私の靴は汚れていない

ろくなみの

第1話 出会い

 秋の涼しさにうんざりしたのは初めてだった。秋なんて大半の人が好きな季節なのはわかっている。現に私も夏の気怠さから解放され、体が少し軽くなるこの時期が大好きだった。ただ、どんなに快適な季節でも、夏の暑さが永遠に続いてこのまま全て溶けてしまえばいいだなんて今は思ってしまう。そんな現実を見たくなくて、このまま秋の涼しさと一体化すれば少しでも心が軽くなるのではと期待し、目を閉じた。

暗転した世界に、風の音と、草や土の香りが漂う。そして、小さな足音と共に、ペンキ塗りたてのベンチのような激臭が漂ってきた。

「へくしゅん!」

 そして、風でなびいた雑草が私の鼻をくすぐり、豪快にくしゃみを放った。

「なにしてるの?」

 不意にかけられたその声に思わず目を開く。返答するよりも、その声の主のことが気になった。そこにいたのは、一人の少女だった。小学校低学年くらいだとは思うが、とにかく私より年下なのは間違いない。彼女は両手に二つずつ銀色の小さな容器を持っている。ペンキのような臭いの発生源は、おそらくそこだろう。

「寝てるの。見てわからない? 体調悪いの」

 一通り観察を終えた後、そう答えた。

「おうちで、ねてればいいのに」

「心の体調不良は外で回復するものなの」

 ふうん、と少女は面白くなさそうに相槌を打つ。少女は合計四つある銀色の容器とリュックを地面に置く。そして、リュックから取り出したハケを容器内に浸した。ハケを容器から抜くと、先端は真っ赤なペンキで染まっていて、ぽたぽたと赤い雫が滴り落ちた。すると少女は、躊躇することなく空き家のくすんだ壁にハケを叩きつけた。灰色の壁は、少女の放つ赤色にどんどん浸食されていく。豪快に描かれる無機質な赤い線や図形

は、何を表しているか全く読み取れない。

「学校行かないの? タンイがいるんじゃないの?」

 言葉を失っている私に、少女はそう問いかけてきた。

「なんで無駄に詳しいのよ。関係ないでしょ」

「いじめられてるの?」

「なんでそうなるの」

「ちがうの?」

「……だから関係ないでしょ」

 正直否定できないのが悔しいところだ。クラスの女子から不当な扱いを受けていることは事実だが、初対面の彼女にそのことを伝える義理はない。それにここにいる理由はそれが全てではない。

「大人には色々あるものなの」

「おねえちゃん何さい?」

「十五歳」

「それ大人なの?」

「……うるさいなあ」

 少女に悪態をつき、ポケットからタバコの箱を取り出した。箱の口からはみ出た一本を口で咥える。胸の奥から漏れ出す感情を前歯に込め、ガジガジとタバコを噛んだ。

「それ、おいしいの?」

 少女はペンキの手を休めることなく問いかける。

「くそまずい」

「じゃあやめればいいのに」

「別にいいでしょ」

「あと、火つけないの?」

「つけないよ。未成年だし。体に悪いんだよ、知らないの?」

少女はペンキを塗りたくる手を止め、哀れな表情を私に浮かべる。さっきから一方的に質問攻めを受けているのが癪に触り、こっちも仕返すことにした。

「私、今かっこいい?」

少女はタバコへ嫌悪感を込めた視線をぶつけ、しばしの沈黙の後、そう言った。

「……べつに」

「タバコってかっこよくない?」

 内心はどうあれ、その批判的な視線を挑発してみた。

「おねえちゃんは、かっこいいって思うの?」

「全然」

 そう言うと彼女は少し笑った。タバコを吸えども、咥えども、かじっても、見た目を見ても、人が吸っているところを見ても、カッコよさはわからない。

 というか初めて吸った時の肺の激痛は忘れられない。二度と好んで吸うものか。

「だよね」

 吐き捨てるように。また、自分と少女に言い聞かせるように言葉をこぼす。私は寝返りをうち、空き家の壁へ背を向けた。

「せなか、すごいことになってるよ」

 おそらく、セーラー服の背部に土やら虫やらがひっついているのだろう。普段クラスの女子たちにされている仕打ちに比べればマシだ。払う気力も返答の意欲もわかないため、タバコを噛み続けることにした。

「タバコおいしくないなら、これ食べる?」

 食べ物の誘いと思い、再び寝返りを打ち彼女の方へ顔を向けた。

 少女はペンキが乾き始めたハケを容器へ乱雑に戻す。そして地面に置かれた紫色のリュックをいそいそと私の前に持って来て、チャックを開けた。キャラクターのシールがごてごてに貼られており、懐かしい気持ちになる。その中には大量のキャンディーの大袋やポテトチップスにガムとチョコレート。まるで小さなお菓子屋さんだ。

「駄菓子屋さんでも目指してるの?」

「ちがう。これ、家出セット」

 少女曰く、どうやら家にあったありったけのお菓子を家出の食料にするつもりだったらしい。なけなしのお小遣いと親からくすねたお金で、買えるだけのお菓子を買い占め、リュックいっぱいにしたという。

「ここならいくら食べても怒られない」

「……虫歯になっても知らないよ」

「ちゃんとハブラシ、もってきてるもん」

 少女はそう言うと私の口に咥えたタバコを引っこ抜く。その代わりに緑色の輝きを帯びた棒付きキャンディーを私の口に無理やり突っ込んできた。鼻に抜けるような猛烈な刺激が舌と鼻を支配する。

「……からっ! これ何味?」

「わさび味」

「せめて普通の味食べさせてくれない!?」

キャンディーを口から引っこ抜き、ゲホゲホと地面に咳をした。

「わさびしかない」

「家出セットの内容もう少し考えた方がいいよ……」

「わたしが、すきだからいいの」

「……そうですか」

 せっかくもらった好意を無下にするわけにもいかず、渋々キャンディーを口内へ戻す。次第に刺激にも慣れてきて、飴は唾液と共にとけて小さくなっていった。

「なれるとおいしいでしょ」

 涼しい表情で少女は私と同じわさびキャンディーを舐め始めた。そしてもう一本私のズボンのポケットにねじこんできた。

「慣れないとおいしくないキャンディーって、どうなの。あと二本目いらないから」

「プレゼント」

「いらないって」

「おにいちゃんは、タバコもなれたらおいしいって言ってた」 

となるとこのキャンディーはカッコつける分にはタバコと同等の価値があるのかもしれない。肺が汚れるわけでもないし、まだ健康的だ。

「……てか、お兄ちゃんいたんだ」

 そこを突っ込むのも面倒のため、話題を変えた。

「あんたのお兄ちゃん、どんな人なの?」

 少女にそう尋ねると、表情に少しだけ影を落とした。

「オセロすごくつよいの」

「……それは、たしかにすごいね」

 心底どうでもいい情報から始まった。オセロなら私もまあまあ自信はある。

「さいきん、帰ってこないの。かみもへんな色だし」

「へえ」

 髪の毛を染める。黒髪こそ正義であり、誠実さ、清潔さの表れ。十代の象徴に対する一番わかりやすい形の反抗だ。思いだしたくない過去がポツリポツリと頭に浮かび、それを消すため、小さくなったキャンディーを奥歯で砕いた。わさびの破片が口中に広がり、それを舌で喉奥へ誘導する。口の中がすっきりして、深呼吸で新鮮な酸素を取り入れた。空気の美味しさを感じられるのはわさびキャンディーの良いところかもしれない。

 私の言葉を待たずに少女は話を続けた。

「くつのひもは、むすばなくなったし、かかともいつも、ふんでるの」

「なにそれ、ださいね」

 私の率直な感想に、少女は安心したように息を吐いた。

「あと、おうだんほどう歩くときに、手上げてないの」

「それ、いつの間にかやる方が恥ずかしくなるんだよね」

「なんで? みんな上げてるよ?」

 正しいとされることが、時間と共に。年齢と共になんだかずれていく。多分、手を挙げるのをやめたのは私が初めてじゃない。背景のわからない羞恥心なんて、いつから抱き始めたのだろう。

「誰かが手を挙げるのをやめて。そしてそれを真似したの」

「だれかって、だれ?」

「さあ、誰だろうね」 

 その誰かがいなかったら、私は今でも横断歩道を渡るときに、手を挙げていたのだろうか。

「あんたは学校いかないの」

 話をそらすために、少女にそう尋ねた。

「行かない」

「なんで。いじめられてるの?」

 さっきのお返しとばかりにそう尋ねる。

「ちがう。先生がやめちゃうから」

 少女は私の皮肉には反応せず、そう告げた。

 何と言えばいいかわからず、口をつぐんだ。だけど、何か共感する言葉をと思い、とりあえずありきたりな返答を選んだ。

「それは、辛いね」

「ちがうの。ちがうの」

 そんな言葉がほしいんじゃないといわんばかりに、少女はキャンディーを咥えたまま、ハケを再び容器から引き抜いた。ぼたぼたペンキの垂れるハケを、たたきつけるようにして壁を彩っていく。次々とハケを別の容器に浸していく少女。赤、青、黄色、黒の四色の色彩に目が眩んだ。

「わたし、先生のこと、きらいって言っちゃったの」

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