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 藍葉と丹菊がそうして誓い合った、八月十二日時点において、一位横浜は、86勝20敗3分という、松竹による記録の63を超えた貯金66で、空前絶後の独走を尚も続けていたが、二位広島も58勝48敗2分の貯金10と数字を作っており、二球団のゲーム差が28で、それぞれの残試合が34と35である以上、ペナントレースは――一応――結着していなかった。勿論これは風前の灯であり、横浜の優勝を疑うものは世に一人もおらず、後は、最速優勝記録(九月八日、’90年巨人)が更新されるかと言う興味のみだったのである。

 よって、ペナントレースは最早、単に、クライマックスシリーズに出られるかどうかと言う話になっており、紫桃との対戦が少ないせいで数字は多少マシだった、しかしどうも今年冴えない五位中日と、対蹠的に、地力は窺わせども魔王の悪逆によって特に前半戦苦しんだ四位巨人が背比べをしている少し上で、三位阪神が何とか浮んでいると言う三つ巴だった。東京は、もしかすれば五位浮上の可能性も残っているが、昨年優勝から一転このザマという体たらくによって、贔屓者からすらあまり順位の興味を持たれていない。戯れとして、「規定打席数未達者を除く」だの、「NPB男子プレイヤー」だの、訳の分からない条件をつけ、露骨に紫桃を除外した打者成績ランキングを作って山多の仮想六冠王を愛でると言う楽しみも一時期ネットの片隅で流行していたが――中でも前者は、試合開催地の偏りによって紫桃が隠顕する様が面白がられたようである――、七月の、横浜三合・広島新居の大暴れによって彼の立場がそこですら没落した以上、最早東京球団は、八月にして早くも戦後処理の趣を呈しているのだった。

 そんな最中の藍葉は、あの後十日市場に着くまで丹菊と車中で良く話して、より具体的な作戦を練っており、約束通りその後聯絡してきた茶畑へも――彼の独断で密かに――それを伝えたところ、電話口の彼女は、真剣そうに、

「成る程。面白いと思うし、実行さえ出来れば、勝算ありありだね。やってみようよそれで。」

 藍葉は、彼女の口調の軽薄さが恢復かいふくしていることを喜びつつ、

「うん。……ただ、この作戦って、茶畑さんに手伝って欲しいことが特に生じないんだよね。」

「あー、……そうだね。外部の素人じゃ何もどうしようもない、か。そうしたら、藍葉君が何か思いつくまで、私は私で気になること調べてみるよ。」

「というと、例えば?」

「いや、聞かされてる、紫桃の正体や言葉だけだとさ、彼奴の力の制限がよく分かんないんだよね。東京近郊だけ、とか、男相手だけ、とか、神なる存在の彼奴に、なんでそんな制約がかかるんだろ。」

 藍葉は、見えもしないのに頷いてしまいながら、

「確かに、不思議だね。そして、そこが分かれば、どうにかして紫桃の力を封ずることが出来るのかも知れない、か。」

「ね、意味有りそうでしょ。調べてみるよ。

 ところで藍葉君、言い損ねたけど、そう、君の言う作戦って、……実行さえ、、なんだよね。」

「うん。紫桃の正体を知らない者からすればいかにも尋常でないから、事前にたっぷり練習する必要が有るって意味でも、首脳陣の理解が不可欠だと思う。」

「じゃあ、進言も早い方が良いじゃん。」

「そうなんだけど、でも、あんまり巨人で成果を挙げられてない僕が言い出すのもなんだから、ちゃんと試合で結果を出してから、

「いや!」裂くように、茶畑の元気がさしはさまった。「多分、それ間違ってるよ藍葉君、善は急ごう!」

 きょとんとする彼へ、

「だってさ、今、横浜が優勝しかけてるんでしょ?」

「しかけているというか、十中八九、」

「だから、まだ優勝し切ってないんでしょ? だったら、今がチャンスだよ。勿論、99%以上横浜の優勝で、なんなら巨人の優勝可能性なんかとっくの昔に消滅してるけど、でもさ、優勝チームが算術的に決まっちゃったらさ、その後から、何か熱り立ったことを訴えるのは、多分難しいと思うよ。だって、胴上げってのは、一つの儀式なんだ。冠婚葬祭で言うと、断然葬式だね。ペナントレースと言うものが結着してしまったら、いくらクライマックスシリーズが有ろうと、球団と言うのは、次年度の為の教育やテストに残りの期間を注ごうって気分に、幾らかなっちゃうんだよ。これは、不可避の、職業野球に脈々と受け継がれてきた、細胞レヴェルの本能なんだ。

 つまりさ、……今しかないんだよ藍葉君! 明日にでも話通しなよ、ぐずぐずしていたら機を逸するよ!」

 気圧された彼は、「ああ、うん、」と、曖昧な返事をするのが精一杯だった。


 そんな茶畑の説得もあり、翌日藍葉は、同じ論理で丹菊を口説いてから、二人で彼らの作戦を上申した。果たして、コーチ陣や監督に驚かれたり呆れられたりはしたものの、せめて日本シリーズ進出の為に試せるものは全て試そうと、最終的には承認され、十九日に始まる、月曜日挟んでの本拠地六連戦から実際に練習スペースで試行して行こうという話を、二人は美事取り付けたのである。

 これを喜び、「まずは旨く行ったみたいだけど、でも、十九日までに監督ウルフを失望させたりして、撤回なんて可能性もあるからね、」と丹菊が藍葉へ怡然と釘を刺すなど、洋々としたものを感じていた二人であったが、そんな彼らの健気を嘲笑うかのように、王者横浜球団は邁進を続けていた。具体的には、八月十二日から始めていた首位攻防戦@横浜スタジアムにて、案の定の三連勝を決め、ゲーム差が30、残試合が32と33という、崖っぷちまで二位広島を追いつめたのである。その後の広島は、続く阪神相手に二連勝と気張ったのだが、この間の横浜の対戦相手が、よりにもよって最下位東京、しかも地方でもない神宮開催で紫桃が出場出来ると言うことで、此方も果たしての二連勝となり、結果、90勝20負3分の横浜と、60勝50負2分の広島、残試合それぞれ30と31という、つまり、「残り日程で横浜が全敗しつつ広島が全勝すれば、横浜勝率64.29%、広島勝率64.53%でギリギリ広島が優勝する」という、本当の最後の崖っぷちとあいなったのだった。翌八月十八日は、横浜のみ試合日程が組まれており、巨人と違って丹菊が居ない以上魔王に抗う術もなく、地方巡業以外で横浜に全敗している東京へ、広島の命運が委ねられると言う、これ以上もなく絶望的なマジック1が、セリーグの注目を支配したのである。結果は、無事に連敗記録が伸長され、91勝20負3分で残試合29、残り全敗しても勝率65%となる横浜が、正式に優勝を決めた。この、史上最速優勝、八月十八日は、皮肉なことに、藍葉と丹菊の作戦が始動する予定日の、丁度前日に当たったのである。

 今日を狙った訳ではなかろうが、水を差されたなぁ、と藍葉は思いながら、中日戦から戻って来ての就寝前、自宅で横浜関連の番組や動画を漁り眺めていた。

 まずは、優勝決定試合。早々に東京の石河を粉砕した横浜だったが、打線だけでなく先発山久地も奮起しており、クオリティスタートを達成しての8―2で悠々と試合を進め、九回裏には、絶対にセーヴの付かない状況にも拘らず、守護神山先がマウンドへ送り出されていた。

 彼と紫桃、セリーグ最強バッテリーと言って過言でない、小さな大魔神と脂粉しふんの大魔王の若きコンビは、綽々と先頭二人を切り、九回二死無走者で、肋骨挫傷で抹消された山多に代わってクリーンナップへ入っている酒口さかぐちを迎えた。

 ヴィジターなのに、守備中なのに、大量リードなのにも拘らず、横浜を讚え、鼓舞する詠誦が球場一杯に轟いている。山先、山先、山先。殷々とした響きは、まるで、遥々本拠地横浜から届いてきているかのように豊麗だった。山先、山先、山先。左翼席から、いや、最早右翼以外の全ての席からの、老若男女のそれが渾然として胴間声に聞こえる大音声。山先、山先、山先。しゃがんだ紫桃は、それを嚙み締めるかのように、マウンドよりもずっと高い方へ視線をやりつつぼんやりしてから、ミットを大袈裟に打ち鳴らし、漸く守護神へサインを送った。最早全く読み解けない筈のそれが、しかし、何故か通じてきたかのように藍葉へは感ぜられる。

 ――まっすぐ。思いっきり投げてこい。

 私がバットで責任取るから、首を振るな、と、日頃懇々と投手へ説く紫桃のサインへ、年齢も下の山先は、すぐに頷いて構えた。快速球、150キロが唸り、ど真ん中に構えられた魔王のミットへ、邪魔立てされずに突き刺さる。快い衝撃を一人感じた筈の紫桃は、いかにも楽しげに、何か叫びながらボールをマウンドへ投げ返した。そして第二球、再びの、殆どど真ん中の直球を、魔王の力によって何か裏を搔かれたらしい酒口は、全く反応出来ずに見送ってしまう。

 ツーアウト、ツーストライク。これ以上ないと思われた大声援が、また一段強まった。選手間の会話も儘ならないのではないか、と藍葉が訝しむが、しかし、紫桃は、サインも出さずに立ち上がると、拡声器代わりの右手を口許に添え、マウンドへ一つ張り上げたのである。藍葉は、その脣の動きを読み取ることが出来た。

 ――同じ真っすぐ、もう一球来い!

 歓喜が極まっての慢心か、或いは、それへ見せかけた挑発。紫桃の性根がいずれであったにせよ、この横浜の晴れ舞台へ吊り鮟鱇の如く残酷に晒されている酒口は、ますます乱された筈で、そして、その浮つかされた心中を、魔王が手に取っていろうようにして読み取りつつ攻めてくると言うのだから、藍葉は、酷く彼へ同情した。案の定、しゃがみ直した紫桃は、密かに何らかのサインを山先へ送り直したのである。

 ど真ん中、へ向かうと見られた白球へ、酒口のバットが躍りかかる。しかし、天下一品の、へし折れるようなツーシームは、地面へ殆ど突き刺さった。

 完全にバットを回した酒口へ、ミットを土で汚しつつ捕球していた紫桃が、反射的に触球を行う。振り逃げが成立したのかどうかはいざ知らず、とにかく球審の腕が振り下ろされた。三死。

 コールを聞き咎めた筈の魔王は、ミットを高々と捧げつつ、本塁を跨いで仁王立ちした。常識や慣例を裏切り、マウンドへ向かうでもなく、両目を搾り、ただその場で何かを叫び続ける彼女へ、山先が、内野陣が、三塁側ベンチの面々が、そして遅れてやってきた外野陣が、寄りたかって団子となる。

 星空に響く大歓呼の下、自由の女神ならぬ、勝利の女神として、灯火トーチの如く持ち上がっていた、ウィニングボールを摑んでいるキャッチャーミットが、彼女があまりに激しく抱かれる為に、とうとう、波に飲まれるかの如く、海よりも青く装う選手ウォーリアー達の中へ沈んでいった。白球を目掛けているかのように、そのまま散々揉みあう勇者達。その後に漸く始まった胴上げでは、まず当然ラミーロの躰が宙を舞い、更に、キャプテン三合も捕まえられて空中へ投げ出されていく。そんな恰幅の良い彼らは、あまりに歓然としているので、闘志と言うよりも、布袋が宙を舞うようであった。

 自分や丹菊も大人しくしていれば、あの歓喜の輪に入れたのだろうがな、と詮無いこと思いながら、録画を映すテレヴィ画面から視線を切り、スマートフォンで、横浜のビール掛け映像を眺め始めようとしたところで、彼は、もう片方の手で開栓しかけていた発泡酒を、何か情けなくなってテーブルの隅へ追いやった。操作の都合でちらと目に入ってしまったSNSでは、去年までは戯謔ぎぎゃくに過ぎなかった「横浜優勝」の文字が、清流の魚のように瑞々しく躍っている。

 球団名が変わって初めての優勝、そして、ラミーロの就任初年度ペナント制覇。本来そんなところがキーワードになる筈の狂宴は、しかし、偉大過ぎた功労者の存在を忘れられずにいて、果たして、薄闇の下、麦酒の泡が掛かる先も、マイクの向けられる先も、やたらと彼女へ偏っていた。

 貴女自身は胴上げされませんでしたが、と問われ、応え始めようとした紫桃は、顱頂からまた一発浴びせられ、「おらぁ、お前、」などと不明瞭に吠え返してから、泡塗れの顔で、

「いえ、(げほ、)七割くらいしかベンチに入らない、しかも、ルーキーなんかには過ぎたことだと思っていたので、前もって遠慮願ってまして、」

 嫌みではなく素直にこう述べたように――少なくとも――見えた魔王は、続けて、では、日本一になった暁には、と同じ記者から問われた。これは、勝負事に良く見られる、鼓舞としての、自分達(または貴方達)が勝利する可能性は現実的である、或いは、寧ろ当たり前である、という、自己暗示などではなく、寧ろ、最早かなり現実的な横浜日本一成就の雰囲気に、それぞれ当てられた、チームと記者の間に交わされる会話であった筈で、譬えるなら、契約を結び得た外車ディーラーが莞爾と「納車後の初運転は、何処へ行かれます?」と客へ問うような、互いに誇らしいものの筈だったのだが、しかし、紫桃の反応は胡乱となったのである。眉宇が寄り、口は、軽く開いたまま困ったように固まった。

 だが、再び後ろから水撃を浴びせられ、堪らずに伏せた顔を上げる頃には、上手く欣然とした表情をでっち上げており、平然と、

「そうですね。その時は、胴上げでも裸踊りでもやりますよ! あっはっは、」

 浴びせてきた下手人の三合を引っぱたきながら、「ねえキャプテン!?」と巻き込んで困らせたところで、同じく今年鮮烈なデビューを果たしたルーキー今長へ映像が移った頃に、藍葉の握る端末が強く振動した。丹菊からのメッセージである。

 通知画面から、冒頭の「寝てたら無視して」という難題な書き出しが読み取られたが、彼は素直にそれを開いた。

「寝てたら無視して。なんか、枝音の奴が普通に元気で普通に仲良くしてそうなの、ちょっとむかつく」

 私が居なくとも、という意味なのか、それとも、もうじき世界ごと横浜を破壊する気のくせにさ、という意味なのか分かりかねた藍葉は、微妙に話頭を転じた。

「紫桃、ビール掛けで、『日本一になったらどうします?』みたいにきかれて、少し困ってたよね」

 起きてんのかい、という短文の後、

「ちょっと、あれおもしろかったね。だって、あいつが日本一の美酒を味わうことは、絶対に有りえないんだからさ。私らが進出を阻止するか、それとも、世界がぶっ壊れるか」

「うん」とだけ送ってから、「確かに面白いよね。日本中へ堂々と放送された、あの一瞬の不審な渋面。意味が理解できたのは、世界で僕らだけなんだ」

「それは、確かに」と、丹菊は、浮ついた絵文字と共に送ってきてから、「つまりさ、やっぱ枝音の奴、悠々と日本シリーズへ進めるつもりなんだろうね。うん、その鼻っ柱、へし折ってやらないと。明日から、本当に宜しく頼むよ藍葉!」

 うん、という返事の後に、「それじゃ、いい加減」と、Zが斜めに三連打された絵文字を送ってから、彼は漸く寝仕度を始めた。

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