極限腐人

λμ

本編

腐り果てし者

 七月十日、午後三時〇七分、近隣住民から異臭有りとの通報を受け、付近の交番から二名の警官が出動した。

 同日、午後三時十八分、現着。室内に呼びかけるも応答なく、大家とは連絡が取れなかったため、やむを得ず破錠の後、警官二名が突入。しばらくして、付近の民間人が悲鳴を確認した。突入した警官二名は戻らず。

 同日、午後三時二十九分、居合わせた民間人が再度通報、現況を伝え、県警察から五名が応援として参加。部屋に呼びかけるも応答なく、突入。悲鳴。誰ひとりとして戻らず――。


「ってわけで、行ってくれないか、タクミ」


 主任は気怠げな声音で言った。

 タクミは今まさに伝えられた現状に眉を寄せつつ答える。


「……俺ですか? なんで? 状況だけ見ればSATとか、そういうのの――」

「お上のご希望」

 

 タクミの言葉尻を食い取り、主任は天井を指差した。


「イキが良くて、若くて、イケメンがいいんだと」

「……イケメンて」


 言われて嬉しくないわけではないが……審査基準が主任となると、どうなのか。


「俺、まだ仕事がいくつか――」

「わーってるよ。こっちにしてもタクミに抜けられんのは困るんだ。でも、あれだ。しゃーねー、って奴だ」

「俺ひとりでどうなるって話でもないでしょう」

「だよな。そう思うよ。俺もな。けど上が言うなら聞かないわけにも……だろ?」

「上ってどこです?」

「コウアン」

「公安!?」

 

 思わず声を荒らげ、集めてしまった注目に会釈し、タクミは声を低くした。


「まさか、テロですか? だったらなおさら――」

「知らねえよ。引き抜きだったらこんなやり方しねえだろうし……とりあえず行ってくれるか? 俺の顔を立ててさ」

「……まあ、断るのは難しそうですしね」


 タクミはため息交じりに躰を起こし、ジャケットと肩にかけた。


「でもこれ、半分は貸しですからね?」


 言って、部屋から出ていこうとする背中に、主任が声をかけた。


「もう半分はなんだ?」

「そりゃ、晩飯と晩酌ですよ」


 肩越しに笑みを見せ、主任のよせとばかりに振られる手を見て、部屋を出た。

 通報のあったアパートは、すでに数台の警察車両と野次馬が集まっていた。東京都内にあるとは思えない、古い映画にでも出てきそうな安アパートだ。雑草の生えるダスト舗装の狭い駐車場に、二階建てのワンルーム。現代に生えてきた長屋といった風情である。

 タクミは車外に出た途端、肌に貼りついてくる湿気に辟易としながら、赤錆びた階段を昇って、当該の部屋に近づく。


「……クソ、なんだこりゃ」

 

 思わずうめき声が漏れた。階段の途中から感じていた異臭が、廊下に立つと鼻を突き刺してきた。これが噂に聞く夏場の孤独死の臭いかと思うと酷く気が滅入った。


「こんちゃーす。えっと……」


 タクミは部屋の前にいたパンツスーツの女にお伺いを立てる。例の、お上とやらだろうか。年は同じくらいで、涼し気な目元をし、警察より別の仕事が向いていそうなお顔だった。


「――どうも。コウアンの長波ナガナミミサキです」


 言って、女が差し出した名刺を受け取り、タクミは眉を顰める。


「……コウキョウ、アンゼンキョク? って、なんです?」


 公安調査庁ではない。つまり、テロリズム絡みではないということか。

 ミサキが、小さく鼻を鳴らした。


「防衛省管轄のドマイナー部局ですよ。に呼ばれるんです」

「というと」

「現代怪異の専門部署ですね。捜査権がなくて」

「ゲンダイ? カイイ?」


 聞いたことのない単語の連発に、タクミは名刺を持て余あす。


「まあ理解できないでしょうが、指揮系統としてはこちらが上になります」

「……それは軍人さんだからってことですか?」


 ミサキのつれない態度につい軽口で応じたが、彼女は両手を小さく挙げて応じた。


「生きるか死ぬか、ちょっとした事で変わる仕事なんです」

「テロ?」

「というより、ホラーですよ」

「……どういう意味です?」

「今から、体験して頂きます」


 ミサキが薄く笑い、ドアノブに手をかけた。思わずタクミは声を鋭くする。


「ちょっ、モノには順序ってのが――」

「警棒なんて抜いても無駄です。体育会系のノリは分かりますよね?」

「は?」

「体育会系です。それか――分からなければ陽キャで」

「はぁ?」


 混乱を深めるタクミに、ミサキは自信たっぷり言う。


「分からなければ、私に合わせてください」

「初対面の人に?」

「それができると見込まれて寄越されたはずですよ」

 

 サラリと言ってのけ、ミサキはドアノブを回した。


「ウェーイ! 元気ー!?」


 なんだそりゃ。タクミは眉を寄せたが、しかし、


「ウェーイ! 来たよー!?」


 合わせろ言われた以上しかたなく、声を揃えた。

 鼻を突き刺す異臭。薄汚れたスニーカーと、履き古された合皮のパンプスしかない三和土たたき。だが、その質素さよりもむしろ、靴箱の上に置かれた古ぼけた人形が気になった。

 いわゆる『ねんどろいど』――手のひらに収まる、二頭身のフィギュアの群れ。


「……なんだこりゃ」

「知らない界隈です」

「はい?」

「集中して」

 

 言って、ミサキが土足のまま部屋にあがった。念の為、タクミは警棒を伸ばして後ろに続いた。暗い廊下。キッチン。積まれた生ゴミの袋にはえがたかっている。スライド式のドアを開くと、


「……おい、これは……」


 タクミは絶句した。

 壁一面に描かれたギザギザの字体の、


「カップリングですね」

 

 ミサキの底冷えする声音に、タクミは思わず聞き返した。


「……なんです?」

「カップリングです。よく見てください」


 見てと言われても……口紅か何かを使ったのか、やけに荒々しい字体で無数の人名と名詞と、Xエックスが刻まれているにすぎない。まるでホラー映画のようだと言われれればその通りだが、現実に目にすると圧迫感が違う。

 

「――あっ」


 タクミは、リビングテーブルの影に制服警官が倒れているのに気付いた。その数じつに七名。皆が目を見開き、口に、


「……これは、魚か?」

「臭いからして、くさやでしょう」

「くさや?」

「発酵食品の一種ですよ」


 ミサキは鼻と口を覆うようにハンカチを当て、リビングテーブルを指差した。

 先ほどから耳元で煩い羽音の正体はこれか、とタクミは思った。

 鮒鮓ふなずしだ。発酵と腐敗のきわにある滋賀の郷土料理。


「この時期です。サルモネラ菌に汚染されて――」

「……こっちの四角いのは?」

 

 小皿に赤褐色の固まりがあった。


「豆腐よう、ですかね? あー……こっちは納豆で、めふん、チョッカル、セルベラート……全部、自家製ですね」

「……自家製って。発酵食品を自宅で――?」


 ズン、と重い気配が顕れた。つい数瞬前までそこになかった存在感。部屋の湿気のせいかタクミの肌にじっとりと粘るような汗が浮かんだ。


「なーにぶっ倒れてんのー!?」

 

 ミサキが、急に明るい声を出した。


「ウケる! 苦手なら辞めときゃいーのに!」


 半笑いと言った声音で昏倒する制服警官の足を持ち上げ、タクミに目配した。


 手を持って。見ないで。


 見ないでって、何を?


 気配を。分かっていても、腰を屈め、制服警官の手を持つとき、視線がいった。


「……ス……ス……匹…………オ……リ……」


 傷んだ長い髪を垂らす、小豆色のジャージーの女が、呟いていた。一音ごとに吐き気を催す悪臭が漂ってくる。

 いつから? いつからそこにいた?

 疑問を抱えながらも、が発する圧力に屈し、タクミは生唾を飲み込みながら警官の手を持つしか無かった。

 気配が、寄ってくる。

 

「……ス? ……ア……? ……充……?」


 耳奥をまさぐる怨嗟の声。視界に、踏み込んでくる、腐り果てた気配――


「タクミーン! ちゃんと持ってって!」


 ミサキの、空々しくも明るい声が響き、気配が後退った。


「タクミーン、頼むよー?」


 問われ、タクミはやっとの思いで喉を絞った。


「うぇーい……こいつ、くそでぶでやがんの」

 

 人の重みを、これほど腕に感じたことはない。

 やっとの思いで警官をひとり運び出すと、ミサキが深い溜め息をつきつつ言った。


「やっぱり、いましたね」

「……何が」

「気づかなかったわけじゃないですよね?」

「……アレは何だって訊いてんだ」

 

 ミサキが悲しげな顔で言った。


「極限腐人ですよ」

「キョクゲン……何?」

「詳しい説明は後です。残りを運び出しましょう。まだ息がありました」

「……また入れって?」

「無理そうなら私ひとりで行きますが」

「行くよ。行くけどさ」


 梅雨時期の、シャツが貼り付く感触に喘ぎながら、タクミは顔をあげた。

 暗い部屋の最奥に、腐臭を放つ人影がひとつ。

 じっと、こちらを見つめている。

 流れてくる風が異様に生暖かく思えた。

  

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