第2話 嫌い

「わたし、先生のこと、きらいって言っちゃったの」

 少女の声はか細かった。けれど、それは胸の奥が張り裂けそうな叫びのようにも聞こえた。少女は小さな叫びを続ける。

「おやすみの日にこうして、ペンキであそんでたの。そしたら、靴に色がついちゃったの」

少女の靴を改めて見る。おしゃれにも清潔とは言えないが、ペンキの飛沫がついている靴は、世界に一つだけの宝物のようにも見えた。

「それを、先生、きたないって言ったの」

 少女が意気揚々と自分の靴のペンキ痕を先生に見せようとする場面は容易に想像できた。そして、先生の言葉に絶望する少女の顔も。

 きっとその先生は、思ったことははっきり言う人だ。それは、他の生徒にも、職員に対しても同様に。だから、いつも誰かと喧嘩していたことだろう。心当たりがありすぎた。 

「それで、あんたは嫌いって言ったんだ」

「それから、先生、学校来なくなった」

 もともと休みがちだったから、驚かない生徒もいただろう。ただ、先生はその次の日に退職届を出したらしい。社会人としてなんたることだと、わざと頭に思い浮かべてみるも、彼女同様に私も心がざわつきだすため、考えるのをやめた。

「あんなこと、言わなきゃよかった」

 別に少女の伝えた言葉がその先生の退職理由である根拠はない。他の要因なんていくらでも想像できる。

 ただ、少女の世界はそれを想像するにはまだ狭すぎる。ただそれでも、取り返しのつかない言葉は。放たれた矢は。こぼれたミルクは。盆から滴り落ちていく水は。どれもこれも、戻ってくることは決してない。それを少女は初めて実感しているのだろう。

嫌い。嫌い。嫌い。

反射的に出てしまいがちなその言葉は、自分の意にそぐわない。理想との違いに絶望した時にこそ使ってしまうものかもしれない。だからこそ、この子は後悔しているのだろうか。本当に伝えたい言葉が、伝えられなかったから。

それでも私たちは、生きていくしかない。後悔と悲しみという重荷を背負いながら。まあ、そんな説教臭いことを彼女に伝えても、私が気持ちいいだけだろう。

「ねえ、きいてもいい?」

 だから私は問いかけることにした。

「本当は、何て言いたかったの?」

 少女はペンキまみれのハケを地面に置き、自分の両手をペンキの缶へ音を立てて突っ込んだ。彼女の手は、現実味がないほど黄色く染まる。滴り落ちるペンキは地面の草の緑を黄金色に染め上げた。

「学校でいつもきれいにそうじするの、わたしだけだったの。みんなはよごすのが好きだけど、わたしはきれいなのが好きだったの」

 少女は私の問いかけには答えず、まだ話していない頭の中を私に教えてくれているようだった。

 今空き家をペンキアートで彩る行為は、彼女のいう【汚す】とはまた異なるのだろう。だがそんな横やりは不要と思い、彼女の言葉を待った。

「わたしと、そうじをしてくれてたの、先生だけだった」

 大好きだった。そう囁くと彼女はペンキまみれの手で壁の世界を描いていく。空き家の壁がまた一つの芸術作品のようにも見えて、それを眺めている間に世界が終わってもなんだか悔いがない気がした。

「先生なんかに会わなかったら、わたしはこんなに、かなしくならなかったのかな」

 こぼしたミルクが戻らないのであれば、最初からミルクをコップに注がなければよかったのだろうか。そもそもミルクを買わなければ。飲もうと思わなければよかったのだろうか。少女の問いに対する答えを私は持ち合わせていなかった。

 日が傾くにつれて辺りは暗くなり、気温も少しずつ下がってくる。薄手のカーディガンだけじゃ間に合わないほどにこれから寒くなってくるだろう。

「風邪ひくから帰らない?」

 ひとしきり壁を彩った少女にそう提案した。すると少女はおかしいっぱいのリュックを背負う。それでも、足は動かず、顔は下を向いていた。

「おかあさん、わたしが学校ぬけだしたの、おこってる……」

「たぶん心配してるから帰ってあげな」

 根拠はないが、手っ取り早く帰らすにはちょうどいい理由だった。これ以上ここにいて、怪しい人物に連れ去られたり、無差別殺人に巻き込まれたりする可能性は避けた方がいい。

 少女は渋々納得したのか、空き家のしげみを抜け、住宅地へ向けて歩きだした。途中までは帰り道が一緒だったため、日のほとんど沈みかけた住宅地を少女の歩幅に合わせて歩くことにした。

「あ」

 先に口を開いたのは少女だった。「なに?」と尋ねる間もなく、目の前の横断歩道へ少女は一目散に駆け出した。そして何を思ったかアスファルトの上にしゃがみこんだ。

「ちょっと! 危ないよ!」

「だめなの! あぶないの!」

 危ないことがわかっているなら、そんなことをするなと言いたい。だが少女は手に何かを乗せ、私の方へ小走りで持ってきた。それはかりんとうの太さを倍くらいにした、黒い芋虫だった。うねうねと少女の手の中で芋虫は怪しく動き続ける。少女はその芋虫を愛おしそうに見つめた。

「それ、触っても平気なの?」

 一般的に昆虫類や爬虫類は嫌悪の対象とされることが多い。私も、表面上は苦手なふりを学校でずっとしてきた。だが、少女の前でそんなパフォーマンスをする必要はない。

「これ、スズメガのようちゅう。おとなになったら、すごくきれいなの。ちゃいろの大きなはねが、まるでドラゴンみたいでかっこいいんだ」

 うっとりと少女は幼虫の背中をなでる。私もその黒く、とげのある背中に指をそわせた。

「そうなんだ」

 彼女のその瞳の輝きは、どこか懐かしく思えた。生き物の愛で、自分の好きなもので頭がいっぱいになっていることがわかる。彼女の呼吸の乱れは、その充足感に酔いしれているように見えた。

 彼女と同じ目の輝きをしていた男の子を、私は知っている。

『気持ち悪いから、もうやめなよそういうの。あんたのそういうところ、嫌いなの』

 中学一年のころに、遠足でトカゲを捕まえた幼馴染の彼へ、そう告げた。彼との、最後の会話だった。いや、会話ですらないのかもしれない。私の、一方的でわがままな、ただの暴言だ。

「どうしたの?」

 少女の言葉で意識は現実へと戻る。いつのまにか幼虫は、少女の手の平から肘まで移動していた。私が昔と同様に、少女へ暴言を吐いてしまったのではないかという妄想に襲われ、背筋がぞわりとする。

「なんでもない。どこか踏まれないところに逃がしてあげようか」

 戸惑いを取り繕うため、早口でそう言った。

「そうだね」

 住宅地の外れに、雑草の生い茂った空き地があった。中央にそびえる巨大なススキのようなものが風でゆらめく。それの先端にあるフサフサ部分が夕日で輝き、狐のシッポにも見えた。

 少女は地面の上に、幼虫をそっと置き、名残惜しそうに小さな黒い体を撫でた。

「ここにはえてる草、なんだと思う?」

 帰るまでの時間が遅くなるというのに、少女は私との会話を求めた。

「ススキじゃないの?」

 少女の想いに寄り添うため、自分なりの答えを告げる。

「おにいちゃんならわかるんだけどなー、なんだっけ。パンダみたいな名前だった」

「そんな名前の草あるの?」

「あるんだよ」

 少女は何かを懐かしむように草に鼻を近づけ、香りを嗅いだ。いつの間にか芋虫は草むらの奥へ姿を消した。

「げんきでね」

 少女はそう言うと、立ち上がる。

「おねえちゃん。わたし、あしたは学校いく」

 今日のやりとりのなにが彼女を動かしたかはわからない。それでも、何かが彼女を変えたのならそれでもいいかと思った。

「がんばってね」

 そう言うと私たちは、それぞれの家へと帰ることにした。

 すっかり暗くなった帰路を進む。歩いていると、街灯に小さな丸い影が照らされる。光の下には手のひらより二回りほど大きな亀が、のそのそと歩いていた。どこから逃げたのだろうか。踏まないように亀をまたぎ、五分ほど歩くと明かりの消えた自宅の前にたどり着いた。

「ただいま」

 ドアを開けながら久しぶりにその言葉を口にする。言ったら返事をしてくれる誰かがいるような気がしたが、静寂が張りつめているだけだった。靴をそろえて脱ぎ、ドアを閉める。郵便受けを見るが今年は何も入ってなかった。

 何故か毎年誕生日になると、花などが突っ込まれていたから、今年も期待していた自分がいたことに気づく。寂しさを感じつつ廊下を進み、薄暗いリビングへたどり着いた。

 母の姿は今朝同様、どこにもなかった。静まり返った部屋に、壁掛け時計の秒針の音がやけに大げさに聞こえた。

 机の上に置かれた札束と置手紙を一瞥する。

 何かの間違いで、朝の光景は夢ではないかと祈りながら、もう一度手紙に目を通した。

 手紙には、もう働きたくないこと。新しい人生を歩むこと。そして、私の面倒を見てくれるおばあちゃんの家の住所と、転校手続きを勝手にしていること。ただそれだけが報告書のように並べられていた。

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