無断欠勤

 ―午前6時57分。

 今朝はオレにしては珍しく少し寝坊してしまった。

 髪を整え、小麦を練って作った生地に発酵した豆を入れ、フライパンで焼く。生地からだんだんと香ばしい香りがしてきたらひっくり返して2分焼けば食べごろだ。オレは新聞記事の山の上にフライパンを置き、湯気がたつそれに醤油をかける。鉄が焼ける音と醤油が焦げる香りが鼻をくすぐる。仕事の資料を読みながら少しずつ食べる。噛むと弾力があり、豆の風味がたまにする。味はそれなり。値段相応だ。

 味よりも何よりも気にかかるのは天国あまくにのことだ。昨日、図書館に青紫色の本が届いた。それは【No.1224】といい、潜本士ダイバーたちの間では有名な「人喰本」の一冊だ。郡から調査依頼が図書館に来て、天国が担当することになったのだが一見普通の本であった。本格的な調査は今日からのハズだが、天国は昨日の定時前に「先に帰ってくれよな」とか何とか言ってフラっと消えていった。おそらく特別書庫に運ばれた【No.1224】を見に行ったのだろう。三日月を早めに帰して、オレは少しだけ残っていたが結局天国が戻る気配がなかったから帰宅した。少しだけ天国のことがひっかかったが、あいつは才も運もすべて持つ男だから大丈夫だと思って腹時計に促されるまま職場を出た。


 時計を見れば午前7時15分。もうそんな時間か。さて、出発だ。背中にリュックを背負い、玄関で靴を履いて外に出る。今日は晴れ。いい感じに清々しい。部屋の戸を施錠してアパートのところどころ赤く錆びた階段を降りれば、すぐそこは駐輪場だ。ここから図書館までは自転車で20分ほどである。そうすれば、まだ誰もいない時間に着いて、少しだけ勉強ができる。自転車に飛び乗ってペダルに力を入れると彼は軽やかに動きだす。時折立てるキィと軋む音はご愛嬌だ。職場に7時半に着くことを目標に、ペダルをこぐ速度を速めた。


 職場に着いて自席につく。向かいの天国の席は仕事をしているときのようにぐちゃぐちゃであった。そこらへんに積んである山のような書籍に書類。使いっぱなしのボールペン、出しっぱなしの訂正印に思わずため息が出る。館長に見られたら多分怒られるが、片付けてやる義理はない。いや、義理はあるな。同期入庁であるからな。

 思えば天国とは八年来の付き合いだ。あいつは「天才潜本士」と鳴り物入りで昴町役場に入庁した。初めて会ったときはさすがに吃驚びっくりしたな。オレを見つけるや否や天国はいきなり肩を組んできた。それから歯をこぼして笑って緊張など知らないような能天気そうな声で「オメーがヤヨちゃんか。これからよろしくな」と言われた。初対面で勝手にあだ名をつけられたことでひどく肩透かしを食らった気分になったが、その後の天国の事務処理のミスの山には脱力した。いや、いまも脱力している。もっともあいつは敢えてやっている・・・・・・・・・・・・フシがあるが、きっと誰も気が付いていない。天国の後輩である三日月みかつきもだ。

 そんなことを考えながら、資格試験の参考書を開いた。天国は記録士の資格を二年目に取った。記録士は精神接続可能情報記録媒体ほんの無数にある可能性の道筋ルートを記録し、複製することが可能になる資格だ。それなりに難関資格であるから、相当の努力をしていたのだろう。でも天国はそんなところをオレに見せなかった。少しだけ歯がゆく思ったものだ。いけない。また余計なことを考えてしまった。両手で顔を軽くはたく。頭の雑念を払い、勉強を始めた。


 始業時間になっても天国は現れなかった。いつもは8時15分ごろにあくびをしながら現れるのに。9時半になっても現れないので、館長に天国の家へと電話するように頼まれた。面倒くさいが仕方ないと思い、天国の携帯電話に電話をかけるが、呼び出し音が天国のデスクの中から響いてた。あの阿呆。携帯くらい持って帰れよ。充電切れるぞ。仕方なく、館長に報告すると何やら内線をかけ始めた。話の内容から察するに、総務の清水さんと天国の家に行くという。館長から「弥生町やよいちょうも行くか」と誘われたが、考える間もなく断った。オレが行ってもどうにもなる話ではないからだ。館長はオレに何やら言いたげな顔をしていたが、すぐに総務課の清水さんが軽い足取りで現れて、館長の視線が清水さんに注がれたのを見て、オレは席へ戻っていった。

 天国の隣の席にいる三日月が沈痛な顔をしている。彼は「感受性」が豊かだ。天国よりもかなり強いと聞いている。おそらく、館長の感情に反応してしまったのであろう。三日月はオレの顔を見ると男にしてはくりくりとした瞳に透明な滴を溜めていた。なぜ、どこに、どうして彼が「共鳴」しているのかがオレにはさっぱりわからない。問いかければ、応えるであろうがそれは誰のためにもならない行為である。聞けば逆に彼がつらくなる可能性だってある。オレは敢えて三日月の顔を見ることなく、ハンカチだけ差し出しておいた。

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