「広島さんに、開幕カードに参ぜられなかったおわびと、ウチのチームをボコボコにしてくれたお礼参りをすべく、頑張るゾ!」との紫桃のアカウントの発言の有った四月十九日からの、広島二連戦、続いて東京ドームに移っての巨人三連戦、そして中日を横浜スタジアムに出迎えての三連戦、それらにおいて横浜球団は、彼女と共に、目覚ましい八連勝を記録した。八試合目、六回表に本塁打二発を浴びて6―2とされた時には、流石に皆が敗戦を覚悟したが、そこから紫桃がツーラン、スリーランとあっさり打ち返すことで、埜川の追加1失点分も追いついて同点と為し、延長にて走者丹菊を返した三合により、横浜は劇的な逆転勝利を収めて見せたのである。雨の横浜スタジアムを埋め尽くす歓呼に、しかし、藍葉はやはり参加出来なかった。この間は一軍登録を保ちつつも、ベンチ入りを命ぜられなかったのだ。確かに紫桃の八面六臂を見ていると、彼女が居る限りは、三人目の捕手の出番などほぼ有り得難いのだが、

 続いた、甲子園での、四月二十九日からの阪神三連戦、今長が初戦の予告先発だったこともあり「ちゃんとやれよ!」と激励のメッセージを紫桃から送られていた藍葉であったが、彼がリードしての、五回裏に浴びたツーランホームラン分を遂に返せず、紫桃が居ない試合の十連敗が決定したのだった。

 紫桃からどやされかねないと思っていた藍葉が、その実、

「あー、……打たんね、本当に打たんね。なんでだろ。」

とだけのメッセージを受け取ったことを、丹菊に話すと、

「お馬鹿。何、暢気にしてんのさ藍葉。もう、呆れられてんじゃん。いや、枝音は傲慢な奴だからそんなものかもしれないけど、でもとにかく、対等に見てもらえてないよね。半分他人ひと事で、しかも上からで、親が子供のリトルリーグの成績を憂うみたいな態度だよ。……ま、私も他人のこと言えないんだけどさ。」

「丹菊さんは、ちゃんと成績残しているけど、」

 溜め息から、

「なんぼ出塁しても塁盗んでも、本塁に帰って来られなきゃ意味ないってことだよね。……うーん、実際ピリッとしないね、本当、今年のクリーンナップ成績、」

 続く二戦目はなんとか勝利し、漸く今年初の、紫桃抜きでの勝利を上げた横浜球団であったが、こんな時に限って藍葉はマスクを被っておらず、代わって先発出場に戻った三戦目は、再び敗北を喫したのであった。

 丹菊から「負け運捕手じゃん、」と揶揄われた藍葉は、「うーん、……明日からまたベンチ外だろうし、お参り行ってくるかな。」と返すと、「どうせなら明治神宮でお願い、あの打線が少しは大人しくしてくれるように。」と切り返された。

 当然にそんなことしなかった藍葉へ神罰が下るかのように、横浜スタジアムでの東京戦にて、ホームラン二発を浴びた横浜球団であったが、三番へ打順を上げられていた紫桃がタイムリー一本と二発をち上げて強引に五失点を埋め合わせ、延長戦で辛くも勝利を上げてみせる。そのままでは夥しく歩かされかねない紫桃の後ろに、不調なりに三合とラペスを並べることで勝負を強要する、という発想の打順がぴたりと嵌まった形で、ラミーロの采配が世間で広く称賛された。

 しかし、文句の声も上がった。この試合で東京の山多が、本来誇るべき準最速11号に到達していたことも合わさって、同日でぶっちぎりの一番乗りで30号、ついでに出場全試合である18試合連続本塁打を記録した紫桃へ、とうとう他球団やそのファン、特に東京や巨人からの敵視が手酷くなってきたのである。他のスター選手らを馬鹿にするかのような打撃成績については、実力勝負としてまだ我慢出来るかも知れぬが、やはりウチらのチームだけ狙い打つように、ヴィジターにも出場してくるのは見過ごせぬ、

 同時に、横浜のファンからも、他の野手は何をやっているのだという懸念が多少論ぜられてはいた。しかし彼らの間では、どちらかと言うと専ら、日本シリーズで千葉と西武以外が上がってきたらどうしよう、いや東北試合ならギリギリ紫桃も参加するのだろうか、という、楽しそうな皮算用の方が交わされていたのである。盟主巨人と去年の覇者東京を、全試合勝利で叩きめしつつ連勝を重ねる横浜は、美事首位に立っていた上に、少なからずのファンが、紫桃の出場数分の、98勝は軽く記録出来ると疑わなかった。つまりこれは、どんなに素晴らしい投手でも精々20勝程度しか齎せられぬし、どんなに素晴らしいスラッガーでも、一人で試合を決めることは不可能だが、しかし、桁外れの打撃成績を叩き出しつつ、同時に扇の要もこなしてしまう紫桃であれば、本当に出場全試合勝利を為してしまうかも知れぬという期待であり、また、こんな楽しそうな希望は他球団のファンまで漏れ渡り、ますます巨人勢東京勢を苛立たせたのである。

 そして翌五月四日、横浜にとっての吉報、他五球団にとっての凶音が、セリーグに齎された。柁谷の恢復と、一軍登録公示。この先、情況――と首脳陣の気分――に依って適宜紫桃と三合が入れ代わりながらの、一番柁谷(’15年度得点圏打率.352)、二番丹菊(五月四日時点出塁率.569)、三番三合(’15年度OPS.922)、四番紫桃(五月四日時点打率.590、OPS3.35)、五番ラペス(’15年度OPS.843)という打線は、正しく史上最強のものとして恐れられることになる。特に――未来視的な言及になってしまうが――三合が調子を上げてOPS1.6強を記録する七月においては、立ち向かってくる投手を皆蹂躙する仮借ない攻撃力が、球界を震撼することになるのだった。「大魔王」という紫桃の呼び名に倣って、主に敵チーム側から、「地獄の打線」と呼ばれることになるこの上位陣は、恐れられ、或いは愛されることになり、よって、紫桃との入れ替わりでしかベンチ入りしない藍葉は、毎度毎度、「なんだ、今日は腑抜けな打線か、」という言外の歎きを、敵地故に数少ない横浜党から浴びつつの出場となったのである。一応、柁谷の力と三合の復調により、紫桃抜きでも勝ったり負けたりは出来るようになっていたのだが……

 そのような日々の中で、綺麗に紫桃とすれ違ってのベンチ外が続き、顔を合わせてすらもいないということを、少し不思議にも感じていた藍葉が、

「丹菊が、かな?」

と、久々に会った茶畑に訊ねると、

「要領を得ない質問する子は嫌い。」

「ああ、御免。つまり、丹菊が何か口を利いて、紫桃と入れ替わる捕手を、専ら僕にさせたのかな、って。」

「ふぅん?」茶畑は、宙を見上げながら、鍵盤を叩くように右手を躍らせた。彼女が、自分の五次元ライブラリを用いる時の癖である。

 返事に必要な情報を、ざっと閲覧した彼女は、「確かに、筋は通りそうだけどね。でも、その口を利く『相手』って、監督とかになっちゃうでしょ? 確かに入団では色々条件を突きつけて、それに見合うほどの成績も残している彼女ではあるけど、流石にそんな、選手采配までは影響出来ないと思うけどなぁ。」

「色々条件、っていうと?」

「あれ、藍葉君もいつかの、えっと、で、取材してたんじゃないの?」

 客が少ないとはいえ人の耳は有る、喫茶店で落ち合っていたので、茶畑は「生涯」という言葉を使えず窮屈そうにした。

「取材と言っても、そこの話題を掘り下げようとするとさ、結構アンダーグラウンドな感じだったよね?」

「まぁ、……そうかな、うん。あそこ(横浜球団、の意味らしい)に恨み辛みの有る元関係者から聞き出してきて漸く朧げに、とかだったし、」

「という訳で、僕はあまり分かっていなかったし、そもそもでは、僕が入団してしまって状況が変わっているかもだしね。是非その辺りを、ちょっと、茶畑さんから聞いておきたいかな。」

「まぁ、いいけど、……ちょい待ち、」

 茶畑は、最早、具体的な羽虫でも煩がるかのように宙を睨み付けつつ、右手の動きも、打鍵というよりもテーブルを指で嚙み砕くかの勢いにまで強めた。そうしつつ、左手では巧者に、取り出したスマートフォンを操ってみせる。

 流石、敏腕の記者様なだけ有って器用だね、という藍葉の揶揄いを、不快故か必死さ故かとにかく無視しつつ、彼女は幾つかのファイルを藍葉の端末へ送り付けた。

「全く、……ライブラリ同士で、じゃかじゃか遣り取り出来れば楽なのだけど、」

と零す彼女の前で、藍葉は、送られてきたファイルの中身を検め始めた。どうやら茶畑が手ずから記した取材ノートで、今生の丹菊が横浜球団へ突きつけたという、入団条件が列挙されている。

 紫桃を本指名すること。そして実際に契約すること。開幕したら速やかにイースタン或いはセリーグ試合に彼女を出場させて、一軍に然るべき実力があるか試験すること。彼女を徒にウェイヴァー公示やトレード放出しないこと。尚、以上さえ満たされれば、年末に紫桃と契約を更新するかは全く自由とする。

 そこまで読んで、多いなこりゃ、と、藍葉が呟くと、一緒に画面を覗き込んでいた茶畑が、

「一応ここまでは、言っていること一つだけどね。紫桃枝音あいつと契約して、一軍に相応しいかどうかちゃんと試験しなさい、ってだけ。年内は馘首しないこと、って条文は、おまけみたいなものだろうし。」

「まぁ確かに、紫桃あいつの入団を条件としているのに、三月で自由契約とかされたら目茶苦茶か。」

「ただ少し不思議なのは、一軍に残し続けろとか、一軍試合に出せとか、来年も彼女と契約しろとか、そういう規約は一切無いんだよね。丹菊あいつが、入団後も親友の紫桃あいつと野球したかったのだとすると、ちょっと不思議な感じ。」

「そこは、まぁ、……もしかすると、確信していたのかも知れないね。ちゃんと実力を見られさえすれば、紫桃あいつなら試合に引っ張りだこになるだろう、と。」

「趣味でやっている女子軟式チームの、六番打者、それも、扇風機を送り付けたくなるブンブン丸が? それってなんか、おかしくない?」

「まぁ奇妙なんだけど、でも実際、丹菊あいつ紫桃あいつの活躍を、疑っていなかったように思えるんだよね。」

「……チームメイトの立場から観察して、の言葉?」

 松山での夜における丹菊を思い出した藍葉は、ただ力強く、

「うん。」

 これを受けた茶畑は、歎息を漏らし、

「じゃ、私は文句言えないね。流石に、一緒に野球やっている奴の言葉には信憑性で勝てないや。なんかおかしくない?、って個人的意見は取り下げないけど。」

「それなんだけど、……町田のチームって、取材出来ないかな。」

「……私が? 接触して何か調べるなら、野球のプロの藍葉君がする方が良くない?」

「実際僕も話を聞いてみたいんだけど、ちょっと目立ち過ぎるよね。紫桃や丹菊あいつらだけでなく、そもそも球団に知られただけで、何事かと思われるだろうし。

 だから、こう言うのはどうかな茶畑さん。まず君が、スポーツ記者として町田の女子軟式チームの選手を取材する。これは全然普通のことで、問題ないよね?」

「そんなことしてておまんま喰えるかなぁ、って心配は有るけど、」

「あんまりなら僕から援助するよ、一応プロスポーツ選手なんだし。」

 茶畑は、肩を竦めて笑いつつ、

「おやおや。それじゃ、焼き肉とか御馳走されてたっていう、松井の番記者みたいだね。」

「で、ともかく、君からその女子選手への取材が普通に終わったら、ひょっこり僕が出て行くんだ。紫桃のせいでめっきり試合に出られなくて困っているんだけど、こっそりオフレコで、彼女の弱点とか教えてもらえないかなぁ、って。これなら秘密は守ってもらえやすくなるだろうし、もしも雰囲気的に不味そうなら僕だけ撤退も出来る。」

「うーん、……まぁ、諒解、出来そうなら聯絡する。」

「御免だけど、」藍葉は、そう一発、殆ど吠えてから、「茶畑さん、今回のこれだけは本当にお願いするよ。そんな感じで何度か流されてしまったけど、町田のチームについては、ちゃんと調べたいんだ。」

 茶畑は、思わぬ藍葉の威勢に少し瞠目していたが、結局、いつも通り豁達に、

「分かった分かった、今度こそ一肌脱ぎましょ。……一応言っておくけど、藍葉君の依頼を受け流していたからって、その間遊んでいた訳じゃないからね? 私なりに、この世界の謎を解く為に、必要だと思ったことを、」

「いいからさ、今すぐ手帳か何かにメモしてよ。」

「あいあい。……ええっと、町田シャイナーズの選手に取材アポ、藍葉君がベンチ入りしていなさそうな日が望ましい、っと。確か、あそこは土日の朝二時間くらいが活動日の筈だから、その後になるだろうね。藍葉君がデイゲームに出る日じゃ、絶対無理かな。」

 そうしてすらすらと、例の軟式チームの情報を諳んじたり、そこから藍葉の事情を擦り合わせて見せるなどした彼女は、彼を少し見直させた。


 マツダスタジアムでの三連戦、遠征につき藍葉が復帰し――てしまっ――た横浜球団だったが、しかし柁谷の存在で調子の上向いたことが大きく、二勝一敗でカードを終えてみせる。今長にも、漸く紫桃抜きで白星がつき、「よっしゃあ!」という彼女のTwitterでの発言は、微笑ましく野球ファンに迎えられた。

 その後の横浜は、「地獄の打線」が完成してしまう本拠地での六連戦(対巨人及び阪神)や、神宮戦を、当たり前のように全勝して見せるだけでなく、紫桃を欠く遠征、山形、福島、浜松、豊橋での試合でも勝利して見せ、怒濤の14連勝で、交流戦前最終対戦カード、広島戦を迎えた。他球団ファンから「青い処刑場」「青空屠殺場」と揶揄され始めていた、横浜スタジアムで行われたこの三連戦も、案の定な結果に終わり、紫桃の40号ホームランを決勝打として、チーム17連勝を決めてしまったのである。彼女自身はこれで出場試合32連勝となり、球団歌に登場する言葉、「勝利の女神」と呼ばれるのも屡〻となっていた。

 そんな華々しい記録が達成された五月二十九日の日曜日に、当然の如くベンチ入りを命ぜられなかった藍葉は、今日は自主練してくるとコーチらに申し出て、荒川河川敷での町田シャイナーズの練習試合を見学していた。言い訳の為に、此処までは都心から走って来たが、帰りは高島平駅からの都営三田線を使う気満々である。

 最低限、道路へ打球が行くのを防いでいると思しき、本塁を半ば囲ってそそり立つ金網の他には、フェンスらしきものが無く、内野のベンチ前には「此処を踏み越えたら、捕球してもファールだ」という意味らしい、藍葉にはルール付けの良く分からない白線が引かれている。また外野の方も、障壁が無い以上、ボールが外野手を抜けたら三塁打以上を覚悟せねばならないらしい上に、そのまま隣のプレイフィールドに転がり込んでそっちがボールデッドになったりする、牧歌的な河川敷野球場を見た藍葉は、此処から遠くない、東京球団の戸田球場を哀れむ自分は、随分贅沢になっていたのだなと反省した。当然に電子でなく黒板の、本当に点数以外の情報が無いボードは、ちょっとした工夫として、数字の形の磁石が山盛りに備えられており、例えば回終わりに「得点有りません、」と球審が述べた時には、いずれかのチームに関係しているらしい童女が、ぺとりと一枚、「0」の磁石を貼り付けるだけで済ませている。その童女は、何か遣い走りの役目でも買って出ているのか、試合の合間にスコアボードと一塁側のベンチの間を時々往復するのだが、まるでプロ一軍戦のボールボーイのように元気一杯に駈けて行く時には、手折れそうに可憐な脚が目一杯に躍動し、その若々しさが藍葉の目を喜ばせた。

 女子軟式のルールによって、ダイヤモンドが藍葉の親しむそれより小さいこともあり、投球や打球も存外迫力を失っておらず、眺める彼もそこまで退屈しなかった。そんな中で、フェンスが無い以上無限とも言えなくもない外野から、町田側の右翼手が守備の指示を懸命に飛ばしているのが、藍葉の印象に残る。

「ツーアウトだよツーアウト! ランナー気にしなくて大丈夫だから! バッター集中して!」「バント有るよバント! 内野気をつけて!」「足有るよ、走ってくるよー!」「四番だよ四番!」

 まるで、「ライトからなら、一方向に叫べば全員へ声通るから、好都合でしょ?」とでも言いたげな、藍葉の感覚からすると信じられない始末だったが、つまり、無限の筈の外野も、女子が軟式球を叩くという、極めて飛距離の出難い情況により、フィールダーがかなり前へ来て、実質狭くなっているのだった。そうして時々発生するライトゴロが、丹菊が何度かNPB試合で見せた絶技を髣髴とさせる。

 そのような気色で進む試合の中、貧打らしい選手が、二死満塁で打席に立った時には、「転がせば何か有るよ、転がせば!」と例の右翼手から甲高く声出しされて笑んでいたが、事実当てただけのゴロは、遊撃手の手を免れて外野へ抜けてしまい、美事決勝勝ち越し点を齎したのである。それが、守備技術の未熟さ故にか、それとも軟式球や粗悪なフィールドの為すバウンド故にかは、彼には分からなかったが、別の場面では、同じ遊撃手が苦しいゴロを巧妙に捌いて鋭く一塁へ送り、一塁手も懸命に足を伸ばしての捕球で内野安打を防ぐというプレイが、流麗に行われていたこともあり、案外後者だったのではと藍葉は思った。二時間程度の練習を週末にだけ、という予定表を見たせいで、彼は全く試合のレヴェルを期待していなかったが、しかし存外締まった野球が繰り広げられているではないかと、やや傲岸な視点から驚かされている。寧ろ、内野やベンチからの声出しの態度など、初心に帰って自分も改めねばと、学ばされる事すら有ると感じたのだった。

 本題の、取材については、町田シャイナーズの右腕、黄川田きかわだ歌奈かなを相手取ることになっていた。紫桃や丹菊のせいで取材依頼が夥しく、チームとしては基本的に全て断っているとのことだったが、自分個人へならまぁ付き合いましょうと言ってくれたのが、彼女だったらしい。

 お礼がしやすいから、出来れば横浜ファン相手が良いな、町田市のチームなんだから難しくない話でしょ、と藍葉は茶畑に依頼していたが、手間の悋嗇を働いたのかそれとも本当に無理だったのか、彼女は、シャイナーズの取材お断り事情を盾にしつつ、「正直どんな人かよく分からない女性が、インタヴュー対象になってしまった」と伝えて来、「開けてびっくり玉手箱」という余計な一言を付しては、彼を些か苛立たせたのだった。

 野球場近くの喫茶店で、茶畑の記者としての伎倆なのか、早速和気靄々と話し込む彼女と黄川田の取材インタヴューが終わるのを、藍葉は近くの席で待っていたが、話を盗み聞きながら紫桃の情報を遡ることで、彼は、ふと一つ思い出していた。歌奈という名前は、Twitter上の紫桃と丹菊の会話に、登場していたのだ。そう、紫桃の鎌ケ谷試合を観戦しには来たが、彼女というよりも、日本ハムの応援を主目的としていたという、カメラ女子。

 日ハムか! 今年あそことの交流戦は、横浜主催になってしまっている、……いや、待てよ確か、

 彼が、そんなことを考えている内に、

「ほい。じゃあ、藍葉君ちょっと来てー。」

 呼ばれた彼が茶畑の隣に着くと、黄川田は、マルチ商法に巻き込まれるのを警戒するかのような、怪訝な顔をしただけだったので、藍葉は、自分の名の売れていなさを悲しみながら名乗ろうとしたが、

「ああ、藍葉って、あの藍葉ですか、湘南の!」

 これを聞いた茶畑が腹を抱えて大笑し出す中、藍葉は苦笑しつつ、黄川田の姿を観察した。試合中は束ねられてキャップの穴へ通されていた長い髪が、今は真っすぐ肩の辺りまで落ちており、紫桃と睦まじい以上彼女と――つまり藍葉とも――年代の近いであろう顔は、五月にして既に良く焼けている。試合中では、走者無き時に、マウンド上で内股に佇みつつグラブを下腹部へ持って行きながらサインを眺める癖が有ったので、「ヴィナスの誕生」を藍葉は髣髴とさせられていたが、こうして着替えられた後に対面してみると、快濶そうな普通の女性であった。

 相当にらしい茶畑が、笑い終えぬばかりか顔まで伏せ出したので、それが収まるのを藍葉は諦めて、

「ええ、以前は、湘南のユニフォームも着ましたが、」

「ああ、知ってます知ってます。横浜の二軍って、普通に同じチーム名になりましたよね! 確か、買収の時でしたか?」

「……それも有りますけど、いえ、僕、一応一軍に居ますので、」

「……あー。それは、失礼を。」

 漸く喋れるようになったらしい茶畑が、尚も言葉の端々を痙攣させつつ、

「ま、推してない球団の選手の知識なんて、そんなものでしょう。此奴が紫桃さんに負けてロクに試合に出られていないのが悪いので、どうか、黄川田さんはお気になさらず。」

 『此奴』という言葉を聞き咎めた、黄川田が、

「あれ、記者さん、藍葉選手と親しいので?」

「まぁ、腐れ縁ですね。中学でクラスが一緒でし」

 ばかやろ、と思った藍葉が卓下で茶畑を蹴った。今、お前は遙かに年上になっているだろうが。

 この意味を理解したのかどうかはともかく、茶畑が言葉を止めたので、その隙に藍葉が、

「単刀直入に申せば、黄川田さん、今有ったように横浜で正捕手に成れていない僕は、あの二人、紫桃さんや丹菊について、何か聞き出せないかなぁと思って、今日同行しに来たんです。なので、此処からは取材というより、僕個人の、是非内密にして欲しいスパイ行為みたいなものなんですが、」

「それは、なんというか、……プロ選手って、そんなことまでするんですか? 大変ですね。」

「いや、僕だけだと思います。というか、僕もこんな事初めてですよ。それだけ、紫桃さんは異常な存在ですから。」

 黄川田は、良く爪の整えられた右手で口許を覆いつつ、少し黙ってから、漸く一言、

「成る程、」

「残念なことにどうも黄川田さんは、ウチじゃなくて日本ハムのファンらしいですけど、どうでしょう、今度の新潟開催での日本ハム戦、多分僕も帯同するので、宜しかったら誰かのサインでも貰ってきましょうか? お礼と、口止め料ということで、」

 手を外した彼女は、一転、として、

「あー、職権濫用紛いの、凄い武器を持ってきますねぇ。でも、大丈夫です、そこまでは及びません。私、日本ハムというより、日本ハムファームのファンなので!」

「……ファームの?」

 立ち直ったらしい、茶畑が、

「ああ、そういうことですか黄川田さん。つまり、ペナントレースよりも二軍、イースタンリーグを観ることが多くて、そこで、藍葉選手の湘南姿を良く憶えていたと?」

「そんな感じです。あの日いつものように鎌ケ谷へ行ったら、お、ルーキーが先発マスク被ってるぞ!、と思わされたので、良く憶えていますよ!」

「……ああ、あの時ですか。」

 藍葉の脳裡に、苦い想い出が甦った。晩夏に漸く得た出番、まだ素朴で、選手のパネルも掲げられていなかった頃の鎌ケ谷スタジアムでの、一応のプロデビュー戦。

「いや、お恥ずかしい。確か、早々にパスボールを二回やらかして、交代させられたような、」

 黄川田が、あ、まずった、とでも言いたげな顔を作ったので、彼女をいたわるべく藍葉は話を進めた。

「いや本当、そんな僕に比べて、紫桃さんは初出場から大したものでしたよね。」

「あ、ええ、……本当に、」

 黄川田は、妙に口籠りながらそう応えた。

 二人共がこの不審に気が付いたが、反応は、現役記者である茶畑が早かった。

「何か、妙なことでも?」

「えっと、……あの試合、無茶苦茶好き勝手してましたよね、枝音の奴、」

 茶畑は、京旅行であがなったのだと言う、濃紫こむらさき地に螺鈿の散ったペンを構えつつ、

「確かにあの日の紫桃選手は、三打席連続本塁打、盗塁阻止二つ、そして捕逸や失策も無しと、まぁ大暴れでしたね。やっぱり、町田で、……も?」

 彼女は、瀟洒な筆記具をそれとなく振るう様にも表れていたような、洗煉された雰囲気や話術に似合わず、話しながら混乱に陥るかのように語尾を乱した。あれだけ活躍したのだから、やっぱり紫桃さんはアマチュア時代にも相当驥足を展ばして、と、自然に話を進めようとして、少なくとも打棒は信用されなかった筈だと、思い出したのである。

 この混乱と共鳴するかのように、黄川田は歯切れ悪く、

「えっと、まぁ、確かに当たれ飛んで行きましたよ。今日やっていた河川敷なんかは柵越えとかそういう概念無いですけど、でも、走者は全員余裕で帰せる程度の飛距離は出してくれました。本塁打になるかどうかは、まぁ相手の肩次第でしたが。枝音の足も、目茶苦茶に速い訳ではなかったですし。

 でも、やっぱり、空振りとか内野ゴロとかも一杯打ってましたし、……おかしいですよね最近の彼奴、空振りやゴロは愚か、ファールすら打ってるの見たことないんですけど、いや、正直そんな横浜戦必死には観てないですけど、でも偶に中継観ると、振れば必ずレフトに良い当たりが飛んで行く、みたいな、」

 この困惑の問い掛けを、茶柱は聞きながら良く咀嚼していたようであったが、口ではわざわざうべなわず、単に、

「守備は、どうでした?」

「いやそれこそ、あんなちゃんとしてなかったですよ。肩が結構強かった――ああ、私達の基準ですが――し、ダブルヘッダーでも苦にしない程度に足腰岩乗がんじょうだったので、捕手としては一応頼りにしてましたが、でも、ちょっとミットから外すとすぐに逸らすので、三塁走者が居る時は気が気じゃなかったですね。まるで味方の筈のキャッチャーからも、ちゃんと投げろよと、プレッシャーが掛かるみたいで。……いや、基本的には良い奴でしたけど、」

「逸らす?」眉を顰めた茶畑が、「藍葉君、紫桃の捕逸数って、」

「ゼロだね。今年は、」

 NPBのウェブページを既に開いていた彼は、すぐそう答えた。

 同時に自分のライブラリから、彼女が以前の世界で記録してきた通年成績も眺めたが、毎回揃って、捕逸は2つのみとかなり少ない。しかも、確かこの2つは、来月の、あので記録されることになる、例外的なものだ。

 そう顧みている藍葉を他所よそに、茶畑が、

「ええっと、横浜に入ってからの紫桃さんと言えば、捕逸は愚か、投手の暴投すら滅多に許さない、つまり、飛びつくことでカヴァーしてしまう名手だと知られてますけど、」

「いや、私も最近文句送ったんですよ、『あんだけ出来るなら、私相手でもやっててくれてもよかったじゃん! ポロポロこぼしてないでさ!』って、冗談交じりに。そしたら、『入院したショックで開眼したゾ』みたいな、巫山戯た返事が来て、……まぁそれっきりですけど、」

 十二次元人の二人は、つい顔を見合わせてしまったが、藍葉から、

「盗塁阻止は、どうでした?」

「ええっと、……成績のページ開いているみたいなんで、逆に聞いちゃいますけど、今の枝音って阻止率幾つですか?」

「.400、らしいですね。」と藍葉。

「え!? 一戦級じゃないですか! いや、絶対絶対有り得ないですって、そりゃ硬式と軟式でまた違うのかも知れないですけど、ウチじゃ二割くらいが精々でしたよ! それも、枝音の肩の強さが活かせる、女子用の狭い内野でそうだったんです! プロ野球に行って二塁が遠くなって、しかも敵の走者も男の脚力になって、そんな数字、」

「二割、」茶畑が、「我々からすると、一応落第ではないが誇るものではない、寧ろやや悪い、という程度の印象を受けますが、女子軟式でもそうですか?」

「まぁ、そんな風ですね、多分。」

 困惑したままではあったが、藍葉は質問を重ねた。

「最近の紫桃さんは、普通の盗塁阻止だけでなく、捕手牽制、つまり、本塁から一塁へ送球して走者を殺してしまう、みたいな真似も何度か見せていますが、……町田では?」

「……そんなの、ルール上可能なんでしたっけ?」

「少なくとも、硬式野球ではそうですね。インプレイであれば、特に差し障りは、」

 藍葉は、自分の端末の中をさっと探り、それらしい動画を提示した。一捕手として何か少しでも盗もうと、最近の彼は健気に、紫桃のプレイを纏めた動画を何度も視聴していたのである。

 まずは東京戦での盗塁刺殺のシーンで、一軍定着後に特註したのらしい、巨人の阿辺あべを思わせるホッケー型系統の、しかし口許の内部材を省略することで表情を分かりやすくしている、青い、ヘルメット一体型マスクを装っている紫桃は、その直前までは、落とす変化球をどっしり受け止めていた癖に、山多の走る時に限って直球を立ち上がりつつ捕球し、一点の滞りもない連続動作、早業で、二塁ベースの僅か右方へ向けてワンバウンドで送球してみせた。決して速くはない球なのだが、二塁へ駈け乗った倉元が自然にそれを受け止めると、滑り込む山多の足を薙ぎ払うような形となり、塁審の腕が振られるのである。

 その後カメラに抜かれる、マスクを外した紫桃は、人差し指の先を脣へ当てており、そこから手で象った銃を二塁へ向けて、「バァン」と口を動かしつつ、莞然と発砲を演じた。

「うわ、うざ、」と黄川田が呟いてから、「ええっと、このヤマダって人、幾ら私でも知ってますよ、去年のトリプルスリーじゃないですか?」

「はい。……と言うより、盗塁王ですね。」

「すご。やるなぁ、枝音。……いやぁ、確かに彼女、送球精度は結構有りましたけど、ここまでは上手くなかったような。こんな、恰も前もって盗塁を知っていたかのような動き、見たこと無いですよ。毎回やってるならともかく、直前までは普通にキャッチしてますし、」

 続いての場面は、二つのプレイが連結的に編輯されたもので、まずは、紫桃が公式戦で初めて決めた捕手牽制だった。紫桃が美事に高卒三年目の代走走者を刺し、彼ががっくり肩を落として帰って行く様を見た黄川田が、「うわ可哀想、……交流戦で鎌ケ谷出身ボーイにやってきたら、許さないぞあの女、」と呟く間に、動画は二つ目のプレイへ移る。二死下、紫桃が突然一塁を牽制するのだが、やや内側へ逸れた白球は、ラペスのミットに捕まらずに通り抜けて行く。走者は当然の如く、意気揚々と二塁へ向かい、そして、怖じるように立ち止まった。猛然と突っ込んでいた丹菊が、カヴァーを為し、鬼のような肩で二塁へ返球していたのだ。その後は常凡な挟殺プレイとなり、特に見どころなくアウトとなった。

「うわ、枝音と詠哩子、あいつら仲良いと思っていたけど、ここまで!? あまりに息ばっちりじゃないですか、これ、ひょっとしたら、始めから一塁じゃなくて、右翼に送球したんじゃないですか?」

「ええっと、紫桃さんに訊いてみたら、『秘密だゾ』ってはぐらかされましたが、」

「うぜえ……」

 野球のプレイを見て昂奮し始めたのか、どうやら黄川田が気を許してきたな、と思いつつ、藍葉は、

「意図的であろうとなかろうと、これを見せられた攻撃側は、以降難渋しますよね。捕手牽制は、どちらのミスにせよ、一塁手が捕球出来なかった場合のリスクが大きいんですが、こんな丹菊さんが右翼に居る以上、勇んで二塁を狙ったら死にかねない訳です。

 それで黄川田さん、こういう真似をする紫桃さんは、」

「いやぁ、全然見たことないですね。どっちかっていうと彼奴、こんな賢しげではなく、あんぽんたんな感じでしたし。詠哩子の方は、まぁ時々ヤバかったですけど、」

 「あんぽんたん」という表現の容赦なさと、間抜けな響きに、藍葉はつい気を緩めてしまったが、茶畑はしっかり掬い上げた。

「詠哩子、というのは、丹菊選手のことですよね? 彼女は、町田時代から素晴らしかったので?」

「ああ、ええ、はい。もう、凄かったですよ。枝音の奴と一緒にウチの門を叩きに来たんですが、いやぁ、もう、男が交じっているみたい、なんて表現も今思うと控えめでしたよね。詠哩子が居る時のライト、もう、ヒットゾーンじゃないんですもん。飛ばせば全部捕球されますし、一二塁間を転がして抜いても、あの肩によって余裕で外野ゴロになりましたんで。終いには、相手の左打者が右打席に立ったりしてましたからね、右へ引っ張っても無駄だからって。そうでなければ、もう、内野への当たりで戦うとか。バントで転がしてみたり、或いは軟式ならではですけど、バウンド打球で勝負するんだ、って開き直りで叩きつける、みたいな。どの道、ある程度の足が必要ですけど。いえ何せ、守備側もその辺は警戒していて、もともと内野が硬式よりずっと前に居ますから。」

 茶畑は、ふむふむ、と、一応はメモし、結局、黄川田の語りから贅肉を落とした所、丹菊の異才のみを拾い上げて、

「それほどの運動能力だと、丹菊さんがマウンドに立った方が良さそうですが、」

「実際、詠哩子の奴、昔はピッチャーやってたらしいですね。硬式球の話ですけど。なんか、確か、枝音に諭されて止めたって、」

「諭す、と言うと、紫桃選手が、かつての丹菊さんの肩か何処かを心配したんですか?」

「というより、……つまんないじゃん?、みたいなことを、詠哩子に言ったらしいです。」

 解しかねた二人が、眉を顰めると、

「いえ、ピッチャーって、とてもじゃないですけど全試合全イニング全力では頑張れないじゃないですか。まして、詠哩子はプロ入りも出来るかもしれないと思われていたので、尚更。すると、偶にしか試合に出られないピッチャーよりも、野手のが面白いと思うよ、って、枝音が語ったらしいです。まぁ、あんな充ち満ちに筋肉の詰まった躰、実際いつか壊れそうで怖いので、枝音の言うことも結構正しそうですけど。」

 藍葉が、久々に口を開いた。

「ピッチングを励ますのが仕事の筈の、捕手たる紫桃さんが、投手なんか面白くないんじゃない?、と口説いたと言うのも、何処か奇妙な話ですね。」

 黄川田は、元チームメイトとの想い出を顧みるかのように、目を逸らしつつ頰へ手を当てながら、

「……言われて見ると、確かに。うーん、やっぱ、何処か変な奴ですね。」

「丹菊さんの、打撃はどうでした?」と、藍葉。

 顧思から会話へ意識を戻すのに手間取るかのように、黄川田は少し置いてから藍葉らの方へ向き直し、目をぱちくりさせてから、

「えっと、ちょっと、訳有りだったんですよね。」

「……訳有り? やっぱり硬式と軟式の、球の違いとかですか?」

「えっと、そういう意味じゃないんです。詠哩子ってやっぱ、打つ方でも、素直にやると人並み外れちゃうので、自重みたいなもので、まともにやらなかったんですよね。つまり、今も横浜でやってる、粘って粘って四球で歩く、みたいな。普通の長さのバット――私達みたいな草の根チームは、何本かのバットを共用しますから――でそうしていたので、結構外角の際どい球を触り損ねて三振していたりして、そんな、10球以上粘ることはあまり無かったですけど。そうじゃなきゃ、相手からウザがられて大変だったでしょうね。いえ、私達の所属する連盟は、ライヴァルチームとも和気靄々とした関係を保つのが普通なので。一応、二部と一部が有って、公式試合であんまり負けたら降格するとかで、ある程度の真剣さは有るんですが。」

 藍葉も、枝葉の言葉に惑わされぬよう気をつけつつ、

「ええっと、その四球狙いは、遠慮よりも、背丈を利用していたとかではなかったんですか?」

「うーん、……どうでしょう。そもそも、139cmって、私達の感覚だとそんなに低くないですからね。いや、勿論、低いかどうかと言われれば超低いんですけど、そんな、絶対な武器かと言われると……」

 藍葉は、つい、背筋を伸ばしてから、

「成る程。女性に交じると、丹菊さんもそんなものですか。……一方の紫桃さんが結構背丈有るので、うっかりしてましたよ。」

「あー、彼奴、相当デカいですよ。確か、175cmくらいでしたよね? そりゃ、バレーやバスケの選手なんかよりは低いですけど、でも、町の女子野球チームなんかにとっては、中々。実際ファーストの練習させたことも有ったんですが、打球も送球もまるっきり取れないので、とうとう枝音が顔面で受けて、眼鏡ひしゃげさせた時に諦めました。軟式球とは言え、大した怪我が無くて良かったですよ。」

 藍葉は、はは、と笑って流しかけたが、すんでで踏みとどまった。

「眼鏡?」

 黄川田は、何か不思議ですか、と小首を傾げてから、

「あれ、そういえば、見せて頂いた動画の――むかつく――投げキッスの場面の彼奴、素顔でしたね。眼鏡は、どうしてるんですか? コンタクトで?」

 真横を向いた茶畑は、真剣そうな声音になった。

「藍葉君。紫桃が、眼鏡なりコンタクトなりを装着していたことって、」

「いや、無いんじゃないかなぁ。……オープン戦のアレって、映像とか無いの?」

「那覇での? ……うーん、写真なら絶対どっかの会社が撮ってるだろうけど、あんな早く引っ込むと思ってなかっただろうから、キャッチャーマスク被っている紫桃を遠くから撮ったのだけだろうし、……というか藍葉君、こんな時こそ、君の出番でしょ! 直接目近まぢかで見た君は、どうだったの!?」

「えっと、……どう、だったかな、」

 死にかけていた紫桃の、顔の蒼然ばかりが思い起こされて、不思議なことに、そこに眼鏡の掛かっていたかどうかを、藍葉は全く思い出せなかった。

 置いていかれつつあった、黄川田が、

「なんですか、つまり、最近の枝音、裸眼でプレイしているんです? おかしいですよそれ、彼奴、目茶苦茶目が悪くて、なんなら矯正してもいまいちなのに、」

「目が、悪い?」茶畑の低声こごえでの叫びは、殆ど裏返っていた。「そんな馬鹿な、なら、紫桃選手はどうやって、プロの球から39本も打っていると言うんですか?」

「……三十九!? なんですかそれ、本塁打数ですか、まだ五月ですよ!?」

 比較的冷静でいられた、藍葉が、

「えっと、済みません。黄川田さん、その鎌ケ谷での、紫桃さんのデビュー戦で写真を撮られたのって、確か、貴女だったと思いますけど、」

 彼女は、周章してしまったことを悔いるかのように、少し含羞はにかみつつ、

「あ、そう、ですね。ええっと。……御覧に、なりますか? あの時の写真、枝音へ送り付ける為に、たしか携帯にも入れていたような、」

 そうして黄川田が見せてくれた、鎌ケ谷の写真は、藍葉らにとって見憶えの有るものも無いものも沢山だったが、遠巻きかつ撮影者がそこを狙ってない故に、紫桃の顔の写りはそこまで良くなかった。

 が、確かに、裸眼のように藍葉らには見えたのである。

 そう、やはり当初から、紫桃はずっと裸眼の筈なのだ。しかし、……そうなると?

 藍葉がそう、思索へ陥るのを差し置いて、茶畑は、言い辛そうに、

「黄川田さん。紫桃さんの、タクシーの中でのVサイン写真も有った筈ですけど、」

「ああ、あのウザったるいやつ、」

「あそこでは、明らかに紫桃さんは眼鏡を掛けてなかったですが、……貴女は、お気付きにならなかったので?」

 彼女は、顔と首をぶんぶん振って、

「違います違います全然違います! 寧ろ、逆です! あれ、あの時だけ眼鏡んですよ!」

「……は?」

「枝音が試合から抜け出してきて、私と再会した時には、もう、眼鏡掛けてたんです。……藍葉さん、一応お聞きしますけど、プロの試合の前後で、わざわざコンタクトを付け外すことなんて、」

「……ええ、普通、無いですよね。面倒極まりないですし、鎌ケ谷みたいなヴィジターだと、そんなことをする場所が有ったかも怪しい。そうなると、紫桃さんはやはりコンタクトなんかしてなくて、本当に裸眼でのプレイを、」

 黄川田は、怪訝な顔で腕を組んでしまいつつ、

「レーシック? ……いや、まさか、幾ら彼奴がちょっとだからって、野球で飯喰うことになった矢先に、そんな博打みたいなこと、」

 そう悩み始めようとした彼女であったが、ふと、気が付いたように、

「藍葉さん、ついでと言っては何ですが、枝音の打撃やってる動画って有りますか? ちょっと、打席での、彼奴の顔を見られればと、」

「ああ、はい、」

 藍葉は、此方は野球人としてではなく、世界盆栽の調査員として何かを得ようとしていた動画、開幕カードでの紫桃の本塁打10発、球界を震撼したそれらが纏められたものを再生した。大して長くないそれを、まじまじ視終えた黄川田は、

「……確かに、裸眼ですねえ。マウンドがちょっと遠いとはいえ、こんな速い球、良く打つなぁ。硬球って、そんなに飛びやすいのかしら。」

 そう、無邪気に述べてから、首を傾げた。

「でもそんなことより、……何なんでしょうねこれ。なんかハマスタでの枝音、打席で地蔵みたいに固まっちゃっているみたいですけど、どうして、いざ球が来たらちゃんとスウィング出来るんですかね。」

 藍葉は、驚かされつつ、

「えっと、紫桃さんって、貴女方の許では、今のような打撃スタイルじゃなかったんですか?」

「そりゃ、全然違いました。確かにフォーム自体は、こういう神主っぽい感じではありましたが、人並みに揺れ動いてタイミング取ってましたし、こんな、野手がマウンドに集まっているのにじっと構えたまま待っているなんて、馬鹿な真似してませんでしたよ。

 それに、……もっと、試合中にこにこしてましたよね。野球は楽しまねば、が、彼奴の口癖でしたし。」

「そのモットーは、……未だに、チーム内で語っているですね。打撃の時だけ、視線で射殺すような顔つきになるですが。」

 そう返す藍葉は、紫桃の情報が伝聞調になるという、つまり、一度も彼女と共に公式戦を戦えていない、半一軍の立場であることに羞恥を覚えて、僅かに声音を乱してしまう。しかし、それを捉えることの出来る種類の聡さを持たぬらしい黄川田は、ただ文面だけ受け取って、怪訝そうに顔を歪めると、とうに冷め切っていたカップを矢庭に呷り、それを下ろしてから、視線を逸らしつつ

「変な奴、」

と、呟いて舌舐めずりし、上脣へ残った珈琲のしずくを掃除した。気を完全に緩ませていた彼女の、ただの不作法なのだと、藍葉の理性は理解していたが、その、閃いた野性的な色っぽさに、彼は搏たれもしたのである。

 

 うーん、ちょっと此方でも気にしてみますね、色々気が付かせてくれて有り難う御座います、と、あべこべな礼を述べた黄川田が去って行き、腰を浮かした藍葉がその席に座り直すと、そうして彼と向かい合わせになった茶畑は、一瞬両頬を吊り上げた後、両手を拝み合わせ、頭を下げた。

「御免! ……いや、脱帽脱帽。まさか藍葉君の言う通りにするだけで、此処まで情報どかどか貰えるとは、」

 あーあ、本当に面倒がられていただけだったのかな、と、呆れる藍葉であったが、諧謔的にとは言え、堂々と謝られてはなじる訳にもいかず、

「まぁ、僕も驚いているよ。まさか、こんなに色々聞けるとは思ってなかった。」

「いやぁいやぁ本当にそれはもう、……うん。凄い、収穫量だったね。君がプロになっていたからこそ聞けた事、つまり、だからこそ聞けたことも有ったような気がするし。

 うーん、……ちょっと、本気で反省した。少なくとも、今生は君の言うこと聞いてあげることにするよ。私の興味、というか自信に取り合っての調査は、来世でも良いや。」

 特殊かつ軽薄な宗教観の教徒の台詞のようだな、と、藍葉は思いつつ、

「有り難いけど、でも、やっぱり君の意志でも動いて欲しいな。例えば……丹菊あいつタンパリングあれだって、今世で茶畑さんが情報を集めてくれていたからこそ、自信を持っ

「あ、それ。」矢庭な茶畑の開手ひらてが、彼の語りを差し止めた。指の方だけが打ち合わされることで、快い高音を鳴らしてから分離した両手が、白く嫋やかな指を自然に曲げつつ、彼女の顔を両側から衛っている。「藍葉君さぁ。前回会った時に忘れちゃってたんだけど、私があの時に送ったファイルの続きって、ちゃんと読んだ?」

「……続き?」

 彼女は眉を持ち上げ、首を搔きながら、

「あー、やっぱ読んでないか。……いや、うっかりあのまま解散しちゃった、私も悪いんだけどさ。

 まぁとにかく、今からでも読んでよ。」

 藍葉が、苦労して端末内のファイルを遡って、貰った取材メモを開き直すと、確かにそこには、彼女の可愛がる紫桃への庇護の他に、尚も丹菊が横浜へ突きつけたとされる要求事項が並んでいた。

 心臓のことについては、極力内密にすること(戦略的にもまずいし?)。女身、かつ心臓の弱い自分野球に集中出来るように、無理の無い範囲で球団は協力すること(女子更衣室やトイレの確保は、最低ラインかそれ以下とする)。球団は暴力行為の排除に努め、ましてや、自分へは絶対に降りかからせないこと(心配なさそうだけど)。以上のいずれかが満たされなかった場合、何らかの手段で、速やかに自分を球団から放出すること(移籍ってこと?)。

 茶畑の括弧書きが挟まるせいで緊張感が毀たれていたが、とにかく、中々の内容に、藍葉は唸りつつ、

「また、随分要求するルーキー様だねぇ。」

「むっちゃくちゃなのは、一応一個も無いかな。西武とか広島は未だに近年の暴力沙汰有ったけど、比して革新的な横浜は、そんなの痛くもない腹だろうし、残りもまぁ、必要な要求事項だよね。女が着替える場所も手洗いも無いって言われたら、困っちゃうしさ。あと、心臓のことも、」

 今度は、藍葉が掌を突きつけて、茶畑の言葉を止めさせた。

「そうだよ茶畑さん、ここに、丹菊あいつの心臓について書いてあるけど、じゃあ、以前僕から君へ訊ねた時には、心臓病のこと分かってたんじゃないの?」

「ああ、……御免、言われてみると、或いは思い返すと、そうなんだよね。いや、言い訳するとさ、あまりに一杯情報抱えていたから、頭の中で埋もれちゃってた。この手の話って、眉唾なものも多いしね。」

「……まぁ、分かるよ。僕も、何処かの宿世では記者だったんだし。

 でも、この内容は、結構信じたいな。実際丹菊あの人、心臓悪そうだったから。」

「へぇ、」茶畑は、と見こう見することで、人の耳を憚ることを強調してから、「後で、是非聞かせてよ。」

「うん。」

 そう返した藍葉は、画面の中の、当該箇所を指しつつ、

「で、最後の条文だけど、」

「面白いよね、罰則みたいなのがわざわざ盛り込んであるだなんて。まぁ、『一軍確約!』みたいな契約を選手と結んで苦労した球団が、過去に、枚挙に遑無かったことを思うと、こういう精算方法を認めた一文は、寧ろ、球団にとって有り難そうだけど。ただ、そこで、金とかじゃなくて、他の球団でのプレイ機会を求めているのは、やっぱ、丹菊あの人も野球好きなのかな?」

「ピーチのことより?」

 この、突拍子も無い言葉に、茶畑は眉を顰めてから、

「何、言ってんの?」

「いやこの条文さ、普通に考えると、ちょっとおかしいじゃん。だって、以前君と一緒に確かめた前半部分では、丹菊あの人、あんなにピーチと一緒にプレイしたがっていたのに、この一文が発動したら、二人は泣き別れになるんだよ?」

 彼女は、藍葉の端末を奪い、自分がしたためた筈の文章を、しげしげと検めてから、

「ほんとじゃん。……私が、何か取材洩らした? それとも、どうせ発効されない、脅しの文章だからって、適当に決めたのかな。」

「この、『放出』って、NPBだと具体的にどう言う手段が有るんだっけ。」

「速やかに、というと、普通の自由契約は無理だし、ウェイヴァー公示かトレードだろうね。ウェイヴァーの方は――選手会やコミッショナーと戦争する覚悟が有れば――いつでも試みられるけど、放出先がコントロール出来ない上に二束三文の金しか球団に返ってこないから、可能なら後者になるかなぁ。」

「トレード、……貰い手は、」

「いや、欲しいところは幾らでも有るでしょ。打率や長打率は確かに壊滅的だけど、『四球で出るか、それともバットに当て損ねて三振するか』みたいなゲームを勝手にやっている以上、そこはしょうがないし、出塁率五割台で俊足強肩堅守の野手は、どこの球団も欲しいって。話題性も、ピーチに埋もれてはいるけど、本来は抜群だしね。寧ろ、誰をお返しに出すのかという意味で、話を纏めにくいのかな。例えば仮に、先発ローテの一角の彼が見合うでしょう、となっても、そんな激動がペナント中に起こったら、野球組織として、色々対応が大変だろうし。」

「というよりさ、受け入れ側、半端に女性が一人だけって、設備とか色々大変だよ。実際、彼女の青星寮入りはそれでなくなったんだから。」

「あー、そっか。一所懸命色々設えた挙句、丹菊あいつが今年で任意引退したら馬鹿みたいだね。横浜みたいに、それでも女身が他に残るんなら良いんだろうけど。……うーん、流石、実地の視点だね藍葉君。

 でも、そもそも、年俸何億か払って然るべきな選手の気もするし、なら、ちょっとくらい余計なお金掛かっても許されるんじゃないかなぁ。」

「そういう考え方が出来る球団なら受け入れ得る、……と、いうことか。」

「どことは言わないけど、セの盟主とかパの覇者とか?」

 これに切り返すべく、楽天球団の婉曲表現を考えようとしたところで、藍葉は、無益な話を始めてしまっていると気が付いた。そこで、閑話休題、と言う代わりに、わざとらしい咳払いを一つしてから、

「とにかく、よろしく頼むよ茶畑さん。今日はそろそろ僕、横浜に戻らないといけないけど。」

「あいあい。私も、日銭の為の仕事しないとねー。」

 こう言いながら彼女は、筆記具を手鞄へしまっていたが、ふと、

「次、いつ会うとか、今の内に決めとく?」

「……何で?」

「何となく。」

 そう述べる相棒のうそ笑みを、どことなく訝しく感じた藍葉であったが、警戒するのも面倒に思ってしまい、

「じゃあ、交流戦の終わり頃で。」

「承知、空けとく。藍葉君も、その日は暇でしょ?」

 「その日」が何を指すのか、彼が理解するよりも早く、立ち上がった茶畑は伝票を雅かな所作で藍葉へ押し付けつつ去って行った。早速の御援助ありがと、とでも言いたげな後ろ姿から、手だけをひらひらさせて。

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