東京相手の三連戦が終わった後、四月十二日の阪神戦@甲子園に合わせ、藍葉は久々に一軍へと戻って来ていた。以前藍葉と入れ替わりで昇格していた捕手は、早々に不調を呈していたのだが、一度落とすと10日は一軍へ戻せぬと言う規則と、紫桃が出られるならばまぁ捕手のことを真剣に考える必要は有るまいというチーム事情により、この日まで彼の再登録が引き伸ばされたのである。逆に、紫桃はこの10日ルールによる制限を避ける為に、東京で待つ間も書類上は一軍に留まっているのだった。

 兵庫への新幹線にて、今回は敢えて丹菊の隣席を狙った藍葉は、特註であろうレディーススーツを纏う彼女に、「何? 枝音の弱みでも、私に聞きたいの? ポジション争いも大変だね。」と揶揄われたが、彼はそこを逆手ぎゃくてに取って、「まぁ、彼女について語りたかったのは事実。」と切り返し、丹菊を多少感心させた。

 発車後、落ち着いてから、

「例えば、最近の紫桃さん、変な方向へ話題になっちゃっているけど、」

「まぁ、……別に、それで気を滅入らすたちじゃないと思うけどね。」

 先述の、「本拠地が都内の東京と巨人だけ、ホーム戦でも紫桃がやって来てペナントレース不利では?」という、そこはかとなかった危惧は、今やかなり真剣なものとして受け入れられ、それらの球団を贔屓とする者にとって大きな不満となっていた。事実、横浜は現状、紫桃の出場した九試合で全勝しているのだ。東京ドームや神宮での横浜戦はまた一度も演ぜられていなかったが、逆にそれだからこそ、ここからの星勘定で大きな不利を被らされるのではないかと、彼らは尤もらしく懸念していたのである。

 また、そのような話だけに留まらず、紫桃当人への疑惑までも噂されていた。あの鈍足にも拘らず、緩い球種や低めへのコントロールミスなど、理想的な投球情況においてのみ仕掛けることによって、美事盗塁を決め、逆に仕掛けられれば、要求していた高目の直球を半ば立ち上がりながら捕球することで、男と比すと弱い肩を補って、走者をそこそこの確率で刺してしまう。打撃では言わずもがなの大暴れで、また、リードでも著しくチーム防禦率を良化させる。これらはいずれも、まるで、相手の狙いや作戦を察しているかのようであり、「あの女、サイン盗みでもしているんじゃないか?」と、結構な話題になっていたのだ。人口やSNS上での与太話だけならいざ知らず、とある球団関係者が語ったと謳う記事まで――飛ばしが売りなスポーツ新聞においてではあったが――出ていた始末である。

 これについても藍葉が訪ねると、丹菊は苦笑しつつ、人差し指だけ立てた両手を、頭の両脇へ合わせた。

「もう、彼奴あいつカンカン。大変だったんだから。『盗まれていると思うなら、そっちでサイン勝手に変えろボケ茄子!』って怒っちゃってさ、」

「ボケ茄子、」

 紫桃の愛想の良さにまるで似合わず、想像すら出来ない言葉遣いを聞いた彼は、ただ、それを鸚鵡返ししてしまった。

 そんな様子から、彼の心的な動きを察したらしい丹菊は、

「枝音って、結構短気なところも有るよ? 例えばさ、」

 そう言いつつ例の桃色のスマートフォンを操作して、目的のウェブページを引っ張り出して来た彼女は、また藍葉へそれを預けた。

「……中濱前監督の、書いた記事?」

「そう。……読んでない?」

「うん。」

 これに対し、聞けよがしな溜め息を吐いた丹菊の態度を、藍葉が多少不服に思っていると、

「コリジョンルールに、一言申した記事なんだよね。」

「……ああ、」

 確かに、捕手である自分が、今年から施行されたコリジョンルールに関する、しかも前監督の書いた記事を読んでいなかったと言うのは、恥ずべきことかも知れない、と、反省する彼へ、

「端的に言うとさ、『コリジョンルールは下らない』みたいなことを、主張した記事なんだよね。」

「まぁ、あの人なら如何にも言いそうだけど。……で、何かな。もしかしてそれを、紫桃さんが読んだところで、」

「もう、本当に酷かった。」

 これを聞き咎めたらしい今長が、通路を挟んで苦笑しつつ、大きな動作でうんうんと頷いた。

「酷いって、丹菊さん、具体的にどんな?」

「いや、もう、……私の口からは言えない、あんな猥語に罵詈雑言。まぁ、綺麗に訳せば、捕手経験も無い癖に何言っているんだこの人は、自分が危険に身を曝してからものを言え、みたいな感じ。」

 藍葉は、スワイプして記事を読み進めていたのだが、

「……まぁ、考え方はともかくとして、そこまで無茶苦茶なこと書いてもなくない? ようは、もっと慎重に規定を精査すべきだったとか、そんな感じでしょ。」

「そう。別に、体当たりして殺し合え、なんてこと前監督も仰言ってないんだけど、まぁ、とにかく安全を僅かにでも軽視する方向に立ったってのが、枝音には不満だったんだろうね。」

 藍葉は、少し考えてから、

「その事件がいつなのかは知らないけど、良く、紫桃さん無事に試合に出られていたね。」

「まず、前監督だから、造反じゃないんだってさ。そして別に彼奴も、敢えて現首脳陣の前で暴れたって訳でもなかったし。偶〻植田コーチに聞き咎められてチーム内の公然にはなっちゃったんだけど、個人の考え方はともかく、球団内や公衆の場では大概のところにしておきなさい、と注意されて終わったってさ。怒りの内容自体は、一応清いしね。」

 丹菊は、トレーに置いていた、車内販売の珈琲を一啜りした。良い香りが、藍葉の鼻を突く。

「つまりさ、枝音は、野球における汚いことが大っ嫌いなんだよね。だから、不正を疑われたら憤るし、暴力を容認するかのような言説にも、怒っちゃった。」

「いい人、なんだね。」

 あまり考えずに吐き出された、完全に油断した彼の言葉が、しかし、彼女の様子を神妙にさせた。

「そう、かもね。」

 そう呟いた丹菊が、超高速で駈け去る景色を眺め始めたことで、車窓の最下部にうっすらとその顔が映じられる。そうして顔を背けることで隠そうとしたのであろう、その幼げな目許が纏った、彼女らしからぬ愁然が、間接的な見え方によって逆に強調されて、藍葉の情動を幾らか搏った。

「どういう、意味?」

 遠くに映っていた化学工場が消えた頃、漸く、前を向き直した彼女が、辺りを憚る低声こごえ

「これは、私の勘違いかも知れないけどね。でも、私の思うところは、藍葉、そうじゃないんだよ。彼奴は、枝音は、……どこか、傲慢なんだよね。」

「傲慢。……分かる、気もするけど。」

「いや、分かってない。分かってたらあんなこと言わないよ。」

 丹菊の顔が、彼のことを良く見据えた。子供っぽい瞳に、真剣な情感が滲んでいる。

「つまりさ、多分枝音は、……正々堂々と野球をやれば、自分が勝つと思ってるんだ。だから、不正もラフプレイも許せない。折角の優位を危うくするような真似を、徹底的に排除しようとしているんだよ。」

 藍葉が漸く、

「論拠は?」

と絞り出すと、彼女は、彼から端末をふんだくり返し、人差し指で操作しながら、

「勘。」

とだけ、面映ゆさを隠すかのように呟いた。

 この、彼女のTwitterアカウントの渋さを再現したかのような、端的過ぎる一言に、実際にはどれだけの、丹菊と紫桃の想い出が含まれているのだろうかと、藍葉は思い、自分も何か間を誤魔化す為に、用事の振りをして席を立つ羽目になったのである。

 そんな彼は、手洗いなら逆だよ、と、彼女に窘められた。

 

 甲子園での三連戦における藍葉は、一戦目は代打出場(犠飛)のみに終わり、二戦目はそもそも雨天中止だったが、三戦目は先発して今長をリードすることになった。右翼を守る丹菊の、二塁打を打ち消す好捕にも助けられつつ、今長を五回2失点に纏めさせたが、しかし藍葉自身も無安打な上で打線が振るわず、終わってみれば2―4と敗北したのである。

 反省ミーティングの後、ホテルで一息ついて、松山の坊ちゃんスタジアムへの移動準備をしていた藍葉は、紫桃から「きさま…」とだけのメッセージが届いているのに気が付いた。

 彼女が妙に可愛がる今長へ付けてしまった連続黒星を論われていると、理解した彼は、

「ごめん、力及ばず」

と返信する。

「まぁ、そもそも2点しか取れてないからねぇ。いやさぁ、今長君が、『今日の俺は完璧だ、お前ら野手が悪い!全員横須賀に行け!死ね!』って開き直れる性格なら良いんだけど、けっこう背負い込むみたいだから、ちょっと心配でさ。とにかく、藍葉くんはお疲れさま」

「ありがと。…でも、その言いぐさだと、僕まで守備要員扱いされているのかな」

「そりゃ打って欲しいけどさ、捕手にそんなこと求めるのも酷でしょ」

「…君も、捕手だよね? それで、すでに何本ホームラン打ったっけ?」

「え、覚えてないけど。あんま興味ないし」

 藍葉は、お前以外の野球人全員が興味を持っているぞと、呆れてから、

「19本だよ。ちなみに、三合がさっき6号ソロを打ったところ。

 それはともかくとして、そんな国士無双状態の紫桃さんから、『キャッチャーは打たんでも良いんじゃない?』って言われると、なんか変な感じ」

「私は超天才だから、しょうがない。そこは、ちゃんとわきまえてるよ。いくら成績に興味なくても、同じような出来を他人には求めないってば」

 彼は、新幹線で話題にしていた、紫桃の一種の傲岸さが此処でも露呈されてきたことに、一人で苦笑しつつ、

「実際、紫桃さんはどうやってるの?」

「なにがだべ」

「全部。打撃も、リードも、盗塁も、盗塁刺も」

 藍葉は、これを送ってから急いで付け足した。

「もちろん、僕は(歯牙に掛かっているのかはともかくとして、一応)紫桃さんのライバルなんだから、本来教えてもらえるものではないとは思っているけど、でも、君がいない間、今長君を初めとする投手陣を守る為に、よろしければいくらか協力してもらえたらなぁ、って」

 そこから間が空いたので、藍葉が鞄の中身を少し詰めてから端末に戻ると、意外と短い返事が来ていた。

「ええっとさ、確かに私、全然人にもの教えないけど、別に、ケチで教えてないんじゃないんだよね。」

「というと?」

「よく、わかんないんだよね。例えば打撃だと、決められた五角柱の空間にボールを投げないと殺す、ってルールが有るんだから、来た時に全力でぶっ叩いて、来なかったらバット振らなきゃ良いだけじゃん?」

「普通、全力だと当らないんだけど…」

「それも意味分かんなくて、だってさ、決まったところに投げられてくるんだよ? 狙えば普通当たるでしょ?」

「ストライクゾーンは、そんなに狭くないよ。緩急もつくのだし…

 それに、だからこそ僕ら捕手は、バッターの裏をかいてねじふせられるのだしね」

「そう。そこも不思議なんだ。だから私はいつも、『なんでこいつら打てないんだ、バカじゃないのか?』ってどこか思いながら、球受けてる。というわけで、私のリードって全部勘なんだよね。女のカンと度胸。配球なんざどうせじゃんけんみたいなものなのだから、色々考えてもしかたなし。スコアラーからのデーターはもちろん私のところにも来るんだけど、ぶっちゃけ、読んでない。藍葉くんとか、あれ、ちゃんと活用してるの?」

「まぁ、一応」

「すげえ、理系男子じゃん」

「体育会系です」

「前も言ったけど、どうもそう見えないんだよなー。優男の気風というか、見た目はともかくさ、」

「とにかく、君がマスク被った時の方が投手成績ずっと良くなっているのだから、『すげえ』と言われても、あんまりほめられてないような…」

「九試合じゃわからんべ。まぁ確かに、私個人はリードの自信も有るけど(ただしカン)」

「ええっと、じゃあ、盗塁と盗塁刺のコツは?」

「もちろん、それらもカンだゾ」

「やっぱり、そうなる?」

「試合に出ていれば、なんとなくわかるでしょ。第六感ってやつ?」

「……うーん。なるほど、天才だね。言ってることわけわかんない」

「棒を振り回してボールを120mほど弾き返したやつが一番偉い、って競技が有って、しかもそれが国民的な人気で、本当に良かったよ」

「確かに、才能を生かせるのも運ってことか。

 ところで、大天才の紫桃さんにもう一つお聞きしたいのだけど、」

「なんだべ」

「明後日の先発は伊納さんなんだけど、前の登板と同じ東京相手で、何か気にすべきことって有るのかな。紫桃さん、東京相手に伊納さんの球受けたよね?」

「そんな前のこと覚えてないゾ」

「……ウソでしょ? 五日前だよ?」

「つば九郎に会いてえ、軽く蹴り飛ばしてみて仕返しされてえ、って思ったことは覚えてる。今年最初の神宮戦って、いつ?」

「ええっと、五月二十日だったかな?」

「遠くない!?」

「あさってからの松山での試合が、東京球団主催だからね」

「ああ、そういうことかー。あのペンギン、居るのかな?」

「……居ないんじゃない?」

 藍葉はつい、紫桃と普通にチームメイトとしての遣り取りを始めてしまい、そのまま野球の質問を尋常に行ってしまっていたが、途中で自分の使命を思い出し、彼女の異能について探ろうと試みていた。しかしその結果、彼女の話は要領を得ず、彼は今一つ何も摑めなかったのである。

 チャットが途絶えてから、彼はそれについて少し考えた。野球の天才、という異能はちょっと違うだろう。それでは世界盆栽のテーゼとして曖昧過ぎるし、そもそも例えば、紫桃は、キャッチャーフライの処理は恐らく球界一下手だ。データに弱かったり興味を持てなかったりするのも、野球人として魅力的な資質とは言えまい。何より、あまり対称でないのだ。つまり、最強の勝ち運とでもいうべき黒瀬、最強の身体能力である丹菊に並び、最強の野球選手と言うのは、あまり相応しいキャラクター像でないだろう。だからといって、ではどのような人物像ならば黒瀬や丹菊と居並ぶのに相応しいのか、と、訊ねられても、作家経験の無い自分としては困るのだが、

 

 松山での、四月十六日からの対東京二連戦、初戦を貧打の0―4で気持ちよく落としてからの二戦目、今度は勝つぞと勢い込んだ横浜球団は、しかし、2点リードで迎えた最終回、三塁手代崎しろさきのエラーと守護神山先やまさきの被安打でまさかの三失点を喫し、劇的なサヨナラ負けを演じたのである。去り際の「馬鹿野郎お前ら、ピーチちゃんのお守りねえと勝てねえのか!」という胴間声の野次を、両試合のマスクを被った藍葉は手厳しく聞いた。

 事実恐ろしいことに、今シーズンの横浜は開幕以降、紫桃抜きでの試合においては、名古屋での引き分けを挟んで九連敗を喫していたのだ。紫桃が出た場合は九戦全勝なので、チームとしての借金は無いものの、しかし、彼女以外の選手においては、それぞれ、忸怩たる思いが拭い切れないところが有った。そんな中、最も恥じを負うべき、同守備位置選手である藍葉は、しかし、このペナントレースの命運や紫桃との絶対的な実力差を覚悟していたので、比較的平然と受け止めている方であり、寧ろチームで最も荒んでいたのは、丹菊だったのである。代崎や山先の手前、露骨には悔しがらないようであったが、しかしダグアウトの去り際の彼女から、蝋燭を消そうとでもしているかのような強烈な溜め息が吐き出されるのを、藍葉は目と耳で咎めた。兵庫行き新幹線での、聞けよがしなそれとは異なる、堪らずに吐き出された真率な溜め息。

 これによって藍葉は、人並みに丹菊を心配したが、開幕戦後の同じような情況において殆ど面罵されたこともあり、彼としては彼女を、黙って見送るしかないのだった。

 ところが、丹菊は、突然くるりと振り返ると、

「藍葉、」

「……何?」

「帰京、あんたも明日でしょ? この後飯付き合って。」

「……は?」

 周囲が、なんだ逆ナンか、だとか、お前と違って主力の詠哩子を襲うなよ、と揶揄ってくるのに対し、

「襲われたら、私が勝つんで大丈夫です。」

と、彼女は力瘤を作って見せるのだった。

 

 球団バスで一旦ホテルへ戻った後、出口で藍葉と待ち合わせた丹菊は、タクシーを待つ間に個室の有る居酒屋をウェブで見つけると、移動中にさっさと指先だけで予約して見せた。

「手慣れているね。」と、乗り込んだタクシー内で彼女と並ぶ藍葉。

「枝音とサシで話しに行くこと、結構多かったからさ。まぁ、最近はめっきり、というか、大抵町田で会うから、彼奴の家にお邪魔するばかりだけど。」

 車内での会話は、決して弾まなかった。

 辿り着いた居酒屋においては、案の定彼女の背丈を怪訝に思われたが、しかし、丁度受付を横切った雀斑そばかすの女店員が、松山での試合開催を知るほどにNPBに興味を持っていたらしく、逆に丹菊の小ささを目印として事態を諒解してくれ、結果二人は、他の客に出会さぬよう、上手く個室へと案内された。

 掘り炬燵のような風情の席へ着き、スーツのジャケットを脱ぎ捨てた彼女が、

「ほんっとう、身長のせいでさ、奇異の目とかアルコールの扱いとか面倒くさいんだよね。名前売れちゃってからは、身分証出すと余計騒ぎになりかねないから尚更、」

「後者については、有名税ってやつなのかな。流石、暫定の盗塁王と最高出塁率打者だね。」

「盗塁はともかく、最高出塁率は、枝音が規定に達してないだけだけどさ。」

「あれ。紫桃さんって、今後規定に達すること有るの?」

「普通にありえるんじゃない? 98試合で平均4.5打席立てば、441打席だし。」

「……御免。規定って、何打席だっけ?」

 丹菊は眉を寄せてから、

「マジで言ってる? 443打席でしょ。143試合に3.1を掛けて、四捨五入。」

「……へえ。」

「へえって、あんた、6年くらい先輩のくせに、」

「うーん。これまで、首位打者や最高出塁率は愚か、そもそも規定に達するのも夢のまた夢だったからね。いつも、一軍じゃ100打席も行かないし。」

「ああ、そっか。レギュラー格の野手としては、私らの方が寧ろ慣れちゃってるのか。……いやそれにしても、他人ひとの記録とか成績とか気にしないの?」

「うーん、あんまり。」

 丹菊は、背を狭い個室の壁へ預けつつ、首を沈めるかのように両肩を聳やかした。

「何か、信じられないなぁ。枝音といい、何なのよあんたら。」

「紫桃さんは余裕で三冠王取る勢いの癖に、尚も成績に興味が無いのだから、また僕よりもとんでもないだろうけどね。」

「そうそう、彼奴、やっぱ頭おかしい。」

 「飲もう」ではなく「飯」と丹菊が誘ったように、二人の前には、肴には多すぎる料理が註文されて並べられた。近くの部屋の乱痴気騒ぎが漏れ聞こえる中で、強くない酒を乾杯してから、

「で、……丹菊さん、やっぱ悔しいんだよね。」

 彼女は、叩くようにグラスを置き、

「そりゃ、そう! 大体、なんなの、山先はともかく代崎さんはさぁ! 今年全然打たんし、今日なんか守備要員で出てきておいて、あんなエラー! 本当に、もう!」

 まさか陰口を遺憾なく叩く為に呼びつけた訳ではあるまいと、諒解している藍葉は、この丹菊の一声を、グラスへ口を付けたままじっと受け止めた。そして、こんな彼の姿勢を、やはり理解している彼女は、藍葉が聞き慣れ始めてきた溜め息の後、卓へ叩頭して、

「何で私が入団した途端に、横浜打線全然打たないのー。もういやー。本当に、枝音が居ないと全然勝てないー。」

「いやまぁ、面目ない、」

「去年の’15年は、五月末までちゃんと首位だったじゃーん。その先は、見るも無残だったけどさー。」

「これは辛辣な、……いや、確かにそんな感じだったけど。

 ええっと、まさかだけど、丹菊さんもう酔ってる?」

 持ち上がった顔は、卓の跡がついて赧然としている額を除けば、一応白かった。

「酔っちゃないけど、でも、くだを巻きたくもなるっての! 今日のあのおっさんの野次さぁ、本当にそうでさぁ、なんかもう、私居なくても変わんなくない?、って気持ちにはなるよね。多分優勝するよ、多分今年の横浜は98勝くらいして、優勝しつつ日本一にもなるんだけど、それは枝音が居れば充分な筈で、なんかさぁ、……っちぇ。」

 再び、丹菊の小さな頭が垂れた。多忙な生活の中で、脱色し直す暇も中々無いらしく、パンジーのように真ん中だけが黒々としてしまってる頭頂が、発声に応じて揺れ動く。

「彼奴と二人で球界を目茶苦茶にしてやろう、って思ってたのにさ、なんだい、アタシ居ても居なくてもいいじゃん。」

 藍葉は、少しの思案の後、

「そう、君は思ってたんだ。」

「そりゃそうだってー。普通の男よりもずっと筋力持った私がさー、結構真面目に練習してきたんだからさー、身長の低さだって野球なら打席で活かせるしさー、」

「いや、御免、そっちじゃなくて、」

 持ち上がった丹菊の顔は、再び眉が顰められていたが、今回は呆れではなく怪訝がそこに籠められていた。

「どういう意味? 藍葉、」

「君じゃなくて、紫桃さんについての話。」

 引き絞られる、丹菊の子供っぽい両目へ向けて、

「ずっと思ってたんだけど、紫桃さんって、こう、町田のチーム時代には大した選手じゃなかった筈だよね? なのに、……御免、これは噂なんだけど、丹菊さんが獲得をウチに、かなりの熱意で推したって、」

 わざと不正確なことを述べた藍葉は、丹菊の油断を誘うことに成功した。まんまと、タンパリング――つまり推薦ではなく強要だったという事実――が彼に知られていないと思った彼女は、ただ莞然と、

「なにそれ、どこから聞いた訳?」

「ちょっと、色々知り合いがいてさ。というかその話が無くとも、なんというか、丹菊さんは、紫桃さんが目茶苦茶に活躍出来ると確信出来ていたように思うのだけど、なんで、そう思ったんだろうな、って。だって、町田ですら主軸打者じゃなかったって言うし、それに、新春に扇風機を送り付けたのも、君なんでしょ?」

「いや、まぁ、」丹菊の目が游ぐ。「うん、枝音は、硬球や木のバットのが合ってるだろうな、って、」

 いとも苦しい言い訳だな、と藍葉は思った。とにかく、何か紫桃に確然とした秘密があり、その正体を、やはり盟友たる丹菊も把握しているらしい。流石に、それをすっと話してくれるほど、自分は信用されていないようだが……

 したたか飲ませたらうっかり口を滑らせてくれるだろうか、とも一瞬思った彼だったが、すぐに考え直した。躰の小さい丹菊のアルコール許容量は想像もつかないし、万一潰して次の試合に響かせてしまっては、完全に球団内での立場を失った上で、紫桃に殺されかねない。遙かな時を超えて漸く手に入れた横浜選手の立場なのだから、今生での無理は出来ないだろう。

 仕方なしに、彼は話頭を転じ、

「そういえば、紫桃さんとのサシ飲みが多かった、って丹菊さん言ってたけど、」

 夕焼けのようなカシスオレンジへ口を付けつつ、そんなこと言ったっけ、とでも言いたげに目を見開く彼女へ、

「ということは、横浜に来る以前から、紫桃さんと丹菊さんは特に親しかったって事?」

「まぁ、そうだねうん。町田では普通に皆仲が良かったけど、私と枝音だけは、高校からの腐れ縁だったし、」

 そこまで述べた丹菊は、急に目を伏し、両手の五指を絡めた。それら、鑓のような送球で走者を射殺す右手と、好捕で打者を落胆させる左手は、それぞれ相応に雄々しく、女性のものにはとても見えない筈だったのだが、今ばかりは、凍えているかのように顫えることで、突然、いともしおらしく映って藍葉を驚かせる。

「だからさ、うん。……勝ちたいんだよね。」

 藍葉が、混乱したままに、

「……どういうこと?」

「私、枝音に勝ちたい。今みたいな、彼奴のおまけみたいな扱い、堪らないんだ。私だけが置いていかれるなんて、絶対に嫌。私、巨人よりも広島より東京よりも、とにかく、枝音に勝ちたいよ。」

 藍葉は、開幕戦後に丹菊から向けられた軽蔑の意味を、ここで漸く感得した。彼女は、あの時点で既に、盟友の跳梁跋扈を覚悟しており、そしてそれ故に、紫桃が居ない試合こそ勝たねばならぬと、誓っていたのだろう。そんな彼女が、初戦を落として苛ついている時に、二度と正捕手の座など回って来ない筈の同僚が、つまり自分が、へらへら平然としていたのが、彼女にとって大いなる侮辱となったのだ。

 本来、これは随分な言いがかりだった。紫桃以外の捕手が全員二線級に落とされるだなんて、その時点では誰も知らなかった筈なのだから。しかし、親友への信頼によって未来視のように了知していた丹菊だけでなく、ある種神の視点を持つ藍葉も、同じくそれを把捉していた筈であり、そうした両者の叡智によって奇跡的に正当性が齎されたという、奇妙な軽蔑だった。


 その後、その体質による著しい熱量消費を補塡すべく、アスリートの端くれである藍葉を驚かせる量を平らげ、また結局適度に酔いもした彼女は、店から――藍葉が無視されて彼女だけが――依頼された色紙に、上機嫌でサインを書き、仕上げに「09」と背番号を大書きすると、「さぁ行くよ、藍葉奏也!」と、叫んでみせた。わざわざフルネームで同行者の正体を強調することで、去年の山多が言い掛かられたフライデー記事の如き変な噂はさせぬ、という配慮。藍葉は、これに少し感心した。

 ホテルへのタクシーにて、

「そう言えばさ、なんだって僕を?」

「何が?」

「いやさ、数多い選手の中で、同期という条件ですらそこそこの人数が居たのに、なんで丹菊さんは今日、僕を御指名したのかなって。」

「それ、訊く?」

 呆れたように、息を吐いてから、

「まぁ、色々言い訳は付けられるよね。例えば同期だとしても三合は、付き合いが多くて急遽のサシなんか付き合ってくれないだろうし。後は、寧ろ最近藍葉の方から私に懐いてきていたじゃん、とか。でもまぁ、正直なこと言っちゃえば、枝音も言ってたけど、……あんた、なんか、他の連中と違うんだよね。」

 藍葉は、慎重に言葉を選んだ挙句、

「確かに、良く言われるけど、」

「男子野球部って、なんか、軍隊は言い過ぎだけど、でもまぁ結構な旧態依然の体育会系ど真ん中じゃん? でも私ら女連中は、そういうの全然馴染めなくてさ。だから、今は横浜という球団で年俸貰って伸び伸びやっている野郎共でも、精神の根柢にはそういう経験が染み付いているのだと思うと、私、ちょっと怖じちゃうところが有ってね。いきなり化けの皮が剝けて、どやされたり理不尽なこと言われたりしたら怖いな、って。……枝音は、ええっと、あんまそういう気にしないみたいだけど。」

 藍葉は、不思議そうに顎を擦りつつ、

「丹菊さんくらいの成績出していても、そんなこと思うんだ。」

「思うよ! 私らにとって、男連中の体育会系は、異世界というか異文化みたいなものなんだから、どこにどう兇暴性みたいなのが隠れているか分からない気がして、不安になっちゃうんだ。」

 そんなこと有るだろうか。一般論のように語っているが、彼女のみの都合ではあるまいかと、訝り始めた藍葉へ、

「でも、そんな中で、あんただけは違うみたいで、ちょっと信頼したいかな、って。捕手ってのも、気に入ったよ。つまり、枝音が居られない試合でも、藍葉はその代わりで来てくれる可能性が高いんだ、って。

 という訳で、さ、あんたには知っておいて欲しいかなって、思ったんだ。」

 そう言った丹菊が、スーツの内隠しを手探り、小さなものを取り出して藍葉へ預ける。彼女の体温で暖まってはいたが、金属薄片の感触のあるそれは、等間隔で、虫刺されのように膨らんでおり、なにか、硬いものを内側に潜めているように藍葉には触知された。左折によって速度を落とした車内で、右に座る丹菊へ遠心力で被さってしまわないように気をつけつつ、街頭の灯を頼りに藍葉がその正体を確かめると、マゼンタ地に「ニトロペン舌下錠0.3mg」という文字が白抜かれている。

 それを返しながら、

「ニトロ?」

 受け取りつつ、

冠攣縮かんれんしゅく性狭心症。運動とかしても別に平気なんだけど、逆に安静時、寝る前とか起きた時とかに時々心臓血管が痙攣して、死ぬほど苦しくなる病気。本当は朝晩以外、こんなの必要ない筈なんだけど、万一の時の為に、ちゃんとそこら中にニトロ錠を少しずつ隠してるんだよね。スーツの時は、この、左胸の内ポケット。試合中は、トレーナーに何錠か預けてる。私服の時は――そんな姿であんたと会うことはあんま無いだろうけど――バッグを開けて、大きい方の隠し。」

 藍葉が何も返せないでいる中、丹菊は、前を向いたまま、

「勿論出来る限り、私が自分で服用しようとするんだけど、あんまり重篤だとどうしようもなくなっちゃうかも知れない。そうしたら、一錠抜き出して私の舌下ぜっか、舌を持ち上げた所において欲しいんだ。舌下錠だからね、呑み込ませたり水を含ませたりはしないよう、気をつけて。」

 彼女は漸く藍葉の方を向き、その口を懸命に開きつつ、舌を持ち上げた。丁度よく街灯の明かりが差し込んで来たことで、鮫の背鰭のように見える白い筋で縛められた、舌の裏側が明晰となっている。その背鰭を挟んで、青い肉が炎のように、朱色の舌裏を立ち上っている様は、こんな動作に慣れている筈も無い丹菊が、疲れる舌を顫えさせていることや、目下の話題とも相俟って、彼女の心臓の姿を藍葉に想わせた。

ほほここよ、ほほここ。」

 そう指で示してから、彼女は口を閉じ、再び前を向く。

「言うまでも無いと思うんだけど、このこと、内緒だからね。」

「ああ、うん。」

 その後、むっつりとしてしまった彼女の横で、藍葉は、春季キャンプ中に倒れた彼女の姿を思い返していた。今、丹菊は口にしなかったが、彼女の言う「万一」の事態であったのであろう、あれを目撃されてしまったことも、自分藍葉を選ぼうという決断の後押しとして、少なからずあっただろう。丹菊に頼られるようになったこと自体は喜ばしいのだが、そんな、一種脅迫のように、恥部を盗み見たことで信頼を獲得したという印象が、藍葉に小さい罪障感を与えた。

 しかし、不思議なことも有る、と藍葉は続けて思う。こんな心臓の弱い親友を差し置いて、今日の紫桃は東京や横須賀で、家族と過ごすなり練習するなりしているというのだ。最近は、そもそも捕手にフル出場を求めるのが酷ではないか、という意見も出てきてはいるが、しかし、代打用ででもベンチに置かれたい能力を持つ選手では、充分過ぎるほどあるのに、どうして彼女はあんな奇妙な契約を球団と結び、そして、維持しているのだろう。あの朝、心配そうに丹菊へ寄り添った仕草と、此方を睨み付けてきた必死な瞳は、そんな優雅と矛盾するのではなかろうか、

 ………………

 ホテルへ戻り、タクシーを降りてから、突然彼女が口を開いた。

「という訳でさ藍葉、頼りにするんだから、また早々二軍に落ちたりしたら承知しないよ。悪いけど私、横須賀で野球やるつもりなんかないんだからさ。」

「そしたら、適時打でアピール出来るように、せいぜい丹菊さんには出塁してもらわないとね。」

 鼻で笑った後、

「馬鹿。そんな生意気言いたいなら、私に近い打順まで上がってきなさいな。」

「善処するよ。」

「八番なんかじゃなくて、三番とか四番打ってくれるようになると、枝音と入れ替わった時にスムーズで良いんだけどね。」

「……うーん、もっとウェイトトレーニングしないとかな。」

「枝音は、そんなもの殆どしたこと無い、って言うけどね。プロに入って色々練習体験させてもらった挙句、結局、素振りが一番だってさ。」

「あの人の言うこと、鵜呑みに出来る奴なんか居ないでしょ。例えば、あんなガチガチの打撃フォーム、真似したら初日で怪我しそう。」

 丹菊は、この言葉へ返事する代わりに、藍葉の背を音高く叩いた。力の加減が分かっていないのか、それなりの痛みで彼が悶える間に、

「ま、とにかくよろしく。また明日。」

 そんな多義的な依頼を寄越して、彼女はさっさと一人でロビーへ入って行くのだった。

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