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 ’16年度の交流戦開幕を、横浜球団は西武ドームで迎えた。紫桃は、果たして埼玉まで来るのだろうか? ひょっとしたら、来ないでくれるんじゃないか? そして、もしも来ないのなら、東京球団も、戸田で一軍ホーム試合を行えば横浜を攻略出来るのでは? などという、西武・東京の希望を語るような議論が市井で――後者は半ば冗談だとしても――繰り広げられていたが、しかしそれらは、西所沢駅で紫桃と丹菊が目撃されたことで無為に終わってしまう。ユニフォームをジャージで隠す為に着膨れている彼女らは、揃ってVサインを向けつつ――恐らくは自発的に行った紫桃に、丹菊が仕方なく付き合っているのだが――、目撃した野球ファンに気持ちよく写真を撮られており、SNSにそれが投稿された結果、「こいつら電車で移動してんの!?」などとコメントが寄せられた。どう変装しても目立ってしまう丹菊が、関東内の試合ではいつも、紫桃に護られるかの如く、町田駅で落ちあった上で睦まじく電車移動していると言うのは、後に、広く知られる逸話となる。

 この日の丹菊は、鱗のように煌めく荒川の写真をTwitterに投稿して、「川」とだけの言葉を付すに留めていたが、紫桃の方は、「免許も車も持ってないし、今年はとても運転手やハイヤーなんか使えないゾ(来年はお金貰えそうなので検討)」と反応を見せた上で、試合前の、西武ドームでの写真も上げていた。

「パのミスター本塁打、去年の二冠王、おかわりくんさん! 実は私達、背丈一緒くらいなんです!」

とのコメント付きでのツーショットなのだが、NPBの中では痩身に見える紫桃と、「年季の入った動けるデブ」を自称する西武の那珂村が、一センチ差で並んでいるので、同じく豪打を誇る者同士でも、その求道の仕方は全く異なりうるのだなと、見るものを感心させる一枚となっている。ただし藍葉は寧ろ、朴訥で知られる那珂村を、含羞みながらでも笑みつつの写真撮影に初対面で応じさせたと言う、相変わらず絶倫な、紫桃の社交性の方に驚かされた。

 そんな紫桃は、丹菊曰く、那珂村へかなりの敬意を示していたと言うのだが、対戦が始まると寧ろ彼女は、交流戦前にシーズン40号を記録していた打棒を見せつけるかのように、三連戦で四発ばかり、レフトスタンドへ叩き込み、更にはその勢いで、チームの連勝記録も三つ伸ばさせた。「そもそも40本の時点で、去年のおかわりくん超えてるからね。『ミスター本塁打』だの『二冠王』だの、あの女らしい、嫌みったらしいインギンだよ」とは、丹菊が密かに藍葉へ送った評である。

 そのような相変わらずの独擅によって、セントラルよりレヴェルの高いとされるパリーグの球団ならば止められるのではないか、と言う希望を、早々粉々に打ち砕いた紫桃は、横浜スタジアムに迎えた千葉相手でも、チームを攻守で率いて三タテを達成させた。この結果、横浜球団は連勝数を、前人未到の23にまで伸ばしてしまう。ここまで来るとどこまで連勝記録が延びるのだろうかという、ヤケクソな興味が、他リーグに因るのならば恥でもあるまいという下世話な無責任と共に、セリーグ諸球団のファンから集められたが、場所を移しての福岡にて、無事に記録は止まった。投手陣が、或いはリードした藍葉も、名門福岡球団相手に見事こらえ切れず、大失点を繰り返し、無残な三連敗を喫したのである。

 その後続けて、オリックス三連戦と対日本ハムの初戦(新潟開催)にまで参加しての七連戦、マスクを被ったり被らなかったりの三勝四敗という、なんとも微妙なチーム成績を体験した藍葉は、横浜へ戻ったところで、茶畑からメッセージが届いていることに気が付いた。

「今度の日曜日の、バックネット裏席取れてるよ。結構高かったから、またお金出してくれると嬉しいなー」

 藍葉は、混乱のままに指を動かす。

「何のこと?」

「え?ほら、交流戦終わりの頃にまた会おうって言ってたじゃん?だから、チケット買っておいたの」

「…なんの?」

「決まってるでしょ、横浜戦@ハマスタ」

 彼は、歎息を漏らしてから返事を書いた。

「いやまぁ、どこでもいいけどさ、よりにもよって野球場で?」

「理に適っていると思うんだけどなー。だってさ、この日の対戦相手ってさ、」

 誤タップでもしたのか、茶畑のメッセージはそのように尻切れ蜻蛉だったが、

「ああ、」藍葉が、補完してしまう。「なるほど、例の楽天戦か。確かに、それは直に見ておくカイもあるかもね」

 

 そう、茶畑との再開を控えていた藍葉は、その前日である土曜日、練習予定を夜間へ繰り下げてまで、殊勝にも、予習兼復習として横浜戦の中継を自宅で視聴していたのだが、彼は、そこでの展開に心から驚かされることになった。

 楽天vs横浜の二試合目、先発今長が打ちのめされて早々に三点を失った横浜であったが、それに奮起されたのかどうなのか、とにかく紫桃の第55号を含む猛攻で八点を取り返し、逆に悠々五点リードで六回を終えてみせる。この最中に横浜のベンチが中継に抜かれたのだが、紫桃、三合、ラペスの中軸三人が、恐らくスペイン語で、騒々しげな手振りを交えつつ何か談笑している様は、稼業から返ってきた賊の団欒の如き邪悪な陽気さを漂わせており、これだけ点を取ってまだ飽き足らぬのかと、視る者を少し不安にさせた。そして事実、七回裏、先頭の九番投手がお定まりの三振に斃れた後の一番柁谷は、安打でしっかり出塁して見せたのである。

 ここまでは、藍葉も承知している展開だった。つまり、これまで再生してきたでずっと繰り返されてきた、星の運行の如く固定された、六月十八日に然るべき試合展開が、もう一度なぞられるのみだったのだが、しかし、突然一つ、変化が訪れる。四球を選ぶ筈である丹菊の、流したファールライナーが、張り切っていた三塁手に好捕されたのだ。驚いた藍葉は、この三次元世界で茶畑から習ったあの言葉を、思い出してしまう。

 バタフライエフェクト。

 彼らSF作家の思うより、世界はずっと頑健で、或いは粘的で、蝶の羽搏きくらいで何も巨視的な要素は変わらない。しかしどうやら、自分が入団して琴柱が居なくなっていると言う摂動は、打撃結果一つを乱すのに充分だったらしい。

 世界終焉年度の楽天横浜戦は、そもそもの試合数が少ないことも有って、これまで自分や茶畑がその一つ一つへしっかり注目し、研究してきた対戦カードであったが、ここに来て、知らない展開が繰り広げられつつある。……何が、ここから起こる?

 そうやって、普通の観戦者とは違う意味の汗を手に握りつつ、いよいよ真剣になり始めた彼が注視する向こうで、今年一度も藍葉が立てていない、横浜スタジアムの打席へ向かい始めたのは、三番へ打順を上げられていた紫桃だった。これまでの周回世界での、今日の楽天バッテリーは、七回裏の彼女から、気合いの見逃し三振を美事に奪い、敵地故に少ない楽天ファンから強い歓声を送られていたが、果たして、今度はどうなるか、

 と、藍葉が集中しようとしたところで、ちょっとした事件が勃発した。一塁走者の柁谷が、初球から盗塁を仕掛けたのである。レフトに運ぶか三振かの紫桃が打席に入っている時点で、あまり効果的な行動とは思われないが、だからこそ虚を衝こうとしたのか決行されたスティールは、楽天捕手島の抗いにも虚しく悠々とセーフになる。

 そう、か。これまでの世界では「まぁ丹菊なら歩くだろ、盗む意味が無い。」とでも考え、自重していた柁谷或いは首脳陣が、その期待が裏切られたことで行動を変えてしまったのか。

 そう思う藍葉の背に、嫌な予感が一つ走った。冷たくもあり、熱くもある、危機感と義憤が綯い交ぜになったような感覚。ラミーロや中濱の麾下きかでは想像も出来ないが、しかし自分も捕手として、昔々は、そのような命令を当時の監督から受けたことが有った。五点差での盗塁。なんとけしからん。侮辱だ。冒瀆だ。そんな事をする無礼者達には、一発死球を与えてやるのが正義と言うものだ……

 彼の嫌な予感は、見事に当たってしまった。楽天の敗戦処理投手の右腕から投ぜられた白球は、真っすぐ、紫桃の腰元へ向かって、

「馬鹿がよ!」

 暴力への軽蔑で、そう叫びかけた藍葉であったが、しかし、次の刹那、絶句させられることになった。右打席に立つ紫桃は、そんな害意の投球へでも真摯に呼応するかのように、左足を動かしたのだが、その動きが、全く尋常でなかったのだ。それを上げるのではなく、摺って、後方へ回し、右足と殆ど同じ奥行き、打席の最後方へやってしまう。そして、そうして捻り上げられた、窮屈極まりない姿勢から、彼女は、バットを振り出した。右打席の中で構えた、即席の左打ち。そうとでも呼ぶしかない、目茶苦茶なフォームは、しかし、悪意ある速球を芯で捉えたのである。

 危険球に気が付き、「おっと、」と小さく叫んでいた実況が、次の瞬間には、有らん限りの声で、

「ああっと!? ……駄目だ、そっちは、」

 全くハマの大魔王らしくない、半端な飛距離の打球は、しかし、内野手の上くらいは悠々と超えて、ライト線間際にぽとりと落下した。……そう、ライト線。

「駄目だそっちは、……誰も居ないぞぉ!?」

 紫桃への当たり前の対策として、外野手全員を左翼方向へ集めていた楽天。右翼手と二塁手が懸命に追い駈けるが、一人っきりのボールは暢気に、半端な速度で、からっぽな右翼最奥を目指している。敵軍の狼狽を他所よそに、綽然と生還する柁谷。対して懸命に塁を回っている打者走者紫桃が、二三塁間を駈けているところで、漸く打球は捕まった。

 怪物丹菊の肩には及ばすとも、鋭い返球が右翼の奥底から飛んでくる。腕を回す三塁コーチ。紫桃が、いつもの莞然を失った苦悶の表情で、サードベースを蹴飛ばした。内野へ返ってくる白球。必死に走り続けて来た大魔王は、もう撤退が利かぬことを知ってか、何も情況を知ろうとせず、ただ、前方のホームベースを睨み付けている。

 目前に本塁を捉える彼女。その前方で、とうとう捕手が返球を受けた。楽天島の、スウィングされるバットのように鋭くかいなの振られる、熟練のタッチ動作は、しかし、滑り込んで左足だけを掠め通らせる、紫桃の上体を取り逃した。球審の両腕が、二度三度と広がる。

 返された亀のように、キャッチャーボックスの辺りに仰向いて動けない紫桃へ、柁谷が心配そうに寄るが、まともに喋れないらしい彼女は、息を荒げたままなりに、立てた親指を向けて無事を知らせた。

 応援団の朗唱に、昂奮した実況が覆い被さる。

「判定は、セーフ! ……紫桃、日本人記録更新の第56号は、自身初の、まさかまさかのランニングホームラン!」

 見かねた丹菊やコーチが駈け寄って来た頃に、何とか立ち上がった紫桃は、何処か馬の顔を髣髴とさせる、つまり、喰い縛られた歯を露にする笑顔を見せると、乱れ息で肩を上下させたまま、何か、島へ向けて一言掛けた。その内容は当然藍葉には分からず、中継に聞こえてくるのは、解説による敬歎と、右翼スタンドからの雄々しき得点テーマのみである。

 そのすぐ後、息苦しむ渋面のままチームメイトと喜びあう紫桃を、後目にする島は、被弾したプロの捕手に然るべき表情で本塁に佇んでいた。投手を責めていないこと、自分の責任を忘れていないこと、また、だからといって自信も失っていないことを示すという、難しい仕事の達成する為の、消去法的な無表情で、彼は今何を思っているのだろうと、藍葉は按ずる。ただの被弾なら、受け止めようもある。しかし彼らは、10失点目のツーランホームランを、しかも、報復死球のお返しに浴びたのだ。それも、ただの返礼ではなく、あの打席の紫桃の動きは、明らかに、自分へ向かって投球が為されることを前もって見透かしていたものだった。「どうせアタシへ投げてくるんだろ? アンタらの品性では、」と受け取れなくもない、嘲弄的な一撃を、記録更新本塁打と言う最悪の形で、しかも同じ捕手から喰らった彼は、一体どのように思うのだろうか。

 島については勝手に想像するしか無かったが、打った方の紫桃の方においては、果たして楽天がそのまま敗北したので、勝利貢献と言うよりもシーズン56号を評価されたらしい彼女がヒーローインタビューに呼ばれ、その言を皆が聞くことが出来た。

 打った感触は、と、史上万回は繰り返されて来たであろう質問を向けられた彼女は、

「いやー。もう、全力疾走させられて散々でしたね。やっぱり、ホームランは歩くのが一番ですよ、もう二度と御免です。」

 こんな、はぐらかすような答えに対し、インタヴュワーは、先の凡百な質問から一転、その伎倆ぎりょうを発揮してみせた。危ない球を美事に捌きましたが、その点についてはどうですか、と、禁ぜられた「報復死球」という言葉を、拾うかどうかは紫桃に委ねつつ、短い言葉の行間に折り込んだのである。

 彼女は、流石に一瞬目をしば叩いたが、それ以外は完全な尋常のまま、

「ええっと、……これ、何回も言っちゃっていて申し訳ないんですけど、私、打席のこと、後からだとあんまり憶えてないんですよね。なので、まぁ、どちらかと言えば、打球を目で追って、『おわ、ライト誰も居ねえ!』と驚いたことばかりが印象に残っているんですが、」

 紫桃も、社交の達人らしい老獪な返しで、「打撃中は頭が真っ白になるので何も憶えてない」という繰り言を盾にしつつ、愉快な話に纏めることで深入りを遮断した。そうして言外の息を合わせた彼らは、今長に負けを付ける訳にいかなかっただの、交流戦も残り少ないですが頑張りますだの、61号? まぁ到達するでしょうけど、特に興味は無いっす、などと、無難極まりない話題に終始させることに成功し、彼女のおらぶ、流暢な「We love Yokohama!」によって、無事に球場の空気は――見た目上――収拾されたのである。


 翌日の13時10分、関内駅で集合した、適当に変装している十二次元人らは、

「昨日については僕が勝手にやりだしたとは言え、しかし、これで夜練習が二日連続になっちゃって、しかも今度はハマスタ観戦だから、横須賀への移動が大変だなぁ。」

「え? ここから直接横須賀へ行けば、寧ろ、藍葉君の家から向かうより近そうだけど。」

「あ。」藍葉は、頭を搔きつつ、「あーあ、手ぶらかつ完全な私服で来ちゃった。」

「私服なりに、寮の、ウェイト機器でも借りてけば?」

「せめて、ジャージとかじゃないと怒られそうだなぁ。……失敗したや。」

などと無益なことを話しつつ、スタジアムへ向かった。直にビルの合間から頭を見せてくる、その、去年までは見飽きていた筈の青い威容が、今年の藍葉の目には眩しく映る。

 ネット裏席故に、青や青縞のレプリカユニフォームを纏う主な観客らに混じって、楽天を推す者らもちらほらと見かけられたが、そうした混淆が為される箇所では、妙な緊張が走っているように、藍葉や茶畑には感ぜられた。こんな不和には、三つほど理由の候補が有る。いずれも昨日の出来事で、柁谷の五点差盗塁と、紫桃への報復と思しき投球、そして、あの後に球場で発表されていた予告先発だった。

 座席に着いて、青星寮カレー麵麭を齧る茶畑と、流石にそっちのカレーは喰い飽きて御免だとばかりに買い求めた、崎陽軒の焼売カレーを開き始めた藍葉の前では、既に楽天のスタメン発表が終わっており、横浜球団のメンバー発表が大仰に始まるところだった。たまには鍬原辺りが来るかもしれないという期待を裏切っての、一番センター柁谷に続いて読み上げられたのは、二番キャッチャー紫桃と、三番、、丹菊。

「あーあ、本当に来やがったよ。」

と茶畑が漏らすのを他所に、横浜勢は盛り上がるのだが、その歓声に陰りが差し込んでいるようにも、二人は感じたのだった。奇策を好むラミーロ監督による、オープナー――極小イニングを投げる先発――としての、外野手丹菊の起用は、真性の投手陣の負担軽減が狙えること、話題性を得られること、そして交流戦最終盤かつ日本シリーズで当たることがありえまい――とこの当時は思われていた――楽天相手ならば、何か想定外のことが起こっても被害は少なかろう、などの要素により、ある種理に適っていると思われるものではあったのだが、何分、頃合いが最悪だった。少々険悪な雰囲気となっていた昨日の試合中、この、嘲謔と捉えられなくもない発表が堂々と為された時には、藍葉は自宅で顔を覆ってしまったものである。試合中かその前に予告先発を提出してしまっていた以上、ラミーロとしては撤回出来なかった訳で、つまりランニングホームラン騒動とは関係ない先発予告の筈なのだが、しかし、快く思わぬ者も少なくない筈だった。

「誰が、こんな起用言い出したの?」

「……さぁ? 後で訊いてみようかな。」

「是非お願い、興味深いから。」

 人には気軽にお願いしてくるよなぁ、と思いつつ、藍葉は、昨日七回裏の丹菊の打席を思い出していた。てっきり、藍葉の存在が巡り巡って、単になんとなく、彼女を三邪に終わらせると言う結末を齎したのかと思っていたが、もっと具体的に追えるのかも知れない。つまり、誰が言い出したのかは知れぬが、とにかく投手としての実戦を翌日に控えていた彼女は、当然ピッチャーとしての練習をしたり心構えを整えたりしていた筈で、その分生じた、打撃への怠りが、打者としての彼女の成果を毀損したのではなかったろうか。

 試合開始が迫ると、朗々たるDJの声によって最後にベンチから送り出された丹菊は、始球式を除けば恐らく史上最小の背丈から、横浜スタジアムのマウンドより白球を、投球練習として投じ始めた。信天翁あほうどりの翼のように真横へ延びる、純然たる右のサイドスローからは、中々の速球が紫桃へ送られている。制球は抜群で、紫桃のミットは殆ど動かない。

「どうなのあれ?」

 ぼんやりした問い掛けを、解釈した藍葉は、

「なんというか、……ちゃんと、『投手』だね。フォームが、なんらかの意図に基づいて洗煉されてる。暇だからってマウンドに上がった野手なんかじゃない、それなりに、ピッチングを究めんとして来た者の球だよ。」

「へえ、……でも、町田時代から外野手だったんだよね?」

「どこかで、投手経験も有ったんじゃなかったっけ?」

「……あー、そんなこと黄川田が言っていたようないなかったような。でも、大分前の話っぽかったけどなぁ。」

 折角の改心の取材結果に矛盾する光景が、繰り広げ始められたことで、そう不安になり始めた彼らを他所に、試合は賑やかに始まった。いつも通り例の特註マスクによって、笑んでいることが分かりやすくなっているであろう紫桃のサインを、此方も莞爾とした丹菊が、楽しそうに頷いて受け入れる。右打ちの楽天一番打者は、そうして投ぜられた外角直球を見逃した。ストライク。

 147キロ。表示に、歓声が上がる。

「はっや、」と茶畑。

「女子の球速記録って、幾つだっけ?」

「たった今、147キロになったね。」

 藍葉が笑ってしまう内に、

「世界記録で134キロ、国内で127キロ位じゃなかったかなぁ。いやぁ、本当、女身じゃないね。」

「横手なのに腕短いから球速出にくそうなものだけど、……そんなことを打ち消す程の、筋肉量なのかな。」

 二球目で、今度は内角に145キロを決めると、その後は、外角一杯から逃げる129キロのスライダーで、丹菊は最初の打者を空振り三振に切った。「やるじゃん! 詠哩子、」と、聴覚を強化していた藍葉らにも聞こえる程に叫んだ紫桃は、わざわざマスクを取って自分の笑顔を良く見せつけてから、一塁へ意気揚々とボールを回す。その後も丹菊は、二人目三人目を切って取り、美事な三者凡退でデビューを終えたのだった。

 DJが殷々と叫ぶ。

「ナイスピッチ、詠哩子ぉ!」

 その余韻の中で、彼女は両手を、助けを求める漂流者の如く、元気一杯にスタンドへ振るのだった。ハイタッチしてから引き上げる彼女らを見た、家族連れの家長が発した、「情けねえな野郎共は、ピーチとデイジーがキャッキャじゃれてるだけじゃねえか。」というぼやきによって、二人はつい笑ってしまったが、藍葉はそこから、

「実際、楽天も大変だろうけどね。全く研究していないピッチャーが突然出てきて、それなりの球を投げてくるんだから。」

 裏の攻撃。先頭柁谷が安打で出塁すると、二番紫桃は、微塵も動かないまま悠然と四球を選んだ。続いて左打席に入るのは、三番丹菊。短い、或いはまともな方のバットを持って、相変わらずの極端なクローズドに構える。ツーストライクまでは打ち気を見せておくよ、という、いつもの態度だ。

「まんまと歩かせると、無死満塁で三合かぁ。」と、前のめっている茶畑。

「丹菊の出塁率って、幾つだっけ?」

は、0.55くらいじゃないの?」

 藍葉は、溜め息で応えてから、

「で、この後に大砲三合が来て、そこがドジってもラペスか。なんか、……品が無いよね。」

 茶畑は、一笑の後に、

「何それ? いつかの西武打線の異名じゃん。」

「あ、いや、そうじゃなくてさ。……物語として、どうなのかなって。」

 俄に顔を怜悧に引き締め、目だけを此方に向けてくる茶畑へ、彼は、

「紫桃か丹菊、どちらかが横浜に居れば充分だったと思うんだけど、というか実際、対抗馬なりライヴァルになる筈の黒瀬なんかは未だに全然目立っていないのに、横浜への……」

 介入操作、と、そこだけ極端な低声で呟いてから、

「……は、強烈過ぎるよね。一体なんなんだ」

 そこまでで、彼の言葉は中断せしめられた。丹菊の放ったファールボールが、二人の元へ襲ってきたのである。きゃあきゃあ言い出す茶畑を他所に、藍葉は、殆ど垂直に落下してくる打球を、ひょいと左手で捕まえた。

 周囲からもちょっとした拍手の起こる中、茶畑は手を叩きながら、

流石さっすがぁ!」

「これだけは、正捕手様に負けないからね。」

 ボールの始末に困った彼が、ひとまず股の間に挟んでカウントを見やると、緑と黄色のランプが一つずつ、バックスクリーンの少し上で点灯している。

「ワンワン?」

「犬?」

 彼は、その混ぜっ返しを無視して、

「つまり丹菊、ノーストライクから振ったのか、」

「あれ、そういえば。不思議」

 茶畑がそう言い切る直前、打席の丹菊は、第三球を振り抜いた。極度のクローズドから、護謨仕掛けが解けるような勢いで振り出されたバットは、白球を、とんでもない勢いで右翼へ運んで行く。確信した彼女が、二三歩だけ歩きつつ、戦旗のように高々と白木のバットを捧げる中、右翼スタンド最後方、鳩サブレの看板が打ち抜かれた。

 巻き起こる大歓声の中、大笑する茶畑は、

「すっご。飛びすぎでしょ。」

「力だけなら、紫桃や三合よりも有るって事か。本当、……強烈過ぎるなぁ。」

 今シーズン第二号、というウグイス嬢の台詞が響く中、すっかり緩んだ茶畑が、殆どただの野球ファンの雰囲気で、

「で、何でノーストライクから打ちに行ってたのかな。」

「偶には打たないと舐められると思ったのか、それとも、三番だから今日はそういう役目だと割り切ったのかな。」

「とにかくこれで、投手として、三失点までは面目が立つね。」

「……うーん、そもそも、もう降りるんじゃない? 今日の丹菊はオープナーだって、ラミーロ監督の談話に出てたし。」

 そんな藍葉の予想に反して、しかし、丹菊は二回表のマウンドに立った。先頭の四番打者にはセンター前へ弾かれたが、五番六番は捩じ伏せ、進塁打が絡んでの二死二塁という局面を迎える。

 一応、丹菊の背負う初めての窮地か、という緊張で集中し始めた藍葉を気遣って、茶畑も、言葉少なにグラウンドを眺め始めた。

 左打ちの七番相手。サインに即座肯った丹菊が、初球として逃げるシュートを、紫桃のミット寸分違わずに投じ、打者が空振ったのだが、事件はここで発生した。彼の手から抜けたバットが、前方へ飛んで行き、マウンドの丹菊へ躍りかかったのである。皆がぎょっとする中で、彼女は、器用に飛び避けてから笑顔を作り、事態を収拾しようとしたらしかったが、すぐに、その顔は凍りついた。

「おい!」

 藍葉らに届くほどの、女性による罵声。丹菊、ではない。彼女はマウンドで固まっている。よって、つまり、

 マスクを抛り捨てた紫桃が、楽天の打者へ詰め寄っていた。

「何すんだテメエこの野郎!」

 何か言い返したらしき彼の胸倉を、ハマの大魔王が押し摑んだ。

「なんだこら、もう一度言ってみろよチンカス野郎!」

 両軍がベンチから飛び出てくる。少々出遅れた丹菊は、投手が騒ぎの中心へ巻き込まれぬよう、内野手によって本塁への突進を阻まれた。

 喧騒の中からでも、唯一の女性である紫桃の声は、その甲高さによって何とか藍葉らに聞き取られる。

「うっかりだと? そんな訳ねえだろ野球で飯喰ってんだろテメエ! バッセンで前にバット飛ばす馬鹿、見たこと有んのか? 仮にお前がそうだとしても、そんな下手糞が、人を殺しかけないと野球出来ない奴が、ここに来るんじゃねえよ! そんな奴は死ね! 刻まれて便所にでも流されろ!」

 半ば羽交い締められながらも、紫桃は、完全に瞠目したまま口角泡飛ばしている。

「テメエら、昨日から下らねえことばかりやりやがって! やってやるよ表に出ろこら、素手で来い! 喧嘩してえなら、グラウンドや道具を、野球を、汚すんじゃねえよ!」

 その後、打者の出生や親の職業を絡めたらしい、差別的なドぎつい表現が混じってきた辺りで、味方の五六人に囲まれた紫桃は、どうにかベンチの方へ引き下がらされた。

 そうして暫くベンチで座らされ、何かを懇々とコーチから説かれていた紫桃は、そのまま下がるのかと観客を不安にさせたが、結局、落ち着いた後のグラウンドへ、捕手装備のままどしどしと帰って来る。

 ブーイングと拍手の響く中で本塁へ至った彼女は、しかし、座るでも無く、打者を指差し、

「球審! ……私、こんな人と野球出来ません。私とこの人、どちらか退場にして下さい!」

 これに対し、大概にしないと遅延行為だぞ、とでも窘められたらしかったが、紫桃は、ただ、毅然と首を横に振った。一拍、ならば良かろう、と言いたげな間が置かれてから、球審の立てた人差し指が、スタンドへ球を投げ込むかのように振られる。

「退場!」

 紫桃は、そのマスク一体型ヘルメットを、恐らく脱帽行為として速やかに外し、小さく彼へ一礼すると、大人しく下がって行った。彼女はそのまま真っすぐ、ダッグアウト裏へ消えて行くのだが、堪らないのが横浜ベンチである。珍しくラミーロ監督が、通訳と共に飛び出してきて、球審に事実を確認し始めた。スタンドの横浜勢と楽天勢、双方からの罵声が沸き起こる。

 この抗議はどちらかというと、審判相手よりも、球界へ広く、不服を訴える為のものだったらしく、殆ど即座に終わり、警告試合の宣告の後に試合が再開された。しかし、相棒としかサインを準備していなかったらしい丹菊が、已むなくマウンドを降りることになったことで、急遽救援させられた横浜の二番手は、味方の失策で出塁を許してから、与四球、投手への与死球(警告試合なので退場)と、大乱調を演じてしまう。その後、これまた突然呼び出された三番手投手は、バックスクリーンへの美事なグランドスラムを浴び、文字通り一発逆転KOとなったのだった。

 こうして、二回表から三点差がひっくり返って3―4という、荒れに荒れた試合は、主砲を失った横浜が一手及ばずの、6―8で結着する。紫桃の連続試合本塁打が切れただけでなく、彼女の出場試合連勝記録と、球団の横浜スタジアム戦連勝と関東試合連勝という、数々の、今シーズン全勝記録が途絶えた試合となった。

 ゲームセットの少し前に席を立ち、人気の無い場所、16番通路への階段半ばの、自販機前ラウンジへ移動した藍葉らだったが、堪らぬと言う勢いの茶畑から、

「全然、展開違うじゃん! ……とさ!」

「まぁ、そもそも、丹菊が先発した時点で大分変わっていた訳だけど、」

「そりゃそうだけどさ、紫桃が退場だなんて、、一度も無かったでしょ!」

「うん、……強烈、だったね。別に今日一回負けたからって、横浜の優勝は揺るがないだろうけど、……この先は、多分、見たことの無い試合展開ばかりになるんだろうな、僕が出ていようが出ていまいが。」

「楽しみなような、怖いような、……でも、とにかく今日は、紫桃がさっさと消えて良かったね。」

 意味を捉え損ねた藍葉が、

「どういう意味?」

「いや、私もさっき気付いてぞっとしたんだけどさ、横浜対楽天の展開が未知のものになるだなんて、怖過ぎるよ。だって、……ひょっとしたら、知れないのに。」

 藍葉は、試合が終了したことで近くの階段を雪崩降りて行く観客の喧騒が及んでくる中で、冷たい稲妻のようなものが仮初めの体を縦断する、強烈な感覚を覚えた。舌を動かすのにも差し障る程の、それが収まってから、

「危な、かったんだね。……紫桃が退場してくれて、助かったか。」

「うん。何せ楽天が、馬鹿にされた上での三連敗だけは避けようとか、或いは、全勝神話を崩してやるみたいな気概で、まだ噂程度の、黒瀬の勝ち運に縋って来た可能性も普通に有った訳だしね。……本当に、良かった。藍葉君が入団出来た、折角の、こんなところで終われないよ。」

 藍葉は、この、茶畑の言葉にはっとさせられた。そうだ、永過ぎる試行の果てに漸く摑んだ、横浜選手としての生涯、その最後の一年を、もう自分は、六月十九日まで過ごしてしまったのだ。夥しい時間と労力の投資に見合うだけの成果、撞着打開の手掛かりなり、世界や紫桃の謎を解く為の情報なりを集めることを、果たして自分は、十全に出来ているだろうか。

 ………………

 そう、気を引き締めて解散した彼は早速、横須賀への移動中、紫桃と丹菊のいずれかへ聯絡を取ることにしたのだった。試合後で忙しい筈の二人から返事が来るのかは疑わしいが、何もしないよりはましだろう、と。

 「恥部」や「醜態」は言い過ぎにしても、とにかく彼女の穏やかでない様を見た後で、しかもそれを話題にせねばならない紫桃へメッセージを送ることは、藍葉の勇気では出来かねた。逆の立場ならば、彼女は卒なくじゃれついて見せるのかなと思いつつ、彼は、無難に丹菊の方へ言葉を書き送る。

「大丈夫?いろいろ、」

 返事は、存外すぐで、

「あー、ヤバかったね。とうとうハマスタで負けちゃったし、もう散々」

「紫桃さんは?」

「とりあえず今日は軽く説教されて、さっさと帰されたみたい。お金は、まぁ、私が貸してやることにした。どうせまた月間MVP取るだろうし、その賞金から回収する」

「…お金?」

「あれ、まだ発表されてないの?」

 話がいまいち摑めない藍葉が、戸惑っていると、

「されてんじゃん。ほい」

 そうして添付されたURLを彼がタップすると、セントラルリーグ名義の、簡潔極まりないページへ誘われた。暴力行為と遅延行為により、以下の処分とする。罰金30万円。以上。

 チャットスペースに戻ると、丹菊のやや長いメッセージが届いていた。

「退場を命じたら、責任審判はその委細をコミッショナーに報告しなければならなくて、受け取ったコミッショナーは、速やかに適当な処分を当該者へ与えないといけない。まぁ、何も罰がないことも多いけどね」

「暴力って、なかなか物騒な、」

「あー、それ違くて。これ、ちょっと押したとかでも『暴力行為』って言葉になるからね。ジャンル分けが雑なんだよ。今回は多分、相手の胸倉掴んだことを指していて、まぁ確かに褒められたことじゃないだろうけど」

 藍葉は、感心するままに、

「色々詳しいね、丹菊さん」

「私に言わせりゃ、枝音といいあんたといい、よく何も知らないでのんきでいられるな、って感じだけど」

「精進します」

「しないでしょ、どうせ。それより、この処分でおもしろいのは、罰金30万も課してるくせに、出定停止が無いんだよね」

「出場停止?」

「ああ、それ。普通、罰金だけなら5万か、高くて10万で、それ以上だと出場停止が入ってくるんだ。薬物とかのヤバいのなら一年近かったりするけど、試合中の小競り合いくらいなら、一日とか二日とか。こんな、30万も徴収しておいて、でも明日(月曜のくせに試合あんだよね)から試合に出ても良いなんて、聞いたことない」

 どう返事したものか、困った藍葉は、

「詳しいね」

とだけ返したが、

「これさ、多分だけど。コミッショナー側も困ったんだよ。乱闘起こしかけて試合を止めたのは許し難いが、しかし、仲間を危険にさらされて怒った者に厳しい処罰を与えるのは、それはそれでいかがなものだろうと。それできっと、こんなハンパな、強烈な罰金とあまあまな出場停止無しという、おかしな取り合わせになったんだ」

「なるほど」

 流石、盟友の紫桃に関わることについてはしっかり考えているのだな、と思った彼は、その勢いで、

「実際は、どうだったんだろ。紫桃さんって、君のために怒ったの?なんか、『昨日からふざけたことばかりしやがって』みたいに言っていたけど」

「は?」という、短い発言に続いて、「なにそれ、何であんたが知ってるの? 枝音のセリフが中継マイクに捕まってなくて、みんなで安心したのに」

 あ、やべ、と藍葉は思ったが、思いついたままにスケープゴートを差し出すことにし、

「ごめん。知り合いの記者がたまたまハマスタ観戦していたらしくて、そいつから聞き出しちゃった」

「良い趣味してんねアンタ」

「ごめん」

「まぁいいけど。で、そう、確かにそんなこと言ってたけど、まぁ、色々あんじゃないの?」

 この模糊たるメッセージへ、「なにが?」と藍葉はすぐに返したが、返事はついぞ来なかった。勿論、単に彼女が試合後で何か忙しくして、そのまま忘れられてしまっただけなのかも知れぬ話ではある。しかし、彼は、何となく、何か丹菊が返答に困って誤魔化したのではないかという、直感も一つ得たのだった。

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