雨が降る。桜は舞う。

 ツユクサは軽やかに笑ってぼくの背中から離れた。それにほんの少しだけ寂しさを感じる。【No.1224】このひとはどんな思いでぼくたち潜本士に干渉するんだろう。さっきの言葉は切実な色が含まれていた。これはぼくの思い込みかもだけど、ずっと願いを叶えてくれる人間を待っていたんだ。ぼくの硝子珠こころにすでに青い小さな花が咲き始めている。「本」のイシにこれ以上共感してはいけない。堪えないと、ぼくも呑まれてしまう・・・・・・・。それでも衝動は止まらなかった。花吹雪に促され、ぼくは後ろを振り向いた。黒く長い髪に、花のような紫色の瞳。大振りな耳飾りをつけている「本」のイシツユクサははかなげに微笑みを浮かべていた。その笑顔には悲しみの色が薄っすらと張り付いていた。


 ぼくは思わず、ツユクサに手を伸ばす。ツユクサはぼくの手をとろうとする。手と手が触れ合いそうになった刹那。今まで視界にも入らなかった空模様が急に怪しくなり、雷が大きく鳴り始めた。ぼくは思わず手を引っ込める。ツユクサは相変わらずの笑顔を浮かべていた。小さく鼻が濡れる感覚がする。それが頭に、肩に、だんだんと服が湿っていく。雨だ。かなり大粒の水滴が空から降ってきた。ぼくの衝動がだんだんと収まっていく。危なかった。ツユクサに触れていたらどうなっていたか。

 ツユクサは笑う。それには感情がこもっていない。彼女が腕を払うと桜の花びらが舞い上がり、彼女を覆う傘になった。

「おや、誰かが私たちに干渉しようとしているね。奴かな」

 干渉。雨。大雨は確か弥生町さんの象徴紋だ。まさか、弥生町さんがぼくを助けた。でも奴って誰だろう。ぼくが空を見上げると羽の一部にくすんだ赤が入った1羽の鳩が飛んできた。

「鳩か。では奴ではないなあ」

 鳩はぼくの肩にとまる。カエルのような色をした瞳の鳩は頭をぼくの方に向けてどこからともなく声を出した。

『本のイシ、本のイシ、本のイシ、気を付けるべし』

 低くて少し張りのある声。冷たいように聞こえてほんの少しだけ他人を思いやる色がある。これは弥生町さんの声だ。ぼくは気合を入れなおして、ツユクサに向かい合った。

「すみません。我を失いかけていました。あなたとのお約束を果たすため、ここから出していただけませんか」

 先ほどまで音をたてて降っていた雨は小雨になっていく。ツユクサは嬉しそうにのどを鳴らした。

「うん。いいね。私に共鳴して私の一部になりそうなほど強い感受性。土壇場で立ち直る気力。今までの旅人たちも持っていたけどより強いものを感じるよ。それに、ここを覗く者がいるね。そいつがコースケを助けてくれるんだね。いい。これはいい。100年以上待った。私の願いが叶うときがついに来る予感がするよ。では、私は去ろう。またね、コースケ」

 そういうと桜吹雪にツユクサの身体は包まれる。ぼくが無意識にいきを止めていたほんの一瞬の間に彼女は消えていった。さっきまで感じなかった春のような温かい風を感じる。きっと心象空間から抜け出したんだ。つまり、物語はここから始まる。


 空を見上げれば雨は止んで、上へとまっすぐ伸びる虹ができていた。

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