みんとの短編集
峡 みんと
さめても、さめない
自販機のボタンを押した。確かに自分は、いつも利用しているオフィスの中の自販機で、いつも仕事終わりに買っているBOSSの微糖缶コーヒーのボタンを押したはずだった。しかしカランという音を立てて出口に落ちてきたのは、どう見てもジョージアの缶ココアであった。温度がじわりじわりと缶を持っている左の手のひらに伝わってくる。
確認していたつもりでも自分が押し間違えたか、それとも補充の際のミスか。はたまた故障か。まあ、どのパターンにしてもコーヒーの価値もココアの価値も同じく130円だ。それに、ココアが嫌いで飲めないという訳でもない。「たまにはいいか」と栓を開けようとしたところで、向こうから聞こえてきたヒールが床を踏む音に顔を上げた。
「お疲れ様」
「あぁ、星野先輩。お疲れ様です」
挨拶すると、彼女はウインクしてみせた。
星野先輩はばっちりパンツスーツを着こなして、ウェーブロングの髪は艶々とした黒だった。若干厚めの化粧も違和感を覚えさせないほど堂々として。きれいな立ち姿をしている。容姿だけではない。彼女はいつもてきぱきと仕事をこなし、時に厳しく時に優しく部下を指導する。まさにキャリアウーマンと呼ぶにふさわしい星野先輩は自分の憧れそのものだった。彼女は「久々にサシで飲まない?」と自分を誘った。私も話したいことがあったんです、と返事をすると彼女は天真爛漫な笑顔で頷く。フローラル系の香水の甘い匂いが、自分と先輩の間を通り抜けた。
横並びに歩きながら飲み屋を目指して他愛もない話をしていると、やがて駅に入った。ざわざわとした人の話し声が心地いい。ふと彼女の右手にぶらさがった鞄に視線が止まった。開けっ放しで丸見えの中に存在するそれは、間違いなく例の微糖缶コーヒーだった。いつのまに、と驚くと同時に自分がまだ缶ココアを左手に持ったままであることを思い出した。すっかり熱を失って、ひんやりとしてしまっている。視線に気がついたようで、星野先輩はあっ、と声を出す。
「いけない。朝買ってそのまま、忘れてた。」
あちゃー、と先輩はややわざとらしく顔を覆ってみせた。ゴミ箱を探して大きな瞳がきょろきょろと動く。
「よかったら、預かりましょうか」
先輩はえっ、と目を丸くする。私の突然の言動に驚いているようだった。
「好きなんです」
でも、と渋り先輩は下を向いた。気を遣っているのだろうか。しかし、冷めてしまったとはいえそのまま捨てるのはもったいないように感じた。
「いいの? こんなに冷たいのに」
コーヒーに触れると、やはりココアと同じく冷たくなってしまっていた。ごめんね、と囁き声で謝罪する先輩にいえいえと首を振る。
「ありがとうございます。帰ってからレンジで温めます」
笑顔で受け取ると、先輩は微かにはにかんだ。
「ほんとあいつ、休むなら早めに連絡してほしいよ」
先輩は頭を掻いて笑顔を見せる。顔を赤くして俯いて、少女のように恥ずかしがる微笑み。
――――私は知っている。
先輩は同僚の恋人の為にいつも微糖を買って、朝出勤してきた彼に手渡している。その横顔を、恥ずかしそうに顔を赤くして微笑む姿を私は何回も見てきた。
――――私は知っている。
その彼は今日出勤していない。風邪をひいたらしい。このコーヒーは、私のために買ったものではないのだ。
――――私は知っている。
先輩がいつも私に語ってくれる彼の良いところや悪いところを。彼の知らない先輩の可愛くてきれいなところを。
黒い鞄にそっと隠した冷たい缶を、ゆっくりと取り出す。
「先輩、ココア好きでしたよね」
黄色い缶を見せると、先輩は目を丸くした。
「どうしたのこれ」
「いつも通り微糖買おうとしたんですけど、なぜかこれが出てきちゃって。冷めちゃいましたけど。飲みますか?」
「……私もあなたに冷えたのあげちゃったし。ちょうどいいわね」
ありがとう、と微笑むその笑顔で胸がいっぱいになる。私はいろんな感情をぎゅっと抑え込むようにして、口角を上げた。
「ええ、ちょうどいいですね」
……私は彼の何倍もちょうどいいはずなのに。
そんな言葉は、冷たい微糖と一緒に鞄にしまい込んだ。
みんとの短編集 峡 みんと @mintsan224
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。みんとの短編集の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます