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噂に戸口は立てられぬもので、丹菊と、ついでに藍葉が放出されるらしいという話は、あれから数日後には一軍内でまことしやかに広まりきっていた――と、すっかりベンチ外に置き去りにされた藍葉は後から聞いた。そこで、丹菊のウェイヴァー公示を近々予定しているという、球団からの公的声明は、内部的には大した混乱も招かぬままに発表されおおしたのである。勿論、世の中は大騒ぎとなり、選手の権利がどうのこうのと言う外野も果たして五月蝿かったが、当の丹菊は自身のTwitterで、容喙してくれるなという意志を婉曲的かつ諧謔的に表明していた。
「と言う訳で、獲得球団募集してます。足と肩強くて、(規定内で)両リーグ最高の出塁率が売りの外野手です」
「なお紫桃ちゃん、一試合平均4.5打席とすると、7月24日に規定に乗って一位に躍り出る見込みの模様」
「出たな妖怪野球変化」
「出たゾ。その名前弱そう」
「妖怪ホームランバー」
「デブそう」
「スラッガータイプの捕手だから、多少太って丁度良いかも」
「ただでさえ鈍足なのに、務まらなくなっちゃうゾ」
「いいからチーズバーガーでも食ってろ」
「それもう古いらしいゾ」
「マジ?というか枝音、あんたそんな算数できたのか」
「詠哩子の就活を邪魔するために、一生懸命そろばん叩いたゾ」
「こいつ…」
存外紫桃は事態を平然と受け入れてくれたらしいな、と藍葉をも安心させた、いつものような二人の遣り取りは、巷に起こった義心へ効率良く冷や水を掛けたが、その一方、とにかく贔屓から戦力が流出することになる横浜勢だけは、こんなものを見せられても結局心穏やかにはならなかった。しかし、他球団のファンから、「やかましい、馬鹿みたいに勝ちやがっている上にピーチも残るんだから、これくらいで騒ぐな。」などと投げられると、まぁ仕方ないかという気持ちにも、彼らの多くはなったようである。また、この騒ぎの起こった翌日には早速、巨人を含む数球団が丹菊へ興味を示しているという記事が各紙に躍り、逆に東京球団からは、支配下枠の関係で獲得を断念するとの談話が、すぐさま打ち出されたのだった。
オールスター日程の影響により、ペナントレースには、一軍公式戦の無い、盆休みの様な期間が四日程存在する。丹菊の獲得優先度が決定する予定の七月二十一日にも、巨人と東京が五位以下を占拠する筈だということは、この休戦期間のお陰で早々確定した。こうして、巨人による丹菊獲得がほぼ確定となったことを受け、横浜が動いた結果、藍葉も巨人へトレード放出されることが、内定した上で公にも発表されたのである。厄介であったろう仕事、丹菊の獲得球団を見定めつつ速やかにトレード交渉を進めるという神業をきちんとこなしてくれた球団に、彼は心から感謝した。勿論、しくじれば彼女に――或いは同調して怒る紫桃に――何もかもぶちまけられかねんという、球団自身の事情というか、恐怖もそこに有った筈なのだが。
藍葉のトレードと丹菊のウェイヴァー公示は、共に、七月十三日の、前半戦最終試合の終了後に予定されていた。藍葉の放出がこの日付となったのは、敵兵となる彼によって横浜のサイン破りをされないよう、休戦期間中に急いでサインを作り直す必要が有るからであり、世へも素直にこのまま説明されている。丹菊については、野球規約上、ウェイヴァー公示をすると新契約までの一週間、全く試合に出られなくなるので、彼女が逃してしまう出場機会数を可能な限り小さくする為にオールスター期間へ被せたのだ、と球団からは説明されたが、藍葉は、此方については真偽を確信出来なかった。また、同様の理由により、厳密に規約を適用すると、丹菊はオールスター戦にも出られなくなる。これについては、横浜球団がNPBへ柔軟な対応を求めていたが、すぐに、プラクティスユニフォームを着たままでの試合出場という形が彼女に認められた。
「感謝します」とだけ、これについてTwitter上で発言した丹菊へ、紫桃は、
「この日から敵らしいので、容赦なくぶっとばすゾ😤」
「セントラルチームなんだからこの日は味方だよ」
「あ」
「あ、じゃねえ」
そんな大騒ぎが一旦落ち着いて、とうとう迎えた七月十三日、藍葉は、町田駅の近くにて、ナイター後の丹菊と落ち合う約束をしていた。作戦会議のような決起会のような、と、言い出しっぺの彼女からは説明されていたが、互いの予定の擦り合わせの中で、「オールスターの準備が有るから、という言い訳で、大小の送別を固辞して時間を作ったんだぞ」とメッセージを送ってきた時に、自慢気にしていたであろう丹菊の顔が、電車移動中の藍葉の脳裡に泛かぶ。藍葉は、例の、関東試合ばかり続く日程のせいで、彼女とあれ以来会っていなかったのだ。
ふと鳴動したスマートフォン端末を彼が開くと、丹菊からメッセージが届いていた。
「おっす」
藍葉は、彼女の今日の魅せ場を思い出し、端的に返す。
「おつかれ🍺 さすが、いいバックホームだったね」
「ハマスタでの、有終の美になったかな」
「有終って言っても、ハマスタ試合は移籍後も有るだろうけどね」
「そりゃ、そうだけどさ」
「というか、移籍初日の22日から試合出られるなら、確か初っぱなじゃない?」
「うげ、マジか」
「ところで、こっちは、大和から小田急のったところ」
「あー、もう着くじゃん。あたしら早く着き過ぎて待ってるから、入ってきて。108号室で、丹菊の名前で取ってる」
「え?本名?」
「どうせ背丈ですぐばれるからさ」
「ああ、」
ここで藍葉は、ふと気が付き、首を傾げてから、
「ところで、あたし『ら』って何? 誰か居るの?」
「あー、言ってないっけ。枝音も来てる」
電車内で声が出そうになった藍葉は、忙しなく指を動かし、
「は、なんで?意味分かんない?僕が紫桃さんと対面しちゃったら、何もかもばれちゃうじゃん」
「なに言ってんの。あんた、巨人の正捕手になるんでしょ?だったら、どうせ枝音とすぐ、それこそ22日に会うことになるじゃん。遅いか早いかだよ」
「でも、こんな急に、」
「とにかく、これから枝音の目の前で、あんたもアタシと一緒に謝ったり逃げたりしてよ」
「紫桃さんの秘密を漏らしたのは、君だろうけど」
「教えて欲しがったのは、あんただよね」
「まぁ、そうだけど」
「あるいは、すべきなのは、謝罪じゃなくて宣戦布告かもしれないね。とにかく藍葉、あんたは、アタシと一緒に枝音を倒してくれるんでしょ?」
これへどう返事したものか、指を惑わせてしまう間に、町田駅へ到着するアナウンスが流れたので、彼は、「ついた」とだけ書き送って端末を
改札を出た藍葉は、ふと、楽天戦で罵詈雑言を喚いて激昂する紫桃の姿を思い出したことと、丹菊からカラオケボックスを場所として指定されていたことによって、厳しい不安を覚えさせられた。つまり、紫桃が暴れまくっても警察に通報されにくい、多少の防音性の有る場所が敢えて選ばれたのではないかと勘ぐったのである。どことなく足取りの覚束ないまま、しかし彼は、目的地に問題なく到着してしまった。
合流したいんですが、丹菊の連れです、と藍葉が伝えると、受付の若い、いかにもフリーター然とした男は、ああ、何処かで見たと思ったら横浜の今一ぱっとしない貴方ではないですか、とでも言いたげな、軽い驚愕の表情と侮辱的な間を置いてから、「伺っております、どうぞお向かい下さい」と、慇懃に彼を促した。そうか、カラオケってこういうものだよな。客が勝手に部屋に行くんだよな、と藍葉は思い出し、刑吏の待つ部屋へ自らの足で向かう気持ちにさせられたのである。
円窓の付いた扉の前まで行った藍葉へ、賑やかな音色が漏れ聞こえて来た。流行のテレヴィドラマの主題歌で、また同時に、丹菊と紫桃の登場曲でもある。同じく登場曲として使っていながらも、丹菊へ自動的に倣うことにしているだけの紫桃が、こんな曲に興味を持っている訳もなく、歌声は、果たして、丹菊の方だった。外野やダイヤモンドを韋駄天の速度で駈け巡る彼女の、心臓の不安を打ち消すかのように鍛えられた肺活量は、部屋の音響効果にも助けられて、堂に入った神秘的な歌声を放っている。
ああ、丹菊の番なのか。出来れば、紫桃が熱唱している内に入室して、その隙に覚悟を決めたかったのだけどな、と、彼が
「藍葉
こうして追いつめられた彼は、ええいままよ、と、力を籠めて扉を押し開いた。
部屋の一番奥で、小さい体躯を新聞のように、半ばからくたりと前方へ曲げつつ、眉を思い切り寄せて熱唱している丹菊を背景として、紫桃はひらひらと、藍葉へ挙げた右手の指を蠢かせた。彼が久々に拝む、空前絶後の強打者の利き手は、勿論分厚く鍛えられてはいるものの、相変わらず柔らかそうで、
「いやはや、久しぶり。本当に、こうして直接会うのは、」
そう、莞爾と言葉を繰り出し始めた紫桃であったが、すぐに、怪訝げに顔を顰めつつ、言葉を消え入らせるように絶句した。そうしてから、藍葉のことをじっと矯めつつ、「へえ、」
「ほぉ、」「……ふぅん、」と呟いてみたり、は、と発声してから、自嘲するように頰を吊り上げてみたりするのである。この間の居心地悪さは、どこまでも空気を読まない丹菊の熱唱によって多少搔き乱され、これが、藍葉にとって貴重な救いとなった。
吹き零れんとする鍋に気付きつつも、どうしても手が回らずに見ているしかない。そんな日常的な破滅の予感を、万倍にもしたような無力感と
彼女は、これまで決して公に、或いは藍葉にも見せたことの無かった態度を、突然発揮した。膝を立てて
藍葉が、不思議な恐怖を覚える。残忍の色はまだ分かる、しかし、……欣然? 何故、今の紫桃の顔に、こうも愉悦が滲み出ているのだ?
丹菊の熱唱が三番に入った頃、漸く、紫桃は笑い声を一旦収め、語り始めた。
「そっか、そうだったんだね、藍葉君、君も私と、同じだったんだ!」
藍葉が、思わず眉を寄せると、この顰みの意味に彼自身が気付くよりも早い、神速で、
「分かる、分かるよ、手に取るように分かる。
なんだ、……これが、あの、紫桃か?
そのような困惑を、藍葉が得るが否や、
「そう。間違いなく私だよ。ハマの大魔王、紫桃枝音。お気の毒なことに明日からは敵同士になるみたいだけど、まぁ、宜しく。」
実力相応の、傲岸不遜。それだけは、今までの通りだった。しかし、生クリームのような愛嬌で覆われ、毒気を誤魔化されていたそれが、今や、露骨なものとなっており、抜かれた刃のような威で藍葉へ突きつけられている。
「意味が、分からない。……『君も同じ』って、どういう、ことだ? 一体何の、」
そこまでの言を、心中の言葉を勝手に摑み出されて応答されるのを息苦しく感じ始めていた藍葉が、意志を持って口へ出すと、紫桃は、不穏ににやついたまま、逆説的に、言外の
突如藍葉を襲う、どくん、と、どこかおかしなところへ、五体を残して精神だけが落下するかのような感触。この、藍葉の酷い違和感は、彼がこれを受けるのが24年ぶりであった為だった。24年という瞬く間も、しかし、すっかり三次元世界へ没入してしまっている藍葉には、遙か昔のことと思われたのである。
彼は、漸く、紫桃から放射されてきた信号の正体を思い出した。第九次元軸へ、沈み込む感覚。
「貴様、」
藍葉がそう、歌声に搔き消された筈の
「あらー、随分御挨拶じゃん藍葉君。まぁ、動揺するのも分かるけどさ。だって君、どうせ、……この世界じゃ三次元人にしか会わないと、高を括っていたんだろうからね!」
なんだ、こいつは、……一体、次元数は、
「ああ、御安心を。多分、藍葉君と同じ十二次元。ただ、君がここでは三次元の存在に甘んじているのと違って、私は、もう少し自由なんだけど。
そう! 私の、心を見透かす目は、別に不思議でも何でもないんだよ。譬えるならさ藍葉君、ブラウン管を横から見るようなものさ! この世界の一般の精神体は、テレヴィ画面を真っすぐ見ることしか出来ない。だから、その内部に気が付けない。しかし私は、画面に映る以上の軸の存在を把握し、そちらから物事を見通せるのだから、そう、機構やその状態も、手に通るように分かって当然だよね! 対象が人間ならば、知性、思考、筋肉や神経の鍛錬度、そしてそれらの状態! そこら辺が手に取るように常時分かるのだから、何もかも、予知出来て当然だよね!
ああ、或いは、こういう譬えの方が良いかな。そう、私は、ここの常人が、壁の高さと不透明さに絶望しつつ、一所懸命行きつ戻りつしている、世界という名の平面迷路を、ただ一人、上天から見据えることが出来るのさ! 私にとって、この世界に、秘密も謎も一つとして存在しえない!」
世界、という言葉を何度も聞かされて藍葉の脳裡によぎった、破滅の光景、横浜スタジアムから全てが真っ二つになるそれを、見咎めた紫桃は、好戦的な笑みを深めつつ、再び藍葉へ威圧的な信号を一発送った。精神墜落の感覚。眩暈を伴う。鱶が大口を開け、暗い海水ごと自分を呑み込もうとしている、そんな、落下感。
「へえ、そうなんだ。……私が、この世界を破綻に導くんだね。」
悠然と立ち上がった紫桃は、丹菊の入れていた歌謡曲の伴奏が消え入ろうとする、その瞬間、まるで、曲を締める口上を述べるかのように、
「改めて宜しく、世界の調査官さん。私の名前は紫桃枝音、……この世界を破壊する、大魔王なり。」
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