共鳴する硝子珠

「お断りします」

 弥生町やよいちょうさんの冷たい声が響く。

「そうか」

 館長の不思議に思う強い感情が声と共に発せられる。ぼくはそれを「受信」してしまった。たまにあるんだけど、こういうあまりよくない感情を受け取るとぼくの心のなかでは硝子がひっかかれるような音が聞こえる。

 ああ、厭だなあ。弥生町さんの冷たさのなかには「自分はどうしようもできない」っていう諦めに似てる感情が入っていて、館長の声のなかには「同期なのに心配しないのか」という咎めの響きが聞こえる。さいあく。心が他人の感情に浸食されてずぶずぶと沈んでいく。弥生町さんはきっと天国あまくに先輩を心配なんだけど、なぜかそれを隠している。弥生町さんが天国先輩と話しているとき、「劣等感」であったり「憧れ」といったぐちゃぐちゃな感情を周りに向けている。それはぼくの心にいつも「痛み」を与えてくる。

 弥生町さんが席に戻ってきた。眉根に力を入れて平気そうな顔を装っているけど、いつもと空気が違う。空気は弥生町さんの心の痛みを伝えてくる。ぼくもつられて痛みを感じていると、ハンカチが斜め前の席から飛んできた。そのハンカチは弥生町さんがいつも使っているものだった。少しだけ元気を貰えた気がして、弥生町さんに見えないように涙を拭いた。弥生町さんはいつも何も聞かないでいてくれる。天国先輩だと笑いながらなでてくるけど、弥生町さんの見えないやさしさもぼくには心地よかった。


 少し心を落ち着けて弥生町さんと仕事をしていると、ぼくらのシマに司書の北川ゆずさんが走ってきた。ゆずさんの周りの空気は焦燥感でいっぱいであった。弥生町さんはいつもの低くて深みのある声色を少しだけきつくした。

「北川さん。どうかしましたか」

「さっき、館長には緊急連絡したのですけど、特別書庫で【No.1224】が、棚の前に落ちてました」

 ゆずさんは地下1階にある特別書庫から走ってきたのだろう。汗だくでいつもの青いストライプのワイシャツが少しだけ透けている。弥生町さんの語気が少し強くなってくる。

「まさか、天国……いや、田淵が【No.1224】に呑まれたっていうのか」

 ゆずさんは真っ青な顔で3回頷いて、震える手で青みがかった紫色の「ほん」【No.1224】を開いた。1ページ目の見開きには透き通った空色の灯火が描かれている。空色の灯火は天国先輩の象徴紋だ。これが描かれているということは間違いなく天国先輩の魂が本に入っているということだ。天国先輩は「ほん」のなかのどこかで迷子になってしまったのだ。弥生町さんが顔色一つ変えずに「ほん」を北川さんの手から取ると、コピー機の方へ向かっていた。その背中からはくやしさのようなものがにじみ出ていた。


 館長と清水さんは帰ってくるなり、ぼくと弥生町さんを呼びつけた。弥生町さんは手に【No.1224】と紙の束を持っていた。館長は静かに口を開いた。

「君たち、田淵くんを最後に見たのはいつだい」

 ぼくが口を開こうとすると弥生町さんが手でそれを制し、頭を下げた。

「午後5時でした。田淵は私たちに自分のことをさておいて早く帰れというので私は三日月くんを定時で帰らせました。私は残っていた仕事を片付けるために6時まで残っていましたが、田淵は帰ってきませんでした。田淵のことを過大評価せずにきちんと見に行けばよかったです。本当に申し訳ございません」

「いや、謝罪は求めていない。問題はこれからのことなんだから。田淵くんが喰われたということは、君たちの目から見ても明らかなのだろう」

 ぼくは黙って肯いた。

「田淵くんもだが、我々は潜本業ダイバーとして精神接続可能情報記録媒体ほんで迷った人間を助けるのは義務だ。何よりも彼は我々の仲間だ。ことは一刻を争う」

 館長は心配そうな声を喉の奥から発する。本当に心配なのであろう。痛いほどそれが伝わってくる。館長は水筒に一口だけ口をつけると、言葉をつづけた。

「弥生町くんが潜本ダイブして田淵くんを救出、三日月くんが地上から精神接続可能情報記録媒体ほんを調査する。それでやってみるか」

 弥生町さんの纏う空気が変わった。それはすごくチリチリとしていて、なんと表現していいかわからなかった。ぼくがおずおずと弥生町さんを見ると、彼は蛙のような深い緑色をした瞳を細めてぼくを見ていた。弥生町さんは唇の端で笑うと、ぼくの肩をたたいた。

「三日月くんは経験が浅いといえど、素晴らしい感受性の持主です。我々の感受性がラヂオの受信機であるとすれば、この子は基地局といえるほど、感受性が強い。であるならば、三日月くんに任せた方がよいです。きっと田淵が迷い込んだのはどこかで「共感」してしまったからでしょうから。感受性が豊かなこの子なら田淵の共感したところが分かるはずです」

「ではキミはどうする」

「私は、先ほど【No.1224】の複写をとり、過去の調査カードを送るように他館に依頼しました。これらを使ってどこで何が分岐するのか、調べてみます」

 館長の静かな瞳がぼくたちに向けられている。指で机をトントンたたいて、少し考えている。

「弥生町くんがそういうなら、三日月くんに任せよう」

 弥生町さんが深く息を吐いたのち、空気を引き締めた。弥生町さんは館長たちに頭を下げたのち、すぐに自分の机へと戻っていった。その後ろ姿はひどく静かで、感情という感情を殺めた雰囲気であった。

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