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 チームの優勝と、紫桃のMVPという、輝かしい結果で交流戦を走り終えた横浜球団の一軍へ、藍葉は、六月二十八日の甲子園ナイターで再合流することになった。

 当日朝、新幹線で彼と隣るなり、丹菊は、

二軍したで、楽しそうだったじゃん。」

「ああ、うん。どうも。」

 本拠地試合が八連続したせいで十日間役目の無かった彼は、書類上は一軍の身分のままイースタンの試合に何度か出ており、期間中の打率が四割と、一応の好調に終わっていた。

「もしも対日ハム初戦が新潟遠征じゃなかったら、十五日くらい空いちゃった筈だから、多分藍葉も一旦二軍送りだったろうね。ツイてたじゃん。」

「まぁ、僕はFA権とか興味ない(何せこの世界に来年は無いのだ)から、名義は、一軍でも二軍でもどっちでもいいんだけどさ。でも実際、チームとしても、僕の登録を残していて良かったかもね。何せ、……第三捕手が必要となる事態に、成りかねなかったのだし。」

 ――突然、紫桃を欠いたりしてさ。

 この、藍葉からの迂遠な一撃を喰らった丹菊は、一瞬だけ緊張の色を見せたが、しかし、すぐ尋常な様子に戻って、

「ま、彼奴、別にあの後も割と普通だったよ。今日からの甲子園戦が終わったらずっと関東試合だし、また頑張ってもらわないとね。」

って、いつまでだっけ?」

「知らないの? 七月二十六日の名古屋まで、ウチ、横浜か神宮か東京ドームだけど。」

 藍葉は、腕時計の日付を見てしまった。今日は六月二十八日であり、つまり、甲子園戦は六月三十日まで。

 彼は、つい、グリーン席からずり落ちそうになる。

「え、何? と言うことは僕、七月中は二十六日まで出番無さそうってこと?」

 丹菊だけでなく、近くで聞き留めた同僚も笑ったが、

「ま、そんだけイースタンで調子良いなら、今日からも打てるんじゃない? そうしてアピール出来たら、第二捕手として毎日帯同出来るかもね。」

「うーん。……頑張ります。」

 藍葉は、口ではそう気楽に話したが、しかし内心穏やかでなかった。この貴重な、横浜のプロ選手としての身分を帯びた生涯が、一ヶ月弱も無為に過ぎてしまうというのだ。

 人知れず、身を焼くような焦れに襲われる、彼の横で、

「頼むよ、本当、」

 この、突然ぽつりと零された丹菊の声音は、陶片のように藍葉へ響いた。冷たく、硬く、また、脆そうで。

 何が?、と、彼が問い返そうとしたのだが、丹菊はそれよりも早く、いつの間にか装うた、普段通りの勝ち気な表情で、

「せめて、オールスターに選ばれていれば、藍葉も七月中退屈しなかったろうけどね。」

 こう言われたことで、ファン投票が既に終わっていたのを思い出した藍葉は、

「そういえば、ウチからは誰だっけ?」

「確定してるのは、山先、枝音、三合キャップ、そんで私。この辺は全員ファン投票枠で、誇らしいね。」

「……あー、そうだよね。紫桃さんが居るんだから、僕は、というかウチの捕手は、オールスター選出なんてとてもとても、」

「間中監督も、難儀だよね。大魔王枝音ちゃんを出ずっぱりにさせないと観客から総スカン喰らうだろうけど、逆に故障させたらウチがカンカンになるわけで、そうやって、自分の球団を最下位争いさせている諸悪の根源に、気を遣わないといけないんだからさ。当の枝音は、行きたくないって喚いているけど。」

「あ、」藍葉は、つい、そう漏らしてから、「そうだ。オールスターの会場って、一体、」

「……どこまで興味ない訳? 二日目は、」

「ハマスタでしょ? 流石にそれは知ってる。」

「……へえ、お見逸れいたしたこと。」

「で、一日目の場所て、」

「福岡ドーム。枝音の奴、やだやだ行きたくない、って駄々捏ねて大変なんだから。」

 そう言いながら、丹菊は紫桃とのチャット画面を引っ張り出して来たが、そこには本当に、「やだやだいきたくねえたすけてえりこ」というメッセージが残っていたのである。丹菊の返事は、「死ね」だった。

 藍葉は、呆れたような顔を作りながら、

「勿論ギャグとしての発言なのだろうけど、……それでもまさか、本当にそんな、子供みたいなこと言うなんて、」

「もっと、三冠王様らしい振る舞いして欲しいよね。一昨日の60号も、ふーん、って感じだった、……というか彼奴、日本記録が60だったと頭に入れていたのかも怪しいしさ。」

「そこまで行くと、……なんか逆に、達観みたいな感じで凄いね。」

 溜め息から、

「仙人じゃないんだから、普通に俗物らしく、数値気にして欲しいけどなぁ。」

「で、……福岡行くのかな、紫桃さんって、」

「流石に、来るでしょ? だって、オールスター辞退するとどうなるか知らないの?」

「教えて下さい、エリコ先生。」

 再びの歎息の後、

「罰として、後半戦の頭から、10日間の出場停止だよ。さっきも言ったように来月は関東塗れだから、枝音が本来よりも六試合出られなくなるね。いや多分、それでもウチがペナントレース優勝するんだけどさ、でも流石に、あんだけ大量の休暇の上から、更に六試合サボりはヤバいでしょ。彼奴が契約書どう書いたのか知らないけど、契約不履行になるんだろうし。」

「……そんな規則、有るんだね。」

「ちゃんと勉強しておいてよ、……と言うのは、酷か。オールスターへの招集、藍葉は経験無いんでしょうし。」

「紫桃さんの登場で、更に遠のいたね。」

「御愁傷様。」

 丹菊は、それから、

「そう言えば、アンタに言いたかったことが、」

とまで述べ、突然、言葉を切り落とすように噤んだ。

「何?」と藍葉が促すも、

「御免。後で話す。」

 その後、隣の彼女がむっつりしてしまったので、会話相手を失った藍葉は、仕方なしに、オールスター戦での紫桃を顧みて、或いは未来視して、時間を潰そうとしたのだった。彼女があまりに異常な様子だったので、藍葉は宿世においてそれを何度も見返しており、今や、ライブラリから持ってくるまでもなく、脳裡にまざまざと思い泛かぶのである。

 福岡ドームでのそれは、いとも不様なものだった。どうも落ち着かない様子で打席に立ち、珍しく揺らめきながら構える紫桃は、もしかすればオールスター盗塁王と本塁打王を取るのではと言う下馬評を、どこまでも裏切り、空振り三振、併殺、空振り三振、空振り三振と、公式戦では一度も記録していないものを四連発した挙句、守備でも、捕逸5個に、此方は彼女だけの責任ではないが暴投も3個と、とんでもない醜態を晒したのである。終いには、第五打席で一スウィングして尻餅を搗いた後に、代打が送られた。この、最強打者を引っ込める采配には、かの代打高津のような含みも多少有ったとは言え、しかしそれでも、あの大魔王に代打が送られることになるとは、事前には誰も予想しなかっただろう。一転して二日目の横浜スタジアムでの紫桃は、いつも通り、獅子奮迅或いは傍若無人の活躍を見せ、ゲームMVPを攫って行ったというのに……

 ここまで思い返して、彼は、何か摑みかけたのだが、しかし、斜め前の席で弁当がひっくり返る騒ぎが起こったせいで思索を中断せしめられてしまい、結実しかけたものも解けて散ったのだった。

 

 その日の試合は3―5で敗北し、特に自分の出来も大したことなかった藍葉は、雪辱を誓って翌六月二十九日を迎えたのだが、試合は敢え無く雨天中止となり、’16年を知り尽くす自分にはこうなると分かり切っていた筈ではないかと、空気合を反省した。余りの悪天候に球場へ移動することも無かったので、藍葉は練習場所も無いまま、ホテルで暇を持て余すことになったのである。せめて何かチーム内の交流を、と思っても、一日中飲み交わしたりする訳にも行かぬし、

 彼がそう思っていると、ホテルの部屋がノックされた。自身の、あられもない恰好を藍葉は見下ろしたが、まぁいいかと、そのまま戸口へ向かってしまう。穴を覗く面倒臭さによって、いきなりドアを、チェーンを掛けたまま開けてしまうと、そこには、

「やっほい。」

 手を振っていた彼女、丹菊だったが、藍葉の恰好に気が付くと、俄に眉を顰め、

「死ね!」

と、扉を蹴閉めてしまった。

 

 丹菊と同じく、しゃんとしたスーツ姿になった藍葉は、漸く彼女を招じ入れた。彼がベッドに腰かけ、丹菊は立ったままで居、そうして身長差を埋め合わせている。

「いやはや、さっきはとんだ失礼を、」

「死んだら許す。」

「勘弁して下さい。……というか、個室で二人きりだと、変な噂が、」

「チームメイトなんだから、一晩過ごした、とかじゃなきゃ大丈夫でしょ。すぐに済む用事だし。」

 彼女はそう言うと手鞄を漁り、薬袋を取り出した。藍葉も見慣れた、薬局で貰うような白い紙袋だが、小麦粉でも詰めたのかという、どっしりとした量感は尋常でない。風邪を引いたので三日分薬を貰った、とかではなく、恐らく、体質の為に服用し続ける日常薬が一挙に処方されたのだろうと、彼は推理した。

「じゃん。」

 丹菊が自慢げ、というより楽しげだったので、彼は率直に切り込んだ。

「心臓の?」

「うん、」

 彼女は、中身から一枚、錠剤シートを取り上げた。藍葉には当然、普通の風邪薬と見分けが付かない、……筈、なのだが、

 ……なんだ、何か、……既視感が。

 遙かに、遠いのだけど、何か、

 そう少し困惑する、彼を差し置いて、

「これさ、心血管の血液量増やしてくれる……んだったかな? 良く知らないけど、とにかく、これでもうあの忌ま忌ましい発作の可能性がぐっと減るって訳!」

 藍葉は、気もそぞろななりに、あれからも発作有ったの?、と質問しかけ、踏みとどまった。その、誕生日会の童女のような、いとも嬉しそうな姿が、既に、最近も彼女の経験している苦しさを物語っていると気付いたのだ。逆説的な、悲しい欣然きんぜんに、彼はつい、感傷的な気持ちとなりつつも、拭い去らぬ違和感と戦う為に言葉を進めた。

「で、服用してみたの?」

「まだなんだよねー。飲んでみてバクバクしたらヤバいから、試合の日は止めておこうと思ってさ。丁度、今日は雨降ったから、試してもいいのかな。」

 藍葉は、ふと、無言で彼女へ手を伸ばした。

 対照的に、「ほい、」と無駄な言葉を叩いて、丹菊がそれを寄越してくる。

 彼は、無機質なアルミフィルムをいろい、良く眺めた。印字されているのは、「バスタレルF」という名前。

 間違い、無い。

 彼は、一つ頷いてから投げ返しつつ、

「これの服用って、勿論、球団には相談してあるんだよね? ドーピングに引っかかるとかの、話だけど、」

 おっと、と受け止めた彼女は、

「うん。昨日、私の心臓のこと教えてるトレーナーに見せて、去年の基準から不問になった薬だから、使って大丈夫って、」

「馬鹿な!」

 つい叫んでしまった藍葉の前で、丹菊は目を皿にしていたが、

「丹菊さん、その、トレーナーの所に行こう。」

「え、何々、なんのこと、」

 藍葉は、立ち上がりつつ、珍しく身長に似合った幼げな戸惑いを見せる彼女を、引いて行く勢いで、

「良かった、本当に良かった。……君が、他でもない僕に、躰のことで協力を仰いでくれていて、本当に良かったよ。」

 道すがら、彼が事情を説明すると、当初はただふためいていただけの丹菊が、次第に憤然となり、目的のホテル階に着いた頃には、怒りの籠もった足取りで藍葉を先導していた。

 部屋のドアを叩きながら、

緑野みどりのぉ!」

 藍葉と異なって最低限見られるジャージ姿で過ごしていたらしい、緑野と呼ばれた若い彼は、すぐに、トレーナーらしからぬ蓬髪ほうはつで応対して来た。藍葉からすると、見憶えが有るような無いような、そんなところである。

「……丹菊選手? なんです、突然、」

「入れなさい。」

 きっと睨み上げる彼女は、大国の王女のように、遙かに背の高い丈夫じょうふである緑野を悚然と従わせた。

「……アンタだけか、丁度良かったよ。」

 選手と違い、スタッフとして相部屋を宛てがわれている緑野の寝所をぐるりを見回した丹菊は、そう述べつつ、顰め面で肩を聳やかしている。

「マッサージして欲しい、……とかじゃないですよね? 承りますけど、」

 恐らく、何か気を損ねる訳に行かない程の目玉選手である丹菊が、慨然として突然押しかけて来たことでこの上なく窮した、若き緑野による、精一杯だったこの言は、しかし、いよいよ彼女を逆上させた。

「あんた、何、暢気な、」

 藍葉は、丹菊のジャケットに隠されている筈の、ニトロ錠の所定位置を頭の中で確認してしまった。彼女の心臓が心配になる程に、怒りが瞭然と声音へ表れていたのである。

 丹菊も自分で不安になったのか、隠す相手が居ない部屋の中で、遺憾なく胸に手を当てて、暫くの深呼吸を始めた。渋面で、静やかに息の吸い吐きを繰り返す彼女に、色気を見出した自分を、藍葉が自己軽蔑していると、

「あんたさ、」落ち着いた丹菊が、先程の薬剤を緑野へ突きつける。「この薬さ、問題ないって言ったよね?」

「え? ……はい、そうですけど。いえ、確かに近年まで『競技中禁止』として指定されていましたが、もう、そこから名前が消えましたし、」

「緑野、さん?」

 藍葉が、堪らずにさしはさまった。

「確かに、消えているでしょうね。しかし、事態は逆です。バスタレルFの有効成分である、トリメタジジンは、『競技中禁止』から『常時禁止』へ、……されています。」

 絶句した緑野は、流石に紙資料は遠征先へ持ってきていないのか、彼のスマートフォン端末で恐らくJADAなりWADAのウェブページへアクセスしに行き、そして、暫しの後、空いた方の手で頭を抱えた。

 呻く彼に、丹菊が殆ど飛びかかる。

「巫山戯んじゃないよアンタ、……この私を、一生野球出来ない体にするつもりだったわけ!?」

 

 そこからの騒動は、大変であった。幸か不幸か、試合が中止になっていたのと、皆を出不精にさせる霖然とした天気のお陰で多くの者がホテルに残っていたことで、球団フロントまでは叶わずとも、現場内ではするすると話をエスカレーションすることが出来たのである。その中の、最後から二番目の段階、コーチやトレーナー長を相手取った話し合いにて、何故か同席させられた藍葉は、燃え尽きるところを知らない丹菊の憤激にほとほと感服させられていた。

「とにかく、申し訳ないですが、もう私は球団を信用出来ません。此方からお出しした条件に牴触したのですから、あの放出条項を履行して頂きます。」

「トレード、という事になるのだろうが、勿論直接には我々の仕事ではないから断言出来るところではないが、しかし、お前程の選手をシーズン中に動かすのは、簡単でないのだぞ。」

「お褒めの言葉は有り難く頂きますが、」彼女はそうして、蔑ろにする為だけに相手の言葉尻を拾ってから、「困難だろうとなんであろうと、申し訳ないですが、しかしやって頂かねば困ります。」

「無理なものは、無理だ。トレードは、此方の一存で決められるものではないのだから。だからってもしもお前を無償なんかで出したら、受け入れ先への利益行為となってしまい、他の球団へ申し訳が立たん。」

「じゃあいいじゃないですか、トレードなんかにこだわらなくても。ウェイヴァーなら、勝手に出来ますよね?」

 言葉に詰まる相手を前に、丹菊は、縷々と、

「確かに、日本人をシーズン中にウェイヴァー公示するのは、近年禁じ手みたいになってますけど、というより、シーズン外すらここ十年ほど聞きませんが、しかし、それは選手が気の毒だろうという話であって、今回は、私が望んですらいるのですから、何も構わないですよね?」

 これを言われたことで、とうとう彼女を懐柔するのを諦めたのか、応対していたコーチは硬直な論理を振りかざし始めた。

「丹菊君。良いかな、選手から球団へ移籍を強要するのは、野球協約違反になって」

「109条ですか?」丹菊は、いよいよ眉を寄せて、「ある選手が、して、譲渡、つまりトレードを強要した場合、ええ、制裁が下りますね。しかし恐れ入りますが、それ、今何か関係ありますか? ないですよね? 私が一人で、しかも、どこそこへ入れてくれではなく、単に、ここから出してくれと言っているだけなのですから。別に受け入れ先が無いなら、いいんですよ私は、このまま球界を去っても。」

 そっちがそのつもりなら、譎詐を用いようとするならば、と、彼女は、態度を硬化させた。これまでは一応、感謝の気持ちから手心を加えていたのだがな、とでも言いたげに。

「というかですね、別に、良いですよ? 公に争っても良いんですよ、私自身は。何せ、とにかくこの球団で続ける気は無いんですから。でも、薬品の管理もロクに出来ず、選手にドーピング違反させかけ、挙句、すんでで回避出来たのも球団ではなく他の選手のお陰で、その上で契約条項を握り潰す、……そんな汚名、私も、横浜という愛していたチームに負わせたくないんですよ!」

 どこか矛盾するような主張であったが、しかし、その捩れを力に転化するかの如く、丹菊は力強く述べ上げた。

 それから、一転、柔らかげな声音で、

「それに、……正直そこまで、球団にも悪くない話だと思うんですけど。いえ、だって、私と枝音の年俸、来年用意出来るのですか? 私はこのまま出塁率五割台を維持するでしょうし、自分で言うのもなんですが、ベストナインとゴールデングラブも固いと思ってます。もしかしたら、盗塁王や新人王特別賞も頂けるかもですね。で、勿論純然の新人王は、どうせ枝音で、打者三冠と最高出塁率だけでなく、ベストナインにMVPも、彼奴は取るでしょう。ホームランは100本位打つでしょうし、打率や打点も日本記録を更新する筈です。幾ら年俸六割掛けの契約だからって、それでも、彼女には10億近く渡さねば体面が保てないのではないですか? なのに球団としては、別に私や枝音を拾ったからって、チケットの売り上げが倍にはなってはいないでしょう、もともと満員近かかったのですから。いえ、何なら、毎度毎度ウチが当たり前のように勝ち過ぎるので、逆にファンの興が冷めてすらいるかも知れません。このような状況下、私を放出することは、球団にとって一石二鳥なのではないですか? 勿論戦力は失いますが、しかし、枝音や他の素晴らしい面々が居れば、どうせこのまま優勝するでしょうから。」

 そうして、紫桃のそれとは全く異なりながら、やはり練達の社交術、理智と弁舌、更には硬軟の揺さぶりにより、完全に場を支配した彼女が、その後ぽつりと呟いた言葉に、藍葉は、心の底から驚かされたのだった。

「そういえば、ついでと言っては何ですが、……こちらの藍葉君も、どうやら、出して欲しがっているみたいですよ。」

 あまりの突然に、藍葉が、言葉も出せぬ内に、

「いえ、何せ当然ですよね。枝音が居ては、藍葉君の出場機会なんて絶望的ですから。……そこで、此処から先は相談乃至お願いなんですけど、彼と私を、同じ球団へ狙って放出しては頂けないでしょうか? ウチとしても、計算外の枝音が戦力になってしまったせいで、正直、捕手は一人余っているでしょうしね。」

 

 翌六月三十日の阪神戦を勝利で終えた、更に翌朝、藍葉と丹菊は、万一にも誰かと出会さぬよう、始発で横浜へ取って返し始めた。丹菊が早速ナイターを控えていたので、この移動中にしか、二人は近々に話し込める時間を見出せなかったのである。

 新大阪を発って暫くし、同じ車両に誰も乗って来ないのを確かめてから、

「まず、有り難う藍葉。ほんと、助かったんだけど、……ジャダ、だっけ? なんで、あんたあんなこと知ってたの? 大雑把な知識ならともかく、一々の薬品の動向だなんて、」

「ああ、ええっと、……、興味が有ってさ、」

 藍葉が、かつてスポーツ記者であった時の、生涯を超えた杵柄であった。

「ふぅん、」自分で訊ねておきながら別段、興味も無さそうに、「肝腎のNPBのことは全然知らないくせにさ、変な奴。」

 そして彼女は、車窓を暫く眺めていたが、ふと、意を決したように、

「本当、あんたって変な奴だよ藍葉。全然、他の連中と違う。いや、今のチームメイトが嫌な奴らって訳じゃないけど、でも、安心させてくれるのは、なんかやっぱり、枝音の他にはあんただけなんだよね。私、きっと、何処かで臆病なんだろうけど、それにしても何だか、あんたの異端に救われちゃうんだよ。」

 彼女は目を閉じ、羞悪を忍ぶようにかぶりを振ってから、

「だから、御免、あんなこと言い出しちゃったんだ。」

「うん、……凄く、驚いた。まぁ確かに、トレードされてしまった方が、横浜にも僕にもプラスなんだろうとは思うけど、」

 本来なら、世界盆栽の調査官として、横浜を離れるだなんて馬鹿な話、頑として撥ね除けるべきだったのだろうが、しかし、丹菊の方と同チームで居続けられるのなら別に悪くないだろうと、あの場の藍葉は感じていた。紫桃から離れてはしまうが、丹菊の情報は引き続き得られる、

 ………………

 この論理がまやかしであると、彼は自分で気が付いていた。丹菊についての委細など、紫桃のそれに比べればどうでも良い筈なのだ。目下彼が解明せねばならないのは、紫桃の事であり、丹菊の情報は、それを助ける為の補助材料にしかならない。丹菊を追って、折角凄まじい労力の末にち得た横浜入団を抛つだなんて、本末転倒も甚だしい。

 しかし、彼は、ほだされていた。自分を信用して頼ってくれる彼女が、どうか付いてきてくれと縋ってきて、それを、振り払うことなどとても出来なかったのだ。

 そこで藍葉は、自分の献身や決断の正しさを確かめた上で、それらを確乎とすべく、彼女に関する素直な疑問を全て、この車内で解消してしまいたいと願っていた。時間は、然程無い。平日始発とは言え、京都や名古屋で人が乗ってくる可能性は、ゼロでは無かった。

 そこで、彼は早速、

「でも、なんか意外だった。あれだけ紫桃さんとプレイしたがっていた君が、あんな逡巡も無しに、退団を願い出るだなんて。しかも、彼女ではなく、僕なんかを伴わせて、」

「流石に、チームの大黒柱の紫桃も出せなんて、無茶なことは言えないよ。私も、そこまで馬鹿じゃない。でも、あんたなら、割と現実性有ったでしょ?」

「あー、酷いなぁ。」

 二人して笑ってから、

「でも藍葉。重大な誤謬は、そっちじゃない。もっと大事おおごととして、あんた他にも勘違いしている。私はね、別に、枝音と一緒に野球をしたい訳じゃないんだ。」

「……違うの?」

「全然違う。」丹菊は、殆ど睨め付けるように、藍葉を見縋った。「私はね、藍葉、……やっぱり、枝音にんだ。藍葉、あんたの言いぶりから察するに、私が入団時に何を要求したのかすっかり――本当、良い趣味してやがるよ――知ってたんだろうけど、あれは、横浜に出来る最大の要求だったからそうしただけで、本当はね、藍葉、私は、枝音とんだよ。私が、大好きな横浜に入って、そして、枝音がセの何処かへ。……それが、私の本当の願いだった。それが、漸く叶おうとしている。ちょっと、所属はあべこべだけどさ。」

「ああ、そっか。」藍葉は、得心したように、「つまり、昨日の大騒ぎは、勿論緑野やサポート体制への不満も有ったんだろうけど、でも、それよりも君は、とにかく横浜を出たかったんだね」

「ま、正直そうだね。」

「悪い人だなぁ。」

「まぁ、私が心底呆れたのは本当だったから、しょうがない。心臓の話はね、命懸かってんだよこっちは。選手生命という意味でも、文字通りの命って意味でもさ。そこを、あんないい加減な仕事、

 それに対し、藍葉、あんたは本当にお美事だったよ。……ありがと。」

 前を向き直している彼女は、嵌めたグラブを拳で叩くかのような手振りを、音高く、両三度見せてから、

「と言う訳で、トレードよりも、ウェイヴァーで放出になってくれれば最高なんだよね。」

「……なんで?」

「本当、NPBのことは何も知らないね、あんた、」丹菊は、笑ってから、「ウェイヴァー公示された選手の獲得は、早い者勝ちとか競りとかじゃないんだよ。、そして、下位の球団に獲得優先権が有るんだ。」

「……へえ、」

「勿論欲しがってくれるのが前提だけど、でも例えば、現在六位の巨人は、私を必要としてくれてもいい筈なんだ。外野の三人目がいまいち決まってないし、それに正直、今、能力の甚だ怪しげな外国人を一人支配下に抱えちゃっている状態なんだからさ。つまり、彼をそれこそウェイヴァーで放出すれば、私を取っても、支配下枠はちゃんと維持出来る。しかも私の年俸も、ルーキーだから1500万なんて超安値だよ――年度内はね。」

「ああ、そっか。……しかし、契約金を持って行かれる横浜、少し可哀想だなぁ。」

「放出条項が契約に入っているのに、気前よく8000万出したのが悪いよね。自信の表れか、或いは自戒だったのかも知れないけど。……まぁ、実際私も、返したいと思ってるけど、出来るのかな今から。もしも出来たとしても、金を往復させるだけで馬鹿みたいな税金払うことになりそうで、やな感じ。」

 彼女にしては珍しい、訥々とした様子で続けるに、

「私は、枝音に勝ちたいんだ。あの化け物に、一矢報いてみたいんだよ。だから、セリーグ内の移籍になる公算が高い、ウェイヴァーが望ましいんだよね。トレードだと、逆に、出来る限りパとの遣り取りにされちゃうだろうし。」

「化け物って、……親友に、酷い言い草、」

「親友だからだよ。親友だからこそ、知り尽くしているからこそ、私にとって、超えたい、超えなきゃいけない壁なんだ。私、本当に彼奴に勝ちたい。こないだ、私、ハマスタで先発登板したじゃん? あれも、私からずっとコーチや監督に志願していたんだよ。枝音ばっかり注目されてて、私、本当に悔しかった。出塁率すら私を超えているくせに、成績に興味ないとか言いやがって、私正直、心底苛ついてた。むかついてたんだよ。とはいえそれで彼奴を恨む訳にもいかないし、だから私は、枝音を、球団を、世界を、見返してやりたかったんだ。本当は枝音を直接打ち破りたいけど、出来ないのだから、せめて、引き出しを多くして、少しでも選手の価値として彼奴に近づきたい、って。……私の内心を知ってか知らずか、枝音は、最後まで私の登板に大反対だったんだけどね。」

 一つ、深い息が吸われてから、

「そんな大それた事を私が志願したような元気も、なんだか、……藍葉、あんたによって涵養してもらってた気がする。」

 どういう意味?、と、訊ねようとした藍葉であったが、丹菊の悄然とした様子に、その言葉を呑み込まされてしまった。不粋なことを訊くなよ、という、物憂げな横顔。

 そこで、何を言って良いのか分からなくなった彼は、ずれているのを覚悟で、

「ええっと、登板は無失点で終わったんだし、そこは、紫桃さんの見る目が無かったのかな。」

 ピント外れを、丹菊は莞爾と許しつつ、

「本当、あんた馬鹿だね。1失点だったよあれ、自責点は確かにゼロだけど。」

「あ、……言われると、そうだね。うっかり、」

「他の野手ならともかく、捕手でしょあんた?」

「まぁ、失点でも自責点でも、試合の勝敗には関係ないし?」

「そりゃそうだけど、さ!」

 二人が話す内に停止していた京都駅から、車両が再出発した。幸い、客は未だ一人もここには乗ってこない。しかし、……名古屋まで行ったら、どうだろうか。

 そう焦った彼は、果たして彼女へ訊いていいものかどうなのか分からぬまま、しかし、更なる問い掛けの覚悟を決めた。このタイミングを逃しては二度とチャンスが無いという、強迫感によって。

 この焦燥は、はたからすると明らかな誤りで、この先、丹菊と二人きりになれる機会など、幾らでも作れる筈だった。しかし、彼は、今彼らを包んでいる雰囲気が、今からつけんとする質問に不可欠だと思っており、或いは、知っており、ならば、文字通り、今しかないのだと、火を入れ終わる刀工のように見据えたのである。

「ねえ、」ぽつりと、「紫桃さんって、何者?」

 丹菊は、また一笑してから、

「何それ。そりゃ、御存知の通り、セ界を破壊する大魔王様で、」

 彼女が雰囲気を緩めようとするのを、藍葉が、ぐっと身を乗り出して差し止めた。

「つまりさ、」真剣な声音。「紫桃さんの振る舞い、色々と、明らかに異常だ。あれはきっと、ただの、野球の天才なんかじゃない。……何か、尋常でないものが有るんだろ?」

 そう話しながら、彼は、場所が同じ新幹線であるということにも助けられて、往路で摑みかけていたことを思い出していた。オールスター戦初日に、空振り三振や捕逸を連発する紫桃の様子は、扇風機の逸話や黄川田の語る、かつての、町田でのいまいち頼りない彼女の姿と同様だったのだ。つまり、あの福岡での四タコや守乱は、何も不思議だったのではなく、河川敷女子野球の六番打者の力のままに、NPBオールスターという大舞台に上げられた彼女が、実力通りの醜態を演じたに過ぎなかったのではなかったか?

 きっと、何か条件が有るのだろう。それが満たされれば、紫桃は魔神の如き力を発揮するし、そうでなくば、性別相応に非力で鈍足で、しかも不器用な選手に過ぎなくなる。……そう、なのではないか?

 この、「条件」という響きは、数多のクリエイターによる世界盆栽の操作を見てきた彼の直観へ、良く響くものだった。世界へ注入する登場人物の異能に、そういう脚色をあしらうことは、物語に奥行きを与える上で、あまりに有名な、使い古された手段だったのだ。この世界においても導入されている可能性は、決して低くない。

 そして、ならば、……茶畑の突き止めていた入団契約内容からして、ドラフト指名と実戦投入さえされれば紫桃は一線級になるのだと――女子軟式での悪評を知らぬかのように――確信していたらしい丹菊は、その、盟友の覚醒を、知悉していたのではあるまいか?

「丹菊さん。僕を信頼してくれるなら、君から僕に、出来る限りの話を聞かせて欲しいんだ。それでこそ、僕達は、紫桃さんを破ることが出来るんじゃないかな。……それに、一緒に球団を抜ける僕らは、最早、一心同体みたいなものだろ?」

 目を伏し、不安げに顴骨の辺りを触り始める丹菊へ、彼は畳みかけるように、

「ねえ。」ぽつりと、「紫桃さんって、何者?」

 何も聞こえていないかの如く、その後も暫くだんまりと、頰を搔いていた丹菊は、しかしふと、緊張の風船が爆ぜたかのように、くくく、と、声に出して笑い出した。

 崩れた相好のまま、

「藍葉。そんな、『一心同体』なんて生意気で気持ち悪いこと言うなら、今度こそ、一軍ベンチに定着してよね。」

「ああ、きっと。」

「あと、もう一つ。」彼を見据える彼女は最早、普段の、勇ましい笑顔で、「今からの話、もしも他言したらぶっ殺すから。」

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