13・5

「しかし、そうなんだ。ふぅん。この世界は夥しい回数の周回を為していて、藍葉君は前世を記憶出来るけど、私は出来ていない、と。……私の次元が多すぎるのが、いけないのかな。」

「お前、……なんだ、お前もへ、没入して来ているんじゃないのか?」

「んーん、全然。」

 じゃあ、まさか、この世界で自然に発生して?

「そんな訳無いでしょ。三次元人が、二次元的な性格の物――絵とか図面とか――を作れても、高次元については想像することすら能わないのと同じで、この、三次元の世界が、十二次元の存在なんか生む訳ないじゃん。」

 だとすると、……クリエイターが、敢えてこの世界へ埋め込んだ?

「さっきよりは近いね、大分惜しい。その、『敢えて』っていう余計な言葉が無ければ、及第点は上げても良かったかな。」

 藍葉は、再び思考を先取りするようになった紫桃の態度に、不服を表明するかのように、得られた霊感をそのまま口から発した。

「そうか、つまり紫桃さん、お前は、クリエイターによって誤って埋め込まれた、バグのようなものなんだな?」

 彼は、得心していた。練達の世界盆栽職人が、どうして、異能の撞着による破綻などという、初歩的で巨大な瑕瑾かきんを世界に埋め込んでしまったのか、という、彼らを悩まし続けた謎。分かってしまえば、実に単純だった。この紫桃は、作意上、本来存在していない筈の人物であり、本当にこの世界で繰り広げられる筈の物語は、横浜丹菊と楽天黒瀬の決戦が起こり、そして黒瀬が制するという、比較的単純な筋書きだったのだ。そして、横浜ばかり戦力が異常に強化されているという、アンバランスも、この紫桃の存在がイレギュラーなのであれば、完全に納得出来る。そもそもクリエイターは、そんな事態など望んでおらず、ぎりぎり日本シリーズに進出させる為の戦力としての、丹菊だけを横浜へ加えるつもりで、

 紫桃は、中指で自分の顳顬を、時を刻むかのように何度か叩きながら、

「バグ、……か。」そして手を下ろし、「当たらずも遠からず、って気がするね。いやさ、藍葉君の使う『世界盆栽』って言葉に倣うならば、私はどちらかというと、『病原体』だよ。或いは、悪霊かもね。」

 彼女は、遠い、しかし、油断ならない目を引き絞って、

「未だに、原初的な記憶として憶えているんだ。工房に私が発生したことで周章したが、まるで塵紙で咄嗟に蜚蠊を包み摑むみたいにさ、手近な三次元世界に、私を挟み封じたこと。そして、そのまま、ぐるぐるっと丸めてポイ、だ。

 てっきりそのまま私は、凍りついた三次元掌世界に閉じこめられて終わりだと思ったんだけど、……不思議なことも、有るものだよね。世界は、ちゃんと動き出したんだよ。まぁ、それが何百何千、或いはそれ以上繰り返されているらしいのに、最後の一回しか憶えていないというのは、ちょっと間抜けな話だけどもさ。」

 すっかり曲が終わり、静かになった部屋の中でこの会話は行われていた訳だが、その結果、丹菊はぽかんとおいて行かれていた。所在なさげに目を屡叩いて、マイクをぎゅっと握ったまま見している。

「あれ、えっと、……二人とも何の話、」

 丹菊も知らされていなかったのか、と思う藍葉へ、

「当たり前でしょ。詠哩子は恐らく、この世界元来の主人公であり、純然たる三次元の存在。なら、私の本当の正体なんて、話してもしょうがないじゃん。……でも、まぁ、」

 紫桃は丹菊の方へ歩み寄ると、そのまま、彼女の頭を鷲摑んだ。

「ちょっと、いきなりなに、」

 当然の当惑。

「御免ね詠哩子、」優しげな声で、「本当はとっくり叮嚀に言葉で説明してあげたいんだけど、……ちょっと、あまりにも長くなりそうだからさ。」

 そう呟くと、紫桃は、丹菊を右手から解放しつつ、弾けるように仰け反った。恰も、彼女の頭を吹き飛ばした反動で身を傾がせたかのように見えた、藍葉は、思わず目を逸らしたが、

「お馬鹿。……大好きな詠哩子に、私がそんな酷いことする訳ないでしょ。さっさと目を開けな。」

 促された彼が、怖々視界を得ると、五体満足ながらも顔を伏して蹌踉よろめいている丹菊を、駈け寄ったらしい紫桃が支えてやっているところだった。

「よしよし、……御免ね。暫くしたら落ち着くと思うから、休んでな。」

 そう言い聞かせながら、彼女を、カラオケボックスの張りが強過ぎる椅子へ座らせる、紫桃の背へ、

「何を、した?」

 こう、わざわざ彼が口にしたのにも拘らず、紫桃は振り返って、藍葉のことを良くてから、

「重力波で圧縮言語を叩き込んだ、……この説明、通じる?」

 今度は、藍葉が頷く前に、

「そ、良かった。での君はこう言うわざ出来ないみたいだけど、私は御覧の通り自在だから、情況に応じて使ってあげられるよ。……まぁ、君や詠哩子にしか使う訳に行かないのに、今後は敵同士なのだから、機会は少なそうだけどね。」

 彼は、紫桃の説明を受け、丹菊については安堵していた。実際、紫桃が丹菊を傷つけることは考えにくいように思われたし、彼女の説明が誠実ならば、藍葉や紫桃の情報に関する、超絶密度超絶効率の教育――或いは情報注入――を施したというだけで、一発ならば大事には至らないだろう。頭痛くらいは、起こってしまうかも知れないが。

 そう思った藍葉だったが、しかし、やはりつい、丹菊の様子も盗み見てしまった。小さな躰をぐったりさせている姿は、人形のようだが、幾らか身動いでもいるあたり、やはり無事なのだろう。

 そう、ほっとした彼の情動は、やはり、大魔王に捕まった。

「不安なんだね? 心配したんだね? 安心したんだね?」

 嘲弄的な、目を閉じつつ両手を広げての、深呼吸の身振りから、

「いやぁ、……! アハハ、若返るようだよ。なんて気持ちよい!」

 つい藍葉は、かっとなるままに、

「そんなんじゃない、」

「そう、そんなんじゃないよね! だって、君にとって詠哩子は、幾千幾万と如意に再生出来る世界の中の、或いは、世界の感覚で譬えるなら、テレヴィゲームの登場人物みたいなものだものね! そんな彼女に、恋慕なんて、病的なことこの上ない、」

「黙れ!」

 そう藍葉が叫ぶ前で、紫桃は、酷い悪寒でも覚えたかのように、自分の上膊を抱きかかえ、言葉を震わせながら、

「ああ、……最高、最高、最高だよ藍葉君! ああ、野球なんかに身を、人生を投じてきた間抜け野郎共を、女身で綽々と打ち砕いてやって、その絶望を味わうのも、本当に楽しい日々だったけど、でも、これはこれでやっぱり最高だよ! 藍葉君、ああ、君の今抱いている、何もかもが綯い交ぜになった感情、――彼女が軽蔑されたことへの清い怒り、それについて妙な勘違いをするなという子供っぽい憤りと、果たして本当に勘違いなのか自分でも分からないという高尚げな困惑、詠哩子への、男女としてか友としてかは分からなくとも、とにかくの愛情、そして、何より、……恐怖と無力感!

 ……ああ、堪らない! ちょっと、……ちょっと止めてよ、そんな、そんな良いもの見せられたら、あたし、」

 紫桃は、尻を墜落させるかのように着座した。全身を痙攣させてから、経産婦の誇りを見せつけるかの如く、分娩の様な息を繰り返す彼女は、藍葉が見る限り、……まるで、

「ふふ、」漸く整い始めた息から、藍葉の方を見据えて、「そうだよ。……今、私の躰、絶頂した。性的に。

 ああ、旦那にしか見せたことなかったのにさ。……まぁ、彼や倅のことも、藍葉君のお察しの通り、私が関東に居続ける言い訳にしか過ぎないのだけどね。」

 紫桃は、尚も言葉を絶やさなかった。日頃はその打算的な社交性の為に発揮される喋々しさが、この場では、ただ愉快の発露として振るわれている。

「でさ、藍葉君。君が、詠哩子へ真剣に入れ込んじゃっていることなんだけど、」

「五月蝿いぞお前! さっきからどれだけ、」

「待った待った待った! ……いや、正直白状すれば、確かに、君を揶揄する狙いも大いに有ったけど、でも、真面目な話でもあるんだって。一旦良くお聞き、藍葉君、」

 紫桃は、軋む氷の音が聞こえそうな程に、凛然と指を立て、

「君は、このでの詠哩子のことを本気で想ったり心配したりしているようだけど、それは、実は完全に真っ当だったんだよ、……と、私はただ親切に言ってあげたかったんだ。皮肉というよりはね。」

 この晦渋な言い回しに、益々困惑するばかりの藍葉へ、紫桃の言葉が畳みかかる。

「いいかな藍葉君、……君は、所詮、高を括っているんだ。この世界が十月三十日に再び破綻を迎え、崩壊しても、いつものように元の世界へ戻ってやり直せばいいだけだと、無邪気に信じている。そうだよね? ……だって、もんね!」

 藍葉の心中を支配しつつあった、散漫な混乱が、一挙引き絞られた恐怖へ転じた。これをて、味わいに搏たれた紫桃は、好色的な笑みをぐいと深めてから、

「違うよ、全然違う!」

 そう叫ぶと、飛び上がってそのまま藍葉の両肩を摑んだ。背丈の大して変わらぬ事もあり、紫桃の顔が、彼の目の前へ来ている。何かの酒を飲んでいたらしい、その吐息の湿気が、香りが、藍葉の剃刀負けに沁みた。

 爛々と輝く大魔王の双眸の下で口が盛んに蠢き、声の気流が、藍葉の顔面を、愛撫のように擽り続ける。

「違うんだ藍葉君! 君の感覚で言う、このは、これまでと全然違うんだよ。いいかな? 君の見てきた今までの私と違って、は、が破滅する日時と情況を完全に把握してしまったんだ! そして、」

 軋む程の力が、藍葉の両肩へ籠もる。

「君だ、……私は、という手掛かりを見つけたんだよ! この世界が破綻する時、藍葉君、私は、同郷の君を手掛かりとして、裂け目を通り、元の十二次元世界へ帰還することが出来るんだ! ……世界に携わっている君なら、この言葉が理解出来るよね?」

 漸く、事態を理解し始めた藍葉へ、得意げな高笑いが逃げ場なく浴びせ掛けられた。

「そうだよ、藍葉君! これこそが『破滅』だよ!

 そもそも、何故世界において、君が三次元にすっぽり収まっていて、私が埒外の力を振るえているのか? これは別に、私が不器用な存在だからじゃないし、君が謙虚な没入を為しているからでもない、……単に、私の力が、の規則でいましめえぬほどに、そして君たち凡俗の十二次元人と比べ物にならないくらいに、強大だからさ! それだからこそ、は、クリエイターは、一も二もなく私を封印したんだよ! 自分の今居る、本物の世界を救う為に、長年手塩に掛けた、我が子のように可愛い筈の、掌世界を犠牲にしてまでね! ……それこそが、世界を弄ぶ者の責任なのだという、義心によって!」

 藍葉の中の、遙か遠い知識が喚び起こされた。世界盆栽を始めとする、下位世界の操作においては、屡〻、大きく次元を歪曲させる必要が有るのだという。そして、そのような歪みは時折、招かれざるもの、生じてはならぬものを発生させてしまうので、こうした事態に直面した職人は、確実な処分をせねばならぬのだという教え。花火遊びに興ずる時に、水の張ったバケツを近くに置けという心得を、より硬くしたようなもの。

 しかし、……そのような歪みからの発生は、言うなれば、肉質を搔き混ぜたら新生物が出来るかのような奇蹟であり、よって、いざ起こっても、生まれた何かは全く無力な存在な筈で、地球の日本国で言うところの、環境破壊や生態系の僅かな乱れを回避する為の、細やかな作法に過ぎない筈なのだが……

「へえ、」尚も藍葉へ顔を突きつけたまま、瞠目する紫桃は、どうやら本気で感心しながら、「そう、なんだ。ふぅん。そんな、弱い筈だったんだ私って。」

 漸く離れた紫桃は、試合で本塁打を放った時と同じように、陶然と両腕を広げ、

「なら、こういうことじゃない? きっと、奇蹟が、重なったんだよ! 私のような存在が望まれずに発生した奇蹟と、そうした儚い存在が、桁の外れた知性と力を持ってしまったという奇蹟! ああ、或いは、後者については、彼が手ずから整えていたこの世界の滋養によって、弱かった私の中に涵養かんようされたのかも知れないけどね!」

 紫桃は再び、にこりと、邪悪に微笑んでから、

「藍葉君。……約束するよ、私は必ず、君の――或いは、私達の――故郷である、世界を破壊する。こんな、ちっぽけな、三次元世界なんかに飽き足らずね!」

 少し間を置いてから、再び、聞く者の心を削剝するような魔王の哄笑が、出口の無いカラオケボックスの中を迸り、堂々巡って渦巻いた。

 

 全てが、薮蛇だった。全てが浅はかだった。この紫桃を、どこまでも侮って事態を進めてきてしまったこともそうだが、それよりもまず、世界の調査を承り、解凍してしまったことが、そもそもの薮蛇だったのだ。折角、悠久の歴史を誇り、六十億の知性の蠢く、丸々一つの美しい世界を犠牲にして魔王を封印していた、氷の牢獄。それを揺るがす愚行であり、そして今日、ここで、……とうとう全てが瓦解した。

 崩壊する、破壊される。……此処ではなくて、、世界が?

 この、藍葉の苦悩と困惑をた紫桃が、再び顔を紅潮させて顫え始めたところで、漸く、丹菊は顔を上げた。これに気が付いた藍葉を鏡のようにして、紫桃も知り、大袈裟に相棒の方へ振り返る。

「あ、起きた? 大丈夫?」

 魔王然とした――それも、磊落らいらくな覇王というよりも、屈折した悪神のような――態度から、女大生のような雰囲気へがらりと豹変した紫桃の声は、優しげだったが、

「大丈夫?、って、あんた、……まぁ、私の躰は大丈夫っぽいけど、」

 呆れたような、悟ったような顔の、しかし鋭い眼光で、彼女は紫桃へ、

「いやさ、正直、あんたが心底嗜虐的で、まぁ、『屑』という人種にカテゴライズしても差し支えない、ってのは分かってたよ。……でも、なにこれ。」

 丹菊は歎息しつつ、立ち上がった。

「非道いなぁ、枝音。私達、秘密を全部教えあうことで、互いの弱みを知りつつ、また信頼しつつ、助け合って来たんじゃなかったの?」

「何言ってんの詠哩子。非道いのは、そっちもでしょ。藍葉君なんかに、ぺらぺら私のこと喋っちゃってさ。」

「あぁ。今日は、それについて土下座する為の会だったんだけど、……なんか、それどころじゃないよね。」

 ここで改めて、丹菊はじっと紫桃を見つめた。冷たく、しかし、何かが燃えている目。

「〝ハマの大魔王〟、か。……マジじゃん、なんなのさ、」

 この陳腐な一言の、洗煉されてなさへ、彼女の今感じている、盟友との友誼が欺瞞に満ちていたことへの絶望が如実に籠められているように、藍葉には感ぜられた。

 そして、この直後に片笑みを吊り上げた紫桃によって、彼は大いに気分を害されたのである。親友の絶望からすら法悦を貪ったにせよ、或いは、『正解だよ、藍葉君、』と頰で表したにせよ、彼にとってはこれ以上ない侮辱であった。実際のところ、紫桃は女身の丹菊の心情を読み取れない筈なのだから、これは彼の誤解だったのだが。

 藍葉の情動を読み知っている筈の紫桃は、しかし別段、笑みの意味の答え合わせもしないままに、友との会話を続けた。まるで、路傍の石に興味が無いと表明するかのように。

「詠哩子。まず、はっきりしておきたいんだけど、私は、貴女のこと大好きだよ。これは嘘じゃない。」

「へえ、」明らかにそのまま言葉を継ぐつもりだった盟友を、遮りつつ、「『大好き』って、それ、友達として? 寧ろ、ペットか何かの気分だったんじゃないの? 例えばさ、楽天戦で間抜けがバットを投げつけて来たあれ、あれも、飼い猫に危害が与えられようとして、激昂したに過ぎなかったんじゃないの?」

「あー、」僅かに、口籠もってから、「ちょっと、違うね。猫じゃない、詠哩子は虎だよ。そう、彼奴等、もしも戦争したら詠哩子や私が勝つのにも拘らず、身の程知らずに調子に乗ってきたから、むかついちゃってさ。つまりさ、私達強者が淑女として社会性を保っているからこそ、こうして平和裡にスポーツが出来ているというのに、なのに、彼奴等、……弱者の暴力ほど、下らなくて憤ろしいものは無いよ。強者が振るうそれよりも、遙かに軽蔑されるべきものだね。」

 丹菊は、下の方からじっと魔王を睨み付けつつ、この言葉を咀嚼してから

「ま、その主張は、分からんでもない。実際、あの死球やバット投げが故意だったのなら、私も心の底から腹立つよ。

 でもまぁ、そんなことはどうでもよくてさ。……悲しいし、悔しいよ。結局、枝音、あんたは私を、同レヴェルに見てくれていなかったんだね。」

「当たり前でしょ? あんたの打率幾つ?」

 丹菊が、即座鼻をひくつかせ、喰い縛った歯を露にすると、紫桃は、初試合でボールボーイを揶揄った時のように、突き出した両手を振りながら、

「御免御免、流石に冗談。私はあんなに盗塁出来ないし、肩や打球処理も全く詠哩子に叶わないよ。綜合力は私のが上だろうけど、でも、野球選手として詠哩子を見縊れる立場なんかに、全くないと思ってる。

 でもまぁ、それでも、……やっぱり、じゃない? 私は、そう、ただの人間ではなく、――経緯や意味はともかく――横浜の皆が呼んでくれるように、破壊神で、大魔王なんだ。悪いけどさ、例えば子供に愛を囀られても、本気で受け止めるのは難しいでしょ?」

 丹菊は、尚も紫桃を睨み付けたままだったが、直に、安っぽい、魚の目玉のような天井照明を見上げ、「あーあ、」と漏らした。

「最悪、」とだけ、ぽつりと続けた彼女へ、

「御免、詠哩子。でも、私は、本当に詠哩子が大好きだよ。」

「何言ってんの、」丹菊は見上げた首を直したが、視線は床へ直行させ、目を紫桃とは合わせなかった。「あんた、この世界をぶっ壊すつもりなんでしょ? じゃあ、私や、町田の皆、横浜の連中も巻き込んで粉微塵に殺そうってんでしょ? そんな糞野郎の口から、好きだのなんだの言われても、」

「ああ、そうそうそれなんだけど、」紫桃は、藍葉には不気味に映る、豁達な素振りで、「まぁ、確かにその他大勢については、残念ながら逝ってもらうのかな。でもさ、詠哩子、あんたについては違うよ。私、詠哩子のこと、一緒に連れて行くつもりなんだ!」

 丹菊は、急いで持ち上げ、魔王へ向けた目を、信号でも送っているかの如く頻りに瞬かせてから、

「……は?」

「そもそも、さっきあんたの頭へ叩き込んだように、この世界の住人は、何度も何度も世界ごと死んできたんだよ。確かに、直接殺したのは私のバットと黒瀬のピッチングだったのかも知れないけど、でも、私達はそんなこと知らなかったんだから、仕方ないじゃん。寧ろ、……残酷だったのは、非人道的だったのは、そんな死を、一歩も進まない輪廻転生を、幾千回も皆に繰り返させてきた、」

 居合抜きのように鋭く、傲慢な角度の紫桃の指が、彼へ向けられる。

「この男でしょ! ……そうじゃない、詠哩子!?」

 ここで、明らかに動揺した丹菊を見て、喜んでしまった自分を、藍葉は軽蔑した。この指弾を傍聴しての、彼女の戸惑いが、自分藍葉への好もしい感情を証明しているように思われたのである。

 とにかく彼女は頭をぶんぶん振り、氷がすっかり解けかけている、目の前の、絵の具のような色の酒を一口呷ってから、

「そんな、よく分からない話よりも、枝音、『詠哩子わたしを連れて行く』って、何!?」

「……あ、そう言えばその話だったね。つまりさ詠哩子、私はこの世界をぶっ壊した後、私や藍葉君の故郷、十二次元の上位世界へ、あんたも連れて行くつもりなんだよ。ぺらっぺらのあんたへ、風船を膨らますみたいに十二次元の肉体を与える方法が有るのかは分からないけど、まぁ、無いなら無いで適当な三次元掌世界を見繕って、また二人で住み着こう! きっと、とても楽しいよ!」

 顔を歪める盟友の当惑を、先んじて癒すかのように、

「いい? 詠哩子、

 今言った、私との逃避行は、世界の全てを犠牲にして冒険に出るような、悪徳に聞こえるかも知れないけど、でも、全然違うんだ。そもそもこの世界はね、偽物で、んだよ。そこの藍葉君のような輩の気分や都合によって、幾度も幾度も凍りつかされたり再生されたり、……そして、毎回、なんら進展無く元に戻されるんだ。そうやって、玩具にされる、世界擬きなんだよ此処は! 一歩も進めないんだよ! 上位世界様の勝手な都合によって、この世界は、私達は、’16年の十月三十日に終わって、恰も自鳴琴オルゴールのように、曲の始めへ戻ってお終いなんだ! そんな世界から、一人だけでも救い出したいという私の想い、……どうか、叶えさせてもらえないかな。一緒に自由になって、見たことの無いものを見に行こうよ。こんな、擦り切れた世界なんかじゃなくてさ。……ね?」

 丹菊は、円かになった目を屡叩き続け、絶句した。その後暫くしてから、ソファへ腰を落とし、まるで、申し合わせを鹿爪らしく守って次打者円の中でしゃがむ球児のように、真剣な目で少し遠くの人間を見つめ続けている。相手投手ではなく紫桃枝音の、投げ掛けてくる、白球ではなく言葉と、そこへ籠められた意志を、しかと見定めんとして。まるで、盟友と同じ、透徹の目を持つかのような必死さで。

 藍葉が、裂かれるような沈黙に堪え切れなくなった頃、漸くその口が開かれた。

「嬉しいよ、枝音、」

 魔王は、花開くように、柔らかに相好を崩し、

「こちらこそ、」

「でも。御免。」毅然とした声だった。「言ってることは上手く想像出来なくてよく分かんない、ってのが正直な感想だけど、とにかく枝音、私はあんたの誘いには応じられない。気持ちは、本当に嬉しいんだけどさ。」

「あら、」藍葉から見るに、本気で残念がって、「何故?」

 両手をソファの革へ叩きつけ、発射されるかの勢いで立ち上がった丹菊は、映画の中の名探偵のように、

「私はね、」凛乎と、友を指し示した。「あんたに勝たなきゃいけないんだよ!」

 ぽかんとし、「……は?」とだけ何とか漏らす、紫桃へ、

「あんたが、人間じゃないってのは分かったし、じゃあ、私が何もかも敵わなかった――あんたはさっきああ言ったけど、でも、結局守備でも攻撃でもあんたのが遙かに上なんだから――のは、山多や三合を含めた男連中が足許にも及ばないのと同じく、当然だったんだろうけど、でも、……それでも、私は、あんたに勝たなきゃいけないんだよ枝音!

 あんたの、その言葉に肯ってしまったら、私はあんたに一生勝てなくなる! 世界の命運なんか、どうでもいいよ。私は、枝音、ただ、あんたに勝たなきゃ生きている意味が無いんだ!」

 盟友の、予期だにされぬ激情に、ただ、人間並に呆然とする紫桃は、

「え? ……何? は? えっと、……意味分かんないんだけど、

 いや、確かに多少苛立たせちゃったかも知れないけど、……私、そんな不倶戴天の敵に思われるようなこと、詠哩子にした?」

 神妙に、首を振る丹菊。

「そうじゃないよ、そうじゃない。私だって、枝音、あんたのことは大好きなんだよ。今日のこれを、経た後ですらもさ。

 ……でもさ、私の、なんて言うんだろう、……心奥の、燠火が燃えるんだ。お前は、何をやっているんだ、と。お前は、……誰にも、負けられちゃいられないんだぞってぇ!」

 山の向こうまで殷々と届きそうな、この絶叫に、ぽかんとした大魔王は、頭を抱えつつ、

「……は? ちょっと、本当に意味分かんないんだけど、えっと、……詠哩子、あんた、そんな奴だったっけ?」

 藍葉には、事態の想像がついていた。本来、このは丹菊と黒瀬の決戦が描かれる作品だったのだから、彼女の性根には、啀み合うライヴァルの片割れらしい、燃える情熱が埋め込まれていたのだろう。これは、ストーリー上、飄然とした黒瀬との好対照にもなる。

 若い頃から異物「紫桃」と知り合ってしまったことで、彼女の牙が抜かれていたのだろうが、しかし、この世界の真実を知った今や、彼女は、その痼疾こしつのような気概を思い出したのだろう。そしてその時点より前においても、忘れ掛けられつつも確実に燻っていたからこそ、彼女はあの日の藍葉へ、「枝音に、どうしても勝ちたいんだ」と、漏らしていたのだ。それこそ、彼女が心から愛していた筈の、横浜を去ることも厭わぬ熱意を以て。

 ちらと藍葉に視線を向けた紫桃が、一瞬裡にこのロジックを、眉を寄せた、その瞬間、丹菊の、今日一番の咆哮が迸った。

「巫山戯んな、この世界の主人公は、なんだよ! ……お前じゃない!」

 これを聞いた紫桃は、暫く凍りついた後、がっくりとうな垂れ、

「悲しい、本当に、悲しい。……あんたに断られたからじゃないよ、詠哩子。その、『主人公』って言葉さ。あんたは、結局、に命ぜられた役割に縛められて、逃れられないんだね。悔しいよ、あんたは、あんたらしく生きて欲しかった。」

「五月蝿いなぁ、」再び、断乎とした丹菊の指が、肩から爪まで一直線を描いて伸びた。「これが、アタシだよ! 今、自分の心で、足で、燃えて、苛ついているのが、私なんだ! 丹菊詠哩子なんだ! 何が、『あんたらしく』だよ、馬鹿なこと言うな! 訳の分からん同情を、上から下という体で寄越すな! あんたが神や魔王に近い存在であろうとも、アタシを定義する権利なんか、あんたに無い! 枝音、あんたこそ、身の程を少しは知れよ!」

 俯いたまま、首を小さく振っていた大魔王の動きが、ぴたりと止まった。

 そんな彼女へ、腕を下ろした丹菊が、息を整えつつ、

「日本シリーズへの出場権は、絶対に、ウチが、……巨人が取る。勝負だよ、枝音。この世界の命運と、互いのプライドを懸けてさ。」

 面を上げた紫桃は、友の、勝ち気な笑みを認めた筈だった。その輝かしさに照らされ、跳ね返すかの如く、頰を緩めた魔王は、まるで、その神なる瞳で女身の友をも見透したかの様だ。

 ……などと思う藍葉へ一瞥をくれ、「やかましいなぁ、」と漏らしてから、

「分かったよ詠哩子、一応楽しみにさせてもらおうかな。六位と団子になってる五位から、這い上がろうとしてくるあんた達の姿、拝ませてもらうよ。

 ただ、……想像するだけで、悲しくなるね。ペナント終盤の、クライマックスシリーズ進出の可能性が無くなりましたよってニュース、とうに球団もファンも諦めている時期に出てくる、今更なあれに、真剣な、敗者の物悲しさが漂うなんてさ。」

 言ってな、とだけ、丹菊は返してから、すっと、彼へ視線を向け、

「藍葉。後半戦、宜しく頼むよ。この妖怪、なんとしても捩じ伏せないといけないんだから。」

 彼が、昂揚する気持ちのままに頷き、そこから、何か言葉を紡がねばと焦ったその瞬間、矢庭に部屋の電話機が鳴動した。

 部屋に入ったままの場所で立ち尽くしていたこともあり、これを反射的に取ってしまった藍葉が、ああ、やっちまったと思いながら、はい、はい、ええ、と出来る限り適当な相槌を受付へ送り、振り返ると、干物のように冷めた目の二人に出迎えられた。

「ええっと、……終了五分前だって、」

と何とか返した彼へ、丹菊が「死ね。」とだけ吐き捨てると、紫桃はからからと大笑したのだった。


 藍葉君と違って私らオールスター戦士は忙しいからね、との余計な一言が出つつ、さっさと解散することになった彼らであったが、店を出ての、圧迫感の有るビル建築に挟まれたきらびやかな道を進みながら、紫桃が、

「ところで藍葉君さ、……私、明後日、福岡でどんな目に遭うの?」

「え?」一瞬戸惑ってから、「ああ、そういう意味か。空振り三振3回の併殺1回、とかかな。仲村との交代タイミングにも因るけどね。」

「……守備は?」

「酷かったよ。ぽろぽろぽろぽろ、」

 露骨に肩を落とし、

「まー、そうなるんだろうね。最悪。生身の女の子が、プロ相手に敵う訳ないじゃん。」

「一児の母だろあんた。」と、「女の子」という言辞を咎める丹菊を、無視しつつ、

「あーあ、一軍リーグもイースタンになればいいのに。そうしたら、楽天主催戦以外、全勝して見せるのにさ。

 ……まぁそんなことより、藍葉君、私、二日目もオールスター出られるの?」

「『故障じゃないっす! 大丈夫っす!』みたいな君のアピールが効いたせいかも知れないけど、普通に先発して三発打ってMVPだったかな。」

「MVP! いいね、ウチの家計の窮状が癒されるよ。振り込みいつになるんだろ。」

「どうせ来年からは、馬鹿みたいに年俸貰うでしょ。」と、呟いてから、丹菊は視線を落とし、「……ああ、『来年』は、このままだと無いのか。」

 低い位置の、友の頭を搔きながら、「まぁ、精々頑張りなさい。」

 五月蝿そうに払いつつ、「横浜キラーになってやるから、見てなって。」

「それ、普通投手に使う言葉だろうけどねぇ、」

 世界の命運を懸けて啀み合っているのに、尚も睦まじい会話を生き生きと織りなす二人を見て、藍葉は、一種の感動を覚えた。今、この世界は、クリエイターの手を離れて完全に自走している。

「そういえば、」紫桃が、再び藍葉の方を見た。「そうそう、そもそも今日、君に訊きたいことが有ったんだよ。ねえ藍葉君、明明後日のオールスター二日目、打撃投手やってくれない?」

「……は?」

「暇でしょ? 場所もハマスタだし、」

「ええっと、」

「ホームランダービー、二日とも出ることになっちゃってさ。まぁ鷹橋監督とボスラミーロの許可も要りそうな気がするから、それは、私が一日目に貰っておくよ。」

「えっと、」

「それじゃ、宜しく。」

 歩き進んでいた三人が、今日は彼だけが利用する町田駅に差し掛かっていた為に、有無を言わさずに藍葉は一人置いて行かれたのだが、まるで、あちらが同朋であるかのように尚もきゃぴきゃぴと話しながら去って行く二人の後ろ姿を見て、女の友情は全く分からんな、と、彼は呆れもしたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る