15

 茶畑との訣別の翌日に行われた公式戦にて、藍葉は丹菊と共に巨人戦士としてデビューすることになっていたのだが、何の因果か、彼も言及していたように、よりにもよってこの日は横浜主催戦であった。誰かが一丁企んだか、と、当初は訝しんだ藍葉であったが、ルール上、丹菊をなるべく早く活用しようとするとこの日になるよな、と、その後カレンダーとにらめっこして結論づけている。

 彼が呆れたことに、この日に至っても、紫桃と丹菊は町田駅から一緒に球場へ来るのだという。「なんで??」とメッセージで訊ねた彼は、「逆になんで駄目なの???」と紫桃に問い返され、それ以上は馬鹿らしくなり取り合っていない。

 つまり、御苦労なことに、丹菊はホームチームの紫桃に付き合って凄まじく早入りするのだな、と、彼はどうでもよいことを漫ろに思いつつ、そうやって昨夜のことや今日の試合への緊張を麻痺させながら、関内駅からのんびり横浜スタジアムへ歩いていたのだが、その最中にふと、周囲が少々騒がしくなったのに気が付いた。

 この感覚、懐かしいな、と、まず直感した彼であったが、何故これが懐かしく思われるのだろうかと暫し苦しみ、漸く、ああ、新人の頃の思い出のせいかと、思い当たったのだった。つまり、自分の名前が今よりもずっと世に知られていた時の、遠巻きに騒つかれた経験。そうかさては、トレードのせいでまた自分の名前が少しは有名になったのか。こんな情けない話題性でもちゃんと利用して、精々、試合に出られるよう励まなければな、

 などと、最早一般の野球選手のようなことを考え始めていた彼であったが、十歩も進まぬ内に、違和感を見出した。横浜スタジアムへ近づくにつれ、この遠巻きな騒めきが、何故か段々と大きくなってくるのである。球場へ近づいていると言ったって、試合開始どころか開場時間も遙か先であるのだから、寧ろ、駅から離れて人が少なくなるばかりである筈なのに、何故だろう、

 げ、と、気付いた彼がつい声を漏らす。一人で歩き進んでいた彼は、謀らずも、先行する二人に追いついてしまったのだ。騒めきの本当の原因、対照的な背丈を持つ、セリーグに咲く二輪の烈女。

 聞き咎めた丹菊が怪訝げに振り返ると、藍葉の姿に気付いて、紫桃を促しつつ彼の方へ駈け寄って来る。藍葉は、苦笑しつつ手を上げて応じながら、なんだよどうせ横断歩道で追いつくだろ、とか、何でこの時間に紫桃がまだ球場入りしていないんだ、など、不思議がっていたが、それらの疑問は、丹菊に取っ摑まれて霧消した。

「あんたねぇ! ちょっと!」

 摑まれるというより、飛び付かれるまま首を絞められる勢いになった彼は、なに、ちょっと、……人目! とだけ何とか呻くも、丹菊は尚も昂奮して藍葉を手放さない。

 追いついてきた紫桃が、

「詠哩子、ストップストップストップ! マジ、見られてるから!」

 そう宥められつつ、引き剥がされると、彼女は漸く手を下ろしたが、しかし、そのまま機敏に藍葉の背の方へ回り、自分の腕を懸命に持ち上げつつ、彼の上膊を摑んで拘束した。

 絞り上げられるような膂力によって呻き声が出そうになるのを必死に我慢する彼と対照的に、丹菊は、犬のような唸りを、洩れる儘に藍葉へ浴びせている。

「枝音!」嚙みつくように、「どう?」

 そう呼ばれて、塁審のように姿勢を下げつつ、じっと藍葉を睨んだ紫桃であったが、すぐに元通り立ち上がり、目を閉じて首を振った。無意味に額へ指先を当てる仕草が、様になっている。

「関係ないみたい、離してやんな。」

「そ、」丹菊は、少しだけ悪怯れながら、「騒がせて御免ね、藍葉。それじゃ、魔王様の本丸に行こっか。」

「別に、詠哩子、あんたこないだまでしょっちゅう来てたでしょ。」

「でも、藍葉は全然来られてなかったし?」

「……あ、そっか。あのオールスターが、相当久々な本拠地だったんだ。私にポジション争いで負けたせいだからって、可哀想に、」

「なんか、一言多いよね。」

「何か困るの?」

「まぁ、全く、」

 公衆の場で大騒ぎに巻き込んできたくせに、そうやって平然と向かい始めた二人へ、藍葉は追いつきつつ、

「えっと、訊きたいことは山程有るけど、」

「却下。」と丹菊。

「……何がさ、」

「多分、答えらんない。唯一答えられそうなことだけ言っておくと、枝音の大遅刻は、横浜に伝わってる筈だから大丈夫だよ。

 そんなことよりも、藍葉、この大魔王様をどうにかする方法は考えついているの?」

「……無いことは無いけど、でも、知恵を絞っても筒抜けだしなぁ、」

 これを聞いた紫桃が、どれどれ、と口に出しつつ、露骨に藍葉の顔を見やり、そして勢い良く噴き出した。

「ま。それで行けると思うなら、良いんじゃない?」

 そう笑いつつ、横浜スタジアムの威容を臨む横断歩道を渡る紫桃の横で、丹菊の空気が僅かにぴりつくのに、藍葉は何とか気付くことが出来た。和気靄々とはしていても、やはり彼女は、魔王との戦いを志した戦士なのだと、同志に離れられてしまったばかりの彼は言いようの無い頼もしさを感じつつ、球場へと向かって行く。

 

 まだ辛うじて明るい、定刻18時に始まったナイターにて、藍葉と丹菊はさっそく先発メンバーに選ばれていた。六番右翼丹菊と、七番捕手藍葉。最近スタメンに固まりつつあった橋元を追いやり、蝶野をセンターに回させてまでの出場機会を、移籍初日ぶっつけ本番で得た丹菊と異なり、横浜戦だからこそ緊急出動した感のある藍葉は、エース須賀野に勝利を上げさせねば一挙に信頼を失いかねない崖っぷちと見るのが自然だった。逆に言えば、今年ここまで異常に掩護えんご点を得られていない須賀野の、貴重な勝ち星追加が成就すれば、藍葉にとっても有り難いアピールとなる筈である。

 そんな須賀野―藍葉のバッテリーのデビューは、初回裏、横浜の核弾頭柁谷に続き、名手宮咲みやざきをも無事打ち取って、取り敢えず安心という風情となる筈だったのだが、

「三番、キャッチャー、……シオン、シトーウ!」

 朗々とDJに紹介され、魔王が静々と打席へ向かってくる。ラミーロも喰わせ者だよな、と、藍葉は思った。何も固まり切っていない、巨人軍として初出場する捕手の初回に、この化け物を確実にぶつける打順を組んで来たのだから。

 今日は、去るオールスターにて、結局三本どころか四本の本塁打を放ってMVPを獲得したばかりの紫桃の凱旋試合でもあり、よって、走者が居ないことが信じられぬほどに、ライトスタンドの応援は大盛り上がりとなっている。

 打撃ばかりは真面目に集中するのか、それともそう演じているだけなのか、紫桃は藍葉を揶揄うことも無く、いつも通り、す、とバットを捧げるだけで硬直しつつ、まっすぐ投手を睨み付け始めた。巨人の、押しも押されもしない筈だったエース須賀野が、今日こそ、大魔王に刃向かいうるかという対決。

 ……そう、なる筈であったが、

 「カモン、カモン、シ・オ・ン!」という、右翼からの大声援を無視するように、藍葉は、無感情なリードを繰り広げた。初球ボール、第二球ボール、第三球ボール、第四球ボール。いずれも極端な外角に為した要求へ、須賀野の制球力と球威が遺憾なく発揮され、美事ストレートのフォアボールとなる。

 紫桃は、ボールボーイへ、勃起のようにぴょこんとバットを差し出しながら、「ま、勿論それでは抑えられるだろうけど、……そんな弱腰で、勝てると良いね。」

 藍葉は、横浜に精通する者として、試合前に首脳陣や須賀野へ白状していた。紫桃を抑える手段は、無い。そもそももしかすると、実はNPBの投手は全員魔王の掌の上であり、彼女が、――毎打席本塁打では遊んでもらえなくなってしまうので、仕方なく――気分や試合の情況次第で打ったり打たなかったりしているだけなのでは、という、深刻な疑懼ぎくまでは、流石に明かさなかったが。

 そこで彼は、大手を振ってとは言い過ぎにしても、堂々と紫桃との勝負を避けることが出来ていたのだが、当然、これは諸刃の刃でもある。

 二死一塁で迎える、四番三合。ただでさえここ最近異常に調子が上向いているのに、この’16年七月に、16発、打率.43、出塁率.53という、紫桃に比肩する月間成績を叩き出すことになるのだと知ってしまっている藍葉にとっては、一人の走者すら大問題となる難敵であった。

 幸い、弱点は分かっている。速球。しかし、以前までの周回においても、この神がかった時期の三合は、須賀野の、セリーグで最高と言って過言でないストレートすら、スタンドへ叩き込んでいた筈であり、少しでも、甘く入ってしまえば、

 そう逃げ腰になっていた藍葉が、ついボールを先行させてしまう内に、紫桃がスタートを切る。捕球してから、反射的に二塁へ投じかけた彼であったが、すぐに思い直して単に須賀野へ返球するに留めた。成功率十割の女だ。どうせ、無駄だろう。

 二塁から、帆立の貝殻のように広げた両の素手を、声の通り道として口許に立てた紫桃が野次ってくる。

「キャッチャーびびってる、へいへいへい!」

 投手ではなく捕手を揶揄うのは奇妙であるが、先日まで同じチームでポジションを――一応――競っていたという事実によってこれを糊塗しつつ、紫桃は、効率的に藍葉へプレッシャーを掛けようとしていた。彼も、こんなものに負けてなるものかはとは思うのだが、魁偉なる三合の堂々たる打撃フォームと、例の驚異的な月間成績が脳裡に浮んでしまい、弱腰となり、結局、ここでも四球を出させてしまう。

 ええい、二死二塁から一人歩かせても何も変わらん、と、自分を鼓舞する為に意図的に誤った彼は、なんとか五番ラペスへはそれなりの積極性を復活させ、ぽんぽんと須賀野に追いつめさせてから、続いて三球目の、臭い外角球を振らせることに成功した。ラペスはカットのつもりだったのかも知れないが、右翼方向へ上がった打球は存外逸れず、狭いファールゾーンの中でどうにか丹菊に捕球される。チェンジ。

 引き上げてくる野手陣を見やりつつ、はぁ、と息を吐いた彼は、どん、と軽く背中を押された。振り返ると、二死故に真面目に本塁まで走って来ていたらしい紫桃が、

「ま、やるじゃん、とは言っておこうかな。……無安打のイニングを、一個抑えただけだけどね。」

 二人はすぐに別れてそれぞれのベンチへ戻って行ったが、藍葉は、この言葉に肘打たれて足許が覚束なかった。そう、一回裏を、凌いだだけである。更にあと、三度か四度、紫桃・三合の並びを対処せねばならないというのか? 紫桃の言うように安打無しでも今のような息も絶え絶えだったのに、いざ浴びてしまったら、堪え切られるのか?

 二回表、巨人の攻撃は、五番阿辺が三振に斃れての一死無走者で丹菊の出番となった。七番藍葉は、次打者円の中で、今日の石多は馬鹿に調子が良いなと感じている。

「さあ来い石多ぁ!」と、元気に叫んでから、丹菊がいつもの、ワンストライクまでのフォーム、極端なクローズドに構えると、紫桃はすぐにサインを出した。「打たれてもどうせ私が取り返すんだから、がたがた文句抜かすな。」という旨を鄭重にした言葉で説得するという、他の誰にも真似出来ない方法で投手から信頼を得ているのだと語る彼女のサインは、やはり一発で頷かれ、石多の左腕が揚々と振られる。

 直後、丹菊がバットを寝かせた。

「バァント!」と内野の誰か――男なので紫桃ではない――が叫ぶ中、丹菊は、小フライを打ち上げてしまう。

 しかし、その着地点は、キャッチャー目前。

 紫桃は、何か悪態をきながら、見当違いな方向へミットを差し出しつつ前のめり、そのまま虚空へと飛び込んだ。べちょ、とでも擬音が付されそうな不様な彼女に代わって、石多が球を拾うが、彼が構える頃には、既に丹菊が一塁上で短いレガースを外していたのである。

 藍葉は、遅れて理解した。そうか、わざとか。打者や壁としての比類なき能力に反し、打球処理の技術だけは全く覚束ない紫桃を攻める為に、丹菊は、意図的に、捕手に責任が発生するフェア打球を、

 ……しかし、幾ら何でも今の紫桃は下手過ぎないか? まるで、ロクに球が見えていないかのような、

 そんなことを考えつつ、一塁スタンドからのブーイングへ余裕で手を振り返す丹菊を眺めていた彼であったが、ウグイス嬢にコールされたので仕方なく打席へと向かい始めた。道中、今年指定していた登場曲は結局一度も聞けなかったな、と思いながら、バットを二度素振ってみる。

 打席へ踏み入りながら、「弘法にも筆の誤り、かな。」と、聞こえるように零す彼へ、「五月蝿えゾ。」と、軽く返して来ながら、紫桃がサインを送る。藍葉は、勿論これを窺う訳には行かないが、とにかく自分の心中は筒抜けなのだから、特に絞らず、泰然と来た球を打つしか有るまい、と、仕方なしに構えるのだが、

「そんなことが出来りゃ、君は今頃一流選手だよ。」

 ぎょっとする間に、インコースへ直球が決まった。ストライク。藍葉は、右打席から、つい紫桃の方を顧みてしまう。読心自体には今更驚かないが、しかし、そんなことを口走って、例えば、球審にでも聞かれたらどうするのだ?

 紫桃が、顎で前を示し、

「何か用? 早くあっち向いてよ、サイン出せないじゃん。」

 藍葉は、仕方なく前を向いたが、

「ま、つまりさ、詠哩子にすら重力波を送り付けて理解させられたんだから、当然、君にも出来る訳だよね。」

 これをて、漸く藍葉は思い出した。今自分が浴びているは、音波ではない。恐らく、指向性を持った、この世界では本来描写し切れぬ高次元の信号が、自分へ浴びせられており、結果、三次元の肉体や機能しか持たないこの身の中では、殆ど全ての次元が捨象され、唯一の残った何かの次元が、単純な縦波として音波の如く自分へ響いたのだろう。彼は、正しいかはともかく、そう想像するしかなかった。

「遠からずだね、うん。」

 尚も信号を送って来ながら、紫桃は第二球を要求していた。そうして投ぜられたバックドア――外角からストライクゾーンを掠め抜けようとする変化球――に、動揺していた藍葉は全く反応出来ず、ツーストライクとなったのだが、ここで、紫桃が大童で立ち上がる。丹菊が、スタートを切っていた。

 そのまま送球されるが、しかし、準備していなかった紫桃の、弱肩は、惜しくも何ともなく、丹菊を讚える歓声が沸いた頃に漸く二塁へ到達した。「くぅ、」という、素直なものらしい魔王の呻きが藍葉にも聞こえる。

 藍葉の、期待以上だった。球界で唯一、紫桃に心を読まれ得ない丹菊は、打撃でも走塁でも、魔王を完全に手玉に取ることに成功している。よし、こうして揺らいだ扇の要を攻め立てて、一挙に先制点を、と昂ぶった彼であったが、次打者叢田と合わせ、綽々と三振に切って取られたのだった。

 チェンジとなり、急いでよろい始める彼へ、丹菊が近づいて来るに、

「やばいね、枝音の奴、目茶苦茶必死になってるっぽい。普段は手加減しているんだろうけど、でも、今日は本気だ。」

「うん、……ちょっとでも色気を出すと、多分スタンドへ持ってかれるね。」

「というかさ、寧ろ、守備なんだよね。いつも彼奴、相手に、ある程度はわざと打たせてやってるらしいんだけど、でも、今日はヤバいよ。私が止まらない分、残りの打者全員完璧に抑えるつもりかも知れない。……石多が、魔王のリードを台無しにするくらいへぼな所に投げてくれればいいんだけど、期待出来る気はしないなぁ。」

 こんな丹菊の危惧は的中し、らしからぬといっては失礼にせよ、しかし石多は快刀乱麻のあまりに素晴らしいピッチングを繰り広げた。三回表の巨人の攻撃は、九番一番二番と三者連続三振となり、藍葉から続いての五連続奪三振を披露されたのである。

 だが、四回表、気分が良くて飛ばし過ぎたのか、突然石多の制球が定まらなくなり、坂元・蝶野と四球で出してしまう。これを見て藍葉らは喜んだのだが、しかし、直後マウンドへ向かった紫桃が、何か彼へ囁いた挙句、頼んだぞ、と語るように石多の胸の辺りを一つ突いて帰ってくると、阿辺へは一転安定した投球となり、内野への凡フライが虚しく揚がったのだった。

 さては、その神なる目で、石多の抱えた動揺の内容を上手く捉えて鎮めたのか。もしもそうだとすると、投手の鼓舞も一流か、と呆れている藍葉の向こうで、再び丹菊が打席へ入る。元気に迸る、「さぁ来いや石多ぁ!」の声。

 が、紫桃はサインを出さず、左方へ首を曲げ、何か丹菊に文句を言っている風情だった。彼女は大きな声で、「さあね!」と叫び返して、バットを構えたままである。……そう、紫桃は、へ向かされていた。

 突然打席に入った丹菊に、球場がどよめき、横浜内野陣も怪訝げに顔を歪める。なんだ、おい。あいつこの一週間で、両打ちを習得したのか? 確かに石多は左投げだが、

 首を傾げながら、紫桃がとにかく第一球を要求すると、丹菊は、喰い込んでくるスライダーを、身を捩らせつつ、しかし余裕げに見送った。そして、何か紫桃へ向かって言葉を掛けると、地面に置いていた方のバットもひょいと拾って、いつもの左打席へと移って行く。

 この奇行に、紫桃は明らかに苛立っていた。しゃがんだまま、首を曲げて天を見上げるようにし、それから漸くサインをマウンドへ送る。藍葉からだけは、二走者を背負って唯一の天敵を打席に迎えたという情況なのに、訳の分からない揺さぶりをかけられて窮しつつある、紫桃の気苦労が瞭然としていた。この正念場で彼女は、普段の男との対戦に比べ、殆ど盲いているのである。

 さて、丹菊が満塁にしてくれれば、自分でも打点くらい挙げられるだろうかな。などと彼が思う前で投ぜられた、石多のカーヴボールは、しかし、彼女によって、完璧に振り抜かれた。

 号令の掛かったように皆が見上げる、ライト方向、絶望的な高度で夕闇を翔りて行く白球は、鳩サブレの看板の、幾らか上を消えて行った。

 打席から一歩も動いていなかった丹菊が、蛇のようにするりと手を伸ばして石多を指しつつ、漸く駈け始める。第三号場外スリーラン。見惚れていた藍葉がちらと振り返ると、三塁側ダグアウトは、煮立てたような歓喜で騒がしい。

 生還者らを出迎える為に打席の方へ向かったところで、彼は、殆ど立ち並んだ紫桃の、何かを嚥下してから酷い苦味に気付いたような顔を認めた。

「糞、」

 普段の、打たれようが見逃し三振を喫しようが飄然としている彼女が嘘のような、苦患くげんの滲み出ている顰みに目を奪われ掛けた藍葉は、主将の坂元を出迎え損ねて彼に揶揄われる。

 最後に帰ってきた丹菊は、藍葉とタッチした後、そのまま欣然と、紫桃の方へも手を伸ばして見せたが、これは流石に𠮟𠮟しっしっあしらわれ、肩を竦めてベンチへ祝われに向かって行った。3―0。


 追いつめられた紫桃は、リードを得た故に流石に勝負せざるを得なくなった藍葉らから、仮借なく二打席連続弾を放ってみせ、また、絶好調の三合も案の定一発放ち、横浜は、これら花火三発によって猛追を為した。

 しかし、その間に、三巡目の藍葉がどうにか右中間へ運んだ山なりのヒットによって、三度目の出塁を果たしていた丹菊が生還していており、また守備面でも、彼と須賀野が死ぬ気で宮咲・柁谷だけは討ち取ったことで、横浜の三本塁打を全てソロに留めていたのである。こうして巨人は、とうとう、4―3で、今年初めて横浜からの勝利を得たのだった。爆発する歓喜。

 全得点に絡み、当然にヒーローインタヴューへ立たされた丹菊は、歓呼も罵声も綯い交ぜに浴びせ掛けてくる、右翼や一塁側のスタンドをちらちら見ては、苦笑する有り様だったが、

「そうですね。横浜ファンの方々にも応援して頂きたい気持ちは、勿論有りますけど、しかし、直接の対戦時くらいは、逆に恨まれるくらい、嫌われるくらいでなければと思ってますので、まぁ、ある種今日は完璧だったのかなと思います。

 あとはまぁ、――御覧になっていた方も少なくないでしょうが――枝音の奴に、『二度とハマスタ看板直撃は打たせん』みたいなこと言われていましたので、その上を超えて行く場外弾を撃ってやれたのは、よい意趣返しになりましたかね、」

 その夜の紫桃は、このインタビューの映像を貼り付けつつ、「許さねえこの女」とTwitterで発言してから、いつものように丹菊とそのままじゃれあって世を和ませた。藍葉も、この睦まじさを見て、明日も二人は電車で一緒にやって来るんだろうなぁと、呆れながら就寝仕度をしたのである。

 

 しかし翌日、実際の丹菊はタクシーで、しかも、一人で現れた。あれ、と、表で出会した藍葉に訊ねられると、彼女は目を合わせようとせずに、

「んー。電車で来るの、いい加減止めようと思ってさ。免許持ってないからひとまずタクシーで、その内どうにかする。」

 藍葉は、少し躊躇ってから、

「ええっと、……隠し事の香りがするんだけど、僕にも言えないこと?」

 どうせ紫桃とは共有しているくせにさ、と、そこはかとない不満を彼は漂わせたが、丹菊は、困ったような顔を、やや悲しげに歪め、

「御免。これだけは、ちょっと話せない。」

 彼女の放った湿り気の有る言葉に、真剣なものを見出した藍葉は、ただ、出来る限り誠実に見えるように頷いた。

「分かった、此方こそ御免。今日も、勝てるように頑張ろう。」

 藍葉としては単に、話題を強引に切り替えようとしただけであったが、聞いた方の丹菊は、点燈したように明るくなり、

「そっか、……『今日』、なんだよね。私、勝ったんだよね枝音に。なんか、嘘みたいと言うか、夢みたいで、覚束ないんだけど、」

 藍葉は、気取りげに両腕を広げつつ、

「困るよ、そんなんじゃ。僕らは、一試合とかじゃなくて後半戦通して、紫桃に、或いは横浜に、勝ち続けないといけないんだからさ。」

「そう、だよね。……うん、気合入れてくよ藍葉ぁ!」

 そう吠えた彼女が手を挙げたので、藍葉はハイタッチに応じたが、昨夜の本塁打の時と違って丹菊の全力が籠もっていたので、高い音と彼の悲鳴とが横浜公園に迸った。

 詫びられつつ球場内へ向かった彼は、意気に溢れて寧ろ丹菊を励ましてしまった自分を顧みながら、今の自分なら彼女を幻滅させることも無かったかな、と、本当に音信不通となってしまっている茶畑の事を想っていた。今どうしているのかは知らないが、しかし、見ていてくれ。丹菊と共に、どうにか、僕は紫桃と渡りあうことが出来つつあるぞ、と。

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