28・5

 結局丹菊からの攻撃は得点に繫がらず、3―2の儘で十二回裏へと進んだところで、巨人は俵をマウンドへ送り出した。右投げサイドスローという、今日散々投げてきた丹菊と同じ投球スタイル。勿論背丈も膂力も手先も違うのだから、まるで同一な投手と言う訳ではないのだが、しかし、雨天順延が有ったとは言え、巨人の、六連戦最終日で火の車な台所事情が垣間見える采配となっている。

 藍葉は、寒さが身へ沁みる中、投球練習の仕上げに二塁へ低く送球してから、眩いナイター照明によって白惚けた夜空を少し見上げた。’16年のセリーグ、最後のイニング。横浜が一点でも取れば横浜が、さもなくば巨人が、日本シリーズへ駒を進めるのである。いずれにせよ、三月末から戦い抜いてきた戦士達と、それを応援してきた者共の情動が、もうすぐ爆発して空気を震わせることになるのだった。

 そんな、交響楽団の指揮者が観客へ背を見せ、手を広げた瞬間のような、厳粛なる予感の刻、まず出て来たのは、代打音坂。三合と同門である彼は、この大一番に退いてしまっているキャプテンによって良く気合を籠められてからベンチの前へ出て来、俵の投球練習の間、素晴らしいスウィングで素振りつつ、出番を待ち兼ねていたのである。

 彼の登場曲の軽快なサルサが、大声援に混じりて振り注ぐ。そしてその上から、魔王の声がつんざいて来ては、渾然とした雰囲気が藍葉を蔽うのだった。

「おらぁ! 打てぇ! 帰塁すれば大ヒーローだぞ!」

 決していい数字を残している訳ではないが、しかし、初打席本塁打など、妙なスター性を持つ若手。そんな印象を覚えていた藍葉は、決して音坂を歓迎しなかった。

 そんな藍葉が、ストレートのサインを出せば、

「打て打て音坂! 狙い打て!」

 甲高い、紫桃の邪悪な声を漏れ聞きながら、藍葉は開き直った。こっちの腹がばれるからって、なんだというんだ。一イニングくらい、凌いで見せる。たった、アウト三つ、取り果せばこっちの勝ちだ。

 実際彼と俵は、ぽんぽんと二球で音坂を追いつめたのだが、しかし、そこから、若きしぶとさを見せつけられる。三球目、四球目、五球目、六球目、七球目と投げ続けても、粘り付くような彼のバットから逃れられず、尚も第三ストライクを奪えないのだった。

「嫌ーなバッター、嫌なバッターだなぁ、おい!」

 怪しまれぬ為のノイズのつもりか、そんな、余計なことまで元気に吠え出した紫桃に、どこか苛立たされつつ、ツーボールツーストライクからどう攻めようかと考え抜いた藍葉であったが、結果として、彼の必死な思案は無為に終わった。

 第八球のカーヴが、内へ入りすぎ、左打席の音坂を襲ったのである。

 散々損耗した挙句に死球と言う、最悪の立ち上がりを演じてしまった巨人バッテリーであったが、ラミーロは彼らに気を持ち直す暇すら許さず、ここぞとばかりに、代打峯井を送り込んで来た。あの腰の重さは、露も残っていない。もう横浜の守備機会は有り得ない以上、当然に、全力の猛攻を仕掛けてくる。

 ここでも当然のように右打席へ入る峯井へ、「やっぱ、そっちかよ、」と、つい藍葉は声掛けてしまい、紫桃の悪い癖が移ったか、と一瞬反省したのだった。

 肝腎の対戦内容は、やはり紫桃からの配球漏らしが毒となり、四球目に強い打球を引っ張られてしまう。しかし此処は、三塁の名手叢田が好捕してのサードライナーとなり、ひとまず安堵出来たのだった。

 そうだ。別に、前へ飛ばせば必ずヒットになるって訳でもない。ファールばかり打つ丹菊が、いつも言っていることじゃないか。

 そうやって、戯言を真面目に解釈するという無茶な方法で、自分をなんとか鼓舞した藍葉は、一番鍬原に対しても怖じずに攻めの球を要求し、そして、肝を潰した。初球から思いきり振ってきた鍬原の打球は、あわや、ポール直撃の大飛球となったのである。

 ファールの判定が出てから、藍葉は、マスクを被っていることに感謝しつつ、すぐに、呆然とした表情を改める。ええい、ワンストライク貰ったんだ、何か問題有るか!

 そういう不合理な論理で立ち直り、インハイのストレートを要求した藍葉だったが、紫桃との駆け引きで嫌と言うほど心を鍛えられた彼程の落ち着きや恢復力を、マウンドの俵は得られていなかった。死球を繰り返すことへの忌憚と、大一番の重圧が、彼の指先を狂わせ、そうして半端に内へ入った球が、再び思いきり鍬原に叩かれる。

 綺麗なセンター返しだったが、しかし、あまりに綺麗過ぎる、正中線を貫くようなこの打球は、蝶野の正面となって敢え無く捕球された。

 ツーアウト。

 後一人。

 バッテリーとして、我らの成果だと胸を張れるようなアウトは、この回一つも取れていないものの、とにかくここまで辿り着いた藍葉は、俵と心地よく目を合わせ、早くも何かを労うかのように頷いた。十二回の攻防で疲れ果てた足腰から、心地よく力が抜けていく。

 九回裏に続いて再び巻き起こる、後一人、後一人、という、犇々ひしひしと肌を押す大唱和。

 今日無出塁の柁谷へ、六回目の打順が回る。無論、気焔を纏いつつ打席へ入ってくる彼、蒼き韋駄天であったが、一方の藍葉は、もうどうにでもなれと、仏僧のような気持ちとなっていた。つい先刻まではあれ程、何もかも背負って張り詰めていた彼であったのに、しかし、この回僥倖のように得られたアウト二つの、婀娜あだ者のような重い甘さによって、懸命に保っていた気概を挫かれていたのである。

 もう、此処まで必死にやったのだから、結果の如何はまぁいいだろう。仮に負けても、恥ずかしいことは、

「柁谷さん!」

 ベンチからの紫桃の声が、彼へ、これまでと違う色で聞こえて来た。

「頼む、……打って下さい!」

 悲痛な、擦りきれそうな声。

 声出しなどという慣れていないことを続けて、喉がやられた。……それも、まあ、有るだろう。

 しかし、

 藍葉がつい、柁谷と球審の隙間からちらと一塁ベンチを見やると、魔王は、

「打ってくれ、……打ってくれ柁谷さん!」

 その気になれば私、どんな球でも打てるんだぜ、と、球宴での実演後に肩を組んで来た時の傲然。野球にだけのめり込んできた馬鹿共を、ひょいと捻ってやった時の絶望の色が堪らない、と語った時の嗜虐性。103本打っても尚飽き足らず、衆目下に東京球団を蹂躙した、冷酷な胴欲どうよく

 叫ぶ勢いで顔を下向ける紫桃は、シーズン中のそれらと対極的なものを、爛々と帯びていた。神が、魔王が、祈っている。当然に欠片も信心を持たない筈の彼女が、神なる何者かへではなく、仲間へ、敬虔に願っていたのだ。

 前へ向き直す藍葉は、自らの暢気を強く恥じて、元通りの士気を取り戻していた。死んでも、打たせない。魔王の援護も、乗り越えて見せる。

 初球は、……低めへ、逃げるカーヴ。

 そう意を決した彼が、股間で指を躍らせれば、

「打て、……〝打て〟だ、柁谷さん!」

 応援を装うた暗号を、――と言うよりは、最早、配球を伝えるのを口実に、声援を投げ掛ける様子となっている、蕭然しょうぜんとした声が、横浜のベンチから響いていた。その、今際いまわの際の病者の、悔やみ言のような悲痛さは、宿敵の藍葉の心までも酷く搏つ。

 紫桃の諜報を受けていた柁谷は、余裕で初球を見逃したが、毅然と戦い抜くと決めたばかりだった筈の藍葉は、しかしここで、突如、回心を起こした。

 と言っても別に、恐怖や重圧に負けた訳ではない。彼は、この、魔王の悲痛な叫びを、自分だけが聞けてしまっていることに気が付いたのである。そんなことが、有っていいだろうか。無論、自分も必死に世界二つを救わんと、幾千年も奮闘して来て、漸く此処に辿り着いているのだが、しかし、長さはともかくとして、結局誰よりも本気で闘ってきたが、この、盟友の一面を垣間聞かずに、だだっ広い外野なんかで、一人立ち呆けて良いのだろうか。そんな理不尽、有り得べきだろうか。

 彼は、少し躊躇ってから、立ち上がった。

 ざわつきの中で堂々と佇立し、遠く持ち上げたミットを、此処へ投げろと、フラメンコのパルマのように叩いて見せる。

 一応、外向きにも筋は通っていた。柁谷よりも次の赤根の方が明らかに打力で劣るのだから、二死である以上、そちらと勝負した方が賢かろう、と。よって、一旦騒がしくなった巨人側の観客も、流石に「あと一人」の朗唱は途絶えさせども、尋常に落ち着いて次の勝負を待ち構えてくれたのだった。

 しかしその後、控え捕手の峯井すらも含めて戦力を使い果たしていた横浜が、已む無しに赤根をそのまま打席へ送り出して来ても、彼は、尚も立ち上がったままだったのである。

 流石にこれにはタイムが掛かり、鷹橋やコーチがすっ飛んできたが、藍葉は、多言を弄せず、ただ真率に、こう述べたのだった。

「打率.067の女との対戦を、自分は選びます。」

 十五打数一安打。紫桃と丹菊との、対戦成績だった。

 この場を任されたのも、責任を取るのも、自分の筈だと、明らかに分を過ぎた思いを藍葉は声音に籠め、また、それは首脳陣へも伝わったが、しかし、出来れば使わずに試合を終えようと後回しにしていただけあって今日いかにも悪い俵の調子と、藍葉の覚悟や功労が考慮され、この連続敬遠策は、際どいところで認められたのだった。

 戸惑いながらも、両陣営のファンが揃って歓迎するという、世にも不思議な故意死球が無事に成立し、二死満塁となる。

 その後は、球場側も全て諒解しているかのように、紫桃へのDJ口上や登場曲は一旦差し控えられ、球審すらも自ずから、鷹橋へ選手交代宣言を促す有り様であった。


 マウンドで丹菊を出迎えた藍葉は、彼女に、腹の辺りを突かれる。

 呻いた彼へ、

「この馬鹿、……あんた、私殺す気?」

 苦笑して誤魔化した藍葉は、矢庭に、丹菊の右腕を取り、医者が診るかのように優しくそれを捩じった。

「行ける?」

 振りほどいてから、肩を竦めつつ、

「行くしかないでしょ、……コール、されちゃったんだし、」

 彼女は一旦、電光掲示板の自分の名前横の、「1」という数字を睨んだのだった。

 集まっていた彼ら二人は、これで最後だからとしっかり六球許可された投球練習を始める為に、良く、互いの熱い目を見詰めてから、各〻そびらを向けた。藍葉が少しの間、本塁の奥で立ち竦む間に、丹菊は、投手板の辺りを足でならす。そして、号令でも掛かったかのように、二人は同時に振り返って、再び顔を合わせるのだった。

 彼女が、右方へ肘を突き出して肩を軽く回し、彼が、どっかりとしゃがむ。それから、表情を引き締めた――或いは沈めた――丹菊が、練習の一球目を投げんと、構えたのだが、

 突如、軽薄な曲が大音量で流れ始めた。

 丹菊は、腰が砕けそうにする。嚠喨りょうりょうたる、紫桃の登場曲。いや、ちょっと待て、確かに守備陣も散っていて本気の投球が始まるように見えるのかも知れんが、いやいや、ものには、順序と言うものが有ってな、

 そう言わんばかりの態度だったが、しかし、すぐに彼女は気付くことになった。藍葉が、ちょっと向こう見て見ろよと、顎で合図したのである。

 彼女が振り返ると、横浜スタジアムの高い外野フェンス上半分に張られた、電光スクリーンに、夜の滄瀛そうえいのように深い紺碧を背景にして、09という金字が浮かび上がっていた。それと交互に、ERIKO TANGIKUという文字が、心臓の鼓動の如く繰り返し入れ替わって表示される。打者としての写真を切り抜いたと思しき、微妙に角度の合っていない彼女の顔が、やがてその中央に現れた。

 今関内の地に鳴り響いているのは、丹菊に倣った登場曲ではなく、かつて紫桃へ垂迹を為した、、横浜時代の曲なのである。横浜の投手の登板と、全く同じ接遇が、球場から彼女へ施されていた。

 丹菊は、マウンドで大笑する。馬鹿げた、粋。確かに素材は手許に有ったのだろうが、しかし、敵チームの、更に言えば事実上裏切り者の選手相手の為に、しかも、これまでお披露目出来なかったように、やはりいざ作ったところで常識なりしがらみなりによって抑制されざるを得ないような代物、投手丹菊の登場効果を、わざわざ手間暇かけて用意したという愚行に、彼女は搏ちのめされたのである。そして、馬鹿馬鹿しさだけでなく、あの、憧れていた横浜スタジアムで、横浜の戦士と同然に登板出来ると言う幸福が、彼女を呑み込んでいたのだった。

 しかも同時に、これから横浜の主砲と、史上最強の打者と、死ぬ気で戦えると言うのである。

 至福。

 それ以外に、無かった。

 疲労も肘の不安も忘れたかのような、深い深い笑顔で、彼女は再びセットに構える。恐らく彼女は、この戦いに懸かっているものを忘れているだろう、と、藍葉は一つ懸念を覚えた。しかし、そんなことを言い出すどころか、寧ろ、思惟するだけでも、何か冒瀆に相当するのではないかと、彼はそれこそ、この瞬間の彼女の神聖さを畏れたのである。

 彼女、相棒を、有らん限り尊び、全て委ねる。藍葉なりの真摯な答えが、これだった。ベンチからの紫桃の介入相手に、せせこましい努力するくらいなら、こうしてしまった方が戦略的にも望ましいと、彼は確信したのだ。

 果たしてこの確信が、冷静な視点から導かれたのか、彼自身も訝しんでいた。しかし、彼女も言っていたように、とにかく今更引っ込みはつかず、いとも幸せそうな丹菊の投球練習が滞りなく終わって、再び、あの曲が流れ始める。

 次打者円からゆっくりと歩いて来つつある紫桃は、恰も引退試合の主役であるかのように、ヘルメットを脱いでは、それを旗の如く大きくスタンドへ振るのだった。

「大袈裟だな、」藍葉が、そう囁けば、

「だって、」邪悪に頬を吊り上げつつ、「此処で終わりだよ、あんた達は、」

 少し目を剝く藍葉へ、無音の言葉で、

「私ん家だって一応どっかの檀家だったんだろうし、人並みに、死に逝く皆を弔いたい気持ちも湧くさ。」

 こんな悪趣味を理解していたらしいマウンド上の丹菊は、聞こえていた筈もないのに、疲れ切った硬い笑みから、

「何も終わりゃしないよ、枝音。……こっから、私達は、何もかも始まるんだからな!」

 絶叫へ、魔王が不敵に笑み返す。

 一点差十二回裏二死満塁。紫桃がたおれれば巨人の勝ち、生きれば横浜の勝ち。それ以外は絶対に有り得ない、天王山。永劫の果てに齎された、決戦の刻。

 蚊帳の外の感の有った藍葉も、気合を新たにした。もしも自分が後ろへ零せば、負け。そんな巫山戯た結着、許される筈が無い。

 球審が、指で丹菊を射貫きつつプレイを掛けた。

 初球、膝へ向かう危険な直球を、紫桃が何とか回避する。当然のボール判定。

「球、見えてるのかよ。」と、何とか捕球した藍葉が文句を言えば、

「私も、甘っちょろいよね、」自嘲の響きで、紫桃が返す。「当たってやれば、それで終わりだったのにさ。」

 失投を演じた丹菊は、未だに笑み深かった。死球での勝利を潔しとしない親友を、自分のことのように誇っている。

 二球目、一転してアウトコースへ投ぜられた球へ、紫桃がバットを伸ばしたが、しかし、その正体はスライダーで空振りストライクとなった。

「畜生、」構え直しながら、怡然と、「やっぱ、良い球投げるんだから、」

 第三球は、もともと丹菊が何処へ投げようとしていたのかは定かでないが、とにかく結果としては、ど真ん中の、いとも危なっかしい緩球となった。しかし、横手投げの宿命のシュート回転が、胡乱な投球によって普段よりも強く掛かったことが良い方向へ働き、紫桃のバットの根元に刺さって、三塁線を切るファールとなる。

 口惜しそうに首を傾げた紫桃は、一旦打席を外して二三度フルスイングを演じた。あまりの棒球に悲鳴を上げそうになった藍葉であったが、とにかく結果としては、ワンボールツーストライクと魔王を追いつめられている。

 制球だけでなく球威も、表示は142キロであり、明らかに、丹菊はまともに球を投げられる状態ではなかった。

 そんな彼女は、しかし紫桃が戻ってくるや否や、莞然とセットに構えてみせる。そして、そこから動き出すと、最後の魂を籠めるかのように、必死な形相へ顔を顰めるのだった。

 だぁや。無理に文字へ起こせばそんなところになるであろう、優雅さの欠片も無い呻き声から投ぜられた第四球を、藍葉は、全力で真上へ跳躍して何とか止めた。

 そのまま背を地に打ち据える彼へ、

「ナイス、キャッチ。」

 丹菊からではない、紫桃からの感謝である。

 音坂を手で止めている彼女の背中を見て、藍葉は思った。これは恐らく嫌みではなく、紫桃の方こそ、本当に丹菊と結着をつけたがっているのだろう、と。

 世界の命運という責任を背負い、目的の為に手段を選ばなかった筈の彼女ら彼らが、この佳境における熱に酔わされて、毅然たる騎士道精神を纏いつつあった。

 続いた第五球は、アウトコースからのシュートによるバックドア狙いのようだったが、想定よりも外れてしまい、余裕で見送られてボールとなる。

 フルカウント。

 絶技で知られた魔王紫桃は、シーズン中、バットを振れば必ず左翼の深いところへ打球が飛んで行くと言う有り様で、つまり、一度もファールを打たなかった。そこで、球場内の全ての者、そして、電波を通じて観戦している全ての野球ファンは、次の一球で全てが結着すると疑わなかったのである。つい先程、プロ入り後初のファールを紫桃がお披露目していたばかりだったのだが、そんな材料を消し飛ばしてしまう程に、二人の対決は眩かった。

 薬指で眼鏡を上げてから構える紫桃の向こうで、見るからに息の荒い丹菊は、小細工無用とばかりにぽんぽんと投げる傾向の有る彼女にしては珍しく、じっくりと、間を、嚙み締めるように取った。

 あと、一球。

 第六球、終末の球が、丹菊の手を離れる。何処からそんな底力を捻り出したのか、羅刹の相好の丹菊が放ったそれは、163キロを記録しつつ藍葉へ突き刺さらんと唸った。

 彼は、絶望的な気持ちとなる。素晴らしい球だが、しかし、突然20キロも上げられて、捕れる訳が、

 だが、ふためいたのは、彼のみでなかった。

 何とかバットを出していた紫桃は、その上っ面で、盟友の豪速球へ触れたのである。

 藍葉の耳を劈く、美しい音。

 右翼への方向となった打球は、丹菊の球威のみで翔りているかのように、ふらふらと、力なく立ち上って行く。

 ……右翼!?

 藍葉は叫びそうになり、スタンドからは、実際に種々の色の悲鳴が上がる。横浜と同様に延長戦で選手を使い果たしていた巨人は、丹菊の緊急登板に際して、已むなく、浴林を右翼へ置いていたのだった。

 その生涯で殆ど捕手一本槍だった浴林が、懸命に、後方へ駈けていく。

 音坂はとっくに本塁に到着している。他の走者も、次塁を奪っている。紫桃も、一塁を悠々と踏んでおり、そこで、跪いた。

 両手を組み交わした彼女が、見上げ、悲痛に叫ぶ。

「頼む!」

 藍葉と丹菊は、動けなかった。センターの蝶野は右翼へ向かっているが、対紫桃のシフトで左へ寄せられていた彼はあまりに遠過ぎており、間に合うことは無いだろう。他には、外審と浴林が懸命に打球を追っているのみで、観客を含め、誰一人、その場から動けなかった。

 浴林が、ラインに近しいフェンスへ背を付ける。ファールでは、ない。右翼が本業である丹菊は、繫がれた犬のように、そちらへ飛び出して行こうとするのを懸命に自制していた。

 入れ。入るな。結実して具体的な質量で衝突するのではというばかりの、両陣営の祈りが、球場によってかくされた丸い星空に迸る。

 衆目による網のような視線を振り解きながらの、落下。

 無慈悲に運命を分かつ一球が、白羽の矢のように降りかかって来る中、浴林は身を一旦縮めた。そこから腕を伸ばした彼は、壁へ背を打ち付けつつ跳躍し、そして、借り物のグラブと打球が重なったように見えた直後、倒れて外野芝の上に寝転んだのである。

 接近していた外審が、間を取った。


 ……

 フェア打球ならば、即座に判定する筈である。そう、一瞬裡に気付きはしたものの、その情報を処理出来ないで混乱している藍葉を助けるかのように、外審は、腕を振った。

 倒れている浴林のグラブの先端に、しっかりと引っ掛かっている白球。


 藍葉と丹菊は、気が付くと抱擁しあっていた。抱擁というよりも、体格差の関係で抱き上げる様な絵になっていたが、とにかく彼らは、無意識の内に18メートル半の距離を詰めていたのである。

 彼ら二人を核にして、フィールドやベンチから巨人の戦士達・首脳陣達が寄り集まり、まるで転がる雪玉のように、瞬く間に白く巨大な固まりへと膨らんだ。

 やがて彼らは、破顔した鷹橋を、摘み出すかのように空いた方へ乱暴に引っ張って行くと、さあ祀り上げてやるぞと、改めて取り囲み始めるのである。

 外様としての遠慮から藍葉が、そして背丈での引け目から丹菊も、その賑々しい輪から一歩退いていたが、その内の彼が、ふと、紫桃の様子に気付いた。

 彼女は、一人塁上で、サジダの如く叩頭しながら身を慄わせていたのである。

 彼が思わず駈け寄ると、気配に気付いた魔王は、顔を上げ、

「藍葉ぁ、」

 ゆっくりと、立ち上がった。右のレンズが土汚れ、両目ともに紅くなっている。

 何かそこから、忌語なり罵詈なりを吐き出そうと試みている様子だったが、しかし、結局、聳然しょうぜんとしていた肩を、視線と共にがっくり落とすと、

「舐めてた、……のかな。もう少しだけでも野球練習しておけば、フェンスを越えるなりぶつかるなり、してくれたろうにね。もしかしたら、素振り一回増やしていただけでも違ったかも知れない。」

 くく、と自嘲してから、

「有りがと、藍葉君。」持ち上がったのは、晴れやかな顔だった。「あんたのお陰で、退屈しないよ。は絶対、詠哩子を捩じ伏せて、私達が日本一になってやるんだから。」

「あら、」

 その声に藍葉が振り返ると、丹菊も近づいて来ていた。クライマックスシリーズには異様な光景、宙を舞う鷹橋を背景として、彼女本来の、勝ち気な表情が冴えている。

「じゃあ、あんたの為に、春までに肘とか肩、直さないとね。……正直、結構ヤバそうなんだ。」

「ああ、……もしかして、シーズン中から私相手に出てくるつもり? ちょっと、休んでいても良いんじゃないの――私の為にも、」

「いや、駄目だね。上がなんて言うかはともかく、私は、四月から、全横浜戦で枝音と戦いたいよ。」

 利き腕を持ち上げるのすら大儀なのか、わざわざグラブを外し、左手で紫桃を指差しつつ、

「勝負しようよ、枝音。最高出塁率、来年こそは私が取る。」

 一瞬間を置いてから、魔王は、胸の辺りを抑えつつ、仰け反って大笑した。

「ああ、……何それ、何それ、最高に、娯しそうじゃん! おのがじし勝手に打ちあうだけでなく、捕手としての私が詠哩子を抑えて、そして、投手としての詠哩子が、私を抑えるってこと?

 成る程ねぇ、……私正直、ホームランダービーとか――どうせ私が勝つだろって意味も有ったけど――別に直接戦う訳でもないのに何言ってんだ、ってずっと思っていたんだけどさ、でもさ、私達だけは、本当に、直に戦えるんだよね!」

「と言う訳で、さ、」丹菊は藍葉を見上げつつ、その背へ手をやった。「どうか末長く、宜しく。……ま、私の専属捕手ってことで、当分は首切られないでしょ。」

 藍葉が、丹菊を見下ろしつつも上手く言葉を返せないでいると、隙を衝いて歩み寄って来た紫桃に彼女共々身を翻され、友軍のお祭り騒ぎの方へ押されていった。

「おらぁ、アンタらぁ!」魔王が、彼女らしい不遜で吠える。「何やってんの、……大殊勲の二人が、仲間外れになってるでしょうが!」

 即座彼ら二人は、騒々しい下克上の同士に引きずり込まれ、「やめて、恥ずかしい」「寄るな引っ張るな、」と嫌がる丹菊の、小さくて重い体躯が、藍葉まで共謀して、宙へ六度弾まされたのだった。彼女が深い敬愛の念を覚えていたのにも拘らず参加出来なかった、三河の胴上げと、同じ場所、同じ夜空の下で。

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