16・5

 彼らは一瞬顔を合わせて、若竹色の分厚い封筒を授受すると、すぐに解散して再び通話を始めた。電車内で電話を掛けていたぞ迷惑な、などというつまらない記事を書かれる訳に行かない藍葉は、タクシーを捕まえ、低声こごえで会話を続けている。

「御免、本当助かる、本当、」

 幾度となく繰り返される譫言うわごとを、藍葉が留めようとしたその瞬間に、

「藍葉君さ、視てたよ、私、君が頑張ってるの。例えば丁度あの日の君が、ハマスタで、ライトの柁谷の所へタイムリーヒット打ったの。やれば、出来るじゃん、……なんだよ、」

 この言葉を聞き始めた頃には、素直に喜ぼうとした藍葉であったが、しかし、末尾の、吐き捨てるような冷たい文句に、射貫かれて心を凍らせた。そうやってお前が初めからちゃんとしていれば、こんな目に遭わずに済んでいるのに、と、詰られているように聞こえたのである。恐らく茶畑としてはそんなつもりなど無いのだろうが、しかし、その上で尚堪らずに洩れてきた恨み言、泣き言と言うのが、藍葉には恐ろしく響いたのだった。

 意図的に無視して、

「有り難う。それで、これからどうするとか、有るの?」

「あんまり無くて、本当、逃げてばっかりだったから、」

 駅の明かりの下で一瞬窺われた、失った血の気を目袋の静脈に集めたかのような黒い隈と、困憊に濁った瞳、脂の浮いた頰、そして爆ぜたようにおどろな髪と言う、惨憺たる様だった茶畑の顔を思い出して、彼は渋面を振ってしまった。あれだけ洒脱であった、彼女が、

 藍葉は、少し居住まいを正してから、直截的な励ましや詫びの代わりに、迂遠にして神聖なそれらとして、

「じゃあ、今度こそ、お願いするよ。何かして欲しいことが思いついたら、すぐ君に頼みたい。また、聯絡する。」

 君の気持ち、もう、無下にはしない。

 そう想いを籠めて、切りかけた藍葉であったが、待った待った待った!、と茶畑に止められた。

「ちょっと待ってよ藍葉君、そっちから私へ聯絡出来ないでしょ?」

「……あ、もしかして、そっちは携帯とかも、」

「持って来てないよ! ……というか、持ってても聯絡しないでよ! 私がお縄になったら、キャリアの通話記録で君まで捕まっちゃうかもじゃん!」

「そう、……だけど、」

 藍葉は、そう曖昧に呟きながら、一つ決心した。

「明日、また夜に掛けて来て。きっと出るから。」

 ちょっと、何、という茶畑の言葉を絶つように、今度はしかと通話を切り、そして、一つ深い息をして覚悟してから、彼は次の相手へダイヤルを始めた。

 

 どうか出ないでくれないか、と、祈ってしまっている自分の巫山戯た意気地を、藍葉が情けなく思っている内に、幸か不幸か、通話は繫がった。音声は明瞭である。

「何?」

 聞こえてくる端的な一言に、たのしみと訝しみが籠もっていた。

「紫桃、さん?」

 殺し切れぬ笑い声が、漏れ聞こえてくる。

「勿論そうだけど、こんな夜中に何か用? 倅も旦那も寝てるし、今度じゃ駄目?」

「駄目なんだ、今夜でないと、」

 藍葉は、今を逃せば紫桃と対面してしまって彼女の目へ無防備かつ不作法に晒されてしまう、という切迫感に襲われ、こう吐いたのだったが、その実、明日は横浜戦ではなく東京戦であったので、この点については完全に彼の誤りであった。

 とにかく、彼の必死そうな声音に驚かされた紫桃は、緩やかにしていた気配を引き締め、

「話してみなよ、手短にね。」

 藍葉には、好戦的に引き絞られたまなじりが見えるかのようだった。

 

 滔々と、真相を語った彼へ、

「成る程、へえ。……あの女だったんだ。正直、全然気付かなかったよ。単に出禁じゃなくて、縊り殺させておくべきだったかな。あの事件のこと世間へ公開しないよう圧力掛けてもらっているから、あんま派手なことは出来なかったんだけどさ。」

「僕も今さっき、話を聞いて驚いたんだ。」

「どうだか。その言葉、信じろと?」

「何言ってるんだ、今度会えば、僕が言っていることの真偽が君にも分かるだろうし、実際今日の僕の心は、君から見て何か訝しかったか?」

 ふ、と魔王が笑う。

「そりゃ、そうだね。じゃ、多分藍葉君は素直に話してくれている、と。……で、何だって、君はこんな告げ口をしてる訳?」

「告げ口なんてとんでもない、詫びたいんだ。君と丹菊の戦いに、水を差してしまったことを。」

 こう言われ、じっと黙り込んだ紫桃は、彼女の家の冷蔵庫の唸る音や窓の軋りだけを暫く藍葉へ聞かせてから、

「こんな電話じゃ、あんたの心は見えない。でもさ、それでも、……幾ら何でも私でも、何か有るって嗅ぎ取ってるよ。何? 結局、何が言いたい訳?」

 藍葉は、唾を飲んでから、

「じゃあ、本題を切り出そう。互いに、二度とそういう馬鹿な真似はしない。正々堂々と野球で勝負する。それで、この件については手打ちにしないか。」

 言葉尻に、失笑が重なった。

「何言ってるの、そもそも私が、詠哩子に酷いことする訳ないでしょ? 彼奴の為にも、彼奴と一緒にこの下らない世界から出て行くのが目的なのに、そんなことしたら無茶苦茶じゃない。」

「でも、僕に対しては分からないだろ。」

 虚を衝かれたらしい、紫桃の言葉が詰まった隙に、

「例の事件は、僕らと君ら双方に責が有った、つまり、それぞれがあまりに不準備だったと言う、不手際の結果だったんじゃないかな。だから、今からでも紳士協定を結ぼうじゃないか。こういう、無法な真似は互いに一切しないと。」

 紫桃の家からの、何か飲み物を啜るような音の後に、

「正直、よく分かんないね。いやさ、まぁ、詠哩子にとってはこの上ないと思うよ。そんな野蛮な真似して私を下しても、この先延々続くことになる社会の爪弾きものになっちゃう訳だから、つまり打つ意味が元々ない手なんだから、禁止する利点しかない。

 でもさ、……藍葉君、じゃあ、君にはなんのメリットが有る訳? その、何だっけ、……茶畑?とかいう女のしたような、方策がただ封じられるだけじゃん。君は、この世界で大悪党になっても、一向に構わないのだから。」

「丹菊が、怒り狂うだろう。悲しむだろう。そして、僕を軽蔑するだろう。」

 これだけ、ぽつりと即答した藍葉へ、紫桃は仮借なく大笑した。魔王らしくない、ただ、素直に可笑しくて仕方ないといった、毒の無い笑い声である。

 欣然たる吃りを伴いつつ、

「そっかそっか、やっぱり君はそうなんだね。ああ、……君の、赧然たんぜんとした顔が見えるようだよ。直截ちょくせつられないのが口惜しいなぁ。」

 つい、藍葉が、バックミラーに映る自分の顔へ目をやってしまう内に、

「ま、良いんじゃない? こっちとしても悪いことは無いし。ただ、そう約束しておいて騙し討ち、ってのが怖いから、結局明日からも警固されたままで動かさせてもらうけど、というか、そうしないとAlexが心配しちゃうし、」

 アレックスって誰だ、……ああ、監督か、と悩まされた藍葉は一瞬出遅れたが、とにかく、と気を取り直し、

「というわけで、申し訳ないけど、茶畑のことも通報とかしないで欲しいんだ。と言うか正直、僕も、今の彼女の居場所は知らない。」

 すぐに何処かへ移動しろと、藍葉から申し付けてあった。

「ま、……そもそもは私がアンタらの世界もぶっ壊すって宣言したせいだったんだろうし――あの女も健気で泣けるね――、うん、今回だけは目を瞑ってあげても良いよ。金輪際、野蛮な手に訴えないと言うならね。何も約束していなかったのは、事実だし、

 それに、詠哩子だけでなくアンタに対しても、別にこっちから乱暴なことする気全く無いしね。……だって正直、悪いけど、普通にやれば負ける気がしないんだよ。」

 突き刺された藍葉へ、畳みかけるように、

「昨日の負けで、巨人、また五位に落ちたんじゃない?」

「中日も負けてくれたから、四位を保ってるよ。」

「あらぁ、」犬みたいな虚勢だね、とでも言いたげな嘲弄的な調子でそう呟いてから、「どうも、そういう計算は苦手でねえ。だって、どうせ私らの優勝で、どうせ私が打者四冠のMVPだし。」

「ああ、……そこまでは認めるよ。どうしようもない。でも、クライマックスシリーズの制覇だけは渡さないぞ。」

 ふふ、と、先程の大笑から一転、露骨な敵意の籠もった笑い声をあげてから、

「ま、精々頑張りな。大好きな詠哩子ちゃんとね。」

 おい!、と言い返そうとしたが、切られてしまった藍葉は、舌を一回打った後、じっと座席で考え始めた。晦冥かいめいの中で握ったままの端末の、懐炉のような熱が、何か彼へ勇気を与えてくれるようである。

 やるしかない。正々堂々野球で上回って、紫桃を、横浜を仕留めるしかない。その為には、

 そんな彼の思索は、もしかしてお客さん、……ウチの餓鬼が巨人のファンでしてね、後でサインもらっていいですか?、という、運転手の水差しに一旦阻まれた。

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