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 結局横浜との三連戦においては、藍葉も全て先発しつつ、二勝一敗という、前半戦の時点では願ってもなかった勝ち越しが達成された。これによって二人は、無事、鷹橋政権からの信頼を獲得し、特に八面六臂の活躍だった丹菊は、二番ライトという、古巣と同じ定位置を獲得したのである。藍葉も、「正捕手浴林」という体制を覆すまでには至らずとも、彼へ休養を与える為に先発させられたり、また、打者の勝手を知る横浜へぶつけられたりと、それなりの出場機会を得ることになった。露骨に捕手を直近の古巣へ当てるという、卑劣とも言えなくない鷹橋監督の遣り口には不評も立ったが、しかし、丹菊はともかく藍葉については横浜が勝手に巨人へ寄越してきた――ことになっている――ではないか、との論駁も立つ以上、そこまで大袈裟な問題にはなっていない。また、仮になっていたとしても、デリカシーを気にするほどの余裕など、前半戦で大敗を喫し続けてきた巨人球団には全く無いのだった。

 この間の丹菊は、普段の試合では以前のような、四球狙いの超消極姿勢を維持しつつも、対横浜においては、「私が打たなきゃ誰が打つ!」とでも言いたげな、猛烈な打棒を発揮していた。移籍後四試合目の横浜戦、八月九日に、タイムリースリーベースと第五号を右翼へ放ってからは、対横浜でのみ、坂元を押しのけて三番に座ると言う事態にまで発展するのである。

 そんな丹菊旋風の最中の八月十日、藍葉が、試合前のウォーミングアップ中、本拠地グラウンドの端で上手く二人きりになった折りに、その絶好調について彼女を問い糺すと、

「まぁ、前に枝音の奴が、『スタンドに叩き込むと一番ヒットになりやすい』みたいな、馬鹿なこと――本当に馬鹿だよ――言ってたけど、丁度あんな感じだよね。枝音は野郎連中のことを手玉に取れるんだろうけど、逆に私は、彼奴の考えるリードなんかお見通しな訳だよ。そりゃ、他が打たせてもらえない分頑張らなきゃって意味も含めて、スタンドなりフェンスなりへ叩きつけるよね。」

「ええっと、」少し不安げに、「え、つまり、もしかして逆に、今後君が紫桃に見透かされるって事も有りうるの? 彼奴のじゃなくて、そういう、仲の良さによってさ、」

「あー、そりゃ無い。全然無い。彼奴、阿呆だもん。」

「……え?」と、呆れる藍葉へ、

「阿呆、はちょっと言い過ぎたかな。でも、少なくとも無能で鈍感だよ、女相手に関してはね。ええっとさ、藍葉、弱視って言葉聞いたこと有るよね?」

 ジャクシとは、まさか蛙の子供の話ではあるまい、と思った彼は、

「目の弱い、」

「そう、その弱視。ああいうのって、まぁ勿論色々原因は有るんだけど、典型の一つが、嬰児の時に目が塞がっちゃって、それを使わないまま年月を過ぎ越しちゃう、ってパターンらしいんだよね。視力を使わない内に知性や感受性が芽生えちゃうから、そういった脳味噌の領域が馬鹿になっちゃうらしいんだ。勿論、良くは知らないけど、

 つまりさ、枝音の精神は、言ってしまえばそれなんだよ。生来、化け物じみたが使えちゃっていたから、普通の人間が使うような腹読みは全然駄目。女相手だと本当に下手で、気の毒になるくらい。だから、枝音に私が手玉に取られることは、絶対に無いよ。」

「あ、」彼は、思い出して、「そうか。紫桃って、打球処理が全くの不得手だけど、あれって、」

「そう。そもそもさ、まさに彼奴、譬えの意味だけじゃなくて、マジの弱視でもあるんだよ、同じ原因によってね。だから、送球や投球と違って意志の籠もりにくい打球は、予測が効かずに全然追えないし、増してや、女の私が転がした日には最悪だよね。あの、初戦でのバント、打球が飛んだのが右か左かも分からなかったんじゃない?」

 此処まで述べ、お喋りが長過ぎると感じて人目を憚ったのか、丹菊は、腰を人工芝へ落としてストレッチを始めた。

 藍葉は、ぺたりと自分の爪先を摑む彼女へ、

「本当に、君は魔王の天敵な訳だね。」

「さしずめ、勇者様ってこと? でも、そんな予定無かったんだろうし、なら、創造主様の考案したキャラ付けが、偶然、枝音へ嵌まったと言うことかな。本当なら敵無しのつもりだった彼奴が、男よりも膂力豊かっていう、特殊性を持った私のせいで参ってると言うことなんだろうし。」

 藍葉は、多少驚かされた。丹菊が、世界や彼女自身、そして紫桃の人工性について言及したのは、これが初めてだったのである。

 周囲を確かめてから彼がこれを指摘すると、立ち上がって上体を左右へ捻り続け、短い腕をでんでん太鼓のようにしていた彼女は、一旦止まってから、

「まぁ、馬鹿みたいでやるせない話だけどさ、でも、……目を背けてたってしょうがないからね。受け入れた、ってのは微妙に違うかも知れないけど、そうだね、……呑み込んだ、かな。開き直って、私なりに頑張るしかないよね。」

 これを聞いた藍葉は神妙な気持ちになり、このままもう少し話したいと感じたが、しかし、いい加減あんたも準備しなよ、と丹菊にたしなめられたので、仕方なく自分のウォーミングアップを始めたのだった。

 その後の肝腎の試合は、しかし、惨憺たる敗北を喫したのである。丹菊一人は一応、バックスクリーン遙か上方、天井間際に吊るされた、「TOKYO DOME」というフレーム文字の「D」の中を潜るという、歴史的な大飛球を放ったが、それ以外の彼女の打席や、或いは打者は、ことごとく抑えられてチーム二安打と言う体たらくであり、宮咲の10号と紫桃の86号による四失点で、2―4に終わった。そしてその翌日も要所を抑えられ、巨人は二連敗を喫したのである。

 ああ、……どうも、ムキになって来やがったな畜生。丹菊の対横浜――より言えば対紫桃――の成績も少しずつ悪く、或いはまともになっているし、随分魔王も攻守共に必死じゃないか、と、その夜、翌日が神宮戦の為に尋常に帰宅していた藍葉は思いながら、疲れを取ろうと寝ころんでいたのだが、ふと、スマートフォンが振動した。置いていたローテーブルの天板と共鳴して、馬鹿のように大きな音を立てている。

 引っ摑むと、公衆電話からの着信と示されていた。へぇ、公衆電話相手だとこう表示されるのか、と感心した藍葉は、一応自分も著名人の末席であるという警戒心が働いて、切ってやろうという気分になったのだが、つい、いつもの癖で受話ボタンを押してしまう。

 あ、と思った彼であったが、まぁ何かの縁かと耳へ宛てがうと、

「これ、録音してないよね? いや、私と言うより、藍葉君の為だけど、」

 女の声。送信側の性能によって酷く歪んでいるが、しかし、公の場でもないのに「藍葉」と呼んで来、更に電話など寄越してくるような女は、紫桃と敵対した以上、最早一人しか居なかった。

「茶ば

「ああ、名前呼んじゃ駄目だって! ……あ、いや、録音してないなら良いのかな、」

 藍葉は、怪訝げに顔を歪ませながら上体を起こし、

「そんなことはしてないよ。……で、何? いかにも尋常でないけど、」

「ええっと、……まず聞きたいんだけど、私のことって、何処かで噂されてる?」

 そんな大人物でもあるまい、と首を傾げながら、

「いや、全く聞かないけど、」

 安堵する歎息が、すこぶる割れて藍葉へ届き、酷く襤褸ぼろけた電話機に縋っている彼女を彼に想像させた。

「ああ、良かった。いや、私と言うか、藍葉君が心配でさ、」

「それさっきも聞いたけど、……なんなの?」

 息を飲むような、間が置かれてから、

「藍葉君、私の話、録音もそうだけど、他言も絶対にしないでよね。」

「そりゃ、うん。君以上に護らねばならない人間なんて、このに居ないさ。」

 藍葉としては、気障きざを働くつもりなど毛頭無く、当然なことを自然に言ったまでであった。故郷世界における仕事の相棒である彼女よりも、大切な者など、こんな人口世界に居る訳が無いのだ。……居る、訳が、

 あの日、カラオケボックスで紫桃から浴びた揶揄を矢庭に思い出し、それに喚起され、丹菊の、悔しげなものや欣しげなものまで、様々な表情を脳裡へ泛かべてしまった彼であったが、茶畑が続けて放った一言によって、一挙に現実へ引き戻された。

「私さ、あのさ、……紫桃を刺し損ねたんだよね、町田で、」

 はぁ!?、と叫んだ、彼の冷静さは、同時に聞こえて来ていた、硬貨が電話機へ投ぜられる音によって、辛うじて吹き飛ばされずに済んでいた。ふるえる手で銅貨を取り上げる彼女の様子が想像され、庇護せねばと言う義務感が生じたのである。

「冗談じゃないよね、それ、」

「うん。マジ、なんだ。……御免、最悪だった。余計なことした上で、失敗してさ、」

 藍葉は、丹菊が突然電車通勤をやめていたのを思い出し、

「それって、先月の二十二日?」

「ええっと、よく分かんないけど、」

「僕や丹菊が、巨人から初出場した日、」

「ああ、うんそれ。後半戦の凄く最初の試合、」

 成る程な、と、藍葉は一つ腑に落としていた。一度兇徒に襲われたというのであれば、幾ら豁達たる紫桃でも、暢気に友人と電車移動などしている場合ではあるまい。パーフェクトで取得している月間MVP――七月だけは三合と分けあったが――や、オールスターの賞金も入った頃であったろうし、今や安全に、護衛を付けてのハイヤーか何かで動いているのではあるまいか?

 そこまで考えて、こんなことは今はどうでも良いと反省した藍葉は、首を振ってから、

「具体的に、何したのさ、」

「ええっと、駅の入り口で、と初め思ったんだけど、よくよく考えたら使う入り口なんか気分や用事で変えるかも知れないし、だって一人じゃなくて丹菊と一緒なんだしさ、ああ、どうせなら二日前にでもしておけば紫桃も一人だったのに、ああええっと、それでさ、横浜線の、一番二番線のフォームで待ちかまえることにしてさ、でさ、ドキドキ、心臓の大きさも鼓動もその頻度も何倍にもなったような気分で椅子に座って待っていたらさ、紫桃が、丹菊を連れ立って、目の前を通過して行ってさ、フォームの端に立ってさ、私、膝も手もがくがくに慄えてたんだけど、でもさ、すぐに、いやもしかしたら時間目茶苦茶経っていたかもしれないけど、とにかく、電車が入って来ますみたいな機械的なアナウンスが聞こえてきてさ、その新聞紙みたいに乾いた機械音声にさ、私、ああ、急がなきゃ、今しかない、みたいな気分になっちゃって、馬鹿みたいだよね、寧ろ、フォームドアも無いんだから、電車が入ってくる瞬間こそが絶好だったろうに、そこで一押ししてやれば良かっただけなのに、何か私間違えちゃって、何故だか、それまでに刺してやらないと間に合わないと思っちゃって、馬鹿だよねほんと、何か、折角持ち込んだんだから、この庖丁で刺さないと、何もかも台無しになるみたいな、駄目になっちゃうみたいな、後から考えると本当に意味分かんないんだけど、でもとにかくそう思っちゃって、何か神性を見出したのかな、ええっと、それで、それでさ、思わず唸りながら突っ込んだら――だってそうやって振り向かせないと、腹を刺せないと思って――、旨いこと紫桃は顔面蒼白になって、私からすら素人同然――というか素人だろうけど――に見える、ふためいた様子、無意味に両腕を持ち上げて寧ろお腹ががら空きになってくれたんだけど、やっぱりあれかな、傍目八目じゃないけど、当事者じゃない方が必死になれるのかな、とにかく丹菊の方にさ、手鞄を叩きつけられて、手鞄と言っても、バットとかの野球道具入ってただろうから目茶苦茶にでかくて重くて、私思いっきり吹っ飛ばされて、堪らずに手から離れた庖丁が、フリスビーみたいに回りながら、鏘然しょうぜんと転がって行って、それで、甲高い悲鳴が、何も関係ないくせにそっちの方の女から聞こえてきて、腰を抜かした紫桃の横から飛び出るように、鬼みたいな鬼気というか、凄い――凄みって意味で――顔と声の丹菊が、こっちに飛びかかってきて、私、必死に立ち上がり様、多分叫んでいたと思うんだけど、とにかくさ、鞄を必死に蹴っ飛ばして、丹菊にぶつけ直してさ、そうやって少しは怯んでもらった隙に、必死に階段昇って、駅員が追っかけてくる中を、足も痛い中さ、必死にさ、そうしてさ、映画みたいに改札を飛び越えてさ、その後も必死に、それから、ああ、どうしたっけ、」

「分かった、そこまでで良いよ。」

 藍葉は、錯乱至極な彼女の語りを聞きながら、自分を恥じていた。自分が腑抜けだったばかりに、相棒の茶畑にそんな真似をさせてしまい、それだけならまだしも――何せ世界盆栽の中でいくら罪を働こうが、帰還後にはどうでもよい話なのだから――、どうやらその後、彼女を一人で苦しめ続けてしまったらしいのである。

 しかし、何故茶畑は今日の今日まで一人で、と、まで考えた藍葉が、気が付き、背筋に冷たいものを感じていると、再びの投銭音に続いて、

「御免よぉ、藍葉君、君に聞かせちゃったよぉ。君さ、紫桃と、……あの、魔王と対面しなきゃいけないのにさ、聞かせちゃったよ。これでさ、私のせいで君までお縄についたら、今度こそお終いなのに。或いはさ、紫桃が丹菊にちょっと告げ口するだけでも、終わっちゃうのに、だって、紫桃を謀殺しかけた奴なんかと必死に努力するくらいなら、彼奴と一緒に新しい世界へ旅立った方が楽だし真っ当だろう、ってなっちゃうかもだし、

 でもさ、……御免、本当にもう辛くてさ、本当、お金ももう無くてさ、だってアレ以来家にも、と言うか都内にも帰れてないし、ATMも怖くて使えなくて、」

 藍葉は、慌てて茶畑のしどろな言葉を差し止めた。そんな文無しの情況だと言うのならば、だらだら硬貨を追加して話している内に通話すら不可能になってしまうという事態が、真剣に懸念されたのである。

「今何処?」

「ええっと、荒川の川向こう、」

「南埼玉?」

「うん、」

 藍葉は、最近のコンビニは幾らまで下ろせるのだろうな、と心配しながら身支度をしつつ、

「もう少し、詳しい場所教えて。今からお金持ってく!」

 歔欷きょきに溺れたような茶畑の語る、礼の言葉と所在を聞きつつ、彼は夜の町を横浜駅まで、アスリートの脚で疾走した。

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