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 続いた巨人の攻撃が無得点に終わってからの、四回裏、地上波によってその剛腕が瞬く間に知れ渡り、現地だけでなく日本中の野球ファンから注目を浴びていた丹菊は、しかし平然と右翼へ戻り、野次を飛ばしてくる横浜党へ楽しげに何か言い返していた。これに伴って、右翼とマウンドの往復や、丹菊の怪投の日陰役という、落ち着かない役回りを担わされた先発太口は、しかし、この四回と続く五回をそれぞれ三者で抑えて見せ、薄氷のような一点リードを維持することに成功したのである。

 だが、彼も六回裏には捕まり、――と言うよりは、柁谷への死球と三合への四球を続々と与えてしまい、無死一塁二塁のピンチを招いてしまう。

 ここから、横浜打線は、シーズン中に打率・打点・出塁率・本塁打・長打率(ついでに三振数)でそれぞれトップ値を叩き出した平成最強打者、大魔王紫桃を送り出す訳で、ほぼ六割の出塁率のまま歩かされて無死満塁とされようが、或いは98試合.451、108本、201打点という空前絶後の打棒が発揮されてスリーランとなろうが、いずれにせよ重畳であり、とにかく逆転へ大きな希望を抱ける筈であったのだが、しかし、無情にも、再びあのコールが天から降り注いで来たのだった。

 ピッチャー代わりまして、丹菊。太口はそのままライトへ入ります。

 「丹菊スペシャル」とでも言われようか、あの、左打ち打者へぶつけなおすべく左投手に一塁とマウンドを往復させた、希代の名将による奇策が、この平成の終わり際に甦って紫桃へ差し向けられている。紫桃の天敵、丹菊詠哩子が、どうやら一々、魔王狩りに右翼からマウンドへ登ってくると言うのだ。

 三球のみ許された丹菊の準備投球に併せてバットを振ってはみつつ、露骨に肩を落としていた紫桃は、当然打席へは入ってきて構えたのだが、しかし、再び掠りもせずに三球三振し、いとも苦しげに引き下がって行った。

 157キロ、154キロ、162キロ。この世界、この物語の本当の主人公、絶倫の膂力を持つ女、丹菊詠哩子の本当の力、つまり、紫桃の説得或いは呪い、「投手なんか面白くないんじゃない?」という言葉によって封ぜられていた、100マイル投手としての力、何千何万の世界周回を経ても日の目を見なかった力が、今宵とうとう発揮されていた。無論、永らく野手を演じてきた上で、ここ数ヶ月焼けつけ刃で投手の感覚を思い出しつつ、プロの伎倆をどうにか最低限叩き込まれた彼女は、様々な面が不完全で、制球はいとも怪しく、スライダー、シュート、速球、遅球とで全てフォームが異なると言う体たらくであったが、しかし、これらのいずれも、幸い、魔王狩りには大きな欠点とならなかったのである。まず、弱視の紫桃と戦う上で、多少のフォームの違いは全く影響せず、そして、怪しげな制球も、裏を搔くことが何よりも大事である魔王戦においては、ある種利点とすらなるのであった。

 勿論大変なのは藍葉で、こんな荒れ球を、しかも魔王に読まれぬ為にノーサインで受ける彼は、キャッチ練習の間から痣塗れとなり、そしてやはり試合中も、度々後逸や落球を演ずると言う有り様だった。なにせ、ノーサイン投球に屡〻纏る美談、お互いの気持ちが通っていたからサインは無用だった、という事態が期待出来ないどころか、寧ろ、頑として避けねばならない訳で、彼は純に反射神経と視力だけで捕球をせねばならなかったのである。「別に必ずしも捕らなくて良い、とにかく後ろにだけは逸らすな」と、投手コーチや丹菊らと結論づけた意識だけを徹底し、なんとか彼女を実戦レヴェルに仕立て上げた彼は、丹菊にとって完全に専属捕手であり、つまり逆に彼女は、彼が居ないとマウンドへ立てない、特殊用途専用秘密兵器なのだった。

 俯き、歯を喰い縛った首を振りながら、紫桃が退いて行った後、再びライトから戻って来た太口は、丹菊にワンアウト分助けられたとは言え、続くラペスに併殺打を打たせることで自身の招いたピンチをあっさりと凌いで見せた。ほっとした藍葉が、引き上げ様に横浜のベンチを見やると、魔王紫桃は、片頭痛にでも襲われたかのような酷い渋面で一人沈んでおり、周囲から促されて漸く守備の為に鎧い始めるという有り様だったのである。

 藍葉は、ダッグアウトに戻って落ち着いてから、丹菊へ、

「死にそうな顔してるね、紫桃。」

「いい気味。」反射的にそう吐いてから、少し顔を竦めて、「いい気味、はちょっと言い過ぎたかも知れないけど、でも、相応の報いだよね。彼奴はこれまで、卑怯でないかどうか議論の余地が有る手段によって好き勝手野郎共を蹂躙してきて、そして、そいつらの苦悶を散々愉しんできたって言うんだ。なら、うん、私の神懸かり的な力に、もしも抗い切れないのなら、その分ちゃんと苦しんで頂かないとね。因果応報、ってやつでしょ。」

 これを聞いた藍葉は、いつかの丹菊の慟哭を思い出していた。

 

   主人公は、私なんだ。……枝音、

 

 

 この試合の紫桃は、気が抜けたのか、守備でも酷く精彩を欠いた。複雑な腹の読み合いとなる筈の藍葉の打席においても、実に素直な配球を為してしまい、今長の投ずる内角への直球を、左中間へおめおめ痛打させたのである。

 この適時打で更に一点失った横浜であったが、その後はしっかりと奮起し、二点ビハインドの八回裏二死から走者を溜め、なんとか逆転のチャンスを作って見せた。

 しかし、この好機を託された主砲紫桃に対し、再び丹菊が投入される。

 悪霊と対峙したように顔を歪める紫桃へ、豪速球が投ぜられて行く。初球、外角に外れる球をなんとか我慢した魔王だったが、しかし、半端にシュート回転した球は偶然のバックドアとなり、見逃しストライクとなってしまう。

 軋る歯の隙間から、藍葉へ音が聞こえる程の勢いで、悔やみがましく蒸気孔のような息を漏らした紫桃は、シーズン中の、打つ気の無い球は微動だにせず見送り、仮にそのまま見逃し三振を喫しても、恰もただブルペン練習に立ちん坊として気紛れに付き合っていたかのように、顔色一つ変えずに即座踵を返す偉容の、影も形も残しておらず、必死に、そして苛立たしげに、足を動かしつつバットを構えるのだった。

 二球目、藍葉が捕球の為に立ち上がらねばならなかった球を、163キロと言う球速に眩惑されてか、それとも何も見えていないのか、紫桃は、無理に振り抜こうとして当然に空振った。そうしてあっという間に追いつめられてからの第三球、インコースへ突き刺さるストレートを、彼女は銃弾でも飛んで来たかのように必死に打席から外れて避けようとしたのだが、しかし、実際には内角一杯を通っており、球審の腕が振られて二者残塁のチェンジとなる。

 三打席連続、三球三振。確かに紫桃は今シーズンの三振王でもあるのだが、それは、侮蔑の称号と言うよりも、一度ひとたびスウィングされると、二塁打か本塁打かフライアウトかはともかく、レフト深くへ確実に運ばれてしまうと言う趣であり、邪飛も内野への凡打も、そもそもファールすら一発も打っていなかった彼女の、潔さと業前の表れであると――内実はともかく――外からは理解されていたのであって、こんな、再三好機を潰す不様至極な三振は、全くもって想像のほかであった。

 結局試合は、敵の主砲を完全に封じ込めた巨人がそのまま2―0で勝利し、決勝弾とホールド三回相当と言う訳の分からない活躍を見せた丹菊が、好投の太口を差し置いてヒーローインタビューへ祭り上げられた。

 彼女は、突然の登板、そして四冠王紫桃を三連続三球三振に打ち取ると言う結果、皆が驚いたが、という質問に対して、

「ええ、……どうしても枝音に勝ちたかった、或いは、どうしても枝音の率いる横浜に勝ちたかったので、シーズン中藍葉、……ぁ君と、一生懸命準備してきました。もともと肩は誰よりも強いと思っていましたし、大昔に取った杵柄も有って、死ぬ気になればなんとかクライマックスシリーズまでにものに出来ると言う自信も有りましたので。

 私の本職が、右翼と言うのも良かったですよね。これが遊撃とかだったら、流石に、へい先発さん、ちょっと一旦交代しようぜ、なんて言えないですから。外野で、しかも枝音の打球がまず飛んでこない右方向と言うことで、こんなことが出来た訳で、なんというか、色々な巡り合わせも良かったのかなと思います。」

 まず一つ星を取り返したが、という問い掛けには、

「そうですね、三連勝しないといけないので、厳しい、本当に厳しいですけど、……でも、枝音さえ捩じ伏せることが出来れば、全然私達にも勝機は有ると思っていますので、……はい、明日からも死ぬ気で、必死に、やって行きたいと思います。」

 中濱前横浜監督に叩き込まれた習いの儘に、ダッグアウトに残って丹菊の受け答えをぼんやり眺めていた藍葉は、この応答によってはっとさせられた。彼は、永らく躰をぼろぼろにして準備してきた対紫桃の刃が、美事に突き刺さったことで、夢が一つ叶った後のような、ふわふわと誉れ高い気持ちとなっていたのだが、丹菊の語りによって、勝負はまだまだ此処からなのだと思い出したのである。一勝三敗、つまりここから三連勝必須と、未だ大きく劣勢な戦いに、この世界、そして、藍葉や茶畑の世界の命運が懸かっているのだ。

 この夜、横浜勢の空気は一変した。ここ最近はいつも試合後に、「野球楽しかった明日も(或いは、明日は)勝ちます」のような旨のことを、種々の表現で空疎に呟いていた紫桃のTwitterは、完全な沈黙を保っており、市井のアカウントも、それぞれの不安を見せ始めていたのである。

「ピーチ、故障でもしてんの?」「横浜公式は何も言ってない」「いや、普通にお菊の球化けもんだったろ。あんなのが当日に奇襲してきたら、普通誰も打てねえ」「平然と初球で球速記録を更新する女」「でもピーチ姫は『普通』じゃないじゃん?」「四割打者を信じろ」「信じたいけど、擦らせくらいして欲しかった」「打てる打てないの前に、今日の紫桃、ベンチで髪かきむしったりしててヤバかった by現地民」「やっぱどっかおかしい?」「生理?」「馬鹿、と言いかけてマジかもしれんが、でもじゃあ何で今までは平然としてたんだよ」「シーズン中は関東試合日程と生理周期が奇跡的に嚙みあっていた可能性」「ほんまかよ」「何にせよ、昨日までは元気そうだったけどなぁ。中継でもけらけらしていたし」「この大舞台でもベンチでふざけあってるの、どうかとは思ったけど」「いつも通りリラックスしているってことで良いんじゃない?少なくとも今日のヤバいメンヘラっぽい感じよりはずっとマシ」「三位で終わったくせにこんなのずっと隠していた巨人は何なんだ、さっさと使えや」「シーズン順位を捨てて日本シリーズ出場に全力を向ける、落合中日プランだぞ」「寧ろワンポイントスイッチは野村っぽいが」「何処の球団と戦ってんだよ俺達の贔屓は」「事情はよくわからんが丹菊を放出した首脳陣、無能」「藍葉と言い叢田といい、どんだけ牙向かれるねん」「今年は歯牙に掛かるようになっただけ大したものだろ…」「それだけのチームを作り上げた、ラミーロを信じろ」「紫桃が居れば誰が監督でも優勝してた説は有る」「開幕四試合目でピーチを四番でデビューさせたラミーロを信じろ」「あの時は私、ラミちゃんの気でも狂ったかと思ったわ。今は足向けられません」

 

 翌日、第四試合の準備中に、球場での発表に先んじていつもネット上で告知されてしまう横浜の先発オーダーを聞かされた藍葉は、連投に向けたコンディション確認の為に一緒に居た丹菊と、ブルペンの隅で笑ってしまった。

 、捕手。紫桃。

 丹菊は、右手を開きつ閉じつして感覚を確かめながら、

「枝音ってば、涙ぐましいねぇ。……いや。どっちかというと、ラミーロ監督の腐心かな。」

「これ、せめて第一打席くらいは、死んでも君と対戦したくないってことだよね。」

「うん。打者一人と対戦終わらないと、先発投手は、野手への移動も含めて引っ込めないからね。一応、例外は有るけど、」

「例外って?」

「プレイボールの直前か直後に、登録した投手が腹壊すなり靭帯切るなりした、とか。」

「……ああ、そういうトラブル系、」

「つまり、まぁ、事実上無理ってことだね。程度が甘かったら、第一打者敬遠して普通に投手交代しろよ、って言われそうだし。」

「ああ、そうか。……つまり、実際今日の僕らも、開幕に紫桃を敬遠して構わないんだよね。」

 丹菊は、驚いた顔で藍葉を見上げながら、

「開幕って、つまり、……同点無走者で? マジ? ……興行だよ、これ?」

「興行だろうとなんだろうと、……僕らには、負けられない理由が有るからね。」

 世界を救う使命を思い出させるように声を潜めた藍葉の含意は、きちんと丹菊へ響いたようで、彼女は、気恥ずかしげに緑髪を搔きながら、

「……そうか、そうだよね。なんか、周囲の皆も当然必死だから、私まで、日本シリーズを懸けつつ普通に野球屋として戦っているだけだと、時々勘違いしちゃうなぁ。

 でも実際、あんまりとんでもない真似を働くと、監督に愛想尽かされた藍葉が引っ込まされて、詰んじゃいそうだけどね。」

 藍葉は、つい何と無く遠くを見やりながら、

「それは、……確かに有るかも。ある程度は、手段を選ばないと駄目か。」

「でもさ。実際、どうなの? そういう事情抜きにしても、枝音を塁に出すのって結構嫌じゃない? 彼奴の盗塁成績、知ってる?」

「流石に、僕でも憶えてるよ。出場98試合で、25盗塁の盗塁死0だ。クライマックスシリーズに入ってからも、1回決めてたかな。」

「そんな感じ。……どう? そんな走者をおめおめと出して、大丈夫? いや、勿論本当には、私なんかじゃなくてバッテリーコーチとかと相談すべきことだろうけど、」

「うーん、……悩ましいね。紫桃って、物理的な脚力は――男子基準だと――全然無いから、二塁にいても普通の盗塁屋よりずっとマシだけど、」

「あの女、三盗も一回決めてるよ。先月の阪神戦。」

「……うわ、マジか。有り難う、それは知らなかった。」

 こんな彼らの小さな作戦会議は、しかし、全く無為に終わったのだった。流石に堂々とは敬遠出来ないから、ボール球だけ放って歩かせよう、と指示され、いや多分それ旨くいかないぞ、とは思いながらも有力な反論を組み立てられなかった藍葉は、一回裏の立ち上がり、しぶしぶアウトローへ外れる球を要求し、そして案の定、膝を崩してリーチを伸ばした紫桃に芸術的に掬い上げられ、レフトスタンドへ運び上げられたのである。本塁を踏みながら、びしりと彼へ指を突きつけた魔王の挙措きょそは、明らかに、世界を懸けて戦う相手を一旦は捩じ伏せた勝鬨であったが、世間的には、社交的な彼女による元チームメイトへの好謔と理解され、その元気と打棒が損なわれていないことに、横浜ファンは安堵したのだった。

 しかるに、この先制弾の代償は高くついた。出塁率.596の盗塁成功率1.00の一番打者と言えば聞こえは良いものの、その実、第二打席からの紫桃はやはり、雄々しく、そして仮借なく全力球を投げる盟友丹菊の前にきりきり舞いとなったのである。打順の九番一番でアウト二つがほぼ確定する上に、正捕手紫桃へは代打も出せず、更には中軸に主砲を欠くと言うことで、打線をガタガタにされた横浜球団は拙攻を続けることになり、その結果、お家芸で四球を選んだ丹菊をバックスクリーン弾で返した阿辺による、逆転一点リードを守りきった巨人が、なんとか第四戦も制することになったのだった。


 続く第五戦、今度は、巨人からの奇手が繰り出される。

 三番、。丹菊。

 ウグイス嬢が「三番、ラ、」とまで一旦読み上げてしまった、スターティングメンバー発表は、まずヴィジター巨人のそれを淡々と行い終える運びであった訳だが、この丹菊先発告知に、試合開始半時間前から集まってスタンドへ千々に散っていた観客達は、それぞれの場所で見合わせつつ響めいた。ホーム側に限ってはそこそこ派手に演出されるものの、大して内容が代わり映えする訳でもないので流されかねない現地スタメン発表も、これによって、いつもより真剣な耳目を集めたのである。

 巨人側の最後、九番打者として、露骨な偵察メンバー、昨日先発したばかりの宇津見うつみが右翼手として告知されてから始まった、横浜のスタメン発表。もしかしたら、またも紫桃が来るのか、と人々が思わされた横浜の第一打者には、しかし、いつも通りの鍬原が派手に読み上げられた。そして、二番柁谷と続いたが、その後には、とうとう、魔王のにこやかな顔が電光掲示板に大写しとなったのである。

 三番、紫桃!

 これまでの四番打者から一つ遡っただけであり、そもそもシーズン中も屡〻見られていた、往年の王の如き最強打者の三番起用に過ぎなかったが、しかし、こんなさりげない打順変更にも、ハマの将ラミーロの狙いが如実に表れていたのである。同一イニング中の投手と野手の行き来には、実はルール上の煩瑣な制約が有り、例えば、先発丹菊が第一打者を相手してから右翼へ退き、第三打者の紫桃と勝負する為に再びマウンドへ戻った場合、その後、更に右翼へ退くことは出来ない。三人で切られればチェンジとなって制約が解除されるので問題ないが、何かの拍子で一人でも走者を出してしまうと、貴重な戦力である投手丹菊をそのまま無為に消耗し続けるか、さもなくば打者丹菊を諦めてベンチへ下げることになってしまうなど、妙にややこしい事態となってくるのだった。

 そこで、一番紫桃オーダーを先読んでの対策が美事に空振った、最早無為なる先発丹菊は、已むなく、一番から三番まで続けて勝負する羽目になったのである。巨人が初回を敢え無く無得点で終えての一回裏、藍葉すらも含めた皆が、今日も再び、悪鬼のような相好の丹菊がマウンドへ現れると思っていたが、しかし実際の彼女は、先程の打席で楽しそうに横浜先発伊能の球を弾き続けていた時――彼はここで16球を要した――と同じような、いとも莞爾とした様子で、一番鍬原と対峙したのである。横浜ファンであったと公言して憚らず、いやそもそも、それが過去形であると特に強調もしてない彼女は、青き戦士達と戦えることを心底娯しんでいるかのように、「さぁ、喰らえや鍬原!」と一叫してから、悠々と投球を始めた。恰も、私の肘や肩の寿命は枝音相手にしか使わないのだと主張するかのように、その球は露骨に力が抜かれていて、160キロ台は一度として見られなかったが、それでも、右腕としてのデイジー姫の研究や対策が出来ている訳もない、横浜の新進気鋭の一番打者は、インコースに抉り込むシュートに空振り三振を喫し、丹菊の連続奪三振記録を八個にまで伸ばさせてしまう。続く柁谷も、「柁谷さん、お願いしまーす!」と丹菊が欣然と吠えてから投ぜられた初球、甘く入ったスライダーを引っ掛け、彼女のすぐ脇へ、弾き渡したかのような丁度よい速度で転がしてしまった。かつての楽天戦と異なり、紫桃、つまり、女の投球をロクに取れない捕手とのバッテリーという速度制限を解かれた彼女が、今こそ、本当の意味で、横浜スタジアムの真ん中で躍動している。

 マウンドの端に残ったまま、柁谷のゴロを拾い止め、少しボールを持ってから阿辺へ送球した彼女の様子は、大捕手へ球を受けられることを勝手に想像して楽しんでいるようだと、マスクを被る藍葉には感ぜられた。

 そうして二者を切った彼女は、昨日一昨日の対戦成績が七打席七三振の、盟友紫桃を漸く打席に迎えた。瞬間、先程まであれだけ怡然いぜんとしていた丹菊の相好は、沈んだように暗くなり、そこに、敵愾心が露となったのである。かように雄々しき魔王狩りの勇者と対蹠的に、紫桃の方は、頼む、頼む、などという弱々しい呟きを打席で繰り返しては、藍葉にそれを聞き咎められるのだった。

 先刻まで飄々と投げていた丹菊が、一転、昨日までのように、胴間声を漏らしながら初球を投じてくる。狙ってかそれとも偶然か、内角の素晴らしいところに決まった165キロに対して、紫桃は、悲鳴を挙げながら身を捩りつつ打席を外すのが精一杯だった。結局丹菊はそのまま、またも掠りもさせずに三振を奪って対紫桃成績を八打席全奪三振としつつ、初回を美事三人で締め、二回の守備からは右翼へ戻って行ったのである。

 この試合も投手戦の趣となり、両陣営無得点のまま打順が第二巡へ入ったが、横浜のそれが紫桃まで回ったところで一つ異変が起こった。四回裏、柁谷が出ての一死一塁、マウンドへ戻ってきて準備投球を終えた丹菊へ、紫桃が改めて対峙したところで、スタンドの一塁側や右翼、つまり、横浜陣営の青や白のレプリカユニフォームが多い領域から、ブーイングが巻き起こったのである。

 フィールドへは必ずしも鮮明に聞こえて来ず、藍葉は一瞬、裏切り者と言いがかりとつけられなくもない――実際殆どそうなのだが――丹菊が、恩知らずにも主砲を蹂躙するのに、彼らが怒り哮ったのかと想像したのだが、紫桃が空振った初球スライダーを何とか躰で止めて前へ転がした辺りで、漸く彼も気が付いた。

 このブーイングは、丹菊ではなく、紫桃へ向かっている。

 渾然として不鮮明な唱和の中を貫いて、史上最強打者への侮蔑の言葉が投げられて来ていた。あの、昨夜の、恥も外聞も無く巨人の先発を奇襲しての一発を跨いで、八連続で三振を喫し、その間バットへ当ててすらない彼女へ、屈辱的な罵詈が降り注いでおり、打席を外していた紫桃は、素振りをする真似を演じつつ、赤い目をして必死に堪えていたのである。勿論、つい昨年まで常勝ならぬ常敗集団だったチームのことや、その英雄三浦の引退試合に備える為に二軍戦に付き合った彼女の甲斐甲斐しい逸話を知る筈の、横浜ファンの、全てが遺憾なく紫桃を蔑んだ訳ではなく、多くて二割程度と、聞かされる藍葉には感ぜられたが、しかし、紫桃は、きょろきょろと近くのスタンドを見回し、恐らくその目で、自らへ差し向けられる悪意を具体的にていたのだった。

 時間を稼ぐのも限界と感じたのか、彼女は仕方なしに打席へ戻って来たが、眼鏡の奥の双眸はいずれも、今にも汪然おうぜんとなるのではないかと藍葉を心配がらせる有り様だった。

「随分、辛そうじゃないか。」

 きっ、と、紫桃が藍葉を、殺意を纏った瑞々しい目で睨めつける。無論、崖から突き落とすような気持ちで、そう囁きかけた藍葉ではあったが、あまりに無惨な紫桃の様に慚愧を憶えてしまい、ほら、球来るぞ、とでも言うかのように、指でマウンドの方を示して誤魔化すのが精一杯だった。

 幾ら日頃恬然てんぜんとしていた彼女でも、一軍捕手として、クイックピッチ禁止のルール――構えておらぬ打者への投球は断じて許されず、ボークが課される――を知らぬ筈が無いのに、紫桃は、慌てふためくようにバットを捧げて正面を向いてみせる。そして、この遣り取りを、にこりともせずにむっつり見詰めていた丹菊は、静かに構え、仮借なく第二球を放り込んできた。藍葉の揺さぶりによって万全な準備の叶わなかった紫桃は、少し重心を後ろへやりつつ、振顫症のようにバットを握る手を慄えさせるだけでこれを見送ってしまい、この打席も、あっさりとノーボールツーストライクとなる。

 丹菊は、当然、ここからさっさと第三球を投げるのだろう、と、皆が思っていたが、しかし、実際そうはならなかった。マウンド上の彼女は、一塁走者柁谷が大人しくしているのを目で確認すると、矢庭に口角を上げ、紫桃へ向けて、ツーシームに握られたボールを真っすぐ突き出したのである。

 訝しげに、口の動きだけで「は?」と伝えてくる盟友へ、笑んだままの彼女は、ぐりぐりとそれを揺らしつつ、更にボールを見せつけるのだった、

 予告ストレート。

 十年前の球宴で火の玉の男が演じたような、〝真剣〟勝負の宣告、勝敗を気にせずに済む舞台だったからこそ許されたそれを、丹菊が、この、最も真剣な戦いにおいて再演していた。紫桃が、また一段と渋面を深め、「舐めんな、」と毒づく向こうで、丹菊は漸くセットポジションに構え、ボールを、……とにかく、明らかに

 他の握りに変更したのか、それとも、……改めて、ストレートの握りを?

 藍葉すらもが訝しむ中、丹菊は、絶妙な間、紫桃に疑団が生じて喉につかえたその瞬間を狙い澄まして、身を動かし始める。

 藍葉は、この瞬間、瞠目した。

 丹菊の唸り声を伴った、宣言通りの直球、アウトハイ一杯へ投ぜられたそれを、変化球を期待していたのか紫桃は身じろぎもせずに――或いは出来ずに――見送ったが、藍葉は、立ち上がりつつこれを摑むや否や、二塁へ鋭く送球したのである。

 紫桃と同じく、まさかそのままの直球はなかろうと判断したらしい、青き韋駄天、柁谷は、丹菊の付け焼き刃クイックが曖昧なのも有ってかスタートを切っており、二塁へ勢い良く滑り込んでいた。しかし、盗塁刺殺の為には理想的に、外角高めへ投ぜられていた丹菊の快速球は、藍葉からすぐに二塁手山元へ返され、結果、塁審の腕が空気を殴るように振られたのである。しかも、球審の方はそれに先立って、第三ストライクを宣告しつつ弓を引いていた。

 三振ゲッツー。

 一死から突然チェンジとなり、両手で持ったままのバットを地面へ垂らしつつ、呆然と天を仰ぐ紫桃へ、マウンドを降り様の丹菊は、わざわざグラブを小脇に挟んでまで手を打ち鳴らし、いとも得意げに叫びつけた。

「へいへい、……どうしたどうした、四冠王!」

 紫桃は、こんな盟友へ、一瞥はくれたのだが、しかし何を言い返すでもなく悄然と踵を返し、首を傾げたりもしながら、口惜しげにバットを振ってダッグアウトへ戻って行った。

「相当来てるよ、枝音の奴、」巨人側のベンチ隅にて、丹菊が、「彼奴、配球はじゃんけんみたいなもの、なんて公言していたけど、その表現を借りるなら、ずっと一人だけカンニングしてきて、何も頭使わずに読み合いを制してきたんだよね。そんな彼奴がさ、この大舞台、柁谷さんと仲良く満座の前で完全に手玉に取られたんだから、そりゃ、まぁ堪んないんだろうけどさ。

 ……それに、なんか彼奴、ファンにまで苛つかれ始めているみたいだし。えぐいだろうね、容姿と性別と愛嬌で目立った挙句、初試合スリーホーマー11打点で一気にスターとなり、四冠王の名声もせしめた彼奴が――つまりここまであまりに順風満帆だった彼奴が――、何もかも舐め腐っていた傲岸な日々の、最後の最後で、突然、遺憾なく日本中から蔑まれると言う地獄に落とされているんだからさ。」

 続いた五回表。シーズン中、出場試合の全てで、落とせぬ勝負の最中でも、また、走者の夥しいピンチの中でも、莞然と、泰然と、「私に全て委ねろ、どうせ私がバットで責任取るから」と、守備の指揮を卒なく取って来た魔王紫桃は、一応はここでも笑顔を取り繕っていたものの、しかしそれは見るからに硬質で、無理を働いているのがあからさまであり、投手を励ます効果が有るのかは甚だ訝しかった。

 対横浜の打撃成績が良いということで、急遽六番に上げられていた藍葉は、今日はどんな揺さぶりを大魔王から喰らうのかと思いながら打席へ立ったのだが、紫桃は、彼へ何を言ってくるでも送って来るでもなく、ただまともに、投手へサインを出すのだった。

 初球をまず見送ってから、前を向いたまま、

「静かだな。」

 と、藍葉は聞こえよがしに呟いたものの、返事はなんらなく第二球が投ぜられ、そして、彼は飛び跳ねる羽目になった。

 右打ちの彼の足許を、外れた糞ボールが襲って来たのである。

 幸いに脛当てへ当たり、機能的にも疼痛的にもまるで大したことはなかったものの、互いのベンチは騒然となって、藍葉も、転がりながらつい紫桃を見上げてしまった。

 しかし、巨きなミットで鼻から下を隠す彼女は、申し訳の無さそうな目で首を振るのみだったのである。これを受けた藍葉は、面倒な騒ぎになるのを嫌い、旧知の相手へ道化ていることが明らかな大袈裟な手振りを、バッテリーへそれぞれ向けてから、大人しく一塁へ歩きはじめ、飛んで来たトレーナーにも処置は無用だとわざわざアピールしたのだった。確かに自分が故障すれば彼女や横浜は大助かりだろうが、しかし、あれだけ衰弱した紫桃に、自身が毛嫌いする故意死球を命じた上であんな申し訳なさそうな顔を演ずることが出来るなど、藍葉には、全く信ぜられなかったのである。

 こうして、とにかく労せずに一塁へ進んだ彼は、そこから紫桃の様子を良く観察することが出来た。かつての、時たま、訳の分からぬこと、例えば「はいど真ん中三球!」などと堂々と叫んで見たりして、そうして打者を揺さぶっていた筈の彼女の姿は、最早何処にも無く、また、打者へ話しかける様子すらも無く、静かに、苛立たしげに、盗み見るようにバッターの顔を瞳の動きだけで見上げては、まるで後ろめたいことでもしているかの如く、サインを細々と出すのだった。

 彼女も語っていたが、丹菊に突然、踏みにじられる羽虫の如く虐げられた挙句、一昨昨日までの実績の素晴らしさゆえに全く慣れていない筈の失望と侮蔑を、矢庭に雨霰と浴びせられた結果、明らかに、紫桃は元気と士気を失っている。そして、その視野も、あらゆる意味で狭そうだ。そう断じた藍葉は、一塁コーチの指示を無視し、勝手に、二塁へのギャンブルスタートを切った。

 「ばかやろ、」と、マスクを外しながら叫んだ紫桃は、投球を受けるや否や二塁へ送球を為したのだが、これが、弘法筆の誤りとなり、馬鹿のように高すぎるボールは、懸命に体を竪に伸ばす二塁手石河の手を逃れて、中堅方向へ転がって行ったのである。迷わずセカンドを蹴った藍葉は、横目で、顔を歪める紫桃を一瞥した。

 滑り込んだ三塁に立ち上がり、サードコーチに褒められながら、彼は一つぞっとしていた。紫桃の失態、――此方を損ねたことや、悪送球がどうこうの前に、球ではなく球に対してマスクを外す、つまり、打者に手を出されてファールチップになっていたら顔面を破壊されると言うリスクを殆ど無意味に負うと言う、少年野球からやり直せと言われかねない失態を犯した紫桃は、どれだけ、あの、日頃の、巧者な能力を毀たれていると言うのだ? 立場に鑑みれば、藍葉はこんな敵の絶不調を心から喜ぶべきだったのだろうが、しかし、丹菊らにほだされて生じてしまった、彼の三次元的善良性は、そんな勇気を許さないのだった。

 こうして得た棚牡丹の三塁走者を、巨人は――紫桃相手のスクイズは、絶対に看破されるから止めた方が良い、という藍葉の進言の助けも有ってか無くてか――きっかり犠牲フライで返し、貴重な先制点を得たのである。更に、続く六回表に三打席目を迎えた丹菊も、自分と同じ右サイドスローの三神相手に散々粘って、根負けたように投ぜられた甘いスライダーを叩き抜き、電光掲示板に映じられた彼の顔を引っ搔く特大ツーランアーチを披露した。

 この一発を浴びて、守備指令として自軍や三神を励ますでもなく、寧ろしゃがんだまま一等悄然と項垂れてしまった紫桃は、残りの打席でも果たして丹菊の豪速球に触れることすら出来ずに三振を喫し、そうして今日もシーズン中の攻撃力を発揮出来なかった横浜は、土壇場三合がたはらからツーランを放つも反撃及ばず、3―2で苦杯を飲んだのである。

 結果、とうとう、あの絶体絶命の窮地から、三勝三敗のイーヴンまで持ってきた巨人だったが、試合後、球団と言うよりもそれを贔屓とする野球ファンらによって、祭りの前夜、或いは祭りそのもののような大騒ぎが演ぜられたのだった。家庭で、飲みの席で、そして露にはネット上で。かつてあれだけ、化け物ルーキーに虐げられて最下位をひた走っていたのに、今や、その紫桃を完全に捩じ伏せた上で、日本シリーズ進出を摑みかけている。流星の如く現れた魔王殺しの右腕、しかも打撃でも奮然と活躍する、丹菊詠哩子が、もう一試合だけ歯を喰い縛ってくれれば、かなり現実的な勝算ではなかろうか……

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