25・7A

 九回二死。三合には出塁されてしまったものの、天網の如く頼もしい丹菊が代わって登板して来るのを、須賀野と三合のライヴァル対決も悪く無かったが、寧ろこの女傑対決の方が結末として絵になっているな、と、しみじみと眺めてから、これまでの、余りに永過ぎた奮闘の労苦を顧み、また、一抹の寂しさも味わいつつ、エールに口を付けていた茶畑は、危うく、口の中身を全て噴き出し掛けた。これまで14打席の間、掠らせてもいなかった彼女が、偶にはバットに当てたかと思うと、その打球が、そろりそろりと頼りなげに泛かび上がったのである。なんだ凡フライか、と一瞬安堵した茶畑であったが、しかし、その直後に慄然となる。今打っているのは、そこらの端者はものではない。――いや、横浜の選手として打席に立っているのだから、そりゃ端者の訳はないが、とにかく、NPBの中でも、ただの打者ではなく、あの、大悪魔、紫桃枝音なのだ。

 果たして、お家芸、レフトスタンドすれすれの本塁打、同点ツーランを見せつけられた彼女は、内野席のルールを破って立ち上がりつつ歓喜に渦巻く周囲の観客の中で、一人、腰が抜けて立てないのだった。

 とあるによって、一塁側ダッグアウト真上辺りの席を取らざるを得なかった彼女は、横浜ファンを演ずる為にレプリカユニフォーム――それも「SHITOH」と背に印されたもの――を装うていたが、座したままがくりと項垂れ、なんとかエールをホルダーへ突き挿してから、両手に顔をうずめた。彼女はそうしつつ、ああ、こんな落胆していては怪しまれるぞと、焦っていたが、しかしその実、別に周囲からは単に、感動のあまりに喟然きぜんとしているのだろうと解されていたのである。

 そんなことを露知らない彼女は、少し経ってから、その、を果たしつつあるまま、何とか足腰に気力を注いで立ち上がった。しかし、寧ろこの時には既に、周囲の観客は余りの喜ばしさによって、善性或いはモラルを取り戻しており、勿論欣然としたままなれど、殆ど全員がルール通りに着座しなおしていたのである。そこで、茶畑は、卒業式で次第を誤った在校生の如く、一人だけ佇んでしまったのだった。しかも、尚も顔を両手に埋めていたので、この逸脱に気付くのに時間を掛けてしまう。

 これだけならば、はっとした彼女が顔を赧くするだけで、そしてそれも酒の酔いだと思われるのみで終わっただろうが、しかし、不幸にも茶畑は、そのを演じたままだったので、つまり、恰も田園風景の中に聳え立つ電波塔のように、そので座を支配してしまったのだった。

 この「影響力」は、凡百の人間へは完全に直交しており、譬えるなら、磁界に置かれた鉛の如く、観客らはその存在に気が付きもしなかったが、しかし、こので、一人だけ、その磁性に呼応出来る者が居た。

 この試合で初めて出塁し、……つまり、今日初めて、本塁周囲以外のエリアへ侵入出来た紫桃は、二三塁間を巡りさ、試合開始時点からずっと、自軍ダッグアウト上部を、ここぞとばかりに見上げると、つい、北叟笑んでしまった。尤も、この危殆な笑みは、自然な欣然にすぐ打ち消されており、誰にも見咎められなかったのだが。

 余りに瞭然とした、鼻につくを下品に振りまきながら、スタンドで一人だけ佇立している不審な女の姿を、そうして塁を回りつつ認めた魔王は、その後は一旦、藍葉に嫌みをぶつけてやって憂さを晴らしたり、仲間――もうじき破壊する予定の仲間――達と喜んだりと、忙しくなったが、しかし、そんな中でも彼女は、すべきことを忘れないでいたのである。

 落ち着いてから、ベンチで、

「済みませんコーチ、ちょっと、――ああ、いえ、有り難う御座います、御指導のお陰です。……え? いやいや、コーチの教えも受け入れましたよ、……ちょびっとは。

 そんなことよりも、……例の、町田駅でのに絡んで、ASAPで通報したい奴がスタンドに居るんですけど、誰に、どう頼めばいいんでしたっけ?」

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