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 十月一日、セリーグはペナントレースを、そのまま、上から横浜、広島、巨人、阪神、中日、東京の順位で終えており、残すは十月八日からのクライマックスシリーズのみとなっていた。ここに来て、丹菊と藍葉は打倒横浜を誓って気を吐いていたものの、しかしその前に第一関門、広島とのファーストステージ三連戦を乗り越えねばならなかったのである。この、二本先取と言う、半ば運否天賦の戦いは、だが幸いなことに、守備の乱れに助けられた巨人の二連勝で呆気なく幕を閉じた。

 そうしてとうとう迎えた、巨人対横浜の、十月十二日からのクライマックスシリーズ・ファイナルステージ。例年通り、首位横浜には三つのアドヴァンテージが認められていた。

 まず、広島もファーストステージで享受した、ホーム球場での試合主催権である。東京ドームと横浜スタジアムの距離に鑑みればそこまで大きな話でないと言えなくはないものの、しかしとにかく横浜は慣れ親しんだ球場で戦うことが出来、また、横浜球団がチケットを販売する以上、収益云々の話だけでなく、観客席の多数を占めるのは購入優先権を獲得している者の多い横浜ファンとなる筈で、より強い声援を背に負うことが出来ると言うメリットとなっていた。

 次に、最も重要なこととして、横浜には第一試合の前から一勝が与えられる。具体的には、四本先取で六試合を戦うファイナルステージにおいて、横浜は、実際内容が仮に三勝三敗でも、この事前な一勝分によって四勝扱いとなって日本シリーズへ駒を進められるのだった。

 最後は、やや複雑な話である。横浜へ前もって一勝が計上された上での六試合と言うことで、通常の七試合と同じ星勘定となり、綺麗に全試合勝敗がつけば、必ず不均等な勝敗数となって白黒つくのだが、しかし、平時の公式戦と同じく十二回で引き分けと規定しているので、三勝三敗一分、二勝二敗三分などと言う形で、六試合で結着がつかない場合が有りうるのだった。このような場合、追加試合を行うことは一切なく、機械的に、ペナントレースの覇者を優遇することとなっている。つまり今年の場合なら、一位抜けの横浜が、「判定勝ち」することになるのだった。

 二点目と三点目を纏めて、「首位抜けチームには、(一勝ではなく、)事前の1.1勝が与えられ、六試合で結着をつける(首位からみて実際の試合が二勝三敗一分なら、3.1勝と三勝の比較なので首位球団の勝ち)」と述べてしまっても、大きな間違いはない。

 とにかく、首位球団には一勝乃至1.1勝のアドヴァンテージが印される訳で、この、短期決戦においてあまりに重い錦星は、クライマックスシリーズにおける下位からの下克上を難しいものとしていた。

 よって、挑戦者巨人としては余裕など全く無く、初戦から全力でぶつかって行くしかなかったのだが、しかし残酷な現実が彼らを襲った。彼らの対紫桃の切り札がヴェールを脱ぐ前に、早々、第一試合一回裏一死一塁、横浜の三番三合が、発熱から恢復していたエース須賀野の直球を振り抜き、ライトスタンドへ弾丸ライナーを叩き込んだのである。ベンチで出番の心積もりをしていた藍葉は、この無残な結末となったライヴァル対決に口をあんぐり開けた後、急いで首脳陣らと打ち合わせる羽目になったのだった。結果、この試合では「切り札」を秘匿することと相成り、彼は、何かの拍子に紫桃に近づかれて見透かさぬよう、ブルペンへ引っ込んで、三合のツーランがそのまま決勝点となった試合の行く末を見守らされたのである。

 第二試合も、今度は柁谷の初回本塁打で二失点を喫してそのまま敗北し、巨人の秘密兵器の出番は無かった。

 そうして、あれよあれよと巨人は、零勝三敗相当と追いつめられ、球団内部にもファンの間にも、やはり今年の横浜は強過ぎると言う絶望的な雰囲気が漂い始めたのだった。その一方、相手の横浜の方は、天王山の戦いの最中にも拘らず、報道陣から遅れて贈られた誕生日ケーキを前に満面の笑みを見せるラミーロや、本気なのかどうなのか、「たまには数字気にしようと思って、『CSで12本打って、シーズン本塁打記録のダブルスコアの120を目指してやる!』と、気合入れていたら、勘定されないと某三合君に呆れられたゾ」とTwitterで寝言を宣う紫桃、そこへ「筋肉エキサイトしてましたか?」と、藍葉が理解出来ない返信を送り付ける市井のファンなど、何奴も此奴も、いとも暢気な様子だったのである。しかしこれらはある種自然な成り行きであり、何せ横浜は、この先四連敗しないと日本シリーズ進出を逃すことは出来ないのだった。

 逆に言えば、追いつめられた巨人は、――つまり、寧ろ藍葉と丹菊、人知れず二つの世界の命運を握った彼らこそは、いともやきもきして第三試合を迎えることとなったのだが、これの初回裏、漸く無事(?)に無失点のまま、二死二塁(走者三合)で、紫桃の第一打席を迎えることになった。身構えた、相変わらずベンチに控える藍葉だったが、しかし、鷹橋巨人はここで魔王の敬遠を選択し、続く五番ラペスを打ち取って平穏裡に初回の攻防を終えて見せる。

 そのまま、両チームが残塁をのべ三つずつ喫しながら無得点で進行した試合の均衡を破ったのは、横浜戦での習いとして三番に昇格していた、巨人の右翼手丹菊だった。三回表二死無走者、シーズン中、12本塁打の内8本を横浜――というより、盲リードの紫桃――から放っていた彼女は、いつもどおり楽しそうに打席へ入り、「さぁ来いや今長!」と叫びつつ短い方のバットを構えると、此処まで無安打投球だったドラフト一位ルーキーの球を容赦なく振り抜いて、特大アーチを、ライトスタンドの看板まで運んだのである。

 三試合目にして初の勝ち越しに沸くダッグアウトの中で、藍葉だけは冷静に事態を眺めており、丹菊が、ホームベースを踏みながら紫桃と何か言葉を交わしたのに気が付いた。

 生還し、隣の席へ身を投じて来た彼女へ、

「なんだって? 紫桃は、」

「いや、ただの負け惜しみ。……看板弾のこと、二度とやるなって言っただろお前、ってさ。」

「ああ。まだ根に持っている、……ってことにしているんだ。」

「冗談にしても、しつこい女だね。彼奴も、」

 こんな会話を、彼らは、貴重な気休めとしていたのである。「さてさて、今度の鳩サブレは誰に配るかな、」と硬く呟いた丹菊は、自身の緊張を誤魔化そうとしているのが、藍葉にすら瞭然であった。

 ひとまず一点リードで、裏の横浜の攻撃は一番から。かなりの確率で、「切り札」の出番が来る。


 丹菊の先制弾直後、粘った四番阿辺が、しかし結局紫桃の配球術の網に捕まって三振に斃れ、1―0のまま迎えた三回裏、二死まで抑えた巨人は、三番三合に、シーズン中.430を誇った出塁率のまま四球を選ばれてしまう。

 鳴り始めた軽薄な登場曲と、そして歓声の下、次打者円からのそりと打席へ向かい始めた魔王だったが、彼女は、鷹橋が巨人のダッグアウトから飛び出てきたことで不思議そうに歩みを止めた。「交代?」と、その口が動いたように藍葉からは見える。

 通常ならば一言二言で済む筈の交代宣言が、妙に長々しく続き、紫桃は、忙しく装具を身に付ける藍葉と対蹠的に、「退屈だゾ」とでも言いたげに戯れて、バットを、よりにもよってゴルフスウィングのように振り始めていた。

「巨人軍、選手の交代をお知らせします。」

 聞き咎めた、彼女の動きが止まる。

「キャッチャー、浴林に代わりまして、藍葉。」

 やっと来たか、とでも言いたげな顔から口を尖らせ、紫桃が藍葉の方を眺めてくる。一見尋常な顔つきだったが、しかし僅かに赧然としており、極上の馳走、世界を救う使命を帯びて茹だった男を踏み躙って絞り出す悲哀、それに漸くありつけるのが堪らない、という、危殆で傲慢な魔王らしい情感が、藍葉にだけは解された。

 その、直後、

「ピッチャー、太口たぐちに代わりまして、丹菊。」

 一瞬、時が止まったように、何もかも静まり返った。

 すぐに静寂の余韻が吹き飛ばれて、三塁側ダグアウトを除き、全てが響めき始める球場。何が起こったのか分からないという風に、凍りついていた魔王は、梟のように瞠目し、更には何度も屡叩いてから、大口を開いて、右翼の方を漸く見やった。

 最早誰も聞いていない、「ピッチャー太口、そのままライトに入ります。」というウグイス放送が流れる中、グラブを脇に挟んだ丹菊が、小走りで此方へと向かって来る。

 紫桃が、その兇悪な黒バットを取り落とし、それに自分で躓くような酷い周章を演じつつ、振り返ってくると、その顔は白磁のように蒼ざめていた。そのまま彼女は、「ちょっと、あの、えっと、はぁ? ……あの、その、たんまたんま!」などと、訳の分からないことを呻きつつ、ダッグアウトの奥へ駈け消えて行く。藍葉は、その顚末も多少気になったが、それよりも丹菊を出迎えねばならなかった。

 彼や投手コーチ、更には内野陣までが集まって待ち構えたマウンドに来て、まず太口とグラブを合わせた丹菊は、しかし、何を言うでも言わせるでもなく、ただ、

「何球、練習出来ます?」

とだけ、自信の漲った顔で宣ったのである。

「五球だってさ、」

と、藍葉が述べると、彼女は低い位置の小さな肩を竦めつつ「ケチだねぇ、」とだけ呟いて投手板を踏み、その、「余計な気遣いは無用」という言外の態度を、雄々しく貫いた。

 皆が定位置へ戻り、投手用のグラブを嵌めた丹菊がセットポジションに構える。来い、と、藍葉が口にも態度にも出してミットを差し出すと、莞爾と頷いた丹菊が全身を躍らせ、水準器のように伸ばした右腕から、ファストボールを藍葉へと投げ込んだ。悪く、ない。彼はそう思った。

 二球ほど投げた後、彼女はふと気が付いたように、一塁走者の三合へと手を振って彼を呆れさせて見せる。頼もしい糞度胸だな、と感じながら、三球目四球目と受けた藍葉であったが、その球を丹菊へ返す前に、彼は固まってしまった。

「……何? さっさとしなよ、肩も興も冷めるじゃん。」と、両腰に手首を当てて水瓶のようになった丹菊が叫んでくるのだが、

「いや、えっと、」

 藍葉は振り返り、「えーっと、球審さん?」

 彼は、準備投球が最後の一球になった筈なのにそれが警告されないのを怪訝に感じたのだったが、遠巻きの球審は一塁側ダグアウトを一瞥すると、まだ準備を続けて良いと藍葉らへ叫んで来たのである。

 マウンド上で露骨に首を傾げる丹菊は、藍葉からの返球を受け止めてから、しっかりセットポジションに構えたのだが、ふと、その姿勢のまま失笑と言う体で吹き出した。何かと思った藍葉が、振り返って丹菊の視線の先を見やると、そこには、まるで火事場から逃げてきたかのような息の上がり方と胡乱な足取りで飛び出てくる、紫桃の姿が有ったのである。その顔には、藍葉には久しい、彼女の眼鏡が掛かっており、あれをロッカールームか何処かへ探しに行っていたのかと思うと、彼も可笑しい気持ちにさせられるのだった。

 球審が、そんな哀れな彼女を一言窘めてから、あと二球!、と叫んできたのを受けて、少しだけ表情を引き締めた丹菊が、一球、二球、と準備投球を終えた。藍葉は即座二塁へ送球し、山元、叢田、坂元、もう一度山元、阿辺とボールが回され、最後は、叮嚀に丹菊へ投げ返される。

 横浜ファンだった彼女の、かつて憧れの選手であった叢田や、球史に残る大捕手阿辺の手を介したボールを、慈しむかのように、少し、まだ然程こなれていない筈の硬いグラブの中で眺めてから、丹菊が真っすぐ前を向くと、再び、紫桃の登場曲が流れ始めた。丹菊に倣っただけの曲が、丹菊の動作を切っ掛けに、横浜公園一杯へ渡り始める。

「四番、キャッチャー、……シオン、シトーーウ!」

 勇ましく主砲を送り出す球場DJや、野手登板とは、巨人も馬鹿にしてくれやがって、と言う意味も籠めて強く呼応する観客らとは対蹠的に、肝腎の魔王当人は、いともしどろな様子だった。打席には勿論入るのだが、日頃の、「不動明王」と讚えられ、或いは「地蔵」と揶揄される、とにかく像のようにどっしりとした重さは微塵も見られず、凡俗の打者と同じようにゆらゆらと動いている。普段は、捕手への到達を許可しない遮断機のように真っすぐ差し伸べられる黒バットも、この瞬間は、釣り竿のようにぼんやり揺らめいているのだった。

「それが、あんたの本来のフォームかい。」

 つまり、えない場合の、と藍葉が問うと、紫桃は一顧だにせぬまま、

「五月蝿い、」

 とだけ力なく呟き、悚然と前を見据えるのだった。

 プレイ、の声が掛かると、丹菊の相好に僅かに残っていた笑顔の欠片が消え去って、一瞬、能面のようになり、そしてすぐに、眉根が寄ってそこへ鬼気が籠められた。この、彼女が殺気立った表情を見せるのは、藍葉にとって、と言うより、他の誰にも初見となるもので、事実紫桃すらも慄然としたのである。これまでの、相手投手を魔王の威で睨み付けていた紫桃が、その実そのを用いつつ、気分や試合の状況によって殆ど如意に打ったり打たなかったりしていただけだった、つまり遊んでいただけだったのと同じように、いつも打席で莞然としていた丹菊も、やはり、何処か真剣でなかったのだろう。紫桃と丹菊、打者タイトル五冠を分けあいつつ、セリーグを席捲した二輪の狂花が、とうとう、本当の本気、全霊でぶつからんとしている。

 二人に引き摺られて何処か昂揚していた藍葉だったが、しかし、すぐにぎょっとさせられた。丹菊の軸足、右足が投手板に載り、そして、左足が前へ出て、彼女が殆ど彼と正対しているのに、漸く気付いたのである。

 その左足が投手板の向こうへ引かれたところで、此方も気付いたらしい紫桃が、「あ?」と怪訝げに呟くと、それが聞こえたかのように片笑みを作りつつ、丹菊は、持ち上げ始めていた諸手を頭の後ろへ回すのだった。

 走者一塁で、ワインドアップ!

「舐めやがって、」と紫桃が呟くも、突然のことに対応出来なかった、或いは何かを深読み的に警戒した横浜は走者三合を動かさず、丹菊はそのまま悠々と、太い雄叫びを上げつつ、横手から初球を放り込んで来た。

「きゃ、」という、女学生のような悲鳴を上げつつ、縋るようにバットを胸許へ引き寄せてしまう、――つまり、四冠王としてはあまりに不様な、紫桃の横で、しかし藍葉も球を取り損ねており、プロテクターでぶつけて前へ落とすのがやっとと言う有り様だった。急いで二塁への偽投を行った彼は、電光掲示板を目に入れ、つい、頰を緩めてしまう。

 三百六十度全方向から、紫桃への応援歌を中断させてまでの、狼狽の響めきが聞こえてくる。

 ストライクが一球入っただけにしてはおかしい反応を訝しんだ紫桃が、きょろきょろと周囲を見渡し始めた横で、藍葉は、丹菊へ球を投げ返しながら、

「やっぱり、君にはオーロラビジョンすら見えないのかな。……皆、速度表示に驚いたんだよ。」

 紫桃はすぐさま藍葉の方を、眼鏡の奥の目を円かに張った。167キロ。藍葉が読み取った、球界最速の球速表示を、紫桃も知ったのである。

 口を力なく開き、顎を慄わせて唖然としてしまう紫桃であったが、しかし、打席を外して――これは、不動と呼ばれる彼女が初めて見せた所作である――頭を何度か振ると、冷静な足取りで戻って来つつ、藍葉を良く見詰めた。

 なんだ。驚いたが、どうということはない。……投手の心がえぬのならば、リードする捕手、藍葉のそれをめば、何もかも済むではないか。

 恐らくはそんなところを考え、相好を暗く崩しかけた魔王であったが、しかし、その歯列が窺われるかどうかのところで再び口が窄み、そうしてから、頑張っている近視者のような両目で、藍葉を怪訝げに睨み付け始めるのだった。

 それから眉根を痛ましいほどに寄せ、口許へ手を当てつつ、「嘘でしょ、……頭、おかしいんじゃないの、」と、力なく呟く紫桃へ、藍葉は、声に万感を籠めた。

「どうした? ……『何か用か? 早くあっち向きなよ、サイン出せないだろ。』」

 この、いつかの意趣返しを受け、憎々しげに顔を歪める紫桃は、球審に咎められて仕方なく丹菊へ対峙した。

 この間、巫山戯るでもなく静かに待っていた丹菊は、一瞬間を置き、紫桃が構えを為していることを確認してから、すっとセットポジションの形に固まり、そして、すぐに投球動作を始めたのである。

 ……そう、藍葉と、

 何とか、外角へ来ることを瞬間的に察知した藍葉は、そちらへ身を乗り出して、体当たりのように160キロ超の豪速球を止めようと試みるのだが、そもそも丹菊の投じたコースが低過ぎて、ワンバウンド後に後ろへ逸らしてしまう。

 凄まじい勢いで後方へ転がって行くボールを彼が追う間に、当然三合は二塁へ走ってしまうが、しかし、藍葉はそこまで悲観的にならなかった。何故なら、そんな、地面へ一旦突き刺さったとんでもないボールへ、信じられないことに、シーズン中一度として空振りを見せなかった、紫桃のバットが振り回されていたのである。ノーボール、ツーストライク。走者が二塁へ行くなど安い物だと、彼は感じてしまったのだった。

 ボールを拾った彼が戻って行くと、本塁には、万一の送球に備えた丹菊が待っていたが、彼女は、紫桃が、縋るように「ねえ、」と声を掛けるのを完全に無視しつつ、球審からボールを貰うと、ぷいとマウンドへ戻って行ってしまう。そして、投手板を跨ぎ越え、引き締まったままの表情で振り返るのだった。

 いつもの、短気な彼女なりの緩い雰囲気、実際先程も三合へ向けて発揮していたそれが、完全に失われており、鬼気というよりも、最早殺気を放ちつつ、丹菊が第三球を投じ始めた。

 彼女の、地獄から呻くような叫び声と共に投ぜられた、一見やや甘く、かつ緩い――それにしても150キロ超の――外角球へ、四冠王の黒塗りのバットが襲いかかろうとするが、しかし、ボールは無情にも更に一塁方向へ逸れつつ沈んだ。

 逃げるスライダー。藍葉はこれも。触れはすれど摑み損ねてしまい、自分のすぐ後ろへ弱く転がした。振り逃げ成立の場面であるので、彼は拾い様大童で振り返ったが、そこには、駈け始めるでもない、紫桃枝音が、呆然と膝を屈していたのである。

 藍葉が、何か遠慮しながら彼女へタッチして三死が成立すると、マウンド上の丹菊は、まるでそこらの打者を片づけたかように、平然と三塁ダッグアウトへ真っすぐ歩き始めた。紫桃が矢庭に立ち上がり、「ねえ、ちょっと!」と叫び掛けると、彼女はようやく少し振り返って、紫桃が盗塁を刺した時の所作を真似、つまり、人差し指で作った銃口を向け、ばぁん、と口を動かし、魔王を射貫いて見せたのである。

「紫桃さん、」

 藍葉は、本塁打でも打ったかのようにベンチで出迎えられる丹菊を目で追いながら、

「お前の思い通りには、簡単にさせない。……覚悟してくれよ。」

 それだけ述べ、紫桃の方へは一瞥もくれずに引き上げるのだった。

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