第4話 用水路と靴紐

 走るのは久しぶりだった。腕を振って、足を上げ、息を乱しながら辺りを見渡す。公園や路地裏、彼が逃げ込みそうなところをしらみつぶしに探した。そして数十分後、人目につきにくい、細長い用水路にたどり着いた。二人で昔、縄跳びを垂らして釣りのまねごとをした場所だ。

 その用水路の中にいる彼を月明かりがスポットライトのように照らした。頭から血を流して用水路の苔の生えた壁にもたれている。彼は何かを両手で大切そうに抱えているが、目は閉じている。眠っているように見えた。

「なにしてんの」

 そう声をかけると、彼はうっすらと目を開けた。

「夜だからひと眠りしてんだよ」

「ベッドで寝なよ」

「ベッドで寝るのは子どものすることだよ」

「大人もベッドで寝るから。オセロも途中で投げ出しといて。まじで何してんのよ」

 彼の軽口に答えながら、用水路に裸足のままゆっくりと降りた。片足が水にひたされ、猛烈な冷たさが全身に広がる。鳥肌が立ち、心臓まで凍り付きそうだった。それでも水流に逆らいながら一歩ずつ、彼に近づく。

「私さ」

 彼がまたくだらないことを口にする前に、言葉を紡いだ。

「なんだよ」

「靴の紐はきちんと結んでいた方が、いいと思う」

 彼の前にたどり着き、びしょびしょでよれよれになった彼の靴ひもを握るためにしゃがみこんだ。ズボンにも水がべっちゃりとつくが、気にする必要はない。夜は、すべてを曖昧にしてくれる。まあ冷たさだけはしっかり伝わるから不快感は誤魔化せないが。

「あと、かかとも踏まない方がいいと思う」

「まじで?」

 彼は、意外そうに気の抜けた返答をする。

「お前、ちょっと悪めの男子が好きなんだろ」

「誰のことよそれ」

 それは私じゃない。

リョウコたちみんなが好きそうな男子を、私が好みのタイプとして適当にでっちあげたことがある。誰かがそれを彼に漏らしたのだろうか。確かに私がその話をみんなにした頃から、彼は変わっていった。

 髪を金髪に染めた。靴のかかとを踏むようになった。靴の紐を結ばなくなった。横断歩道を渡るとき、手をあげなくなった。そして、学校に来なくなった。

「あと、オセロは本気で来て」

「だから手加減してねえって」

「私が負けたらキレるって知ってるからでしょ。キレても受けとめられる器量ないの?」

「だから違うって。ていうか、それがわかってるなら最初からキレなきゃいいじゃねえか」

「それもそうか」

 ヌルヌルになった靴ひもを、びしょぬれの手で握り結ぼうとする。だが、輪っかを作るのが水流で何度も駄目になる。かじかみ、アルコールに支配された指は不格好にしか動かない。片方の靴ひもが、もう片方の輪っかの後ろをぐるっと回ったとき、彼の腕の中でいた何かがもぞもぞと動きだした。大きな甲羅からのびた首の先端の二つの小さな瞳が宝石のように光っていた。小さな生き物は助けを求めるように私を見つめる。

「なにそいつ」

 靴ひもを結ぶ手を止めて、そう尋ねた。

「ミシシッピアカミミガメだよ。子どものころはミドリガメって呼ばれるんだけど、異臭問題とかいろいろあって、捨てられることが多くなったんだ。外来種だから結構厄介なんだけど、こいつ自身に罪はねえよ。今はペットショップで販売してない」

 彼の流暢な説明はとても怪我人とは思えなかった。

「うちの近く、たしかこいつ歩いてたよ。私、またいでスルーしたけど」

「メスでも探してうろついてたかな。だからせめて水辺に逃がしてやろうと思ってな」

「それで滑って落ちて頭打ったんだ」

「違う。滑って落ちて休んでるところだ」

 そう言い張る彼は苦笑して、亀の甲羅をそっと撫でた。

「生き物は卒業したんじゃないの?」

 結びかけの靴紐から手を離し、私も亀の甲羅に手を乗せる。亀は怖がっているのか頭を甲羅にひっこめた。雲が月を隠し、訪れた闇はすべてを黒く包みこみ、世界の境界線を奪った。

「卒業したからって、危ないところにいる生き物はほっとけねえよ」

 彼のその言葉にほっとする。彼は何も変わってなかった。好きなもののためなら、なんでもする。何よりも尊く、美しい、彼を構成する要素の一つだ。

「私、変わっちゃったね」

 私が最初から素直に、自分のまま生きていれば、彼の今はなかったのかもしれない。私は、何に意地を張って、何のために生きていたんだろう。

彼はずぶ濡れの右手でそっと私の頭を撫でた。

「べちゃべちゃで気持ち悪いんだけど」

「泣いてる女の子がいたら、頭を撫でるって決めてるんだよ」

「泣いてないし」

 むかついて彼の手をはねのけようとするが、酔っているのか、払いのける手は空振りに終わった。

「変わってねえよ。大丈夫だ」

 変わらない彼の言葉に、私はまた泣きそうになった。涙をごまかすため、闇へ消えた靴ひもを手探りで見つけ直す。それを結ぼうと何度も挑戦する。夜の闇と月明かりだけが今の私たちのすべてだった。この靴ひもを結べば、たぶん何かが動きだす。だから、靴ひもなんて一生結べなくていい。ずっとこの夜が続けばいいんだ。

「煙草今すげえ吸いたい」

 掠れた声で彼はそう言う。

「あんなまずいの、よく今欲しがるね」

「いいじゃねえか……って、お前も吸ったのかよ」

「あんたが校舎裏で吸ってるって噂聞いてさ。試してみたの。ひどい味だね」

「かっこつけるために吸ってるんだよ」

「全然カッコよくないから。こっちのがいいよ」

 私はポケットから、あの少女からもらったわさびキャンディーを取り出し、彼の口に突っ込んだ。

「まずいでしょ」

「最悪だな」

 そう言いつつも、彼は口からキャンディーを出さずに舐め続けた。口からはみ出たスティック部分が舌に合わせて左右に揺れる。

「慣れたらおいしいらしいよ」

「これさ、妹が好きな味なんだけど、何本なめても美味いと思ったことねえ」

「今日たぶん会ったよ。いい子だね。芸術家タイプだと思う」

「へえ、生意気なだけだと思ってた」

「あんたによく似てるよ」

 いつまでも、この時間が終わらないでと願っても、時間は、平等に過ぎていく。車が止まる音と、ドアが閉まる音。そして、バタバタとしたあわただしい足音が聞こえてきた。

「でもあんたさ。生き物好きなら、ちゃんと平等にしなよ」

魔法の時間が終わると共に、二度と会えなくなるかもしれない彼に、この言葉を伝えるべきなのか。脳内で結論が出る前に、口は動いた。

「人は殺しちゃだめなんだよ」

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