第3話 再会

「……今までの時間って、何だったんだろう」

 毎日寝て起きる、同じ家のはずなのに、まるで太古の遺跡にいるような気持ちになった。

 母の仕事が終わると、泣きながらベッドで寝るだけ。料理、洗濯、ゴミ出し、その他の支払い。全て私だった。そして週に一度か二度は休む、もしくは早退して帰ってきていた。ただ、休みがちな人間でも、母の仕事に対する情熱があるのも確かで、出勤すると仕事はがんばっていることをグダグダと酒を飲みながらしゃべっていた。けれども、休みがちな人間が職場で意見を積極的に出しまくることは、でしゃばりと捉えられても仕方ない。

だから母の居場所はどんどんなくなっていった。

「いつもありがとうね。誕生日おめでとう」

 母に、いつ言われたか覚えてないその言葉を口にする。よどんだ気分が癒されるのではと思ったが、心の穴が塞がることはなく、胸の痛みは増すだけだった。

 母がいなければ、私は解放されるとずっと思っていた。嫌なら辞めろ。母親らしくしろ。そうやって、何度も母を怒鳴りつけていた。それが母を傷つけているなんて考える間なんてなかった。

ただ、いざいなくなると、自分の怒りの正体が母への嫌悪感でなかったことを自覚する。子どものころ、笑顔で私の頭を撫でてくれたこと。公園でブランコの背中を押してくれたこと。随分と昔のことのはずなのに、今になってそんなことばかり思いだしてしまう。

泣きだしそうな感覚を、頬の内側をひたすらに噛んでこらえた。

「どんな誕生日プレゼントよ」

もし私に束縛からの解放をプレゼントで与えたつもりなら、せめて一言、娘とどんな気持ちで暮らしていたのかくらい教えてほしかった。

とりあえず気分を落ち着けるために、母が愛飲していたインスタントコーヒーの粉をマグカップにいれ、ケトルで沸かしたお湯を注いだ。カップから立つ湯気が、月明かりに照らされ、天井まで波を描いた。椅子まで移動するのも面倒で、窓の横で体育座りをし、音を立ててコーヒーを飲んだ。舌いっぱいに苦みが広がり、すぐに飲み口を口から離す。捨てるわけにもいかず三十分くらいかけて飲み干した。胸がムカムカするだけで、微塵もおいしくなかった。

今度はワインを飲むことにした。戸棚にある古びたボトルを発見し、コルクを抜く。臭いを確認することなく中身をマグカップにドボドボと注ぎ、ジュースのようにぐっと喉へ流し込んだ。鼻の奥を刺激物が通り抜ける感覚と、苦みと酸味は私の口には合わなかった。それでも我慢して無理やり飲み干した。

「まずい、まずい、まずい」

 呪いの言葉のようにそう繰り返す。家にある酒という酒すべてを飲んでも、誰も咎めることはない。ただ、大人は酒を飲むと楽しいなんていう幻想は、すぐに潰えた。頭は痛いし、ふらふらするし、涙は止まらなかった。それでも飲み干さないのは癪だから、マグカップに入ったまずいワインをちびちび飲みながら、自室へ向かうため階段を登った。

 ベッドに入って寝て起きれば、全部夢で。お母さんが笑顔でおいしい朝食を作ってくれていて、私を抱きしめてくれて。そして、彼が小学校のころのように、迎えに来てくれる。ベッドに体を投げ出し、眠りの底に溶けてしまいながら、その幻想の世界が現実であれと願った。

「おーい」

 そう。こんな風にバカみたいな明るい声で私を呼ぶんだ。

「いや寝るなよ! あけてくれよ!」

 ここにいるのは私だけのはずなのに、どうにも懐かしい声だ。聞き間違えと思いつつ、声の聞こえる自室の窓へ目線を向ける。窓の向こうには年の近い男の子が立っていた。眩しいくらいの金髪が風でなびく。彼は我が家の屋根から落ちまいと、必死の形相で窓をどんどんと叩いた。手にはなぜか少女との別れ際に見たススキのような草が数本握りしめられている。

私はアルコールにやられ、おぼつかない足取りで窓まで向かい、震える手でなんとか鍵を開けた。

「靴、ここ置いとくぞ」

彼はそう言って靴を脱いで入ってきた。なんとなく靴の状態が気になり、窓の外に置かれた靴を見た。屋根部分にきちんとそろえられた靴の踵は潰れ、紐はほどけていた。

「なんで玄関から入ってこないの」

 かつての幼馴染へ、約二年ぶりの声をかけた。

「サプライズだよ」

「通報するよ」

 勘弁してくれと彼は苦笑しながら、手に握りしめたススキのような草を私の目の前にかざしてきた。

「ハッピーバースデー」

 そう言って彼は、にやりと笑い、草を私の顔に押し付けてきた。

「近い近い。離してよ……ってか、覚えてたんだ」

「忘れたことなんてねえよ」

「そりゃどうも」

そう言いながら、頬におしつぶされている草を右手で握り、距離を離してまじまじと見つめた。

「これ、ススキだよね」

「違う違う。似てるけどな。パンパスグラスだよ」

 確かに少女の言う通りパンダに似た名前だった。

「店で買ったら高いんだぞ。ちなみにでかくなったら二メートルくらいになるんだぜ。原産はアルゼンチン。ススキに似てるからお化けススキとも言われてるんだ」

 彼のこの尋ねてもいない説明が懐かしくて、思わず聞き入る。けれど彼は私の沈黙を退屈と捉えたのか、説明をやめた。

「……ごめん。また、喋りすぎた」

 申し訳なさそうに彼はうつむく。ただ慰めるのも面倒なため、話題を変えた。

「もしかして、毎年郵便受けに花突っ込んでたのあんた?」

 私がそう言うと、彼は照れくさそうに、染まった金髪の頭をぽりぽりと掻いた。

「俺以外に誰がいるんだよ」

彼が小学校の頃、私の誕生日が今日と知ると即席でその辺の花を摘んで花束を作ってきたのを思い出す。

「ごんぎつねかと思った」

 人に気づかれず、贈り物をする彼は、国語の教科書のごんぎつねそっくりだった。

「だったら俺、最後に撃ち殺されるじゃねえか」

「どうせなら食べれるもん持ってきてよ、うなぎとか栗とか」

「だからごんぎつねじゃねえよ!」

 彼はベッドの上に座り込み、私の顔をじっと見る。私が今年はなぜ、手渡しでプレゼントに来たのかを尋ねる前に、沈黙を彼が破った。

「酒臭えけど、呑んでるのか」

「悪い? 大人はみんなやってるよ」

 学校同様、大人のキャラを演じてしまう。いや、大人なんかじゃない。大人にあこがれる子どもだ。

「俺にも一杯くれよ」

「未成年でしょ。それに体に悪いんだよ。知らないの?」

「お前もだろうが」

「関係ないでしょ。それにもうたぶん全部飲み干したよ。水道水でいい?」

「めっちゃ酒豪じゃねえか」

「大人だからね」

 自分で言っておいて、バカらしくなって笑えてきた。こんなのが大人なのだとしたら、私は一生子どものままでいい。彼もつられて笑みを浮かべる。

「母ちゃんはもう寝ちまったのか?」

「出てったよ」

 隠す必要もなく、そう答えた。彼はなんともいえないような表情をしばらく浮かべた後「そうか」と呟いた。

「職場の学校、すごいブラックで。意地で続けてたんだけど、どんどん家事もできなくなって、ずっと泣くか酒飲むかどっちかになってった」

「それで、出てったと」

「うん。出てった。どこかで新しい彼氏でも作って、幸せになってるんじゃない?」

そういう願いを行動に変えたのだろう。それが叶うかどうかは、私には関係ない。

「だから、私引っ越すから。それで、おばあちゃん家で暮らす」

「じゃあ学校変わるのか」

「そういうこと」

「……じゃあお前、もうあいつらから、いじめられなくて済むな」

 残念そうに彼はうつむき、自分の手のひらをじっと見つめる。

「誰のこと?」

「リョウコ……とかなんとかいうやつ」

 彼は自分の手のひらやTシャツの匂いを嗅ぎながら曖昧にそう言う。

「ああ」

「いじめられてたって聞いたぞ?」

「大したいじめじゃないよ」

 今日はやたらといじめについて心配される。悪い気分ではないが、いい気分でもない。

「強がるなよ」

「強がってないし。それに、学校のいじめで私が折れたら、お母さんどうなるの」

「……お前の人生なのに……それでいいのかよ」

「どっちにしろもういないんだから、関係ないよ」

 彼はまた残念そうにうつむく。

 彼の言う、あいつら。それは、リョウコを含むカースト上位の女子集団のことだ。長いものに巻かれろのスタンスで中学に入った私は、孤立しないために彼女たちと一緒にいた。

好きなものも彼女らに合わせた。嫌いなものも彼女らにあわせた。自分の意見を言うときは、全て彼女たちに合わせていた。家で母の機嫌を伺い。学校では彼女らの気分を乱さないように。それが私の暮らしのすべてだった。

 そこに、ありのままの私を知る彼はいない。

「安心しろ。俺、もう生き物とか興味ないから」

「いきなり何の話」

 パンパスグラスを誕生日に刈り取ってくる人間が何を言っているんだろう。彼は弁解するように言葉を続けた。

「それに、髪も染めてタバコも吸ってるんだぜ。もう変じゃねえだろ」

 誰もそうしろなんて言ってない。未成年が何をしているんだ。

「それに、ちょっとやばい連中とも一緒にいるんだぜ。もうさ、俺、変じゃねえから。ださく、ないだろ?」

 誰もそうしろなんて言ってないのに。というかやばいと感じられるなら最初から関わるな。

「お前、そういう男の方が好きだろ?」

 褒めて。褒めて。まるで尻尾を振る犬のように私を見つめる。何も知らない彼の瞳の輝きが眩しくて、見るのが辛かった。もう戻ることができない。たどり着いてほしくなかった『今』から、逃げたくてたまらない。だけど、今彼が目の前にいる事実は、どこか現実味がなく、夢の中にいる気分だった。そんな曖昧な『今』をつなぎとめる手段を探すため、室内を見渡す。

 手っ取り早い選択肢が近くにあった。

「オセロでもする?」

 彼は話の流れが切られたことに異を唱えることはなく、にこりと笑った。

「負けても泣くなよ」

「泣かないから」

 昔みたいにじゃんけんをした。私が勝ち、先行をとる。月はきまぐれに雲で隠れ、電気の消えた部屋を暗転させる。オセロの黒と白は夜の闇に溶けていった。勝敗なんてどっちでもよかった。彼とくだらない話をしながら、コマを淡々と置いては、ひっくり返し続けた。コマを置くたび、パチン、パチンと乾いた音が部屋に響く。リビングの秒針の音よりも心地よかった。

「そこ、ひっくり返し忘れてるぞ」

「わかってるよ。うるさいなあ」

 嘘。本当はわかっていない。酒で何もわかっていないのかもしれない。判断力の低下した脳みそで動く指さきは、彼の目にどう映っているのだろう。

 そして、オセロの展開は終盤へとさしかかる。角を誰が取るかどうかの状況で、彼は角の周辺三つのマスのうち一つに、白のコマを置いた。

「今手加減したでしょ」

 悪手であることは明白だった。彼がそこに置けば、私は角が取れる。角を取ることはオセロのアドバンテージである。勝敗のこだわりはなかったはずだが、アンフェアな勝負は好みじゃない。

「……してねえよ」

 にやりといたずらっぽく彼は笑った。

「嘘だ」

 私は彼の置いた白のコマをつき返す。彼はそれを受け取らず、私の手をそっと握った。さっきまで水につけていたかのように冷たく、指先は微かに震えていた。

「なあ、もしもさ」

 彼が何かの仮定の話を口に出そうとした時、外からパトカーのサイレンの音が聞こえた。

「こんな時間に物騒だね」

 私がその言葉を言い終わる前に、彼は手を離して立ち上がった。

「なに、どしたの」

「わり、帰るわ」

彼はそう言い残すと窓から一目散にとびだす。まるで泥棒のように姿を消した。部屋には私と、パンパスグラスと終盤の展開となったオセロだけが残された。

「ちょ、まだ勝負ついてない!」

 私の言葉と同時に、インターホンが鳴った。酒の匂いがばれるのもまずいが、要件も気になるためふらつきながら、オセロのコマを片付けることなく玄関へと向かった。

「……はい」

 ドアの外には、やや強面の警官が二名ほど立っていた。酒の匂いがばれないよう、口をおさえる。

「すいません夜分遅くに。警察です。実はこの辺でちょっと」

 警察の話した来訪理由は非常にシンプルなものだった。とある事件を起こした容疑者を探しているとのことだ。

「って感じなんですけど、ご存知ですか?」

 警察が一通り事件について説明した後私は警察の横を裸足で抜け、家を飛び出した。

「探してみます!」

 夜の住宅地をかけながらそう叫んだ。鍵をかけ忘れたが、今大切なものは、家には何一つないから、問題はない。彼とのオセロの結末が、『今』、一番大切だ。

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