい理解ですが、まあ、それでも構いませんよ」

「何か腹立つ言い方っすね」


 ミサキは鼻で息をつき、丁寧に頭を下げた。


「不快に思われたのなら謝ります。ごめんなさい。これでよろしいですか?」

「……あんた、協力してもらおうって気、ないでしょう」

「まさか。私は求められれば協力しますし、協力してもらおうと思っていますよ。言われなければ仕事のひとつも全うできない人種とは違いますので」

「……あんたね」


 苛立ちながら顔を向けると、ミサキは手帳を参照しつつタブレットをいじっていた。


「ウチに捜査権があれば、こんな面倒なコミュニケーションはいらないんですけどね。そちらの顔も立ててやらないと、ですから」

「手伝ってもらわなくてもあんなの――」

「無理ですよ。適切な燃料を適切な量あたえなければ成仏してくれません」

「……燃料?」

「はい。燃料です。それを調べたいので、どうぞ、烏丸凛子の親族を警察に照会していただけませんか?」


 沼だの、燃料だの、意味がわからない。タクミは鼻で息をつき、スマホを取った。

 犯歴の代わりに出てきたのは、近隣のスーパーの名だった。万引の常習者を確保した際、通報者として烏丸凛子の名前が残っていた。

 パートタイマーではなく、裏方の正社員。勤務態度はマジメそのもの。温厚で、多少、人付き合いが悪いことを除けば問題らしい問題は何もない。


「……人付き合いが悪いというのは?」


 ミサキが尋ねると、スーパーの店長は腕組みをして気遣わしげに辺りを見回し、声を低めた。


「パートさんが話してただけなんだけど、正社員の癖に化粧っ気はないし服はいっつも似たようなの着てるし……お茶やら食事やらに誘っても絶対に来ないケチだって」


 では、貯めた金はどこにいった? タクミは腐臭の渦巻く部屋を思い返した。そこら中に書き殴られた文字列に意識をもっていかれ、思い出せるのは蝿のたかる腐敗した食品と、玄関の靴箱におかれていた二頭身の人形くらいだった。

 店での聞き込みも早々に切り上げ、タクミは烏丸京子の実家に車を向けた――が。


「だから空振ると言ったでしょう」


 赤信号に止められると、ミサキがいけしゃあしゃあと言ってのけた。


「……それでも聞きに行かなきゃでしょ。娘さんがあんな――」

「ご両親の興味のなさ、気づきませんでした?」

「そりゃ俺だって刑事の端くれですからね。分かりますよ」

「本命は仲が良かったという、お婆さんです」

「それが分かっただけでも――」

「最初からそうしようと提案したはずです」


 タクミは苛立ちながら助手席に向き直る。


「あんたね――」


 ミサキが前を指差した。


「信号、青ですよ」

「……はいはい。行きますよ、行きますよ」


 タクミはアクセルペダルをゆっくりと踏み込んだ。夏至を過ぎて早三週間、日が短くなってきている。


「……さっき聞きそびれたんですがね」

「なんでしょう」

ってのは何なんです? 発酵食品と何か関係あるんですか」

「……科学的な説明は面倒なので省かせていただきますが、結論から言えば、弱い関係があります」


 最初の兆候は言動に出るという。見た目や人に気を使わなくなり、生活の全てに沼が絡むようになる。当然、人付き合いは減り、沼の先鋭化が進み――、


「部屋でひとりで過ごす時間が増えるんです。あらゆるものを切り詰めて沼に注ぎだすと生活も変わりますから、味覚がおかしくなります。その頃には人目を気にしないようになっていますし、発酵食品にも手が伸ばしやすくなっているんです」

「……詳しいっすね」


 憎まれ口のついでに相槌を打ったつもりが、ミサキはギクリと喉を鳴らした。


「仕事ですから」


 焦りすら感じさせる即答を訝しみつつ、タクミは尋ねた。


を探す――でしたっけ。どうして祖父母が本命だと?」

「部屋に物が少なすぎました。どこかに置いていないとおかしい」

「でも実家――」

「実家に送るなんてありえませんよ」


 またも即答だ。タクミはカマをかけるつもりで言う。


「ご経験がお有りで」

「そ――違います。一般的な行動パターンですよ」


 一瞬、間違いなく『そうです』と言いかけた。タクミは口の中で笑った。

 烏丸凛子の祖母の家にたどり着いたとき、辺りはすっかり暗くなっていた。ヘッドライトに羽虫が集まり、どこかで蛙が鳴いている。車を降りると、雨が降ったあとの湿気った土の匂いがした。


「お化け屋敷とか言われてそうっすね」


 タクミの冗談には反応せず、ミサキは門柱に目をやった。ライトの下に、黒く汚れた『烏丸』の表札がある。砂埃の乗ったブザーを押すと、しばらくして家の電気が灯り、インタフォーンがノイズを発した。


「……どちら様ぁ?」


 間延びした掠れ声。タクミが顔を近づける。


「警察です。夜分遅くすいません――」


 ミサキが鋳鉄風の門扉を押すと、激しく軋んだ。庭に生えているのは琵琶の木だろうか。タクミと並び、引き戸が開かれるのを待った。

 そして。


「……凛ちゃん……可哀想な子だよお……」

 

 年の割に老けて見える凛子の祖母は、躰を前後に揺すりながら、どこともつかぬところに虚ろな眼差しを向けて、呟くように言った。


「あの女の所為だよお……あの女、烏丸の苗字が欲しかっただけなんだとお……」

「と、言うと?」

 

 タクミの問に答えず、老婆は続けた。


「あの子もあの子だよお、ゲームだかなんだか知らないけど、変なもんから名前を取った、とか言って……凛ちゃん、可哀想だよお……」


 埒が明かないな。タクミが顔を上げると、ミサキが小さく手招いた。頷き返し、老婆に尋ねる。


「少し部屋を見せてもらってもいいですか?」

「可哀想だよお……凛ちゃん、可哀想だあ……」


 老婆は、同じ言葉を繰り返すばかりだった。

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