17
翌八月十二日から始まった神宮戦、彼は、丹菊には何も話さないでいた。彼女の反応が予想出来ないと言う恐れと、また、そもそも丹菊の方もその刃傷沙汰を藍葉へ明かしていなかったのだからお相子ではないか、という言い訳によって。
前半戦ではぶっちぎりのドンケツ争いを仲良くしていた東京と巨人であったが、丹菊の移籍によって巨人のみが紫桃へ太刀打ち出来るようになっていたのと、彼女の存在がそもそもチームの地力を上げたと言うことで、最早順位争いでは比較にもなっていなかった。今日も、二番に戻った彼女は、打順を弁えているかのように四球を選び、坂元の18号をツーランにさせ、乱打戦を延長からの勝利へ持ち込むのに一役買ったのである。
出番の無かった藍葉は、試合後に、ちょっと二人きりで話せる?、と、急造のサブロッカールームから出てきた丹菊を捕まえたのだが、
「悪いけど、嫌。明日にしようよ、早いんだし。」
「……早いって、何が?」
「え? だから、明日の試合がさ、」
「またナイターだけど、」
「……え? なんで? 土曜じゃん! また大学野球に譲ってんの? 臑かじりの餓鬼共なんか、夜に使わせれば、」
大学に恨みでも有るのかな、と藍葉は思いつつ、
「いや、多分、普通に暑いからだよ。」
「……あー、昨日の試合は14時からだったから、そういうの終わったと思ってた。」
「あれは東京ドームで、冷房使えたからね。」
「あ、そっか。流石に、そういうところは私よりも藍葉のが詳しいねぇ。数字とかルールの知識は負けないつもりだけど、」
「そんなことより、今日の内に話せる?」
「ええっと、……じゃあ、一緒に乗ってく?」
「……は?」
「オールスターで広島のオーナー会社がくれたデミオ。新車だから気持ち良いよ。運転するのは私じゃなくて、雇いのドライヴァーだけど、」
「ええっと、……そりゃ、僕は未だに車使ってないから、構わないけどさ、」
勝手に先導しつつ、
「そんじゃ、行こう。町田までで良い?」
「いや、全然方向違うけど、」
「ありゃ、そうだっけ。」
「せめて十日市場駅の辺りで、下ろしてもらえればマシそうかな。もっと東の方が個人的には有り難いけど、丹菊さんが遅くなっちゃうだろうし、」
「トーカ?」
藍葉は、小首を、どうやら本気で傾げている彼女へ、
「嘘でしょ? 町田駅からハマスタに通ってたら、絶対通ってたって、」
「ああ、あれか。……確かに有ったね。」丹菊は、目を悄然と伏し、「ちょっと、横浜線のことはあんま思い出したくないんだよね。諸事情でさ。」
藍葉は、こんな様子の彼女を前にして、一つ忸怩たる思いを覚えたのだった。
とにかく彼が、駐車場の
座席で待っていた運転手は、藍葉の予想を裏切って、白手袋を嵌めていたりもせず、そこら辺を歩いていそうな恰好の、しかも女性で、更に言えば、スマートフォンを弄る手を止めていない。
振り返りもせず、
「お客様? チームメイト?」
「藍葉の奏也。十日市場駅まで連れてってやって。」
あいあいさー、と呟きつつ端末を助手席へ放り出し、キーを回しかけた運転手だったが、矢庭に、肩ごと藍葉の方へ振り返った。
「アイバ、って、……あの藍葉さん!?」
暗い車内、しかもフロント硝子向こうの電燈ばかりが眩く、顔が全く見えないが、彼には何処か聞き覚えの有る声である。
戸惑う彼の横で、丹菊が「あんた、日ハム党じゃなかったっけ? 節操ない、」と呆れたように述べたことで、藍葉は漸く思い出した。
「ああ、……黄川田さん?」
黄川田は、「ん? あんたら知り合い?」と呟く丹菊を無視しつつ、「はい、お久しぶりで!」と、巫山戯て車掌のような敬礼で三角形を作ってから、「あ、取り敢えず車出しますね。 ええっと詠哩子、八日市場駅だっけ?」
「十日! 千葉かどっかの駅でしょそれ、」
「はーい。十日市場まで、諒かーい。」
いかにも手慣れていない手付きで彼女が目的地をカーナビゲーションへ登録し、漸く彼らは出発した。
「いやー、糞上司に腹立って仕事止めてやろうか、って思ってたら、ちょうど詠哩子が運転手探しているって聞いたので、これは幸いと辞表を叩きつけてですね、」
「いや、あれはビビった。いきなり傭えって聯絡してきて、いつから、って訊いたら、『今日からでも!』とか言い出すんだもん。
……藍葉さ、私が、じゃあ二種免許あんのかって聞いたら、この女なんて言ったと思う?」
「持ってない、って?」
「いや、……『何それ?』って。」
藍葉が失笑を漏らす隙に、丹菊は、未だに慣れないのか黒い前髪を気にしながら、
「だからわざわざ法律調べてさ、一応、秘書かなんかで傭ったことにすれば二種免許要らないんだって。まぁ、専属運転手って、乗せる奴と話題が合うかみたいなのが結構大きいポイントっぽいから、一応適格者なのかなぁ、って。……なんか、腑に落ちないんだけど、」
「お互いに渡りに船の、ジャストミートってことでしょ! アハハ、」
「……やっぱ、駄目かな此奴。むかつくし。」
「なんでよぉ!」
首都高への乗り様、料金を支払う為に黄川田が静かになったので、藍葉は漸く姦しさへ割り込むことが出来た。
「でさ、丹菊さん、」
「あ、そうだった。ねえ歌奈、ちょっと藍葉と真面目な話有るから、私から呼ぶまで黙っててもらえる?」
領収書をサンバイザーへ挿しながら、「ん、諒解、」と素直に返してきた黄川田を見て、藍葉は、存外に
「それで、……歌奈、首都高ってどれくらい走る?」
「ありゃ早速私に御用事? まぁ、20分位かなぁ。」
「だってさ、藍葉。それくらいで話の結着つく?」
「うん、善処する。」
藍葉は、一旦言葉を切って覚悟を決めてから、
「何の話かって言うとさ、紫桃への、対抗策なんだけど、」
「……ああ、何か思いついた?」
「ええっとさ、」
彼が続けて語った言葉を聞き、丹菊は目を瞠った。偶〻、走るデミオの窓から、流れる丹色の電燈が連続撮影のごとく間欠的に挿し込んできたことで、その表情の硬直が藍葉へ強調される。
「成る程、……成る程、」と、自分の顔下半分を摑むようにして、頬を擦る丹菊。
「勿論、簡単な話じゃないと思うし、それに、コーチや監督も説得しないといけないだろうけど、」
「そこは、どうだろ、……自分で言うのもなんだけど、私結構巨人の救世主になってるだろうから、信頼してもらえて、つまり、多少無茶な提案も通るかもと思うんだよね。
でもさ、……良く考えると、私だけでも、駄目じゃん? 藍葉、あんたはどうなのさ。そんなこと言って、聞いてもらえる訳? というか、私がどうこうと言うより、あんたの身こそ心配なんだけど、」
「僕の躰については、大丈夫。勿論、そういうところも全部覚悟したからこそ、提案しているんだ。ちゃんと、死ぬ気でやるよ。」
そうでなけりゃ、彼女に顔向けが出来ないから、という言葉を呑み込んだ彼の顔は、それなりに精悍になっており、結果、丹菊に好もしい誤解を招いた。
「まぁ、……この世界(黄川田を憚り、この言葉だけ声を潜めた)が懸かっている以上、それくらいの気概がなきゃ駄目なんだろうね。
じゃあ、あんたのことはそれでいいとして、……で、結局、そんな許可勝ち取れる訳?」
「そここそ、懸命に実績を見せるしかないんだろうね、」
「あんた、打率幾つだっけ?」
「.221。」
「……出塁率は?」
「.32位かな。」
丹菊は、歎息の後、前屈して顔を両手の中に埋めた。そこから、くぐもった声で、
「あー、一割分けてやりたい。」
「詠哩子の打率分けたら、消滅するんじゃないの?」
「五月蝿い、出塁率の話に決まっているでしょ。というか歌奈、マジで黙っててってば、」
「いや、御免。でも、一言だけお邪魔させて欲しいなぁって。」
そう黄川田が弁解したすぐ後に、首都高を快走する車は、セルリアンタワーの膝元へ突き刺さる空中回廊の下を潜った。
窓から辛うじて覗ける濁った都会の夜空が、そうやって一瞬両断された後、
「勿論、私は軟式野球がちょっと分かるだけでさ、藍葉さんや詠哩子の話について行ける訳ないんだけど、でもさ、……めっちゃ恰好良いと思うよそれ。いいじゃん、魔王に一発抵抗してやろうよ! だって、恰好良いからこそ、アンタ達プロなんでしょ!」
丹菊は、鼻で笑いつつも、
「貴重な御意見、ありがとね。」
「あー、非道い。馬鹿にしてる。」
「してるよ。……でも、真面目に、本当ありがと。なんか、踏ん切りついたかも。」
彼女は、まともに藍葉の方を見やり、
「と、とあるNPBファンは申してるしさ、うん、確かに、ピーチ姫様に絶望しているばかりじゃなくて、少しは魅せてやらなきゃ、年俸もらっている申し訳が立たないよね。
藍葉、私は覚悟決めたよ。だから、あんたも必死に宜しくね。悪いけど、容赦は出来ないんだろうからさ。」
ああ、と、藍葉が実直に頷いたところで、黄川田は軽い口笛を吹き、「ハンドル預けてなきゃ、殺してやる。」という傭い主の罵詈を賜ったのだった。
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