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 その後のペナントレースにおいて、消化試合などとんでもないと言うばかりに巨人は躍進を続けた。思い出したように時々、それも専ら対古巣で打棒を発揮する丹菊、そして、藍葉の進言を受けて魔王との勝負を堂々と避けるようになった浴林との活躍によって、屡〻横浜球団を捩じ伏せるようにまで彼らは成っていたのである。すると、実力では元々広島に続いていた巨人は、段々と勝敗差を改善させ、九月半ば、ついに、阪神をクライマックスシリーズ圏内から叩き落として成り代わることに成功したのだった。

 一方で、藍葉が試合に出ることは少なくなってきていた。元々、正捕手の浴林が手堅い起用であると言うのも然る事ながら、藍葉自身も、紫桃を含めた横浜の機動力に対抗するには強肩の浴林の方が良い、横浜の傾向については彼へしっかり伝え切ったのだから、自分が出る利点は小さくなっているだろう、と、チームへ正直に話していたのである。そこで彼の出番は――入団早々自ずから出場機会を失わんとする献身を首脳陣に不気味がられながら――、浴林に休養を与える為の散発的な出場のみ、しかも専ら対横浜以外で、という有り様となっていたのだった。

 

 八月二十六日から、そんな巨人は、かつて青き屠殺場と揶揄されていた横浜スタジアムで、横浜球団との三連戦を演じていた。果たして藍葉の出番が無いまま迎えられた、三日目の二十八日、横浜の先発、雨男今長の能力が遺憾なく発揮されてかの悪天の下、巨人は三失策と荒れに荒れて、ビハインドの2―6で九回表を迎えてしまう。しかし、横浜の山先もこれまた荒れに荒れ、まさかの、と言っては失礼ながら、とにかく巨人土上どのうえに3ランを浴びた後、散々歩かせて満塁からの、丹菊の走者一掃ツーベースでノックアウトとなったのである。紫桃は焦ったようだったが、九回裏しかなくてはどうにもならず、彼女が1発ソロを打ち返しただけで試合は終わり、8―7で巨人の勝利となった。

 巨人からは叢田のソロ弾も出ており、丹菊の決勝打と合わせ、横浜としては皮肉な負け方になっただろうなと思いながら、単純に蒸し暑さでのみ汗を搔いた藍葉が、ロッカールームで下着を代えていると、ぶんぶんと端末が振動しているのに気が付かされた。

 引っ摑んで画面を見た彼は、ぎょっとし、慌てて適当に羽織ってから、むっとする人いきれの中を搔き分けつつ廊下へ飛び出、漸く応答ボタンを押した。

「やっほー、」

 紫桃の声である。

 どうせ同じ球場内に居るくせに、と彼は思いながら、

「なんだ、急に、」

「いや、色々さ。ええっとまず、最近藍葉君と野球出来なくて寂しいなぁって。」

 この、明らかに巫山戯た言葉を聞いて、彼は一瞬窮した。何か紫桃がこちらへ不審を感じ、探りを入れてきているのではと思われたのである。

 絶対に間近で対面する訳には行かないな、と感じながら、

「丹菊さんとなら、散々やっているだろうに、」

 軽い舌打ちの後、

「……ああ、もう、あの女本当に許さないんだから。いやさ、まじで最近山先君の調子悪くて。明らかに疲労のせいだから、一旦二軍に落ちて休養した方が良いんじゃないかと私は思っているんだけど、本人もAlexもやる気満々だから如何とも出来なくてさ。要求通りに球来ないから、私のリードに掛かってもどうしようもないし、」

「……それ、僕に喋っていい訳?」

「あんたも曲がりなりにもプロの捕手でしょ? しかも、去年とか今年の前半に山先君の球少しは受けたでしょ? なら、何となくは察していたでしょ?」

「……まぁ、」

「で、なんだっけ、」

「知らないけど、」

「ああ、そうそう。藍葉君に、良いこと教えてあげようと思ったんだ。来月三日のウチのイースタンゲーム、注目すると面白いよ。」

「……イースタン?」

「じゃあね。」

 此処で突然切られた藍葉は、その後、帰さの丹菊を駐車場で捕まえたが、

「……へえ。私は、そんなの聞かされてないけどね。」

「じゃあ、僕だけへか。……なんでだろ。」

「んー。彼奴のことだから、二人に掛けるのは面倒くせえ、くらいのしょうもない理由かも知れないんだよね。真面目に考えたら、損するかも。

 それよりも、……九月三日の土曜日って、私ら、」

「うん。普通に試合だよね。」

「何処で、何処相手だっけ?」

「中日相手で、東京ドームホームのデイゲーム。14時開始。」

 道化たように両手を返し、「駄目じゃん。」と呟く丹菊へ、

「うん、イースタンも当然昼からだし、とても構ってられないよ。」

「ええっと、具体的な日程は? つまり、その日の横浜二軍って、」

「東京相手の横須賀開催で、僕らと同じ14時から。らしいね、さっき調べたら、」

 丹菊は、怪訝な顔つきで、僅かに持ち上げた顎の先を搔きながら、

「うーん、何が有るってんだろ。試合のテレヴィ放送とか無いんだろうけど、でも、とても観に行けなんかしないしなぁ。」

 そうやって二人が立ち話していると、丹菊が短い背丈を預けていたデミオのクラクションが、短く二度鳴らされた。

 そう言う警笛の使い方止めなさいって言ってるでしょ、と彼女が窘めると、暑さからかずっと窓の開いていた助手席のドアを開け放ち、土竜のようにのっそり身を乗り出してきた黄川田が、

「いや、御免御免。でもさ詠哩子、今日あんま時間無いんじゃなかったっけ?」

 丹菊は、軽妙に両手を打ち鳴らして、

「あ、そうだそうだ。でかした歌奈。初めて、秘書らしいことしてくれたね。」

 雨による一時間以上の中断を喰らっていたのを思い出したのか、丹菊はそのまま、「御免藍葉、また明日!」と叫びながら助手席へ乗り込み、「明日は月曜だよ? 二人でデートでもすんの?」と黄川田に揶揄われたところへ、「五月蝿い、北陸遠征への移動日だよ! あんたちゃんと送りに来なさいよ!」と叫びながら音高くドアを閉めた。

 突然置いて行かれた藍葉は、自分も帰ろうかと関内駅へ歩こうとしたところで、腿の辺りが振動しているのに気が付かされた。なんだ、今度はピーチとデイジーのどっちだ、と思いながら衣嚢のスマートフォン端末を取り上げると、相手は公衆電話となっている。

 なんて奇跡的に丁度良いタイミングで、……いや、試合終了時間から、此方が暇になる時宜を推し量ってくれたのだろうか、などと考えながら電話を受けた彼は、相棒へ、紫桃からのメッセージのことを伝えた。

 ふんふんと、神妙に聞いた茶畑は、

「イースタンで、面白いことねえ。ええっと、紫桃って二軍送りになってないよね?」

「勿論。そして怪我もしてなさそうだし、成績は相変わらず国士無双だし、別に今からも落ちないだろうけど。」

「ふぅん、」

 この、どこか硬い相槌を聞いた藍葉は、息を飲んで意を決してから、

「ねえ、お願いが有るんだけど、というか今思いついたんだけど、……茶畑さん、その日、横須賀スタジアムへ行ってもらえないかな。」

 歎息の後、

「あー、やっぱそう来るよね。うん、そう言われると思った。」

「うん、分かってる。今の君に、関東、しかも奥深くの横須賀へ行ってくれだなんて、危険なお願いしているよね。……でも、」

「まぁ、あの事件の担当は神奈川県警じゃなくて警視庁なんだろうし――町田が相模原へ併合されてなくて本当に良かったよ――、一応、最悪の危険地帯って訳じゃないだろうけどさ。」

 そんな軽口を、足掛かりのように据えた彼女は、暫し逡巡的な間を置いた後、おし!、と一発叫んでから、

「分かったよ。うん、あんなこと言った手前だしね。命懸けでイースタン観戦行ってやろうじゃないさ!」

 すぐに、彼女の意気へ感謝を述べた藍葉だったが、

「しかし、死地への赴きとは、随分大層な二軍戦だよね。」

と、思いついた危殆な諧謔を留められず、茶畑と自棄糞気味に笑ったのだった。

 

 来たる九月三日の試合終了後、久々に先発出場して無事殊勲打も上げた藍葉は、余分な催しの無い分既に終わっている筈の二軍戦の委細については、此方から聯絡を取ることが相変わらず出来ない為、気長に茶畑からの一報を待つことにしていたのだが、そんな中、ふと、丹菊に電話で呼び出された。

 帰り支度を済ませていた彼が、誘われたまま、ドームに急造された副更衣室、容量に余裕の有る用具室を宛てがっただけのそれの出入り口まで行って見ると、仏頂面の丹菊が佇んで、何処か苛立った様子でぼんやり廊下の壁を眺めていたのである。

 「おつかれ、」と藍葉が声を掛けるや否や、彼女は、動物的な鋭さで視線を藍葉へ差し向けると、そのまま間合いを詰め、今日二つの盗塁を刺した腕を取っ摑んで用具室へ引き込んだ。「ちょっと、」と呻く彼を無視するように、人ならざる恐ろしい膂力は二人共を部屋の中へ収めてしまい、扉もバタンと蹴閉ざされる。

 雑然と、埃被った器材を端へ追いやっただけの薄暗い空間。その落莫とした雰囲気と、こういった酷いところで丹菊や紫桃は着替えさせられているのか、しかも最近は一人で、という同情めいた義憤、そして何よりも、異性の更衣室へ闖入ちんにゅうしてしまったという動揺に乱され、いやちょっと、誰かに見られたら、などと呻く藍葉であったが、それらの感情全てが数ならぬと宣言するかのように、丹菊は半ば怒鳴りつけてきた。

「藍葉ぁ、」そう乱暴に呼びつけた後は、一転静かに、「何か私に隠してること、無い?」

 彼は、戸惑うままに、

「ええっと、何の話?」

 彼女は、顰めた顔で彼を睨ねつけながら、

「へえ、そうやってしらばっくれるんだ、」

 丹菊はその後、液晶を割らないかと心配させられるような勢いで自身の端末を打鍵し、引き出してきた写真を藍葉へ突きつけた。

 薄暗い部屋のせいでやたらと眩しく見える画面に、つい目を搾った彼は、そのまま、表情を歪めてしまう。昼間の球場の光景、どうやら横須賀スタジアムの写真なのだが、プレイグラウンドではなくわざわざ観客席、しかも隣席の人物一人を捉えたその写真には、スタジアム入口のCoCo壱番屋で買ってきたと思しきカレーを一匙持ち上げる、茶畑の顔が大写しとなっていたのである。許可なく向けられたレンズだったらしく、彼女は、口と同様に目も丸く開いて肝を潰している様子だった。

 なんで、この写真は? ……何故、茶畑のことを、しかも、横須賀スタジアムで? 今日丹菊は、横須賀に居たのか? いや馬鹿な、同じ試合に出ていたではないか。ああ、あの、七回の三盗は美事だった、

 混乱する彼の、首を刈るかのように冷たく、

「この写真さ、歌奈から送られてきてたんだよね。……『歌奈』って言って、分かる?」

 歌奈。確か、黄川田の下の名前、

 藍葉は、この宣告の鋭さが蔓延らせた脳内の乱麻の、僅かな空隙で、何とか思考を紡ぎ、

「そうか、……つまり、僕だけでなく君も、人にイースタンを見に行かせていたんだね。」

「まぁ微妙にそこは違うけど、……そんなことよりさぁ、」

 下から襟首を摑み、同じ高さまで藍葉の顔を無理矢理引き下げさせてから、

「この女の顔さぁ、さっき思い出したんだよ。横浜時代に良くまとわってきた、いけ好かないスポーツ記者で、そして、何より、……町田駅で枝音を襲った、糞女!」

 茶畑が警察に捕まるのが最悪だとすれば、次善ならぬ次悪とでも呼ぶべき事態が、藍葉を襲うていた。よりにもよって、紫桃との協約を結びおおせた以上世界で唯一見つかってはならぬ相手、丹菊、その部下に、彼女が、

「歌奈から聞いたよ藍葉、この女、あんたのお仲間らしいじゃん、……何? どういうことか、ちゃんと説明してくれる?」

 

 徹頭徹尾、つまり、シャイナーズへの取材から茶畑の暴走まで、全てを白状していく藍葉を、丹菊は当初、敵軍の将を憤慨で殺そうとする亡国姫のように睥睨へいげいしていたが、その内、項垂れつつ深い溜め息を漏らした。

「あー、なんかさ、」難儀そうに、振りながら首を持ち上げ、「いや、なんというか、……私、演技とかじゃなくて本当に腸煮えくり返っていたんだけど、なんか、……そんな悄然としているあんた見ていると、馬鹿らしくなってきたと言うか、こっちが申し訳なくなってきたと言うか、」

 用途のよく分からない、黒板のように濃い緑色の木箱の上へ座り込みつつ、

あんた自身には害意は全く無かったんだ、という言葉を信じるなら、って条件付きだけど、あんたが言い訳みたいに漏らしたように、確かに、最初に隠し事、町田駅の事件を伏していたのは、私の方だったんだよね。だから、うん、そっちの秘密主義については責めないし、あんた自体についても、……なんか、そのしょぼくれた様子を見ると、信じる気分になっちゃうんだよね。甘いのかも知れないけど、でも、……日頃私との練習で痣だらけになっているのを知ってると、あんたが糞野郎とは、どうしても思えなくてさ。」

 彼女は、その後藍葉のすぐに寄越した謝意を、御座なりに受け取ってから、

「でもさ、あんたのことを信じたり許したりしてもさ、……結局、ショックなんだよね。私と藍葉は、仲間ではなかったんだ。」

 懸命にこの言葉を嚙み砕こうとしたが、叶わなかった藍葉は、

「どういう、意味?」

「つまり、さ、あんたと私は、精々で同舟者であって、心底の仲間ではないんだよね。だって、そうでしょ? あんたの本当の仲間である、茶畑は、枝音を刺し殺しても何も差し支えなかったわけだけど、私は、寧ろ逆。この世界で、枝音と一緒に戦い続けることこそが、私の目標なんだ。それこそが、私の生き甲斐なんだよ。あんたらはこの世界――或いは、あんたらの世界――が一番大事らしいけど、私は、世界なんかより枝音が大事。もしかしたら、枝音自体よりも、彼奴の思い通りにさせない、彼奴に一泡吹かせることが私にとって大事なのかも知れないけど、とにかく、私は、藍葉、あんたらとは全然価値観とか目標が違うんだよね。だから、……仲間じゃなくて、精々同盟なんだって、この部屋で思い出したんだよ。」

 いかにも寂しげに視線を逸らす彼女へ、藍葉は、意を決するように、

「本当は、僕がこんなこと言う資格無いかも知れないけど、でもさ、……プロ野球選手って、そういうもんじゃないかな。」

 眉を寄せ、しかも同時に驚いたような顔つきとなった丹菊へ、

「だってさ、勿論僕らは巨人と言う球団のチームメイトな訳だけど、でもさ、プロのチームメイトってのは、仲間であると同時に、ライヴァルであり、商売敵なんだよね。何せ、普通のポジションなら一つしかないスタメンの席を、人生を賭けて奪い合うんだからさ。」

 丹菊は、どこか不愉快そうに、傾げた首を搔きながら、

「成る程ね。レギュラー落ちの経験も不安も経たこと無かったから、そういう考え方は気付かなかったよ。」

「結構一般的な感覚だと思うよ、君のような傑物を除けばね。所詮チームなんてのは、その程度の間柄、他人の不幸をどこか喜んでしまったりすらするものなんだ。だからさ、なんというか、……君と僕達の、仲間ならざる者が協力しあっている様子は、ある種、野球人として健全ですらあるんじゃないかな。」

 丹菊は、失笑を鼻から漏らしつつ、

「成る程ね! 私が、あまりにナイーヴだと言いたい訳?

 流石にねぇ、藍葉、あんたがあまりに言い過ぎているのは分かるけど、……まぁ、一応、成る程、あんたら異次元人との協力関係も、存外取り繕い切れるかもね、って気分にはなったよ。」

 彼女は、諧謔的な動作として、童女のようにぴょんと立ち上がってから、

「というわけで、まぁ今後も宜しく、」と述べると、最早いつもの表情で、「そうしたら、本題と言うか何と言うか、次の話題行こうか。今日の、イースタン試合だけど、」

 藍葉は、女性らしからぬ、理に応じてさっぱりと憤りを引き下げてくれる丹菊の性に感謝しつつ、その、半ば忘れかけていた話が漸く聞けると喜んだのだが、ここで、彼の端末が再び鳴動した。

「茶畑?」

 画面を見て、

「うん、」

 と、出ようとする藍葉を、丹菊は腕を伸ばして差し止めた。

「待った。藍葉、その女この辺に呼びつけてよ。何とか騙くらかしてさ。」

 ぎょっと固まってしまう彼へ、畳みかけるように、

「こっちも、歌奈を呼ぶよ。折角同盟を続けるんだから、一度、雁首揃えて議論しよ。

 ……言っとくけど、あんたらに拒否権無いからね。殺人未遂は親告罪じゃないんだから、枝音じゃなくて、私が通報するだけで豚箱行きだよ。」

 丹菊の宥和的態度に安堵してしまっていた藍葉は、ここで、至極肝を潰されたのだった。

 

 久々にやってきた都心をそのまま彷徨うろついていたらしく、大して待たせずにひょこひょこやってきた茶畑は、完全に油断した様子でデミオの助手席に乗り込んで来た。

「いやぁ、偶〻昼もお会いしましたけど、本当お久しぶりですね黄川田さん。」

 これ聞こえよがしに鼻をすんすん鳴らしてから、「しかし、凄く立派で綺麗にされたお車で。新車ですか?」などと、洗煉された愛想を続けた彼女は、後ろから、両の上膊をがしりと摑まれる。

 藍葉の仕業と勘違いして、ちょっと、なに、と、楽しそうに文句を言う彼女は、囁かれた言葉で凍りついた。

「お褒めに預かり、どうも。……何せ、オールスターの賞品だからね。乗せてもらって、スポーツ記者冥利に尽きるんじゃなくて?」

 今年のNPBに関する知識を辿って、言葉の主を弾き出したらしい彼女は、瞠目し、衝突実験の人形のように前へつんのめって逃れようとしたが、

「出せ! 歌奈、」

 存外、黄川田は巧者にステアリングやレバーを操作して、

「御免なさーい茶畑さん、ボスには逆らえなくてねー、」

 そのまま車は、首都高入り口まで突っ走って行った。

 きゃあきゃあぎゃあぎゃあ、御免なさい御免なさい殺さないでと、喚いていた茶畑も、車が高速に乗ってしまうと、諦めたようにしおらしくなった。

 漸く、手を離せた丹菊が、

「本当は一発くらい引っぱたいてやりたいけどさ、」と切り出してから、彼女が茶畑の正体を知った上で協力を求める旨と、黄川田にも種々のことを伝えてしまっていることを話すと、茶畑は、ずるずると助手席から滑り落ちつつ、

「いやはや、……凄いことになってきましたねぇ。」

別荘けいむしょ行くよりいいでしょ。それとも、あんたらにとって数十年は大したことないって?」

「まぁ、正直そんな向きは有りますけど、」

「というかあんた、巫山戯てないでちゃんとベルトしなさい。」

 これを横で聞かされていた黄川田は、一瞬助手席の女を盗み見て、

「人間、にしかお見えしないですけどね。なんか、……ねえ、詠哩子、本当にマジな話なの。」

「マジだってば。逆にこんな話だからこそ、四割後半の打率、91本、五割後半の出塁率を上げてる、横浜のルーキー女の説明がつくんじゃないの?」

「あー、それは本当に不思議だったんだけど。詠哩子ならいざ知らず、あの枝音がNPBで戦えてて、しかも、全部新記録の三冠王見込みだなんて、」

「まぁ、それはともかく、」丹菊は、相変わらず隣る藍葉へは一瞥もくれずに、「さて、茶畑。あんたらが今日横須賀で見て来たこと、藍葉へ話してくれる? 私も、大まかにしか聞いてないからさ、」

「ええっと、」シートベルトのバックルを、苦労して嵌めつつ、「まぁ、素直にお話しますか。ええっと、いや、出会した黄川田さんと一緒に驚いたんですがね。……まず試合前、紫桃が、守備練習に出てきたんですよ。」

 藍葉が、つい叫んだ。

「紫桃!? 何を、今日も、横浜の一軍試合は昼から有っただろうに、」

 丹菊が、横から、「私も一旦思ったんだけど、それ、二つ間違ってたんだよ藍葉。今日の横浜一軍はウチと違ってナイターだったし、それに、……甲子園遠征だったらしいんだよね。」

「ああ、」藍葉は、得心をそのまま漏らすように、「そうか。紫桃にとって、今日は休養日だった訳だね。……それにしても、わざわざ二軍戦に?」

 かぶりを振る茶畑の顔が苦く呆然としているのが、藍葉からバックミラーで窺われる。

「それがさぁ、何かと思ったらびっくりしてさ、藍葉君。

 横浜の先発ピッチャーがさ、……番長、三河だったんだよ。」

 驚いて言葉を失った彼を差し置き、茶畑は言葉を続けた。

「つまりさ、多分だけど、三河コーチ、やっぱ今年で引退するんじゃないかな。それで、引退試合の万全を期す為に、正捕手様の紫桃が調整登板に付き合ったっぽい。」

「それで、」藍葉はシートベルトに縛められながらも、前のめってしまいつつ、「どうだったの、試合での紫桃は、」

荷宮にのみや監督が何か遠慮したのか八番捕手で先発してきて、第一打席の初球をホームランにしてから、そのあと全部敬遠されてた。……凄いよね、イースタンOPS5.00維持だよ。

 まぁ、それは比較的どうでもよくてさ、問題は、三河の出来だったんだよね。七回被二安打11奪三振の無失点。……どう、思う?」

「どうって、そりゃ、」藍葉は、密室にも拘らずつい周囲を憚るように見回してしまってから、「出来過ぎ、でしょ。二軍相手だからって。」

「そう、出来過ぎなんだよ。いや、本当は私じゃなくて藍葉君とかに見てもらえれば良かったんだけど、素人なりに、のべ万年も野球見てきて肥やした私の目からするとさ、……全然、球威無かったんだよね。制球力だけはまぁ流石だったけど、球速も出てないし、本当に酷かった。

 ……まぁそりゃそうで、そうでもなきゃ、引退の噂なんか立たないんだけどさ、」

 この忌憚なく吐かれた評を聞いた丹菊は、後部座席で深い溜め息をいた。生来横浜党として生きていた彼女としては、肩を並べていた選手はまだしも、往年の大投手である三河の衰弊には悲哀を禁じえないのであろう。

 番長の200勝、力添えをしたかったな、という、萎靡した彼女の言葉を、藍葉は武士の情けとして無視しようと試み、結果、やや胡乱に発言を始めてしまった。

「まぁ僕に見せたかったのはそんな試合展開のことだったとして、それにしても、ええっと、どうして紫桃はわざわざあんな聯絡を入れてきたのかな。……敢えて黄川田さんと茶畑さんを出会させて、話をややこしくしよう、って狙いでも有ったのか、」

「いや、違うんじゃないですかね、」と、ふらつく白いヴァンを追い抜きながら、黄川田は、「だって私、今日、勝手に横須賀行ったんですもん。失礼ながら、先日の藍葉さんと詠哩子の話を盗み聞いてて、」

 藍葉は、丹菊との立ち話中、車窓が開けられていたことを思い出した。

「呆れるでしょこの女、」纏う雰囲気を取り繕った丹菊が、彼の方へ顔を向けつつ、「申し訳ないけど今日は送りだけ休ませてくれ、っていうから、まぁたまには良いかと思って代行使ったらさ、そんなことこっそりやってるんだもん。」

「だって、堂々と、見てこようかって言ったら、詠哩子に却下されると思ったし、」

「よく分かってるじゃない。下らないことなんかしないで、野球に集中した方がマシだよ。つまり、私を助けるべき存在であるあんたも、そんなことに遣いたくない。

 でもまぁ、……お陰で茶畑を捕まえられたんだから、結果的には正解だったね。」

 再びぐっと居竦む茶畑の横で、黄川田は、

「つまり、存外詠哩子ってこういうタイプなんですよ。洒落臭え真っ向勝負じゃ!、みたいな。奇策を弄するのは、あくまで試合の中だけ、って感じで。

 それで、それは勿論枝音も知っている筈ですから、私と茶畑さんをぶつけて情況を引っ搔き回そう、って魂胆は彼奴にも無かったんじゃないかな、って個人的には思います。実際、藍葉さんへだけ聯絡が来たんですよね?」

「……ええ、はい。」

「そもそも、そんな老獪な知恵を絞るタイプじゃないですよ、枝音は。八方美人なところは有りますけど、それ以外は、捕手のくせに考え方が何もかも単純で、」とまで黄川田はすらすら述べたが、直後、矢庭に声を暗くした。「あー、でも。それは、彼奴か。そんな、世界を破壊する化け物だなんて。」

「気持ちは分からないでもないけど、運転にも集中してよ、歌奈。

 とにかく、歌奈の言うことには私も賛成なんだけど、そうなると、枝音の狙いって結局なんだったんだろうね。」

 おずおずと、姿勢を低くしている茶畑が、

「示威行為、ですかね? 紫桃わたしが本気を出せば、これくらい出来るんだぞ、と。」

「何言ってんの、」薄暗い車内で分かりづらいが、どうも呆れ顔らしい丹菊が、「確かに今日も、枝音、本塁打ぶちかましてたって言うけど、そんなの、いつもの通りの平常運転と言うか、」

「ああいえ、……寧ろ、捕手としてですね。」

 こう言われて押し黙った丹菊へ、茶畑は、身を乗り出して振り返りつつ、

「さっき私が述べましたけど、ええ、本当に、三河の球は衰えていたんです。なんなら、私が打席に立っても打てるんじゃないか

「あんたねぇ、言葉が過ぎるよ。ド素人のくせに、糞生意気な、」

 憤然とさしはさまった丹菊の毒言に、しかし、今度の茶畑は悚然としなかった。まるで、被告に変わって指弾を受け止める弁護人のように、堂々と、

「失礼。確かに、実際に私が立ったら、腰が引けてバットもロクに振れないでしょう。しかしですね丹菊さん、『自分でも打てるだろうなぁ、』と、私が素朴に思ったというは、紛れも無い事実なんです。正当性はともかくとして、そういう妄念を抱かせるような球が投ぜられていた。それが、今日の三河大輔の出来だったんです。

 よいですか、丹菊さん。愚かな私だって、例えば山先選手や須賀野選手の球を打てるだなんて、微塵も思いませんよ。……ですが、先程の観戦中は、」

「分かったよ、もう良い。」不愉快を隠さぬ声音で、「それで、散々三河コーチのこと腐して、あんたは何が言いたい訳?」

「ですから、そんな状態の投手が、二軍戦だからと言って七回11奪三振なんて出来、異常なんですよ。その原因を、私は、紫桃に求めたいのです。

 つまり、彼女がその力を以て、投手を励ましつつ打者の裏を搔けば、この程度は綽々と出来てしまうと言うことなのではないでしょうか。具体的に言えば、打撃のみでなく、守備に関しても、これまでの彼女は遊んでいたのではと思われるのです。」

 疾駆音を背景に、茶畑の声だけが、車内で威を伴って伸びやかとなる。

「つまりこれは、紫桃からの、お前ら人間なんか簡単に捻り潰せるのだぞ、という、宣戦布告なのではないですか? 紫桃わたしがその気になれば、野球と言う枠組みの中ですら、勝負にならないんだぞ、という。

 この場合、紫桃が今日の二軍戦観戦を勧めてきた理由も、立つ訳です。何せ、藍葉君に近しい誰かが三河の球を視ていなければ、ただ、後から試合結果だけ見て、彼が往年の球を投げられるように復活したのだろう、と、勘違いしてしまいますからね。

 また、もしそうだったとすれば、……クライマックスシリーズを窺いつつある今日は、この畏怖の手紙を送り付けるのに、絶好の日付だとも紫桃には思われたのでしょう。」

 藍葉は、この疑懼を共有されて凍てついた。防禦率を1.5程度低下させると評判の、あのリード術や盗塁阻止術も、紫桃にとっては余技に過ぎなかったと言うのか? 真剣になれば、あんなものではないと?

 黄川田まで痺れたような様子だったが、しかし、丹菊は間を置かずに言葉を放った。まるで、茶畑への軽蔑の為に準備していた熱を、転用し、恐怖心を解凍したかのごとく。

「は、今更なんだよそんなの。藍葉はどうだったのか知らないけど、私は元々、枝音の本気と勝負するつもりだったし、シーズン中の彼奴が本気でないという可能性も、覚悟していたからね。大体、相手の力がどうだろうと関係ないさ。だって、相手が魔王だろうが神だろうか大統領だろうが、結局、こっちの全身全霊でぶつかって行くしかないんだからね。

 そもそもだよ、枝音が球受けたからって、例えば山先の関東試合WHIPが0.00ですか、って話。……ねえ? 藍葉、」

「……ホイップって、なんだっけ?」

 丹菊は、死ね、と毒づいてから「ええっと、……例えばこの前の山先、確かに私が――つまり、内心を枝音に読まれない打者が――止め刺したけど、でも、それ以前にあの男スリーラン喰らってたんだよ。いくら枝音が普段の試合では手心を加えていると言ったって、スリーラン喰らった上の満塁で、与し易くない私へ回るだなんて、そんなの、もしも回避出来たのなら、どっかでしていたに決まってるじゃん。

 つまり、投手自体が何か乱れれば、必死な枝音相手でも得点の機会は発生しうるんだ。確かにキツいんだろうけど、でも、絶望することは無いんだよ。」

 彼女なりに、これで、今日の話については満足したらしく、

「でさ、茶畑。藍葉から聞いたんだけど、紫桃の、……能力、っていうの? 良く知らないけどさ、とにかく、あの神通力の制約について調べてたんだって?」

「ああ、神通力、……言い得て妙ですね。」

「ちょっと、生意気になってきたねあんた。で、どうなの?」

「ええっと、」茶畑は、口籠もりながら、「ストリング垂直粘度を調べてたんですけど、その結果、可重点が皇居の辺りに五次収斂していましてね、」

「「は?」」と口から飛び出させる、三次元人二人をさておいて、「へえ、そんなところに恒焦点が、」と、尋常に返事を送った藍葉は、横から丹菊に突っつかれた。

「ちょっと、何語? あんたらが何言ってんのか、さっぱり分かんないんだけど、」

「ええっと、」茶畑が、助手席で無意味に手を広げつつ、「つまりですね、言うなれば、恰も、地球の裏側の国――伯剌西爾ブラジルでしたっけ?――の判例を説くような話になってしまうんですよ。私の話を素直に理解して頂くためには、今後絶対に役立たない、四次元以上の物理学について知って頂かなければならないんです。」

「あっそ、」呆れた様子の、丹菊が、「私が解釈出来ないのに藍葉が綽々と扱える概念がこの世――この、ではないのかな?――に有るってのは、何となくむかつくけど、じゃあ、委細は良いから結論だけ教えてよ。そこは、多分、私達にも理解出来るでしょ? だって、三次元の世界について調査しているんだから、結局、三次元の話に帰着するんじゃないの? 素朴な四次方程式の計算途中に沸いてくる、糞ったれな立方根や虚数部分が、解においては綺麗に消えるみたいにさ。」

「ああ、言い得て妙ですね。」と述べた茶畑が、「では、御希望にお応えしましょう。ざっくばらんに申せば、という話ですが、恐らく紫桃さんは、彼女がした日に、この世界の皇居の辺りを用いてクリエイターに捕縛されており、爾来そこに、力の源泉を縛められているようなのです。良い譬えかどうかは分かりませんが、関東外では電波が届かない、みたいな話なんですよ。」

「へえ、」感心したらしい、丹菊が、「羽虫を地図紙で捕まえたら、とある座標に潰れて引っ付いた、……みたいな感じ? そして、その箇所から遠くの地形図は、汚れずに済んでいる、みたいな、」

「恐らく、三次元的には最高の理解です。」

「じゃあ、性別については? なんで男相手にしか、彼奴のって通じないの?」

「それが、……正直、まだ分かってないんですよね。」

「ああ、まだあんたの調査が及んでないんだ。」

 茶畑は、少し首を振ってから、

「それならまだ良かったんですが、……そもそも達の世界では、男とか女とか無いんですよ。強いて言うなら、全員男っぽいですかね。」

「それは、つまらなそうな世界で、」と、黄川田が述べた後、

「まぁ、この世界を去ることが、にとってとても惜しいのは事実です。

 で、とにかくですね、紫桃が発生した達のに、存在しない概念、『性別』に、何故彼女の力がいましめられるのか、奇妙で仕方ないんですよ。法律の譬喩を続けるなら、ウガンダ――赤道直下内陸国ですが――において、時化の日は駄目だの、雪の日は駄目だの、わざわざ律されるようなものでしょう。どうしてそんな、存在しえなかったものに、彼女は縛められねばならなかったのでしょうか。」

 丹菊は、少し考えてから、

「あんたのその譬喩が何処まで適当なのかは知らないけど、ウガンダ人が日本に引っ越してきたら、潮風も雪も浴びるでしょうよ。女と言うのが、枝音がこの世界に来て、初めて晒されただったとか?」

 黄川田が、叩き落とすようにレバーを倒してウィンカーを出しながら、

「でもさ詠哩子、そうしたら、枝音自体が女なのは不思議じゃない? 彼奴、女っぽいんじゃなくて、本当に女なんでしょ? 結婚した挙句にやることやって、子供拵えているんだし。」

「あー、……ねぇ、茶畑。そもそも、どうしてあんたらや枝音が人間らしい姿や機能を持てているのか、って、質問してはかの有る話?」

「んー、……あんま無いかもですね。丹菊さん達にとって、理解可能な言葉で説明するのは多分不可能です。」

「ふぅん、……じゃいいや。藍葉、あんたらでその先は考えといて。」

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