白と黒の海へ

 サラのメモ帳、よし。ペンのインクは―まだある。作業着には、着替えた。

 新人のぼくでも分かるが、メモ帳とペンがないと奇術が使えない。「ほん」のなかでは奇術が使えないと万が一のときに大変なことになる。天国先輩は「実力があるから大丈夫だーっ」とか言ってメモ帳は無くならないと補充しなかった。それでもやっていけるあのひとは本当にすごいと思う。ぼくが準備していると、すでに弥生町さんは【No.1224】のコピーを読み始めていた。ぼくはいつも首にかけている潜本士ダイバーになるときに協会のひとから貰ったロケットペンダントを開いた。ペンダントにはぼくの象徴紋である人魚の紋章と登録番号が刻印されていて、ホタルのような光を放つ石がはめ込んである。ぼくのイシを宿しているといわれているこの石。砕けば、ぼくのイシは分散する。大事なひとに渡しておけば、念を送りあうことができるらしい。引き出しから取り出したキリで石を軽く突く。すると石はすぐにほのかに輝く欠片を生み出した。それをハンカチに包むと、斜め前に座る弥生町さんの机に置いた。弥生町さんはそれに目線を一瞬だけ動かしたけど、すぐにコピーの束に視線を戻す。

「連絡用にぼくのイシを持っていてください」

「ああ。分かった。オレも情報が手に入ったらすぐに連絡する」

 弥生町さんの声色は普段通りだ。でも、どことなく空気が揺らいでいる。きっと天国先輩のことが心配なんだろう。ぼくはちょっとだけ苦笑いを浮かべた天国先輩と冷たく怒っているように見えて柔らかい雰囲気を出している弥生町さんを想いうかべる。頬が緩んでいたのか、弥生町さんの冷たい一言が飛んできた。

「さっさといけ。あれに呑まれたらいつ喰われるかわからない。そんな緩んだ空気じゃ三日月もすぐに喰われるぞ」

 なんだかんだ、弥生町さんはぼくも心配しているようだ。ぼくは緩んでいた頬を引き締めて返事をした。


 一息ついてから【No.1224】ほんに意識を集中させる。【No.1224】このこは人を喰う雰囲気の本ではない。青味がかった紫色はどことなくはかなげでたおやかなイシを感じさせる。表紙には表題も書いていない。

 あの時間に特別書庫に行って精神接続をするとは思えない。きっと共感して、「ほん」に入っちゃったんだろう。天国先輩はどこで行間に引きずり込まれたのだろう。どこに共感したのだろう。そんな疑問を持つけど、天国先輩の象徴紋を見るとぼくの心臓の鼓動はだんだんと早まっていく。落ち着け。落ち着いて頁をめくるんだ。【No.1224】に描かれた世界の入り口はすぐそこだ。ぼくの身体がゆっくりと深緑と黄色の光に包まれていく。まず、足だ。足の感覚がなくなって、ぼくの身体はだんだんと何かに包まれるように重みを帯びていく。精神接続が少しずつすんでいく。視界がだんだんと眩しくなる。もう、ぼくには職場の風景など見えない。


 ぼくの瞳が最初の文字を拾ったとき、すでにそこは地上ではなかった。ぼくは風もないのに桜の花びらがひらひらと舞う不思議な高台にいた。

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