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結局、同盟者四人の初会合は、車が十日市場近くまで着いてしまった為に散漫なまま終わったが、ここで茶畑が提示していた憂懼は、後日、かなり現実的なものとなったのである。
ペナントレースを走り抜けての九月二十九日、当初企画された引退試合が雨で流れていた三河は、急遽この日の、横浜球団の最終試合で先発登板が予定されていた。この試合、本拠地故にマスクを被ることになる紫桃は、去る九月二十三日の巨人戦にて、坂元が通算150本塁打を達成した直後に、シーズン――つまり、一応同時に通算の――第100号を放って自分も花束を貰った挙句、試合後に丹菊から「よりにもよってお前、
この日藍葉らは、茶畑を斥候として横浜スタジアムへ飛ばし――紫桃の手回しによってファン倶楽部まで除名させられていた為に、チケット争奪大激戦を戦わされた彼女は文句を言っていた――つつ、自分達は東京ドームでの広島戦に集中していた。とうに順位は三位と確定していたが、横浜との最終決戦に挑む前に、クライマックスシリーズのファーストステージで破らねばならぬ広島との戦いは、彼らと言うよりも、そもそも巨人にとって、惰性で消化出来るものではなかったのだ。
しかし今日も今日とて出番の無かった藍葉は、撤収の着替え中に、ロッカーの隣る若手選手に肘で突かれる。
何かな、と、彼が問うと、藍葉さんの古巣、今日ヤバいっすけど、との、昂奮気味な返事が寄越された。
ヤバい、ってなんだよ曖昧だな、と、彼が思っていると、しかし、ロッカールーム全体も俄に騒めき始める。
後輩のスマートフォン越しに一球速報を見せられた藍葉は、瞠目してしまった。
26―2。
横浜の24点リードで、尚も試合続行中。とても野球とは思われない点差に彼が驚いていると、今日の紫桃の打撃成績が漏れ聞こえてきた。本塁打、四球、本塁打、本塁打、四球、本塁打。一試合中本塁打(四本)、一試合中連続打数本塁打(四連続)、という、彼女が三月に連名した二つのNPBタイ記録に再び並んだことで更新の期待を齎しつつ、しかも、この六打席目が、シーズン442打席目であったのだと言う。
藍葉へ、色々な歎声が渾然と聞こえてきた。次回れば、ピーチ姫が規定打席数達成か! 流石に無理なんじゃないですか、もう七回ですよ。いや、後二回も攻撃有るだろ。ねえよ、ここから東京が追いつく訳ねえだろ! ああそうか横浜後攻っすか。三河の引退試合なんだからそりゃハマスタだよ。え、じゃあ、番長の引退を見たがってるお客さん、こんな馬鹿みたいな試合に付き合わされてんの? 花道に掩護点をありったけ浴びせる、といえば粋だろうがなぁ。胃がもたれますよ、24点ももらっても、三河さんもお年なのに。こんだけ有ったら五歳児が投げても勝ちそうっすね。というか三河さん先発でまだ投げてる? ほんとだ、すげえなラミちゃん。聞き流しかけたけど、年齢と点差関係有る?
結局藍葉が自宅に辿り着く頃にも試合は延々と続いており、八回裏、流石に紫桃へは回らないかと思われた横浜の攻撃も、二死からあれよあれよと繫がり、走者二塁で三番三合を迎えたのだった。
冷静に四球を選んだ彼を、まるで殊勲打でも打ったかのように、よぉし!、と解説が讚える中、弾け飛ばんばかりの大歓声がスタンドからも巻き起こった。そんな中でも常の如く、むっつり無愛想に、手袋も脛当ても付けずに漆黒のバットだけを処刑斧のように提げて、ただとぼとぼと歩いてくるのは、本日七打席目を迎えた魔王紫桃である。彼女は打席でもいつも通り、日頃の莞然を忘れたような、静かな相好、しかしそこだけは鬼気迫る目許で投手を睨み据え、軽く股を開いてバットを遮断機の如く持ち上げると、彫像のように微動だにせず待ち構え始めた。
誰も動くなよ、塁に張り付いていろよ、と実況が訳の分からないことを煽り始める。既に27点も取っているのに、尚も「カモンカモン、シオン!」と貪欲に求める大声援の中、これ以上はとばかりに投ぜられた、ワンバウンドしかける糞ボールを、紫桃は、容赦なく、全力で振り抜いた。
青いレフトスタンドの中に緑色や白のレプリカユニフォームが
これにて彼女は、200打点と規定打席数到達を達成し、打率.451、出塁率.596、長打率1.56という、偉大過ぎる割合成績が公的にも刻まれたのであるが、流石に横浜陣営は30得点を憚って、表向きは尋常に彼女を出迎えるのみで引っ込んで行く。しかし、ベンチに座った紫桃の周囲で欣然と話しあう彼らの様子からして、チームが強い光栄を感じていたのも明らかだった。
これで横浜もいい加減満足したかのように、ラペスが控えめに三振して迎えた、九回表、明らかに球威の衰えている三河は、しかしそのまま続投となった。猛攻に次ぐ猛攻によった、23時過ぎと言うとんでもない時刻にも拘らず、左翼スタンドを除いて露と毀たれない青き満座の中、三河は走者を二人出すものの何とか外野フライを二つ打たせて二死とし、最後は、明らかに温情の籠もった空振り三振を取り、二失点完投という素晴らしい有終の美を飾ったのである。
そこから先は、三河の胴上げや引退セレモニーなどが騒々しく繰り広げられ、帰路の心配を忘れる程に昂奮する横浜ファンらの熱狂が只管に喧しかった。
つい溜め息を吐いてからテレヴィを消した藍葉は、記憶を確かめる為に自分のライブラリーを掘り起こした。すると彼の記憶通り、普段の周回での三河は、紫桃ではなく旧知の捕手を指名した上で、六回10失点のノックアウトでマウンドを降りていたのである。
結局紫桃は、自分は五打数五本塁打を放った上で、捕手としては、三河の結果を記録的ノックアウトから九回二失点にまで向上させると言う、凄まじいパフォーマンスを示しており、藍葉は、これが魔王の本気なのかと、改めて悚然としたのだった。恐らくは、これまでの周回と異なって、自分の出場を何らかの理由でわざわざ訴えたのだろう。
その後少しすると、彼ら同盟者四人が開いていた文字チャットルームへ、茶畑からの聯絡が入った。
「ようやく脱出! ハマスタ混みすぎ!」
藍葉から、
「帰れた?」
「帰れたも何も、家なき子だからいつも通りそこらの漫喫だけど」
「ああ」
丹菊の、無骨なアイコンから、
「お疲れ茶畑。で、すごく悪いんだけど、私と藍葉、明日甲子園遠征だから今はそれほど付き合えないんだけど」
「あ、了解です。では端的に」
少し間が有ってから、
「なにか横浜って、試合前に円陣組んで、その時の声出し係が輪番らしいじゃないですか?」
「私らが居た時から変わってなけりゃ、三合キャップの方針だね」
「で、今日は紫桃がご指名されたらしいんですよ。実はそこに、ちょっと、私の周音場を伸ばしましてみてましてね」
「は?」と丹菊。
「えっと、つまり、盗聴器を円陣の中に放り込んだ、みたいな。実際には機械じゃなくて、場ですけど」
「降参。よくわからないから、何が聞こえただけよこして」と、やはり丹菊。
「じゃ、貼りますけど、…これ、極秘と言うか、絶対にヨソに漏らしちゃ駄目ですからね!」
そう述べた茶畑が提示したURLを、ついぞ発言の隙の無かった藍葉がタップすると、重めの音声ファイルが開かれた。
再生すると、まず、球場の雑音の中から、紫桃の良く透る声で「私!?」と叫ばれているのが聞こえて来る。薄く瀰漫する笑い声の中、えー、では、と咳払いをしてから、魔王はしっかと語り始めた。
えーっと――三合君後で憶えてなさいよ――何か急に言われたので何もですけど、そうですね、今日の試合には二つのことが懸かっています。ペナントはぶっちぎりで優勝しましたので、チームとしては割とどうでも良くて専ら個人成績ですが、まず、まぁ個人的には本当にどうでも良いんですけど、私の規定打席数到達ですね。あと七打席なんで中々厳しい――あの日退場喰らってなきゃ余裕だったんですけど――ですが、まぁ一応懸かってます。で、それよりもずっと重要かつ現実的なのが、勿論、三河コーチ、……いえ、敢えて今日は三河さんとお呼びしましょうか。とにかく、ハマの番長の24年連続勝利と安打です――あ、安打は既に打たれてましたっけ、失礼。
で、……そうですね、私はずっと横浜のファンとして24年間生きてきましたから、三河大輔という男を助けられ、しかも私の年齢と同じ「24年」と言う記録の成就に寄与出来るならば、これ以上のことは無いと思っています。勿論、ルーキーの私よりも諸先輩方の方が真剣にそう思われているでしょうから釈迦に説法でしょうが、しかし、今日は、どうせ暫く試合も無いのですし、私達の全身全霊を籠めて参ろうじゃないですか! 三河さんも、腕や肩
(ここで、いやいや捥げたら教えられなくなるから困る。多少壊れるのは構わんが、の旨の言葉が三河の声で発せられ、笑い声が起こってから、)
不正確を失礼。とにかく、気張って参りましょう。……ところで、どうでも良い方の話、私の規定打席数達成ですけど、仮に、四番出場の上で九回裏が無かったとして、更に残塁を無視したら、最低何点取らないといけないか皆さん御存知ですか? ……そうね、はい音坂君答えて!
(ちょっと苦労した様子の後、34点、と叫ばれてから、)
素晴らしい、その通り。で、勿論実際には残塁が起こりますから、現実的には25点か30点か、そこら辺を取りつつ、私へ第七打席を回すことになるのでしょう。
で、どうでしょう皆さん。打率、本塁打数、得点、盗塁の全てで、セリーグ最強を誇った、我らが横浜打線、最後の最後に、ハマの番長へ派手な
(少し、効果的な間が置かれてから、)
やってやろうじゃないですか。皆さん、三河さんの為に、そして我々を応援して下さった方々の為に、最終戦、ド派手な花火30得点をぶちかましてやりましょうよ! その為に、私も先程切り札を提示したのですから!
雄々しい雄叫びが唱和された後、ぶつりと音声は途絶えた。
藍葉がチャットへ戻ると、不鮮明ながら映像も有るけど、まぁ必要なら音声を後で合成しますけど、との、茶畑の書き込みが有ったが、その上から既に丹菊が新たなメッセージを送り込んできていた。
「えっと、文字で書き起こされてないから難しいけど、最後に枝音がわめいている、『切り札』って何だろ?」
「丹菊さんもご存じ無いですか? ということは、藍葉君も?」
「うん、特に何も思い浮かばないけど」
「私らが横浜戦士だったの、いつまでの話だよ、って感じだよね」
「七月十三日では」と茶畑。
「まじめに答えんな死ね」
「ひどい」
「ええっと、」と、藍葉はそれだけ慌てて書き込んでから、「真剣な話、最早、茶畑さんが一番事情に通じてそうだけど」
「なに言ってんの藍葉君!最近まで私ずっと逃げてたし、それに、紫桃から出禁食らったから横浜の取材全然できないんだってば!」
「じゃ、結局誰もわからずか」と再び丹菊。
ここで、気付いた藍葉が、
「ところで、黄川田さんは?」
「さぁ?寝てんじゃないの?別に、今居ても役立たないからいいけど」
丹菊が、発言を連打して、
「とにかく茶畑、ありがと。中々面白いもの聞けたよ、記事にも出来ないだろうに、ほんと御苦労様」
「いや、本当ですよ。これ、発表できたら、バズるってレベルじゃないでしょうにねー」
バズる、とはどういう意味だろうか、と藍葉が不思議がっている内に、丹菊が、というわけでお休み、と発言しつつ半ば強引に消えたので、彼もそのまま落ちようとしたが、ふと、終了操作をする直前に気が付き、
「ねえ茶畑さん。つまり、これって、紫桃が30得点の猛攻を実現する為に、なにかやったってこと?本人の五本塁打だけじゃ飽き足らずに、何か他の打者も助けてさ」
「かも、なんだよね。音声だから私も良く咀嚼し切れないんだけどさ。守備面は有る程度覚悟していたけど、まさか、攻撃面までチームを鼓舞というか、強化出来る術が紫桃には有るのかな?」
翌朝の藍葉は、少しでも紫桃や横浜の情報が欲しくなって、初めてスポーツ新聞を駅売店で買って見たものの、当然ながら尋常な情報しか載っておらず、三河の引退や紫桃が塗り替えたシーズン記録を纏めた、正直退屈に感じる記事を読みつつ、新横浜駅へ向かうことになった。
が、彼が丁度駅へ着いたところで、魔王からの着信が入ったのである。
予定ののぞみがまだ暫く来ないことを、時計で確認した彼は、受話ボタンを素直に押し、即座、
「おめでとう。」
この、藍葉からの先制は、からからと紫桃に流された。
「なにそれ?」笑い声に混じりつつ、「そりゃ祝われることは山程思いつくけど、一体何の鎌? 対面じゃないと私そう言うのてんで弱いから無視するけど、まぁ、何の用事かと言うとさ、こっちはペナント終わったけど藍葉君達も頑張ってー、……って。それだけ。」
「そんな訳ないだろ。何の用だ?」
「あー。いやー、藍葉君と最近めっきり会えなくて寂しいから、もう私我慢出来なくて、一個さ、教えておきたくてさ、」
藍葉は、余計な口を滑らすまい、また、紫桃から何も聞き逃すまいと、肝に銘じつつ、碁石を排置するような慎重さで、一言、
「何が?」
「いやさ、まずちょっと訊いてみたいんだけど、私、優勝決定した時とか、昨日のボコっボコにした試合とか、奇しくも両方東京相手だったけど、とにかく、どう思ったと思う? 例えば、優勝決定ボールを受けて、マウンドにも行かず仁王立ちしちゃった時とか、私、どう感じていたと思う?」
そりゃ、普通に嬉しかっただろうに、と、反射的に答えようとした藍葉であったが、
「まさか、……また、絶頂したのか?」
哄然と、
「ちょっと、あんた、……藍葉君、そんな言葉、他の女性に言うんじゃないよ?
……まぁとにかく、そうだね。うん、最高に昂奮した。」
「しかもそれが、……勝利が嬉しいから、じゃなかったんだろ?」
「Exactly.」何故か、紫桃は英語を一瞬だけ交えて、「うん、流石だね藍葉君。そう、私は、みじめなあいつらが堪らなくて堪らなくて、もう、本当に最高だったんだよ。ああ、筆舌に尽くし難いって陳腐な言い回し有るけど、正にそれだったよね。例えば、最後の打者だった酒口が、naiveというかgullibleというか、もう私の言うこと素直に信じてフォーシームだけを待っていた時の、あの、勇ましい心、そして、その直後にこの上なく不様に三振した後の、ルーキー女に手玉に取られたと言う想いや、こんなんだから俺達は最下位なんだという、前向きな
藍葉が、言葉を挟めぬ内に、明らかに息の荒くなった紫桃は、
「ああ、本当に何処までも最高だったよ。いや、あの楽天戦で退場喰らったのは、演技とか打算じゃなくて真剣に頭来たからだったけれども、でも、本当、今思うと怪我の功名だった。お陰で、昨日の私は、あと七打席打ちたいと言う、丁度完璧な状態に陥ることが出来たんだよ。六じゃ足りないし、八じゃ遠過ぎる。七。これが最高だった。お陰で私は、というか私達は、大魔王の打率長打率出塁率を公的なものとするのだ、という錦の御旗をdeceptivelyに掲げることが出来て、手心も加えず完膚も残さず、好きなだけ東京を打ちのめすことが出来たんだ。……ああ、あの、かつての本塁打王バレンタインの目の前に私の第108号の跳弾が、30失点目として転がった時、或いはその直前に、打った私が仁王立ちする二塁手山多の前を横切った時、彼らの心に泛かんでいた絶望、屈辱、畏怖、困憊、絶念、悲愴、憤懣、
Oh my! ……ああ、神様、かつて私をこんな世界へ縛めた者よ! 私は、バレンタインが心中の情動を、オランダ語ではなくスペイン語で泛かべる人間であったこと、つまり、私も存分にその想いを読み味わえたことを、貴方に感謝します!」
藍葉は何処までも辟易しつつも、言語を
「つまり、私が今日伝えたかったのはこういうこと。――私は君や詠哩子からも、そういうのを味わいたいんだ。この世界の、この上ないsouvenirとしてさ。」
とだけ述べ、「じゃあねえー、」と、一方的に通話を切ってしまうのだった。
その後藍葉は、以上を合流後に丹菊へ密かに伝えたところ、「ゴミみたいな女だね。知ってたけど、」と、端的な評価を得たのである。
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